神田 俊二(かんだ しゅんじ、1900年10月25日 - 1940年代)は、日本の俳優、元実業家である。本名同じ。短期間ではあるが、日活太秦撮影所に所属していた二枚目俳優である。 1900年(明治33年)10月25日、東京府東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区)に神田鐳蔵の庶子として生まれる。鐳蔵は紅葉屋商会、神田銀行(1927年倒産)を経営していた財界の大物であった。 暁星小学校を経て慶応義塾大学に入学するが、1923年(大正12年)に中退し、父が経営する紅葉屋商会の社員となる。1926年(大正15年)、特作映画社が製作した映画『我は海の子』(『吾は海の子』)で主演に抜擢されていたが、資金難で小笠原プロダクションに引き継がれ、主演も原田龍次(後の原田譲治、1904年 - 没年不詳)に変更された為、念願だった俳優になれずじまいであった。
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