宮崎 市定(みやざき いちさだ、1901年〈明治34年〉8月4日 - 1995年〈平成7年〉5月24日)は、日本の東洋史家。京都大学名誉教授。 1901年、長野県下水内郡秋津村(現在の飯山市)静間で宮崎市蔵・悦の次男として生まれた。父の市蔵は、飯山小学校の教師であった。 その後、秋津小学校、県立飯山中学校(現:長野県飯山北高等学校)を卒業し、1919年に新設まもない松本高校(現:信州大学)文科甲類に入学する。同校の後輩には、後の東洋史学者、曽我部静雄と仁井田陞がいた。 1922年に京都帝国大学文学部史学科に入学、東洋史を専攻し、内藤湖南・桑原隲蔵・羽田亨・狩野直喜らに師事する。卒業論文は、南宋滅亡期の中国社会と北方民族との交渉の一場面を題目とした。
出典:ウィキペディア「宮崎市定」(CC BY-SA 4.0)を一部抜粋
