本田 定年(ほんだ さだとし)は明治時代の地方行政官・民権家・書家。通称は孫三郎、号は退庵。武蔵国多摩郡下谷保村名主、神奈川県第十大区一小区戸長、北多摩郡役所書記。書記時代は公務の傍ら自由民権運動に関わり、晩年は東京に書法専修義塾を開いて書道を教えた。 幼名は簡蔵。幕末の政情不安の中、府中宿の近藤勇、日野宿の佐藤彦五郎の道場に通い、天然理心流剣術を学んだ。元治2年(1865年)2月21日父覚庵、慶応3年(1867年)9月15日兄東朔が急死して急遽家督を継ぐことになったが、医術は未熟だったため、伊豆国賀茂郡長津呂村(南伊豆町)から覚庵の同門武田宗堅を招いて医業を任せ、診療収入を宗堅のものとする代わりに無償で医業を学んだ。
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