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荒川 俊三(あらかわ しゅんぞう、1948年6月25日 - … 荒川 俊三(あらかわ しゅんぞう、1948年6月25日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手(外野手)。 兵庫高校では第38回選抜高等学校野球大会に一番、センターで出場。初戦で高知高校に敗れる。 高校卒業後は、かまぼこ製造業に就職したが、その後に近鉄の入団テストを受ける。打撃もよく、100メートル走と遠投でテスト生全員のトップで晴れて合格し、1966年にドラフト外で近鉄バファローズへ入団した。高校時代は大野姓で、プロ入り後に荒川姓となる。 近鉄では控え内野手でほとんど出場機会がなかったが、1968年7月21日東京スタジアムでの東京オリオンズ戦で乱闘の最中、もみ合いの中で榎本喜八をバットで殴打し、昏倒させた。
太田 紘一(おおた こういち、1940年12月23日 - )… 太田 紘一(おおた こういち、1940年12月23日 - )は兵庫県神戸市出身の元プロ野球選手(投手)。 兵庫高では甲子園に出場できなかったが、コールドゲーム参考記録を含め3度のノーヒットノーランを記録した。卒業後は立教大学に進むが中退し、1960年11月に大阪タイガース入団。 翌1961年にリリーフで初登板、9月には初先発を果たす。1962年には中継ぎとして一軍に定着し、リーグ優勝に貢献した。同年の東映フライヤーズとの日本シリーズでも2試合に登板。その後も毎年20~30試合程度に登板し、防御率も2点台から3点代前半と安定していた。落ちるシュートとカーブが武器の投手だった。 1965年頃から登板数が減り始め、1967年には登板機会もなく自由契約になる。
森滝 義巳(もりたき よしみ、1938年3月8日- )は、兵… 森滝 義巳(もりたき よしみ、1938年3月8日- )は、兵庫県神戸市出身の元プロ野球選手(投手)。 史上7人目の完全試合達成者。 兵庫高校では、1955年に春の選抜に出場。2回戦(初戦)で、後に立教大学同期となる浜中祥和のいた若狭高に敗退。同年夏は県予選準々決勝で長田高に敗れる。 1956年に立教大学に進学すると長嶋茂雄・杉浦忠らの2年後輩となる。杉浦卒業後の3年次からは、1学年下の五代友和と投の二本柱として活躍。東京六大学野球リーグで在学8シーズン中、5度の優勝に貢献した。1957年・1958年に全日本大学野球選手権大会連続優勝。1959年の第3回アジア野球選手権大会日本代表に選出され、日本の優勝に貢献。
片岡 節次郎(かたおか せつじろう、1933年6月14日 -… 片岡 節次郎(かたおか せつじろう、1933年6月14日 - )は、兵庫県神戸市出身の元プロ野球選手。 兵庫高校から早稲田大学に進学するも中退して1953年に読売ジャイアンツへ入団。 1955年に国鉄スワローズへ移籍し、同年1軍初登板。1956年に引退。
河野 博(こうの ひろし、1930年10月25日 - )は、… 河野 博(こうの ひろし、1930年10月25日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手。 兵庫高校では1948年、1949年と2年連続で選抜甲子園に出場。1948年は2回戦、1949年は後にチームメイトとなる西村修が居た桐蔭高校に敗れ初戦負け。 1950年に大阪タイガースへ入団。1952年に退団した。
渡辺 大陸(わたなべ たいりく、1901年7月8日 - 19… 渡辺 大陸(わたなべ たいりく、1901年7月8日 - 1955年12月11日)は、兵庫県出身のプロ野球監督。 神戸二中を経て1920年(大正9年)に明治大学予科へ入学し、野球部の剛球投手として活躍。しかし大学生活4年目の1923年(大正12年)に学歴詐称が発覚して明大を退学する。 台北交通団ではエースとして1931年の第5回全日本都市対抗野球大会で準優勝に貢献。 戦後は1946年シーズン終了後、宇高産業社長の宇高勲から宇高レッドソックス監督として迎えられるが、チームは日本野球連盟に加盟を拒否された。その後は宇高が会長となった国民野球連盟の発足に尽力。1950年、大洋ホエールズの総監督(初代監督)に就任したが、総監督の立場にとどまり実際の指揮は中島治康に任せていたという。