瀬戸山 清彦(せとやま きよひこ、1867年12月30日(慶… 瀬戸山 清彦(せとやま きよひこ、1867年12月30日(慶応3年12月5日)- 1944年(昭和19年)6月30日)は、日本の医師、政治家、衆議院議員(1期)。 日向国諸県郡、のちの宮崎県西諸県郡加久藤町(現えびの市)で生まれた。1890年(明治23年)第三高等中学校医学部(現:京都大学医学部)卒。陸軍一等軍医(大尉相当官)となり、日清、日露の両戦争に従軍する。その後は医業に従事し、日向銀行頭取を務めた。 1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙において宮崎県から立憲政友会公認で立候補したが落選した。8月に塚本常弥の死去により繰り上げ当選となった。衆議院議員を1期務め、1915年(大正4年)第12回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
三橋 四郎(みつはし しろう、1867年12月27日(慶応3… 三橋 四郎(みつはし しろう、1867年12月27日(慶応3年12月2日) - 1915年(大正4年)11月5日)は、明治期から大正初期の日本の建築家。領事館をはじめとする多くの官庁建築の設計に携わるとともに、鉄網コンクリート工法を考案したことで知られる。 幕臣鈴木庸正の四男として、江戸に生まれる。 1893年、帝国大学工科大学造家学科(後の建築学科)を卒業、陸軍省に入る。 1898年に逓信省技師となり、郵便局舎の建築にあたった。 1906年、東京市技師となり、営繕課長となる。しかし2年後の1908年には東京市を退職し、三橋建築事務所を東京に開設した。以後、外務省の嘱託として、中国東北部やロシア極東部において多くの領事館を設計した。
忽滑谷 快天(ぬかりや かいてん、慶応3年12月1日(186… 忽滑谷 快天(ぬかりや かいてん、慶応3年12月1日(1867年12月26日) - 1934年7月11日)は、戦前日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶、文学博士。道号は仏山。 古代禅学及び東洋禅学思想史を研究し、禅仏教を内省主観主義として捉えた「忽滑谷禅学(忽滑谷派)」と呼ばれる禅道思想を確立した。大正天皇の御大礼仏教雑誌『星華』、『達磨禅』創刊者。 曹洞宗大学が大学昇格時に駒澤大学に改まると、初代学長に就任。駒澤大学の建学の理念「行学一如」、その実践項目としての「信誠敬愛」を打ち立てた。 武蔵国入間郡古谷村(現・埼玉県川越市)の善長寺従弟、多摩郡東村山久米川(現・東京都東村山市)に遠藤太郎左衛門の4男として生まれる。
林 市蔵(はやし いちぞう、1867年12月23日(慶応3年… 林 市蔵(はやし いちぞう、1867年12月23日(慶応3年11月28日) - 1952年(昭和27年)2月17日)は、日本の内務官僚、銀行家。府県知事、日本信託銀行頭取。 熊本藩士・林慎蔵の長男として生まれる。五歳で父が死去し、母・亀寿により育てられ、苦学して中学済々黌、第五高等学校を経て、1896年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。拓殖務省に入り拓殖務属となる。1897年7月、拓殖務省の廃止に伴い内務省に移り内務属として北海道局に配属された。1898年12月、文官高等試験行政科試験に合格。 1899年5月、警察監獄学校教授に就任。以後、兼内務省参事官、山口県書記官、同県第一部長、広島県事務官・第一部長兼第三部長、新潟県内務部長などを歴任。
服部 擔風(はっとり たんぷう、慶応3年11月16日(186… 服部 擔風(はっとり たんぷう、慶応3年11月16日(1867年12月21日) - 昭和39年(1964年)5月27日)は、明治・大正・昭和にかけて活躍した漢詩人・書家。「最後の漢詩人」とも言われる。 1867年(慶応3年)、尾張国海西郡鯏浦(現在の愛知県弥富市鯏浦)に生まれる。戦国時代の土豪服部友貞の子孫で、大地主の家の次男であった。幼名は粂之丞(くめのじょう)。1882年(明治15年)、尾張藩の儒者森村大朴に漢籍を学ぶ。大朴は粂之丞の熱心さに感心し、漢詩を作るように勧めた。1884年(明治17年)村田梅村の水月吟社に入る。ここで漢詩人の森春涛らの影響を受ける。粂之丞は、名を擔風と改め、詩の研究とともに詩作に励んだ。
中村 是公(なかむら よしこと、通称: なかむら ぜこう、な… 中村 是公(なかむら よしこと、通称: なかむら ぜこう、なかむら これきみ、1867年12月20日〈慶応3年11月25日〉- 1927年〈昭和2年〉3月1日)は、日本の官僚・実業家・政治家である。南満洲鉄道株式会社(満鉄)総裁、鉄道院総裁、東京市長、貴族院議員などを歴任した。 作家・夏目漱石の親友としても知られ、官僚出身らしからぬ豪放磊落な性格で、「べらんめい総裁」「フロックコートを着た猪」「独眼龍」などの異名をとった。 安芸国佐伯郡五日市村(五日市町を経て現:広島県広島市佐伯区)に酒造業・柴野宗八の五男として生まれる。柴野家の墓は現在でも広島市佐伯区五日市の光禅寺にある。兄は大審院検事・鈴木宗言。
安藤 林左衛門(あんどう りんざえもん、1867年12月19… 安藤 林左衛門(あんどう りんざえもん、1867年12月19日(文久2年10月28日) - 1932年(昭和7年)12月25日)は、日本の政治家。宮城県富谷村長(5期)。 陸奥国黒川郡明石村(のち陸前国黒川郡明石村→宮城県黒川郡明石村→富谷村→富谷町、現・富谷市)出身。黒川郡西成田村(のち黒川郡富谷村→富谷町、現・富谷市)の安藤家の養嗣子となる。地押総代を経て、1889年(明治22年)町村制が施行され、富谷村が発足すると村会議員に選ばれた。1898年(明治31年)富谷村長に就任した。一回目の村長は1914年(大正3年)まで務め、この間、黒川郡会議員、信用組合長、耕地整理組合長を務めた。村長退任後は再び郡会議員、同参事員、耕地整理組合長、学務委員、農会総代議員、同評議員を務めた。
籾木 卿太郎(もみき きょうたろう / けいたろう、1867… 籾木 卿太郎(もみき きょうたろう / けいたろう、1867年12月18日(慶応3年11月23日) - 1916年(大正5年)8月7日)は、日本の医師。政治家、衆議院議員(1期)。 日向国諸県郡高岡郷、のちの宮崎県北諸県郡高岡町(現宮崎市)で生まれた。1887年(明治20年)鹿児島県立医学校(現・鹿児島大学医学部)卒。医師となり、東諸県郡医会長、郡医、校医、日本赤十字社準備医員嘱託となる。 1904年(明治37年)第9回衆議院議員総選挙において宮崎県から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙は不出馬。1916年に死去した。
小野 瓢郎(おの ひさごろう、1867年12月18日(慶応3… 小野 瓢郎(おの ひさごろう、1867年12月18日(慶応3年11月23日) - 1921年(大正10年)10月19日)は、日本の薬学者。従四位勲四等。薬学博士。富山薬学専門学校校長。愛知薬学校校長。族籍は愛知県平民。 江戸出身。北海道平民・小野新之丞の五男。1893年7月、帝国大学医科大学薬学科を卒業して薬学士の称号を得た。1898年、愛知医学専門学校教諭、愛知病院薬剤科長、1908年、愛知薬学校長。1915年7月、薬学博士の学位を授与された。同年9月、富山県技師および富山県立薬学専門学校長兼教授。1921年10月19日死去。享年55。 人柄は温厚篤実、気宇闊達と評された。部下を大切にし、死の前日にも再び校務に就くことを願うほど、仕事に忠実であった。
山田 済斎(やまだ せいさい、慶応3年11月23日(1867… 山田 済斎(やまだ せいさい、慶応3年11月23日(1867年12月18日) - 昭和27年(1952年)11月21日)は、日本の漢学者・陽明学者・教育者。二松学舎専門学校の初代校長。二松学舎名誉学長、大東文化学院名誉教授。幼名は鎨三郎、本名は準、字は士表、済斎は号で正しくは濟齋である。 済斎と夏目漱石は同年の1867年生まれで、ともに二松学舎で三島中洲に学んだ。第五高等学校で済斎は漢文科主任、漱石は英語科主任となった。
福井 久蔵(ふくい きゅうぞう、1867年12月13日(慶応… 福井 久蔵(ふくい きゅうぞう、1867年12月13日(慶応3年11月18日) - 1951年(昭和26年)10月23日)は、日本の国語学者・国文学者。号は白陽子、楽山、小松園など。 但馬国二方郡熊谷村(後に兵庫県温泉村、現在の新温泉町熊谷)に生まれる。1890年、兵庫尋常師範学校を卒業し、神戸小学校教諭となる。1893年、上京して上田萬年の指導を受ける。1895年、中等学校国語科教員検定試験に合格し、山口中学校教諭となる。1898年、東京府立第一中学校教諭へ転任。1905年、学習院教授。1912年12月18日、勲六等瑞宝章。1925年、駒澤大学教授。1936年「連歌の史的研究」で京都帝国大学より文学博士号を授与される。
森 国造(森 國造、もり くにぞう、1867年12月10日(… 森 国造(森 國造、もり くにぞう、1867年12月10日(慶応3年11月15日) - 1938年(昭和13年)3月29日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(山梨県郡部選出、当選1回)。山梨県会議員。族籍は山梨県平民。 甲斐国山梨郡(後の山梨県東山梨郡平等村、現・山梨市)生まれ。森武兵衛の三男。上京し、神田の共立学校に学ぶ。 農業を営む。1885年、家督を相続した。村長就職のほか毎期村会議員に挙げられる。 1894年、郡会議員に当選。1896年、県会議員に当選。1908年、山梨県郡部より衆議院議員に選出される。立憲政友会に所属。 銀行、会社の重役であり、甲府電力、甲東電力各社長、日本勧業銀行顧問、山梨県農工銀行、峡東銀行、甲府電力、甲州電力各取締役、山梨印刷監査役などをつとめる。
大江 邦治(おおえ くにじ、1867年12月9日 - 196… 大江 邦治(おおえ くにじ、1867年12月9日 - 1968年6月5日)は、日本の牧師、教育者。戦前から戦後にかけての日本アライアンス教団の指導者。 1867年(慶応3年)に伯耆国溝口(現、鳥取県西伯郡伯耆町)に生まれる。鳥取中学(現・鳥取県立鳥取西高等学校)に入学するが、1882年(明治15年)に中退して上京する。 東京電信学校(後の、逓信官吏練習所)に入学して、1887年(明治20年)に卒業し、東京府、岡山県、山口県下関市、佐賀県の電信局で勤務する。 岡山県岡山市の電信局に勤務していた頃、日本組合基督教会岡山教会(現・日本基督教団岡山教会)に出席するようになり、当時岡山教会牧師の安部磯雄から洗礼を受ける。
五辻 治仲(いつつじ はるなか、1867年12月8日(慶応3… 五辻 治仲(いつつじ はるなか、1867年12月8日(慶応3年11月13日)- 1932年(昭和7年)10月16日)は、明治から昭和期の政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。 山城国京都で大膳大夫・五辻安仲の長男として生まれる。父の死去に伴い、1906年(明治39年)3月22日、子爵を襲爵した。 1894年(明治27年)7月、学習院大学科を卒業。1911年(明治44年)臨時治水調査会委員に就任。その他、大国銀行取締役、高野山電気鉄道監査役などを務めた。 1911年7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、死去するまで4期在任した。
塩田 泰介(しおた たいすけ、1867年12月5日(慶応3年… 塩田 泰介(しおた たいすけ、1867年12月5日(慶応3年11月10日) ‐ 1938年2月5日)は、日本の造船工学者、実業家。工学博士。 三菱造船常務取締役。 備前国赤坂郡今井村(現・岡山県赤磐市今井)に正好家の四男として生まれる。眞徳小学校に在籍していた1878年、松田金次郎の書生として上京する。 泰介は上京後すぐに松田の転勤に伴って大阪に行き、1881年(明治14年)に大阪商船学校に入学。数学や航海術を本格的に学び、造船製図手になる。 1887年に帝国大学工科大学造船学科に入学。端連の長男である花房義質子爵の書生となる。 帝大卒業後は三菱合資会社に造船技師として入社し、長崎に赴任。1895年、端蓮の妹である塩田鶴の養子となり塩田姓を名乗る。
清水 釘吉(しみず ていきち、慶応3年11月10日(1867… 清水 釘吉(しみず ていきち、慶応3年11月10日(1867年12月5日) - 1948年(昭和23年)9月7日)は、日本の実業家。清水組代表取締役社長。旧姓は小野。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
脇水 鉄五郎(わきみず てつごろう、慶応3年11月9日(18… 脇水 鉄五郎(わきみず てつごろう、慶応3年11月9日(1867年12月4日) - 昭和17年(1942年)8月10日)は、明治から昭和前期の地質学者、土壌学者。東京帝国大学名誉教授。 美濃大垣(現:岐阜県大垣市)に生まれる。1893年(明治26年)東京帝国大学地質学科卒業。1896年(明治29年)同大学農科大学助教授を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学教授となる。1911年から1915年頃に掛けてヨーロッパおよびアメリカに留学し、オーストリアで森林土壌学、イタリアで砂防学を研究。帰国すると地質学や森林土壌学講座を担当した。樺太および北海道にて気候的植生の土壌に対する影響を調査し、表層地質学の新天地を開拓した。
二代 小栗 冨治郎(富治郎、おぐり とみじろう、1867年1… 二代 小栗 冨治郎(富治郎、おぐり とみじろう、1867年12月3日〈慶応3年11月8日〉 - 1933年〈昭和8年〉12月1日)は知多半島の中核地・半田の豪商。酒や醤油の醸造、銀行業や紡績業など多角経営を進め、貴族院多額納税者議員も務めた。 後の愛知県半田市にて、小栗富一(初代・富治郎)の長男として生まれる。祖父の喜七は船頭として江戸-蝦夷間の物流で稼ぎ、先代の借金を完済。主人・中埜半六の番頭を務めたのち独立するとまず味醂の製造、次いで1845年(弘化2年)に酒の醸造を始め財を成した。 1859年(安政6年)に横浜港が開港するやすぐさま唐糸を輸入して江戸や名古屋に販売、巨利を得る。1865年(慶應元年)初代・富治郎に家督を譲り引退。
立花 寛蔵(たちばな かんぞう、1867年12月2日〈慶応3… 立花 寛蔵(たちばな かんぞう、1867年12月2日〈慶応3年11月7日〉 - 1940年10月5日)は、日本の商学者。広島県商業学校校長や、滋賀県商業学校校長などを経て、初代大倉高等商業学校校長を務めた。 長野県生まれ。1888年高等商業学校(現一橋大学)卒業。 在学中は、文部省による高等商業学校と東京外国語学校の合併案の不当性を訴え、各務鎌吉(のちに東京海上火災保険社長)や、上野季三郎(のちに大膳頭)、水島銕也(のちに初代神戸高等商業学校校長)、下野直太郎(のちに東京商科大学(現一橋大学)名誉教授)らと議論を交わした。 卒業後は、函館商業学校教諭、市立大阪商業学校(現大阪公立大学)教諭などを経て、1898年広島県商業学校校長。
嶋谷 徳三郎(島谷 徳三郎、しまたに とくさぶろう、1867… 嶋谷 徳三郎(島谷 徳三郎、しまたに とくさぶろう、1867年12月2日〈慶応3年11月7日〉 - 1928年〈昭和3年〉5月20日)は、日本の実業家、資産家、山口県多額納税者。嶋谷汽船株式会社の創立者で社長を務めた。族籍は山口県平民。 周防国玖珂郡由宇村(現・山口県岩国市)に、廻船業を営む徳右衛門の長男として生まれる。若い頃から父の下で家業を習得する。 1889年、父・徳右衛門が亡くなり、徳三郎は22歳で家督を相続して家業を継承した。徳三郎は1895年に、それまで保有していた和式帆船を売却して、日本郵船から中古の蒸気船「浦門丸」(元はイギリス製で土佐藩が購入)を購入する。当時、由宇の廻船業者はすべて和式帆船を使い、高額な蒸気船の導入をためらっていた中で、徳三郎は親族の反対を押し切って実行した。
青沼 鋒太郎(あおぬま みねたろう、1867年12月1日(慶… 青沼 鋒太郎(あおぬま みねたろう、1867年12月1日(慶応3年11月6日) - 1943年(昭和18年)8月28日)は、明治から昭和時代前期の政治家、警察官。福島県平市長。 磐城平藩領出身。1888年(明治21年)10月、裁判所書記福島始審裁判所詰を振り出しに福島県監獄書記兼看守長、監獄所第一課長、同県白河監獄支署長、長野県警部、同県福島警察署長、同県塩崎警察署長、長野警察署長、同県警察部衛生課長兼高等警察課長、岩手県警部兼属、警察部警務課長兼巡査教習所長、岩手県警視、同県盛岡警察署長を経て、1905年(明治38年)6月、岩手県和賀郡長に任じる。 1908年(明治41年)7月、福島県東白川郡長に転じ、同年10月、同県耶麻郡長、1913年(大正2年)8月、岩城郡長、1918年(大正7年)5月、伊達郡長を経て、同年11月に退官した。
河盛 又三郎(かわもり またさぶろう、1867年11月30日… 河盛 又三郎(かわもり またさぶろう、1867年11月30日〈慶應3年11月5日〉 - 1941年〈昭和16年〉11月)は、日本の醸造家、政治家、資産家、実業家。河又醤油社長。族籍は大阪府平民。 和泉国堺(現・大阪府堺市)出身。三代目・河内屋又平の末子として誕生。1883年、家督を相続する。醤油醸造業を営み、河又醤油社長である。 日本醸造協会監事、堺商工会議所顧問を兼ね、泉醤油相談役に推され、堺商工会議所会頭、堺市会議員に選ばれ、大阪府多額納税者に列する。 はやくから醸造工程の機械化にとりくむ。1913年、緑綬褒章を下賜される。趣味は書画。宗教は仏教。住所は大阪府堺市新在家町。 河盛又三郎の遠祖は、豊臣家の家臣で米田藤内(こめだとうない)といったが1615年、大坂夏の陣に敗れて豊臣家が滅亡すると大和国宇智郡三在村(現・奈良県五條市三在町)へ落ちて、ここに住みつき、郷士となって農業に従事した。
岸上 鎌吉(きしのうえ かまきち、ローマ字表記:Kamaki… 岸上 鎌吉(きしのうえ かまきち、ローマ字表記:Kamakichi Kishinouye、慶応3年11月4日(1867年11月29日) - 昭和4年(1929年)11月22日)は、日本の動物学者・水産学者。日本の水産学黎明期の学者であり、水産上の重要生物を中心に日本に於ける動物分類学の基礎を築いた学者の一人として位置づけられる。 慶応3年、尾張国知多郡横須賀村(後の愛知県知多郡横須賀町、現在の東海市)に生まれる。明治13年(1880年)に愛知県立旭丘高等学校の前進である愛知県中学校へ入学、明治16年(1883年)東京大学予備門へと進む。帝国大学理科大学動物学科へ入学後、箕作佳吉に師事する。丘浅次郎とは動物学科での同期であるが、岸上は本科生であり丘は撰科生である。
橋爪 捨三郎(はしづめ すてさぶろう、1867年11月29日… 橋爪 捨三郎(はしづめ すてさぶろう、1867年11月29日(慶応3年11月4日)- 1930年(昭和5年)9月15日)は、日本の実業家である。 陸奥国会津郡若松城郭内(現会津若松市)で、会津藩士・橋爪清助の三男として生まれる。帝国大学(現在の東京大学)法科大学政治学科を卒業後、三井物産に入社しその後転々と多くの企業に転勤する。後に上海紡績に転勤するが、同会社の合併により鐘淵紡績(後のカネボウ、現在のクラシエホールディングス)に移った。 これにより同会社の副支配人を経て支配人としての職にあたり、1918年(大正7年)に取締役として就任した。1927年(昭和2年)には常務取締役に昇格し、同年副社長に就任する。
大石 誠之助(おおいし せいのすけ、1867年11月29日〈… 大石 誠之助(おおいし せいのすけ、1867年11月29日〈慶応3年11月4日〉 - 1911年〈明治44年〉1月24日)は、日本の社会主義者・キリスト者、医師。 幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人。雅号は「禄亭」(ろくてい)。 1867年11月29日(旧暦慶応3年11月4日)に紀伊国新宮仲之町(現:和歌山県新宮市仲之町)で生まれる。同志社英学校英語普通科を中退後、神田共立学校(現:開成中学校・高等学校)で英語を学ぶが中退する。1891年(明治24年)6月に渡米し、ワシントン州ワラワラ市のセントポーロ中学校へ入学したのち、1892年(明治25年)にオレゴン州立大学医科に入学する。1895年(明治28年)に卒業後はモントリオール大学で外科学を学んでから同年10月に帰国し、翌年に地元・新宮で医院を開業する。
飛鳥井 孝太郎(あすかい こうたろう、慶応3年11月3日(1… 飛鳥井 孝太郎(あすかい こうたろう、慶応3年11月3日(1867年11月28日) - 昭和2年(1927年)7月29日)は、日本の実業家、技術者。同志社の教授を経て、ノリタケカンパニーリミテドや、鳴海製陶を創業した。 加賀国大聖寺藩(現石川県加賀市大聖寺町)出身。父は旧大聖寺藩士飛鳥井清。東京工業学校(現東京工業大学)陶器玻璃工科でゴットフリード・ワグネルに師事して青磁を研究し、1890年に卒業後、同志社波理須理化学校(のちの同志社大学理工学部)陶磁器科長・教授等を経て、1896年に森村組に入社し、名古屋支店で洋食器の研究開発に従事。1897年から農商務省海外貿易練習生としてヨーロッパに留学。
高橋 源次郎(たかはし げんじろう、1867年11月28日(… 高橋 源次郎(たかはし げんじろう、1867年11月28日(慶応3年11月3日) - 1943年(昭和18年)4月28日)は、明治から昭和時代戦前の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 日向国、のちの宮崎県南那珂郡飫肥町(現日南市)出身。日高源蔵の長男として生まれ、1895年(明治28年)1月に先代曽一の養子となり翌1896年(明治29年)8月に家督を相続する。 1897年(明治30年)宮崎県会議員、同参事会員、南那珂郡会議員、飫肥町会議員のほか、飫肥銀行、宮崎農工銀行各取締役、宮崎県飫肥鉄道評議員、同県地方森林会議員、日州貯蓄銀行、日州銀行各取締役などを歴任した。 1918年(大正7年)宮崎県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から、研究会に所属し1932年(昭和7年)9月28日まで2期在任した。
藤本 閑作(ふじもと かんさく、1867年11月26日(慶応… 藤本 閑作(ふじもと かんさく、1867年11月26日(慶応3年11月1日)- 1936年(昭和11年)12月12日)は、明治から昭和初期の政治家、実業家、銀行家。宇部銀行頭取。貴族院多額納税者議員。族籍は山口県士族。 藤本蔓平の長男として後の長門国厚狭郡宇部村(現在の山口県宇部市)に生まれた。岩国の東沢瀉塾で学んだ。漢学を修めた。1877年(明治10年)7月に家督を相続する。 1896年(明治29年)以降、石炭鉱業を経営し、宇部電気、宇部銀行、宇部鉄工所各取締役、宇部村信用購買販売組合理事のほか、宇部商工会議所議員、防長林業、宇部セメント(後の宇部興産、現在のUBE/UBE三菱セメント)各取締役、大和護謨栽培監査役などを務める。
伊東 忠太(いとう ちゅうた、慶応3年10月26日〈1867… 伊東 忠太(いとう ちゅうた、慶応3年10月26日〈1867年11月21日〉 - 1954年〈昭和29年〉4月7日) は、明治から昭和期の建築家、建築史家である。号は紅雲。位階・勲等・学位・称号は、正三位・勲二等瑞宝章・工学博士・東京帝国大学名誉教授・早稲田大学教授。出羽国米沢(現山形県米沢市)出身。米沢市名誉市民第1号。 少年時代を東京、佐倉で過ごす。帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)を卒業して同大学大学院に進み、のちに工学博士・東京帝国大学名誉教授となる。 西洋建築学を基礎にしながら、日本建築を本格的に見直した第一人者で、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史を創始した。
岸田 幾太郎(きしだ いくたろう、1867年11月19日〈慶… 岸田 幾太郎(きしだ いくたろう、1867年11月19日〈慶応3年10月24日〉 - 1908年〈明治41年〉9月14日)は、日本の実業家。 第100・101代内閣総理大臣の岸田文雄と元経済産業大臣の宮澤洋一は曽孫である。 1867年11月19日(慶応3年10月14日)、安芸国賀茂郡奥屋村(現:広島県東広島市志和町奥屋)に岸田忠次郎・さみ夫妻の長男として生まれる。岸田家は、幾太郎の曽祖父である岸田直五郎の代に「新出屋(あたらしや)」を屋号にして分家し、以来奥屋村で農業を営んだ。 1891年(明治24年)頃に農機具、種苗、呉服などを輸出し、輸出先の北海道から仕入れた海産物の販売業を始める。1894年(明治27年)に三宅直之助の四女・スミと結婚。
武内 作平(たけうち さくへい、1867年11月18日(慶応… 武内 作平(たけうち さくへい、1867年11月18日(慶応3年10月23日) - 1931年(昭和6年)11月8日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員、内閣法制局長官。 伊予国越智郡日吉村(現・今治市)に士族武内清治の長男として生まれる。関西法律学校(現・関西大学)、和仏法律学校(現・法政大学)、東京専門学校(現・早稲田大学)に学ぶ。1897年(明治30年)に弁護士試験に合格する。大阪北浜で弁護士事務所を開業し、大阪弁護士会長、大阪米穀取引所、大阪土地建物、日本冷蔵、阪堺電鉄などの役員を歴任する。1902年(明治35年)に衆議院議員に初当選。その後、海軍政務次官、大蔵政務次官、予算委員長を経て第2次若槻内閣では法制局長官を務める。
蘆田 慶治(あしだ けいじ、1867年11月18日(慶応3年… 蘆田 慶治(あしだ けいじ、1867年11月18日(慶応3年10月23日) - 1936年(昭和11年)8月18日)は、戦前日本のキリスト教神学者。 丹波国氷上郡鴨内村(現在の兵庫県丹波市氷上町鴨内)生まれ。幼時に家事の都合で京都に移り、京都府立中学校を卒業する。 1888年(明治21年)に大阪の南美以教会でJ.W.ランバスから洗礼を受け、翌年関西学院神学部に入学する。卒業後の1898年(明治31年)にアメリカへ渡り、ヴァンダービルト大学とイェール大学で学ぶ。1902年(明治35年)に帰国して関西学院神学部で教鞭をとったが、1909年(明治42年)に同志社神学校に移る。間もなく同志社から再び渡米してハーバード大学で研究を重ねる。
宮島 詠士(みやじま えいし、慶応3年10月20日(1867… 宮島 詠士(みやじま えいし、慶応3年10月20日(1867年11月15日) - 昭和18年(1943年)7月9日)は、明治から昭和前期にかけて活躍した能書家、教育家(中国語)。山形県米沢の出身。名は吉美、通称は大八(だいはち)、詠士は字で、号に詠而帰廬主人がある。 詠士は明治37年(1904年)に中国語の教科書『官話急就篇』を刊行し、中国語の私塾・善隣書院を創設して生涯その経営にあたるなど、戦前の中国語教育に大きな足跡を残した。また書家としても著名で、代表作『犬養公之碑』は日本書道史に異彩を放つ楷書碑として尊い。書の門弟に上條信山、藤本竹香がいる。 国立国会図書館 憲政資料室所蔵『宮島誠一郎関係文書』、早稲田大学図書館所蔵『宮島誠一郎文書』、神戸大学附属図書館所蔵『宮島家文書』には一部大八関係の資料が収められている。
阪本 三郎(さかもと さぶろう、1867年11月11日(慶応… 阪本 三郎(さかもと さぶろう、1867年11月11日(慶応3年10月16日) - 1931年(昭和6年)4月14日)は、日本の検察官、裁判官、内務官僚、教育者。憲政会系官選県知事、早稲田専門学校長。「坂本」と表記される場合がある。樋口一葉の婚約者(旧姓・渋谷)であったことで知られる。 武蔵国南多摩郡原町田村(後の町田村、現町田市)で旅籠武蔵屋を営む渋谷徳治郎の二男として生まれ、1892年8月、阪本タカの養子となる。祖父・真下専之丞(晩菘)の融貫塾、近在の小野路にある小島韶斎塾、藤沢の耕余塾で学ぶ。1888年7月、東京専門学校法学部を卒業。1890年12月、文官高等試験に合格。1891年1月22日、司法官試補に任じられ新潟地方裁判所詰となる。
中村 啓次郎(なかむら けいじろう、1867年11月10日〈… 中村 啓次郎(なかむら けいじろう、1867年11月10日〈慶応3年10月15日〉- 1937年〈昭和12年〉5月22日)は、日本の政治家、弁護士、実業家。衆議院議員、衆議院議長。銀行家巽孝之丞の実弟。また、小泉信三の祖父小泉文庫はいとこにあたる。 紀伊国和歌山山崎(現在の和歌山県和歌山市岩出町)に生まれる。英吉利法律学校を卒業。日清戦争において陸軍省雇員として大本営付となる。さらに占領地総督府民政部庶務課長兼司法課長に就任。1895年(明治28年)、遼東半島の還付後に台湾へ移り、弁護士を開業。台湾弁護士会会長、北港製糖・台湾瓦斯の各監査役、北海鉱業社長などを歴任し、『日刊台湾民報』を発刊した。
三田村 甚三郎(みたむら じんざぶろう、1867年11月7日… 三田村 甚三郎(みたむら じんざぶろう、1867年11月7日(慶応3年10月12日) - 1934年(昭和9年)2月13日)は、福井県武生市(現越前市)出身の日本の実業家、政治家。 越前打刃物の名産地として知られる越前市越前府中(現越前市あおば町)でも有数の打物問屋に長男・欽二として出生。明治29年、家督を相続し、甚三郎を襲名。福井県立福井中学校(現福井県立藤島高等学校)を経て、東京専門学校(現早稲田大学)に入学し政治学を学ぶ。 福井新聞、有限責任信用組合武生金庫(現武生信用金庫)、武岡軽便鉄道株式会社(福井鉄道南越線)を設立。 福井県会議員を歴任後、衆議院議員に二期当選(1898-1902、1930-32)18年間無報酬で武生町長を務める。
鈴木 喜三郎(すずき きさぶろう、1867年11月6日〈慶応… 鈴木 喜三郎(すずき きさぶろう、1867年11月6日〈慶応3年10月11日〉- 1940年〈昭和15年〉6月24日)は、日本の司法官僚、政治家。立憲政友会第7代総裁。旧姓は川島。鳩山和夫の長女カヅと結婚し、鳩山一郎は義弟にあたる。司法官僚から、貴族院議員、清浦奎吾内閣の司法大臣、田中義一内閣の内務大臣を歴任し、衆議院議員から再度貴族院議員となった。犬養毅暗殺後の立憲政友会第7代総裁(在任、昭和7 - 昭和12、1932年 - 1937年)を務めた。位階勲等は従二位勲一等。 慶応3年10月11日(1867年11月6日)、武蔵国橘樹郡大師河原村(後の神奈川県川崎市)の川島富右衛門の三男に生まれる。
高橋 作衛(たかはし さくえ、1867年11月5日(慶応3年… 高橋 作衛(たかはし さくえ、1867年11月5日(慶応3年10月10日)- 1920年(大正9年)9月12日)は、日本の法学者・政治家。専門は国際法。学位は、法学博士。東京帝国大学名誉教授。帝国学士院会員、貴族院議員、法制局長官。 信濃国高遠藩儒で、維新後に長野県立長野中学教諭となった高橋白山の長男として肥前国(長崎県)に生まれる。第一高等学校を経て、1894年9月、帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。海軍教授となり、日清戦争に際し常備艦隊司令長官付の幕僚(法律顧問)、さらに旅順口根拠地司令長官付(通訳)に異動。1895年5月、海軍大学校勤務となり1896年3月まで務めた。1897年9月から英仏独に留学。
島田 墨仙(しまだ ぼくせん、1867年11月4日(慶応3年… 島田 墨仙(しまだ ぼくせん、1867年11月4日(慶応3年10月9日) - 1943年(昭和18年)7月9日)は、明治から昭和初期に活躍した日本画家。橋本雅邦の弟子で、歴史画、特に歴史人物画に優品を残した。 越前国福井城下で、元福井藩士島田雪谷の次男として生まれる。父・雪谷、兄・島田雪湖 [Wikidata]も日本画家である。9歳頃から父から絵を学び始める。1882年(明治15年)頃、福井中学校(現在の福井県立藤島高等学校)に入学。しかし、1884年(明治17年)1月に稼ぎ頭の父を亡くすと、家計の事情から中学3年を修了した春に退学。自分は士族に生まれたからには軍人にならねばならぬと思い込んだ墨仙は、すぐに陸軍士官学校、陸軍教導団に志願するが、視力が合格の1.0に満たず不合格となる。
吾妻 勝剛(あづま かつたけ、1867年11月1日〈慶応3年… 吾妻 勝剛(あづま かつたけ、1867年11月1日〈慶応3年10月6日〉- 1923年〈大正12年〉9月1日)は、明治から大正時代の産婦人科医。 生家は出羽久保田藩医。1875年(明治8年)上京し普通学を修めたのち、1880年(明治13年)より同人社および独逸学校などに学び、1884年(明治17年)9月、大学予備門に入り、1890年(明治23年)9月に帝国大学医科大学に入学し、1893年(明治26年)11月、卒業した。卒業後、医科大学産科婦人科学教室助手となり、1898年(明治31年)2月には文部省の命によりドイツに留学する。帰朝後の1899年(明治32年)12月、京都帝国大学医科大学助教授となり、再度の留学を経て、1901年(明治34年)6月に帰朝した。
岩瀬 弥助(いわせ やすけ、旧字:岩瀨彌助。1867年11月… 岩瀬 弥助(いわせ やすけ、旧字:岩瀨彌助。1867年11月1日(慶応3年10月6日) - 1930年(昭和5年)1月3日)は、日本の実業家・慈善家。幼名は吉太郎。西尾鉄道初代社長を務めたほか、私財を投じて岩瀬文庫をも創設した。 三河国西尾城下の須田町(現・愛知県西尾市)にて、肥料商を営む岩瀬弥蔵の長男として生まれる。小学校を卒業すると家業を継いだ。1887年(明治20年)20歳の時に本家の猪代治が亡くなったため、本家の山本屋へ養子に入る。その際、猪代治の長女と結婚し、祖父の名を襲名して四代目弥助を名乗る。同年、旧西尾藩士・矢島貞廉(やじま ていれん)が中心となって結成した、法律、経済、社会問題について学ぶ「談話会」に入会し幹事となる。
竹中 彰元(たけなか しょうげん、慶應3年10月3日〈186… 竹中 彰元(たけなか しょうげん、慶應3年10月3日〈1867年10月29日〉 - 1945年(昭和20年)10月21日)は日本の僧。真宗大谷派(本山・東本願寺、京都市下京区)に属する、美濃国岩手村(現在の岐阜県垂井町)の明泉寺の寺族として生まれた。出生名は竹中 慈元であった。 1876年(明治9年)に数え9歳にして得度し、僧侶となった。以後、生まれた明泉寺の住職を務めた。1891年(明治24年)10月1日に井上円了が開いた哲学館(現在の東洋大学)に入学したが、半年後には中退している。1893年(明治26年)に大谷派の学階「擬得業」を授けられ、1895年(明治28年)に京都真宗大学専科(現在の大谷大学)に入学した。
高柳 覚太郎(たかやなぎ かくたろう、慶応3年10月3日(1… 高柳 覚太郎(たかやなぎ かくたろう、慶応3年10月3日(1867年10月29日) - 昭和12年(1937年)12月21日)は、衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→革新倶楽部)、浜松市長。 遠江国敷知郡北庄内村(現在の静岡県浜松市中央区)に、高柳源四郎の長男として生まれる。1890年(明治23年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、代言人の免許を受け、浜松市で弁護士として活動した。 県会議員を経て、1908年(明治41年)の第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は4回を数えた。また浜松市会議員、市参事会員としても活動した。 1933年(昭和8年)、浜松市長に選ばれ、翌年まで務めた。
井上 密(いのうえ ひそか、慶応3年10月2日〈1867年1… 井上 密(いのうえ ひそか、慶応3年10月2日〈1867年10月28日〉 - 大正5年〈1916年〉9月13日)は、日本の憲法学者、政治家。京都帝国大学教授、京都帝国大学法科大学長。第4代京都市長。位階勲等は従四位勲三等。 安房国長狭郡下小原村の富坂家に生まれる。後に大多喜村の旧大多喜藩藩士・井上義行の養子となった。独逸学校(獨逸学協会学校とは別)、第一高等中学校、帝国大学法科大学出身。 京都帝国大学法科大学国法学講座教授、法科大学長(1909年)、京都法政学校教頭、財団法人立命館初代協議員を歴任。第4代京都市長(在任期間は1913年(大正2年)3月31日 - 1916年(大正5年)7月19日)。
中山 巳代蔵(なかやま みよぞう、1867年10月27日(慶… 中山 巳代蔵(なかやま みよぞう、1867年10月27日(慶応3年10月1日) - 1921年(大正10年))は、日本の内務官僚、実業家。官選栃木県知事。 備前国邑久郡、のちの岡山県邑久郡豊原村(現瀬戸内市)出身。中山壮左衛門の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1894年、帝国大学法科大学を卒業。1895年、内務省に入省し土木局属となる。1906年12月、文官高等試験行政科試験に合格した。以後、長崎県参事官、土木監督署事務官兼内務事務官、内務書記官、京都府事務官などを歴任。 1906年12月、栃木県知事に就任。谷中村在留民の強制立ち退き、渡良瀬川改修を推進した。1911年8月、知事を休職となった。
山本 熊吉(やまもと くまきち、慶応3年10月1日(1867… 山本 熊吉(やまもと くまきち、慶応3年10月1日(1867年10月27日) - 大正10年(1921年)2月2日)は、日本の漢詩人、政治家。鳥取県西伯郡境町長(3代)。鳥取県会議員(議長)、郡会議員、町会議員。号碧湾。 境町長(17代)山本亮の父。 川店(かわみせ)と号する資産家の出身。 明治32年(1899年)7月境町長となる。 病気のため明治33年(1900年)4月町長を辞任したが、同年花町に伝染病院を建設した。更にこの年宿願の鉄道敷設工事着工に伴い、県営の荷揚場拡張工事に着手した。 明治36年(1903年)この荷揚場工事の完成と朝鮮貿易を目的として設立された境貿易株式会社への補助金確保のため。
平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867年10月25日〈… 平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867年10月25日〈慶応3年9月28日〉- 1952年〈昭和27年〉8月22日)は、日本の司法官僚、政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等男爵。学位は法学博士。号は機外。 大審院検事局検事総長(第8代)、大審院長(第11代)、日本大学総長(第2代)、大東文化学院総長(初代)、財団法人大東文化協会会頭(第3代)、司法大臣(第26代)、貴族院議員、枢密院副議長(第11代)、枢密院議長(第17・21代)、内閣総理大臣(第35代)、国務大臣、内務大臣(第62代)を歴任。 美作国津山藩士平沼家に生まれる。東京帝国大学法科卒業後、明治21年から司法省に入省し、東京控訴院検事に補せられて以降、検事畑を進み、1905年(明治38年)には大審院検事、1906年(同39年)には司法省民刑局長に就任した。
外山 亀太郎(とやま かめたろう、慶応3年9月26日(186… 外山 亀太郎(とやま かめたろう、慶応3年9月26日(1867年10月23日) - 1918年(大正7年)3月29日)は、日本の遺伝学者。カイコにおいてメンデルの法則を実証した功績で知られる。細菌学者の青木薫は実弟。 相模国愛甲郡上古沢村(現・神奈川県厚木市上古沢)に生まれる。1885年に東京農林学校(1890年に帝国大学農科大学となる)に入学。1892年の卒業後も無給助手として数年留まった。1896年に同年創立された福島県蚕業学校(現・福島県立福島明成高等学校)の初代校長に就任しているが、研究に熱中するあまり排斥運動がおこり、1899年に辞任して東京帝国大学へ大学院学生として戻る。1902年、シャムより蚕業指導者の招聘があり、これに応じるため農科大学の助教授に任ぜられ、農務省蚕業技師長として3年間バンコクに赴任した。
阿部 徳三郎(あべ とくさぶろう、慶応3年9月22日(186… 阿部 徳三郎(あべ とくさぶろう、慶応3年9月22日(1867年10月19日) - 1918年(大正7年)5月14日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 陸奥国磐井郡弥栄村(現在の岩手県一関市)出身。明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。1890年(明治23年)、弁護士試験に合格し、一関に法律事務所を構え、後に盛岡弁護士会常務員に選ばれた。 1898年(明治31年)、一関町会議員に選ばれた。1903年(明治36年)、第8回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は6回を数えた。 その他、破産管財人、第八十八銀行法律顧問、一関葉煙草仲買株式会社監査役、東北印刷株式会社取締役などを務めた。
吉良 元夫(きら もとお、1867年10月18日(慶応3年9… 吉良 元夫(きら もとお、1867年10月18日(慶応3年9月21日)- 1938年(昭和13年)10月15日)は、明治から昭和前期の醸造家、政治家。衆議院議員、大分県大野郡上井田村長。号・淡遠。 豊後国大野郡上尾塚村(大分県大野郡上井田村上尾塚、朝地村、朝地町を経て現豊後大野市朝地町上尾塚)で、酒造業・吉良圭蔵の長男として生まれる。竹田町の寺井塾で漢学を修めた。その後、上京して神田共立学校(現開成中学校・高等学校)、三田英語塾(慶應義塾)で学び、哲学館(現東洋大学)を卒業した。 帰郷して家業の酒造業、醤油醸造業を営む。大野郡酒屋組合長、両豊銀行監査役も務めた。日露戦争では豊州新報記者として従軍した。