スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
猪久保 吾一(いのくぼ ごいち、1967年12月26日 - … 猪久保 吾一(いのくぼ ごいち、1967年12月26日 - )は、岩手県出身の元プロ野球選手(捕手)。 盛岡商業高では高校1年秋から捕手として活躍し、山蔭徳法(のちに日本ハム入り)とバッテリーを組んでいた。 高校卒業後は、社会人野球の本田技研鈴鹿に進むが、実家の家業を手伝うために1987年7月に退団。しかし、ロッテオリオンズのスカウトから声がかかり、同年12月に練習生となり、1988年オフにドラフト外で入団。 入団2年目春季キャンプにて1軍合流、この年42試合に出場した。その後は青柳進や福沢洋一と正捕手争いをするが、決め手に欠け2軍生活が続く。1996年には自分の名前にちなんで背番号を51番にするが1軍出場はなく同年限りで現役を引退。
山蔭 徳法(やまかげ とくのり、1966年4月2日 - )は… 山蔭 徳法(やまかげ とくのり、1966年4月2日 - )は、岩手県出身の元プロ野球選手(投手)。 盛岡商業高では猪久保吾一とバッテリーを組み、3年夏の県大会では同年春の選抜でベスト4に進出した大船渡高に準々決勝で惜敗した。 1984年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズから4位指名を受け入団。 一軍出場のないまま、1987年に現役を引退した。 引退後は日本ハムの打撃投手を経て、岩手県の社会人野球・クラブチームの盛友クラブに参加していた。
沢藤 光郎(さわふじ みつろう、1919年8月10日 - 1… 沢藤 光郎(さわふじ みつろう、1919年8月10日 - 1987年12月5日)は、岩手県出身のプロ野球選手(投手)。 盛岡商業学校時代の1936年、夏の甲子園にエースとして出場するも、初戦で全国制覇した岐阜商業学校に大敗した。 高校卒業後は、日本製鐵釜石へ進み、盛岡鉄道管理局へ移籍するとエースとして活躍。1948年の全国鉄道大会では優勝に貢献した。 1950年に創設したばかりの近鉄に入団した。チーム公式戦の第2戦、1950年3月13日の対南海戦に先発完投勝利を挙げ、これが球団および自身の公式戦初勝利となる。この年は50試合に登板、チーム最多の18勝をマークするも、チーム自体は首位毎日から37.5ゲーム差の最下位だった。
煤孫 伝(すすまご つとう/でん、1911年6月16日 - … 煤孫 伝(すすまご つとう/でん、1911年6月16日 - 没年不明)は、岩手県花巻市出身のプロ野球選手。ポジションは一塁手、外野手。 盛岡商業学校(現・岩手県立盛岡商業高等学校)在学中は、1930年の甲子園東北大会決勝で、東北中学を相手に猛打を振るい語り草となった(試合自体は敗れ、甲子園出場とはならなかった)。卒業後は、日本大学、仙台鉄道局(現・JR東日本東北硬式野球部)でプレーした。 1937年春、大東京軍に入団。岩手県出身者としては初のプロ野球選手となった。1937年5月1日の名古屋戦(洲崎球場)で一塁手の守備(浅原直人の代役)としてデビュー。5月8日の金鯱戦(上井草球場)ではプロ初打席初安打をマークし、6月1日の金鯱戦(甲子園球場)では初ホームランを打つなど、前評判通りの打棒を見せ、1937年春季シーズンはレギュラーとして定着した(規定打席にも到達し26位だった)。