今永 典秀(いまなが のりひで、1982年1月1日 - )は… 今永 典秀(いまなが のりひで、1982年1月1日 - )は、日本の研究者、実務家教員。コー・イノベーション大学(Co-Innovation University、2026年4月開学)教授 兼 事務局長。 愛知県名古屋市生まれ。2001年4月 - 2005年3月名古屋大学経済学部、2013年4月 - 2015年3月グロービス経営大学院大学経営研究科、2021年3月岐阜大学工学研究科(博士(工学))。2005年4月住友信託銀行(現三井住友信託銀行)入社、2011年12月東和不動産入社(現トヨタ不動産)。2016年1月岐阜大学地域協学センター特任助教を経て、2019年4月より名古屋産業大学現代ビジネス学部准教授、2021年4月より経営専門職学科准教授。
奥川 雅之(おくがわ まさゆき、1971年〈昭和46年〉4月… 奥川 雅之(おくがわ まさゆき、1971年〈昭和46年〉4月17日 - )は機械工学、ロボット工学を専門とする日本の研究者、教育者。岐阜大学博士(工学)。災害対応調査ロボット「Scott」を開発し、サンリツオートメイションから「監視点検用クローラロボット」として製品化されている。タミヤから賞品化されたレスキュークローラ工作セットや自己復元型倒立二輪ロボットなども開発した。奥川研究室は2015年のロボカップレスキュー実機リーグで優勝し、奥川自身もレスキューロボットコンテストで副実行委員長や実行委員長を務める。産学共同研究に取り組むとともに、豊田市消防本部と災害対応の合同訓練も展開した。岐阜工業高等専門学校助手、講師、准教授、現代GP代表を経て、愛知工業大学准教授、教授を歴任。
森 佳三(もり けいぞう、1963年12月8日 - )は、滋… 森 佳三(もり けいぞう、1963年12月8日 - )は、滋賀県米原市出身の日本の造形作家、美術史研究者、「グリッド脳トレ」の創案者である。 1988年に多摩美術大学美術学部彫刻学科を卒業し、芸術学士を取得した。1997年から、1998年または1999年もしくは2000年までイタリア政府給費留学生としてフィレンツェ美術アカデミー(イタリア語版)へ留学した。2003年に岐阜大学大学院教科教育研究科教科教育専攻美術教育専修を修了した。2012年に千葉大学大学院社会文化科学研究科都市研究専攻博士課程を修了、博士(学術)の学位を取得した。
相川 美恵子(あいかわ みえこ、1960年2月 - )は、日… 相川 美恵子(あいかわ みえこ、1960年2月 - )は、日本の児童文学研究者。児童文学を専門とした文芸評論家。岐阜県生まれ。 岐阜大学教育学部卒業後、京都に引越し、人形劇団附属保育所勤務を経て高等学校で非常勤講師となる。同じころ、梅花女子大学大学院で児童文学を専攻、2001年に博士後期課程中退。大垣女子短期大学などで非常勤講師を経て、2010年龍谷大学短期大学部講師。現在、龍谷大学短期大学部こども教育学科准教授。日本児童文学学会、日本児童文学者協会、大佛次郎研究会、大坂新児童文学会、日本保育学会会員。 2002年、「「幼き者の旗」の誕生過程を考える――メディアがつくる「銃後」」で、日本児童文学学会設立40周年記念論文入選(第一席)、2003年には「『うすらでかぶつ』にみる読みの開き方―― 一九七〇年代の入り口をふりかえる」で、第1回日本児童文学者協会評論新人賞入選(第一席)。
栗田 靖(くりた きよし、1937年6月13日 - )は、俳… 栗田 靖(くりた きよし、1937年6月13日 - )は、俳人、俳句研究者。日本大学国際関係学部名誉教授。 満洲・ハイラル生まれ。岐阜大学卒業、立命館大学大学院修了、日本大学大学院博士課程単位取得。東海学園女子短期大学講師、日本大学国際関係学部助教授、教授を経て、2008年より同名誉教授。 実作者としては栗田やすしの俳号を用いる。1958年、「岐大二十才句会」で俳句を始め、1966年「風」に入会、沢木欣一に師事。「風」同人を経て1998年に「伊吹嶺」を創刊・主宰。 著書に『子規と碧梧桐』『山口誓子』『河東碧梧桐の基礎的研究』など多数。句集に『伊吹嶺』『遠方』『霜華』『海光』などがある。2000年『河東碧梧桐の基礎的研究』で第15回俳人協会評論賞、2009年句集『海光』で第49回俳人協会賞受賞。
大牧 冨士夫(おおまき ふじお、1928年(昭和3年) - … 大牧 冨士夫(おおまき ふじお、1928年(昭和3年) - 2021年(令和3年)1月15日)は、日本の文学研究者・郷土史研究者・小説家。 1928年(昭和3年)、岐阜県の揖斐川上流、旧徳山村漆原(下開田地区)に生まれ育つ。太平洋戦争末期を新潟県の村松陸軍少年通信兵学校で過ごす。戦後は、岐阜大学卒業後、岐阜市での業界紙記者などを経て、1963年(昭和38年)より故郷の徳山村で教鞭をとる。この間、中野重治に関する論文を『新日本文学』などに発表する。その傍ら、郷土史に興味を寄せ、『徳山村史』の編集執筆などに携わる。1985年(昭和60年)、徳山ダム建設に先立ち、徳山村を離村。1980年に『中野鈴子全詩集』の解題、年譜を書いて編集に加わった。