太田 紋助(おおた もんすけ、1846年2月11日(弘化3年1月16日) - 1892年4月3日)は日本の実業家。北海道厚岸郡厚岸町の開拓に尽力し、屯田兵村、太田村の村名にその名を残した。日本人とアイヌの混血である。 1846年2月11日(弘化3年1月16日)に場所請負人山田文右衛門の番人、中西紋太郎と奔渡村のアイヌの女性であるシャリコトムの間に生まれる。庶子であった上、幼少期に父を失ったことで母親に女手一つで育てられていたが、それを不憫に思った国泰寺の住職、香山聞禅に引き取られて読み書きそろばんや農業を教わり、8年間同寺の寺男として働いている。1867年(慶応3年)には22歳でアイヌの女性、真歌と結婚する。
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