スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
川下 将勲(かわしも まさひろ、2005年4月3日 - )は… 川下 将勲(かわしも まさひろ、2005年4月3日 - )は、北海道函館市出身のプロ野球選手(投手・育成選手)。埼玉西武ライオンズ所属。 函館市立南本通小学校4年生のときに『千代田ビクトリーズ』で野球を始め、5年生から本格的に投手になった。函館市立本通中学校では軟式野球部でプレー。 函館大有斗高校では1年秋からベンチ入り。入学当時の体重は55kgで球速も120km/hに届かなかったが、2年春から監督に就任した片口伸之との出会いが転機となり、食事とトレーニングに力を入れると、体重が17kg増加。3年時に目覚ましい成長を遂げ、春の最速は134km/hであったが、夏に142km/hを計測した。大会での実績は、2年秋から3季連続で全道大会に進出。
澤田 剛(さわだ つよし、1975年11月21日 - )は、… 澤田 剛(さわだ つよし、1975年11月21日 - )は、北海道上磯郡上磯町(現・北斗市)出身の元プロ野球選手(内野手)。右投左打。 函館大有斗高では上野美記夫監督の指導を受けて3年夏に投手として南北海道大会ベスト4の成績を収めたが、甲子園出場歴はない。 1993年のNPBドラフト会議で福岡ダイエーホークスから5位指名を受け、内野手として入団。18歳の誕生日に決定の電話を受けたという。同年11月29日に契約金3300万円、年俸400万円の契約条件で仮契約した。 1997年に現役を引退し、球団職員となる。球場の看板広告や地方興行、宮崎キャンプの誘致などの営業を担当し、2005年4月に退団。 2005年にトラスト・インターナショナル社を起業し、2022年までに中古車販売事業・飲食店事業・健康関連事業を展開している。
船尾隆広(ふなお たかひろ、1971年5月31日 - )は、… 船尾隆広(ふなお たかひろ、1971年5月31日 - )は、北海道松前郡松前町出身の元アマチュア野球選手・現アマチュア野球指導者。 函館大学付属有斗高等学校では上野美記夫の指導を受け、甲子園(夏:69回大会・春:60回大会・秋:18回大会)に出場した。1990年に新日本製鉄室蘭に入団し、1994年までプレーした。野球部休部にともない1995年にNTT北海道に転籍し、2003年までプレーした。 2004年に札幌大谷大学の部長、2012年に札幌大谷中学校のコーチ、2014年に札幌大谷高等学校の監督、2025年に札幌大学のコーチ、2026年に室蘭シャークスの監督となった。
盛田 幸妃(もりた こうき、1969年〈昭和44年〉11月2… 盛田 幸妃(もりた こうき、1969年〈昭和44年〉11月21日 - 2015年〈平成27年〉10月16日)は、北海道茅部郡鹿部町出身のプロ野球選手(投手)。1994年から1997年までの登録名は盛田 幸希。 鹿部クラップーズで野球を始め、鹿部中学校時代は山本鉄弥の指導を受けた。函館有斗高校在学時は上野美記夫の指導を受け、3度の甲子園出場を経験した。3年時の1987年に開催された夏(第69回選手権大会)では、1回戦で上原晃を擁する沖縄水産高校に敗退した。同年秋のプロ野球ドラフト会議で長嶋一茂のクジを外した横浜大洋ホエールズから1位指名を受け、契約金4800万円、年俸420万円(金額は推定)で入団した。
佐藤 義則(さとう よしのり、1954年9月11日 - )は… 佐藤 義則(さとう よしのり、1954年9月11日 - )は、北海道奥尻郡奥尻町出身の元プロ野球選手(投手)。コーチ・野球解説者・野球評論家。佐藤義則事務所所属。 北海道奥尻郡奥尻町出身。奥尻ブレークスで本格的に野球を始め、奥尻中学校では中学3年の時に函館地区で優勝して全道大会に出場した。卒業後、函館有斗高校に進学して上野美記夫の指導を受ける。エースとして1972年春季北海道大会決勝に進み、苫小牧工業高校の工藤敏博(法政大学)と投げ合い完封勝利で優勝。同年夏の甲子園南北海道予選も決勝に進出するが、今度は苫小牧工業高校に0-2で惜敗し甲子園出場を逸する。卒業後は日本大学に進学。当時の日本大学は低迷期にあり、東都大学野球リーグでは、1974年秋季リーグ後に二部降格(1季のみ)も経験する。
上野 美記夫(うえの みきお、1943年1月20日 ‐ )は… 上野 美記夫(うえの みきお、1943年1月20日 ‐ )は、北海道函館市出身の元アマチュア野球選手・元アマチュア野球指導者。 北海道函館市で育ち、函館有斗高等学校では1番打者で遊撃手を務めた。 卒業後、富士製鉄室蘭に入団すると1年間プレーした。 1963年4月に東洋大学に入学したのと同時に20歳で函館大学付属有斗高等学校の監督に就任し、1998年3月に定年を迎えるまで35年間指導した。就任10年目の1972年、第4回明治神宮野球大会で監督として初の明治神宮野球大会出場を果たした(通算5度の出場で1勝5敗)。就任11年目の1973年、第45回選抜高等学校野球大会で監督として初の選抜高等学校野球大会出場を果たした(通算6度の出場で4勝6敗)。