松田 秀次郎(まつだ ひでじろう、1831年(天保2年)- 1896年(明治29年)8月30日)は、幕末の尊攘運動家、明治時代の神職。諱は義昌。号は胖仙、良知。 越後国南蒲原郡狭口村(現在の新潟県加茂市)の庄屋である笠原家に生まれた。親戚で安田興野村 (現在の見附市今町)の庄屋である笠原勘之助の養嗣子となった。兄の笠原新吾も活動に参加した。松田姓は笠原氏の遠祖の姓で、尊攘活動で家族に難が及がことを恐れ、この変名を名乗っている。 慶応3年(1867年)杉之村(現在の長岡市中之島町)の名主の高橋竹之助と共に京都に向かった。朝廷に参内し、北越の鎮定と御親兵の取り立てを建白した。松田は帰郷したが、高橋は京に止まり、北陸道鎮撫使の公家・高倉永祜から「同志を糾合し先鋒たるべし」との沙汰書を明治元年(1868年)1月18日に受け取り帰郷した。同年2月中旬、越後国三島郡坂谷村(現在の長岡市和島村)の池浦広太郎の宅に高橋をはじめ、新発田藩領中之島組安田興野村名主松田秀次郎、中之島村の医師・二階堂保則、糸魚川藩領魚沼郡並柳村(現在の魚沼市広神村)の大割元である関谷孫左衛門などが集まった。
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