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藤山 扇治郎(ふじやま せんじろう、1987年1月21日 -… 藤山 扇治郎(ふじやま せんじろう、1987年1月21日 - )は、日本の俳優。本名および旧芸名、酒井 扇治郎(さかい せんじろう)。 京都府出身。東山高等学校、関西大学文学部国語国文科卒業。松竹芸能所属。松竹新喜劇座員。祖父は喜劇役者の藤山寛美、伯母は女優の藤山直美。妻は元宝塚歌劇団星組トップスターの北翔海莉。 父は小唄白扇派の家元・白扇夕樹夫で、母は藤山寛美の五女。「扇治郎」の名は祖父・寛美が、白扇派より「扇」の一字を、寛美の本名・稲垣寛治より「治」の一字をとって名付けた。 幼い頃より日本舞踊や小唄の素養を身につけ、1993年、6歳の時に祖父・寛美と親交のあった中村勘三郎(当時勘九郎)に誘われて藤山扇治郎の芸名で東京・歌舞伎座での『怪談乳房榎』で初舞台を踏むと、中村勘三郎と親子役を演じた。
茂山 逸平(しげやま いっぺい、1979年(昭和54年)6月… 茂山 逸平(しげやま いっぺい、1979年(昭和54年)6月12日 - )は、狂言方大蔵流能楽師、俳優 。重要無形文化財保持者(総合認定)。二世茂山七五三の次男。京都市芸術新人受賞者、京都府文化賞奨励賞受賞者。 1979年、茂山眞吾(二世茂山七五三)の次男として京都府に生まれる。 父・二世茂山七五三、祖父・四世茂山千作、曽祖父・三世茂山千作に師事。1983年、『業平餅』の童で初舞台を踏んだ。能の子役としても広く活動していた。近年、能と狂言両方の子役を幅広く経験しているのは逸平と和泉流の石田淡朗の二人だけである[要出典]。 東山高等学校卒業。立命館大学文学部日本史学専攻 中退[要出典]。 1994年には、兄・宗彦、従兄弟の茂と「花形狂言少年隊」を結成。
茂山 宗彦(しげやま もとひこ、1975年〈昭和50年〉6月… 茂山 宗彦(しげやま もとひこ、1975年〈昭和50年〉6月4日 - )は、狂言方大蔵流の能楽師・俳優 。重要無形文化財保持者(総合認定)。二世茂山七五三の長男。 1975年に、茂山眞吾(二世茂山七五三)の長男として生まれる。 父、祖父四世茂山千作および曽祖父 三世茂山千作に師事し、1979年、4歳のとき「以呂波」で初舞台を踏む。愛称は「もっぴー」。 1989年に京都能楽養成会に入会、1990年に「千歳」、1996年に「三番三」を披くなど活動を重ねるが、狂言師としてやっていく決意をしたのは、2000年に「釣狐」を披いた頃であった。 1994年、従弟の茂、弟の逸平とともに「花形狂言少年隊」を結成し、若い世代向けに活動する。
武見 龍磨(たけみ りょうま、本名:武田 良史、1955年1… 武見 龍磨(たけみ りょうま、本名:武田 良史、1955年1月3日 - )は、日本の俳優、演出家、演劇企画室「劇論◎三者会談」主宰。京都市生まれ。母親は元大映女優の小柳圭子。 1973年、京都市私立東山高等学校卒業後、京都造形芸術学院(旧藤川学園)グラフィックデザイン科に入学。1975年卒業後、京都の中堅広告代理店に入社。グラフィック・デザイナーとして活動する。 1977年、広告代理店を退社すると同時にグラフィック・デザイナーを廃業。俳優を志し上京する。劇団青俳の付属俳優養成所に入り、1年間の基礎訓練を受ける。本科終了後、1980年俳優事務所の現代制作舎に所属。また、1981年名倉ジャズダンススタジオに入り名倉加代子に師事。
マキノ 登六(マキノ とうろく、1910年4月8日 - 19… マキノ 登六(マキノ とうろく、1910年4月8日 - 1932年6月7日)は、日本の俳優である。本名は林 喜一郎()、マキノ家の人間ではない。当初は片岡 十六()を芸名とし、マキノ 十六()、嵐寛寿郎プロダクションでは片岡 市太郎()と名乗った。 1910年(明治43年)4月8日、京都市に生まれる。下京区中立売通猪熊通下ルの京都市立聚楽小学校(1997年に西陣中央小学校に統合されて廃校)を卒業、旧制東山中学校に在学、天然色活動写真を経て、1923年(大正12年)に牧野省三のマキノ映画製作所に入社した。まだ13歳のときであった。 「マキノ・プロダクション」設立後の1926年(大正15年)には、井上金太郎のオリジナル脚本による監督作『喧嘩日記』で、主演のマキノ正唯(のちのマキノ正博)の友人役を、「片岡十六」名義で、滝沢憲(のちの映画監督滝沢英輔)や玉木潤一郎(のちの映画プロデューサー)とともに演じている。
志茂山 剛(しもやま つよし、1903年7月16日 - 没年… 志茂山 剛(しもやま つよし、1903年7月16日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。 1903年(明治36年)7月16日、秋田県に生まれる。 のちに京都に移り、勝見庸太郎に入門、1922年(大正11年)には旧制・東山中学校(現在の東山高等学校)を卒業している。1926年(大正15年)、勝見が「勝見庸太郎プロダクション」を設立、マキノ・プロダクションと配給提携を交わし、映画の製作を開始すると、それに参加する。その後、島耕二と離婚した大谷良子と結婚している。 1937年(昭和12年)には、日活京都撮影所に入社、多く脇役を務めた。1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合によって大映が設立され、日活京都撮影所は大映京都撮影所となり、志茂山は同社に継続入社する。