伊藤 大晟(いとう たいせい、2007年10月27日 - )… 伊藤 大晟(いとう たいせい、2007年10月27日 - )は、大分県中津市出身のプロ野球選手。東北楽天ゴールデンイーグルス所属。 れいめい高等学校では1年生の秋からベンチ入り。 県大会準V、九州1回戦が最高成績。甲子園の経験は無し。 2025年のドラフト会議で東北楽天ゴールデンイーグルスから5位指名を受けた。11月5日に契約金3000万円、年俸550万円で契約合意した。 最速147km/hのストレート、スライダー 、チェンジアップ、カーブ を武器とする。 セットから始動して前傾して重心を下げ、早めに着地し、後ろ小さめにヒジを使った腕の振りから、投球を行う。
田中 瑛斗(たなか えいと、1999年7月13日 - )は、… 田中 瑛斗(たなか えいと、1999年7月13日 - )は、大分県中津市出身のプロ野球選手(投手)。右投左打。読売ジャイアンツ所属。 兄の影響で中津市立小楠小学校2年生のときに小楠ベースボールクラブで軟式野球を始めた。中学への進学にあたり、硬式野球のクラブチームである京築ボーイズへの入団を希望していたが、父親の猛反対があり、中津市立中津中学校では同校の軟式野球部に所属した。中学では2年夏までショート専任であり、投手が1人しかいなくなったことから、新チームでは2番手投手も務めたが、投手としての経験は少なかった。 柳ヶ浦高校に進学すると、投手を志した。1年夏(8月)に定岡智秋が同校の監督に就任し、指揮官から投手のあり方、練習の取り組み方を学ぶと、投げ方はほとんど教わっていないにもかかわらず、2年春の県大会で最速143km/hを計測。
奥村 政稔(おくむら まさと、1992年8月14日 - )は… 奥村 政稔(おくむら まさと、1992年8月14日 - )は、大分県中津市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。右投右打。現在は福岡ソフトバンクホークスで2軍ファーム投手コーチを務める。 中津市立鶴居小学校3年生のころに「鶴居少年野球クラブ」において軟式野球を始め、中津市立緑ケ丘中学校では同校の軟式野球部に所属。 高校は大分県立中津商業高校に進学。甲子園出場の経験はなく、2年生の秋季大分大会、対由布高校戦では、8回コールドゲームの参考ながら18奪三振でノーヒットノーランを記録する。学校統合による生徒募集停止により、中津商業としても最後の夏となった3年生の夏は、野球部員はわずか10人でエースを務め、初戦の対三重総合高校で敗退したが最速147km/hを記録する。
山口 俊(やまぐち しゅん、1987年7月11日 - )は、… 山口 俊(やまぐち しゅん、1987年7月11日 - )は、読売ジャイアンツに所属する大分県中津市出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。
春日 昭之介(かすが しょうのすけ、1953年11月17日 … 春日 昭之介(かすが しょうのすけ、1953年11月17日 - )は、大分県中津市出身の元プロ野球選手(内野手)。1975年から1978年までの登録名および本名は「春日 祥之輔」。兄は元プロ野球選手の春日一平。 中津工業高では、1番打者、捕手として同期のエース尾西和夫とバッテリーを組む。1971年夏の甲子園県予選を勝ち抜き、中九州大会決勝に進出するが、鶴崎工業高の藤沢哲也投手にノーヒットノーランを喫し甲子園出場はならなかった。 高校卒業後は、社会人野球の鐘淵化学に入社。1974年の都市対抗野球に出場。2回戦では2番打者、中堅手として起用されるが、新日本製鐵八幡の萩野友康に抑えられ敗退。 1974年のプロ野球ドラフト会議で太平洋クラブライオンズから5位指名を受け入団する。
尾西 和夫(おにし かずお、1953年8月4日 - )は、大… 尾西 和夫(おにし かずお、1953年8月4日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(投手)。 中津工業高校では、エース、三番打者として春日祥之輔とのバッテリーで1971年春季県大会で優勝、九州大会では決勝へ進むが登板はせず、橘健治が先発し、岩井靖久のいた同県の津久見高校に敗れた。夏の甲子園県予選は勝ち抜き中九州大会決勝に進出するが、鶴崎工の藤沢哲也にノーヒットノーランを喫し甲子園出場はならなかった。 高校卒業後は、新日本製鐵堺へ入社。1973年のドラフト会議で読売ジャイアンツから5位指名されるが拒否し、会社に残留した。 1975年、日本選手権の1回戦で鷺宮製作所の山本良材と投げ合うとバッテリーを組んだ中出謙二の本塁打で勝利。
筧 文夫(かけい ふみお、1952年6月23日 - )は、大… 筧 文夫(かけい ふみお、1952年6月23日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(外野手)。 中津工業高から福岡工業大学に進学。福岡六大学野球リーグでベストナイン2回、敢闘賞1回。典型的な中距離打者で3割7分1厘の高打率(二塁打24、三塁打5、本塁打6)をマーク。最大の魅力は、盗塁数75個を誇る脚力。 1974年にドラフト外で日本ハムファイターズに入団。 一軍公式戦の出場がいまま、1978年に現役を引退。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
長松 純明(ながまつ すみあき、1952年6月4日 - )は… 長松 純明(ながまつ すみあき、1952年6月4日 - )は、大分県中津市出身の元プロ野球選手(捕手)。 中津工高では、1970年夏の甲子園県予選準決勝で津久見高に敗れ、中九州大会には進出できなかった。卒業後は福岡工業大学へ進学。福岡六大学リーグでは1972年秋季リーグから4季連続優勝。リーグ通算16本塁打、首位打者2回、3年春から4季連続ベストナイン。1973年には5試合連続本塁打を放ちリーグ記録を更新。高校、大学の同期に筧文夫(日本ハム)がいた。 1974年ドラフト2位で、ロッテオリオンズに入団。強肩強打の捕手として期待されるが、村上公康、高橋博士らの控えに甘んじる。しかし1983年には20試合に先発マスクを被り、袴田英利、土肥健二と正捕手の定位置を争った。
春日 一平(かすが いっぺい、1951年3月7日 - )は、… 春日 一平(かすが いっぺい、1951年3月7日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手。弟は、元プロ野球選手の春日昭之介。 中津工業高校では、捕手として同期のエース大島康徳とバッテリーを組んで活躍した。1967年秋季九州大会大分県大会準決勝に進むが、同年春の選抜優勝校で、大田卓司らのいた津久見高に敗退。翌1968年春季九州大会大分県大会も準決勝で高田高に敗れる。同年夏も県予選で敗退し甲子園には届かなかった。 1968年ドラフト会議で西鉄ライオンズから5位指名を受け入団。1970年に一軍に上がり、捕手として8試合に出場するが、宮寺勝利らの壁を破れず一軍には定着できなかった。その後はマネージャー等の裏方を兼任していたが、1977年限りで現役引退。
大島 康徳(おおしま やすのり、1950年〈昭和25年〉10… 大島 康徳(おおしま やすのり、1950年〈昭和25年〉10月16日 - 2021年〈令和3年〉6月30日)は、日本のプロ野球選手(内野手、外野手)、プロ野球監督、野球解説者。 現役時代は中日ドラゴンズ(1969年 - 1987年在籍)で強打者として活躍し、1974年・1982年にはチームのセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝に貢献。1983年には本塁打王のタイトルを獲得、現役生活の終盤となる1988年に日本ハムファイターズへトレードで移籍すると、1990年には通算2000安打を達成。プロ入り26年目の1994年に44歳で現役を引退し、2000年 - 2002年には日本ハムの監督を務めている。 次男はお笑い芸人の大島雅斗。
大悟法 久志(だいごぼう ひさし、1947年3月20日 - … 大悟法 久志(だいごぼう ひさし、1947年3月20日 - 2011年8月29日)は、日本の高校野球指導者。大分県中津市出身。柳ヶ浦高等学校、明豊高等学校、福岡県立青豊高等学校で指揮を執った。 浅沼学園中津高等学校、駒澤大学卒業。現役時代は捕手であり、大学では準硬式野球部に所属していたが、全日本入りしたことがある。 大学4年の時、高校時代の恩師・植島安朝が野球部監督を務める柳ヶ浦高等学校のコーチを務めたことから、卒業後の1969年、柳ヶ浦に社会科教諭として赴任し、同時に野球部監督に就任した。柳ヶ浦は元は女子高で、1966年に共学化された私立高校であり、赴任当時は女子生徒の割合が高く部員確保が困難であった。