スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
又木 鉄平(またき てっぺい、1999年2月12日 - )は… 又木 鉄平(またき てっぺい、1999年2月12日 - )は、山梨県笛吹市出身のプロ野球選手(投手)。左投左打。読売ジャイアンツ所属。 笛吹市立石和北小学校で3年生の時に石和北スポーツ少年団で野球を始める。笛吹市立石和中学校では軟式野球部に所属していた。 山梨県立日川高等学校では甲子園大会出場はなく、3年夏は山梨大会準々決勝で東海大甲府に敗れた。 高校卒業後は東京情報大学へ進学。1年春からリーグ戦に登板し、通算成績は15勝11敗。 その後は日本生命へ入社。1年目から公式戦に登板した。 2023年10月26日に開催されたドラフト会議にて、読売ジャイアンツから5位指名を受けた。ドラフト後に開催された第48回社会人野球日本選手権大会では、JR四国との準々決勝に先発して6回を無安打無失点に抑え、勝利投手となった。
石川 賢(いしかわ まさる、1960年5月21日 - )は、… 石川 賢(いしかわ まさる、1960年5月21日 - )は、山梨県東山梨郡牧丘町(現:山梨市)出身の元プロ野球選手(投手)。 中学時代は野球部所属の傍ら、陸上部でも活躍し、走高跳で県大会優勝。日川高校では1年秋から主戦投手となる。1976年秋季関東大会に進出、1回戦で作新学院に敗れるが、好投手として注目される。1977年夏の県大会は準決勝で塩山商に敗れる。秋は県大会3位で明治神宮大会に出場すると初戦を完投勝利した。1978年の夏の甲子園にエース、四番打者として出場。2回戦(初戦)でPL学園の西田真次と投げ合うが敗退。早大への進学を希望するもセレクションに通らず、卒業後は一般入学で日本大学に進学。
内藤 久(ないとう ひさし、1948年7月5日 - 2025… 内藤 久(ないとう ひさし、1948年7月5日 - 2025年2月2日)は、山梨県出身のプロ野球選手(外野手)。右投両打。 山梨県立日川高等学校では、高校三年間の通算打率四割、スイッチ・ヒッター、ベース一周14秒1の快足の持ち主だった。 東京六大学入りを希望していた内藤を渡辺スカウトが説得。1966年第1次ドラフト会議にドラフト10位にて西鉄ライオンズへ入団。しかし、僅か1年で西鉄を退団した。 1969年は中南米で新たに発足したグローバルリーグの東京ドラゴンズに参加。しかし、同年限りでリーグが解体したため、帰国を余儀なくされた。 東京ドラゴンズ解散後、玉沢運動具店に入社すると納入企業であった縁から川上哲治監督に素質を見いだされ巨人へ入団。
萩原 千秋(はぎわら ちあき、1938年12月1日 - 20… 萩原 千秋(はぎわら ちあき、1938年12月1日 - 2018年10月5日)は、山梨県出身のプロ野球選手、(外野手)。 日川高校から駒澤大学へ進学。当時の東都大学野球リーグは、専大、日大の二強時代で、在学中の優勝はならず、2位2回にとどまる。1959年春季リーグ、1960年春季リーグでベストナイン(外野手)に選出された。 1961年に東映本社入社と同時に東映フライヤーズへ入団。右足骨折で2年間を棒に振るが、1963年には一軍に定着。同年は毒島章一の長期欠場もあり、7月以降は右翼手として40試合に先発出場を果たす。東映には張本勲、白仁天、毒島といった実力者がおり、その後もレギュラーには届かなかったが、控え外野手や代打要員として長く活躍した。
保坂 幸永(ほさか ゆきなが、1931年8月13日 - )は… 保坂 幸永(ほさか ゆきなが、1931年8月13日 - )は、山梨県塩山市赤尾出身の元プロ野球選手(捕手、投手)。 山梨県立日川高等学校では、捕手として1949年の春の選抜に出場。1回戦で北野高に敗退。同年夏の甲子園県予選を勝ち抜き山静大会決勝に進むが、静岡城内高に敗れ甲子園出場を逸する。 卒業後は立教大学へ進学。1年上に堀川瑛(東洋レーヨン)がおり、4年生から正捕手となる。東京六大学野球リーグでは、1953年春季リーグで優勝を経験するが、その後は明大、早大に圧倒され、優勝には届かなかった。大学同期に大沢昌芳、古田昌幸がいる。2年後輩の杉浦忠ともバッテリーを組んだことがあった。 1956年大映スターズに入団。