高倉 徳太郎、(たかくら とくたろう、1885年4月23日 - 1934年4月3日)は、日本基督教会の神学者、牧師。植村正久の後継者。 京都府何鹿郡綾部町字南西町101番地に生まれる。父は高倉平兵衛、母はさよ。平兵衛の養蚕の仕事による不在と、夫のキリスト教信仰のために、母さよは夫と子供を棄てた。そのとき徳太郎は5歳だった。 1903年9月金沢の四高(現金沢大学)に入学し、西田幾多郎の三々塾に入り、1906年6月卒業。「最も愛すべきものは自己なり」と書いた。 綾部の日本組合基督教会牧師の次女内田光恵に恋愛感情を持ち、結婚を考えるようになる。この少女は綾部一の麗貌だった。やがて婚約式を挙げたが、裕福な商家の長男で秀才の誉れ高く、外交官、政治家としての将来を嘱望されていた高倉が、立身出世の望みを捨てて牧師になろうとしたとき、貧乏牧師の妻にはさせないという光恵の母から婚約を破棄された。
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