スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
坂寄 晴一(さかより せいいち、1990年4月5日 - )は… 坂寄 晴一(さかより せいいち、1990年4月5日 - )は、茨城県鉾田市出身の元プロ野球選手(投手)、警察官。左投左打。 茨城県立鉾田第一高校から国士舘大学へ進学。2年生の時に東都大学野球リーグ・春季リーグでの国学院大戦(4月7日)で先発登板し、8回2/3を投げ無失点の成績で、チームに15年ぶりの同リーグ1部での勝利をもたらした。3年春の入替戦初戦で先発するも敗戦投手となり、結局降格。秋以降は2部リーグで4年秋は最下位となるが3部との入替戦では2戦とも先発して勝利投手で2戦目は完封。1部リーグ通算、17試合1勝5敗、防御率2.94。 JR東日本での2年目の2014年、5月10日に行われた巨人の二軍との交流戦に先発、5回を投げて1人のランナーも出さなかった(パーフェクトピッチング)。
東野 峻(とうの しゅん、1986年7月11日 - )は、茨… 東野 峻(とうの しゅん、1986年7月11日 - )は、茨城県鉾田市出身の元プロ野球選手(投手)、コーチ。右投右打。 茨城県鹿島郡鉾田町(現在の鉾田市)出身。大竹小3年で外野手として野球を始め、6年時に投手へ転向。鉾田南中では主将を務め春の県大会3位。鉾田一高では1年春からベンチ入りし、3年夏の茨城大会は4回戦で常総学院に敗退した。打撃では高校通算36本塁打を記録した。 2004年11月17日に行われたドラフト会議では、読売ジャイアンツから7巡目指名を受け、入団。背番号は93。 2005年から2007年までは怪我が重なり、2006年までは二軍でも打ち込まれることが多かった。ハワイ・ウィンターリーグに派遣され、先輩の林昌範のグアム自主トレにも同行し、迎えた2007年は、二軍のセットアッパーとして活躍、27試合に登板し、1敗1セーブ、31回を投げ、34奪三振、防御率1.74という好成績を収める。
関 清和(せき きよかず、1964年9月26日 - )は、茨… 関 清和(せき きよかず、1964年9月26日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 鉾田一高時代から速球投手として有名な存在だった。2年時の1981年秋季関東大会では準々決勝に進むが、横浜商業高の三浦将明と投げ合い0-1で惜敗、春の選抜出場を逸する。翌1982年夏の甲子園県予選は、決勝で羽生田忠克のいた土浦日大高を降し、甲子園出場を決める。しかし本大会では2回戦(初戦)で広島商業高に2-6で敗退した。 高校卒業後は、専修大へ進学。東都大学リーグでは1983年秋季リーグで二部に降格するが、1985年春季は最優秀投手、秋季リーグも2季連続で二部優勝、翌季から一部に復帰した。1986年秋季リーグで、当時の東都大学野球の記録上円子宏に次ぐ2位となるシーズン81奪三振を記録。
高柳 秀樹(たかやなぎ ひでき、1957年3月1日 - )は… 高柳 秀樹(たかやなぎ ひでき、1957年3月1日 - )は、茨城県鹿島郡鉾田町(現:鉾田市)出身の元プロ野球選手(外野手、右投右打)・コーチ。実兄はヤマハ硬式野球部監督を務めたヤマハ硬式野球部副部長の高柳信英。 鉾田一高では、1973年秋季関東大会県予選準決勝に進むが、土浦日大高の工藤一彦に抑えられ完封負け。 高校卒業後は、国士舘大学に進学。東都大学野球リーグでは、1学年下のエース片岡大蔵を擁し1977年春季リーグ二部優勝。入替戦で日大を破り、2年ぶりの一部昇格を果たす。しかし優勝には届かず、1978年秋季リーグの3位が最高成績であった。1975年には第11回アジア野球選手権大会日本代表に選出された。
梶間 健一(かじま けんいち、1952年〈昭和27年〉8月3… 梶間 健一(かじま けんいち、1952年〈昭和27年〉8月30日 - )は、日本の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督。 茨城県鹿島郡旭村(現・鉾田市)に生まれる。鉾田一高では3年次の1970年、エースとして夏の甲子園予選東関東大会準決勝に進出するが、後にプロでチームメイトとなる渡辺進遊撃手のいた銚子商に敗れ甲子園出場を逸する。 1971年に日本鋼管へ入社。 1974年の都市対抗にリリーフとして初登板。 1976年の都市対抗では樋野和寿三塁手・前川善裕外野手などの強力打線にも助けられ順調に勝ち進み、決勝では先発投手として起用され、北海道拓殖銀行を破り優勝を飾った。同年にはアマチュア野球世界選手権日本代表に選出され、ドラフト2位でヤクルトスワローズに入団。