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徳田 吉成(とくだ よしなり、1970年1月6日 - )は、… 徳田 吉成(とくだ よしなり、1970年1月6日 - )は、埼玉県上尾市出身の元プロ野球選手(捕手)。2010年から2011年まで北海道日本ハムファイターズのコーチを務めた。 上尾高では高校通算39本塁打を記録。 高校卒業後は、東洋大学へ進学。3年途中まで外野手としてプレーし、4年春は捕手としてベストナインを獲得。1部リーグ通算47試合に出場、121打数27安打、打率.223、6本塁打を記録。大学の同期に桧山進次郎、1学年後輩に和田孝志、2学年後輩に関口伊織がいた。 1991年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズから3位指名され入団。その後、打撃を活かすため外野手登録に変更した。 プロ入り後は一軍での出場機会がないまま、1999年10月7日に戦力外通告を受け現役引退。
高野 和樹(こうの かずき、1967年6月5日- )は、埼玉… 高野 和樹(こうの かずき、1967年6月5日- )は、埼玉県秩父郡東秩父村出身の日本の高校野球指導者。埼玉県立上尾高等学校商業科教諭、野球部監督。 東秩父村立東秩父中学校を卒業後、埼玉県立上尾高等学校に進学。小学2年生の時、上尾が準決勝まで勝ち上がる姿を見て強い憧れを抱き、進学を決意した。中学時代は体格に恵まれなかったものの、上尾高校では、プロ野球でも活躍した仁村兄弟(仁村薫・仁村徹)のいとこで上尾の1学年上に当たる仁村武の実家(川越市)で下宿をしながら、当時監督だった野本喜一郎のもと励んだ。高校2年生になると野本監督が浦和学院に赴任する。夏の大会では控え捕手として、第66回全国高等学校野球選手権大会に出場。
森 士(もり おさむ、1964年6月23日 - )は、埼玉県… 森 士(もり おさむ、1964年6月23日 - )は、埼玉県浦和市(現・さいたま市南区)日本のアマチュア野球指導者、教育者。浦和学院高等学校副校長。NPO法人ファイアーレッズメディカルスポーツクラブ理事長。現役時代は投手(高校の恩師の野本喜一郎や高校・大学の先輩の仁村徹と同じアンダースロー)。 埼玉県浦和市(現さいたま市)に生まれ、浦和市立(現さいたま市立)谷田小学校2年生の頃、軟式野球チームに入団して本格的に野球を始める。週末には父・克が練習の手伝いに来るなど親子二人三脚で汗を流した。父は野球経験者ではないが、剣道経験者であいさつなど礼儀に厳しかった。 浦和市立(現さいたま市立)大谷場中学校時代に中体連主催の大会ではないが、横浜スタジアムで開催された大会で全国3位に入り、その時に1試合10奪三振を取って新聞に掲載された。
清水 達也(しみず たつや、1964年6月10日 - )は、… 清水 達也(しみず たつや、1964年6月10日 - )は、埼玉県出身の大学野球監督、元社会人野球選手(内野手)。右投右打。 現役時代は内野手としてプレー。上尾高校時代は3年春にセンバツへ出場。中央大学では宮井勝成監督の下でプレー。3年秋から2部リーグとなるが4年秋に優勝すると東農大との入替戦では大学最後となる打席で逆転サヨナラ本塁打を放ち1部昇格を決めた。2学年上に岡部明一、2学年下に笘篠賢治がいた。卒業後は河合楽器でプレーし、都市対抗野球大会には11年連続出場を果たす。 現役引退翌年の1999年2月より、母校・中央大学の監督に就任。就任当時、東都大学野球連盟2部所属だった同部だが、その年の春、阿部慎之助、花田真人らを擁して2部優勝し、入替戦を経て11年ぶりの1部昇格を達成。
長堀 肇(ながほり はじめ、1962年3月7日 - )は、埼… 長堀 肇(ながほり はじめ、1962年3月7日 - )は、埼玉県さいたま市出身の元社会人野球選手(外野手)、野球指導者。 上尾高校時代には1979年夏開催の第61回全国高等学校野球選手権大会に一塁手として出場。1回戦で牛島和彦、香川伸行、山本昭良、山脇光治らを擁する浪商高校と対戦。後1死まで迫るも敗退した。高校時代の監督に野本喜一郎、同級生に仁村徹、福田治男らがいる。 高校卒業後には仁村徹、福田とともに東都大学野球連盟所属の東洋大学経営学部に進学。大学時代は外野手として活躍し、リーグのベストナインも3度受賞している。1982年には第11回日米大学野球選手権大会に日本代表として出場。 1984年に東洋大学を卒業後は日本電信電話公社に入社し、同社の電電東京野球部に入部。
仁村 徹(にむら とおる、1961年12月26日 - )は、… 仁村 徹(にむら とおる、1961年12月26日 - )は、埼玉県川越市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手、投手)、プロ野球指導者。 実兄は元プロ野球選手の仁村薫で、現役時代は中日ドラゴンズで一緒にプレーした経験がある(当時、スコアボードなどには「仁村兄(=薫)」「仁村弟(=徹)」と表記されていた)。 上尾高校では、右下手投げのエースとして活躍。1979年春季関東大会決勝に進み、銚子商に惜敗するが好投手として注目される。同年夏の甲子園に出場。1回戦で浪商と対戦、9回二死まで2-0とリードしながら勝利目前で牛島和彦に同点2ランを打たれ、延長11回敗北。このときの試合は今も甲子園史上に残る名試合として語り継がれている。
福田 治男(ふくだ はるお、1961年11月4日 - )は、… 福田 治男(ふくだ はるお、1961年11月4日 - )は、高校野球指導者。 群馬県桐生市出身。桐生市立昭和中学校、埼玉県立上尾高等学校、東洋大学経営学部卒業。 高校進学に際して、地元の名門・桐生高校ではなく上尾高校を選んだのには、野本喜一郎監督の熱心な誘いがあった。野本は「高校野球指導者になるにあたり、稲川さんに全て教えてもらった。だから桐生の子は大事にするよ」と福田に話していた。 第61回全国高等学校野球選手権大会に、1番遊撃手でエース・仁村徹らと共に甲子園出場。初戦で牛島和彦、香川伸行らを擁する浪商と対戦、延長戦の末に敗れている。 仁村とともに進学した東洋大学では内野手としてメンバー入り、1年学下に山口敏弘がいた。
山中 重信(やまなか しげのぶ、1959年6月3日 - )は… 山中 重信(やまなか しげのぶ、1959年6月3日 - )は、埼玉県熊谷市出身の元プロ野球選手(捕手)。 上尾高では2年夏、秋の県大会は準優勝、3年夏は県大会ベスト4。1977年のドラフト6位でクラウンライターライオンズに入団。1年目の1978年は一軍での試合出場機会はなく、球団が地元・埼玉に移転して西武に変わった2年目の1979年は、打撃力と俊足を生かすために捕手から内野手へコンバートされた。同年も一軍での試合出場は果たせなかったが、内野手としての経験を積むために二軍の試合では積極的に起用された。イースタン・リーグの試合では、内野手として一塁手7試合、三塁手17試合に出場した一方で外野手でも13試合に出場。
中村 昭(なかむら あきら、1957年4月10日 - )は、… 中村 昭(なかむら あきら、1957年4月10日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(捕手)。 上尾高では2年生の時、捕手として1974年の夏の甲子園に出場。2回戦に進むが平安高に延長13回サヨナラ負けを喫する。翌1975年の夏の甲子園にも連続出場。この大会では四番打者を務め、原辰徳、津末英明らを擁する東海大相模高を準々決勝で破る。準決勝では新居浜商の片岡大蔵から初回に3点を奪うが、6回に5失点、逆転を許し敗退した。 1975年のプロ野球ドラフト会議において、ロッテオリオンズに6位指名されたが拒否し、社会人野球の三協精機に進む。樋江井忠臣、伊藤弘利らとバッテリーを組むが、1978年には野球部が休部。
江田 幸一(えだ こういち、1947年10月31日 - )は… 江田 幸一(えだ こういち、1947年10月31日 - )は、埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区)出身の元プロ野球選手(投手)。 上尾高校では3年次の1965年に夏の甲子園県予選で準々決勝に進出するが、大宮高に敗退して甲子園出場はならなかった。高校同期に会田照夫がいる。卒業後の1966年に東京ガスへ入社し、1969年の都市対抗では鷺宮製作所に補強されて出場。初戦となった2回戦の電電四国戦で好リリーフして勝利投手となるが、この勝利が鷺宮の都市対抗初勝利でもあった。同年のドラフト4位で東映フライヤーズに入団し、「日拓ホームフライヤーズ」となった1年目の1973年から中継ぎとして起用される。7月11日のロッテ戦(神宮)で初勝利を挙げ、「日本ハムファイターズ」となった2年目の1974年には4月19日の南海戦(大阪)で初セーブをマーク。
会田 照夫(あいだ てるお、1947年6月5日 - 2021… 会田 照夫(あいだ てるお、1947年6月5日 - 2021年2月22日)は、埼玉県春日部市出身のプロ野球選手(投手)。アンダースロー投手であった。 子は3男で、エコノミストの会田卓司、プロ野球選手の会田有志(三男)がいる。 小学6年から野球を始め、中学3年の時に遊撃手から投手に転向。 上尾高等学校ではエースとして1964年秋季関東大会に進むが、1回戦で市銚子高に延長10回サヨナラ負け。翌1965年夏の甲子園県予選でも準々決勝に進出するが、大宮高校に敗退し甲子園出場はならなかった。高校の1年上に山崎裕之、同期に江田幸一がいる。 卒業後は高校時代の監督である野本喜一郎に引き連れられ、当時は東都大学野球リーグ二部に低迷していた東洋大学に進学。
山崎 裕之(やまざき ひろゆき、1946年12月22日 - … 山崎 裕之(やまざき ひろゆき、1946年12月22日 - )は、埼玉県上尾市出身の元プロ野球選手(内野手)。 実家は和菓子店。小学校低学年の頃に実家の裏の造り酒屋の若い衆に初めて野球を教わる。中学入学後に野球部に入部して本格的に野球を始め、最初は投手を務めた。中学卒業後は、埼玉県立上尾高等学校野球部監督の野本喜一郎からの熱心な勧誘があったことや、2歳上の兄が以前所属していたことから、上尾高校への進学を決めた。上尾高校では1962年、1年生の時に三番・ピッチャーとして夏の甲子園予選西関東大会決勝に進出するが、佐野嘉幸を四番打者に据えた甲府工に惜敗し、甲子園には届かなかった。 2年春の1963年春の選抜に遊撃手兼控え投手として初出場を果たす。