スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
福田 紫妃(ふくだ むらさき、1997年 - )は、日本のヴ… 福田 紫妃(ふくだ むらさき、1997年 - )は、日本のヴァイオリニスト。東京国際芸術協会正会員。 1997年生まれ。兵庫県立姫路南高等学校卒業後に渡欧。ウィーン国立音楽大学弦楽部演奏科に在学。ウィーン在住。姫路南高校在学中は合唱部に所属し、顧問の浅井智恵の指導のもと発声法を学びオペラも歌う。 2011年、第21回全日本ジュニアクラシック音楽コンクール 中学生部門 全国大会第1位。 2015年、第28回全日本ジュニアクラシック音楽コンクール 高校生部門 全国大会第1位。 2015年、第20回KOBE国際音楽コンクール 最優秀賞・兵庫県教育委員会賞。 2015年、第29回全日本ジュニアクラシック音楽コンクール 全国大会第3位(大学生部門・1位2位なし)高校生として参加。
内海 崇(うつみ たかし、1985年〈昭和60年〉12月9日… 内海 崇(うつみ たかし、1985年〈昭和60年〉12月9日 - )は、日本のお笑いタレント。お笑いコンビ・ミルクボーイのツッコミ担当。相方は駒場孝。兵庫県姫路市出身。吉本興業大阪本部所属。NSC大阪校・一般27期扱い。 1985年12月9日、兵庫県姫路市で生まれる。姫路市立白浜小学校、姫路市立灘中学校、兵庫県立姫路南高等学校出身。 高校時代は「コスモス」というコンビで活動していた。高校3年生の時にM-1甲子園にも出場したが、予選で敗退。 高校卒業後、シナリオライターを目指して大阪芸術大学映像学科に進学。入学当初はアイスホッケー部に入ろうか迷っていたが、結局2ヶ月遅れで落語研究会に入る。そこで初めて駒場と出会う。
名田 篤史(なだ あつし、1985年2月6日 - )は、日本… 名田 篤史(なだ あつし、1985年2月6日 - )は、日本の元男子バレーボール選手。 姫路南高校から同志社大学へ進学。大学卒業後、2007年に地元関西の堺ブレイザーズ(現・日本製鉄堺ブレイザーズ)に入団した。サイドを務めるウイングスパイカー。2012年5月31日、現役を引退した。 この項目は、バレーボール関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Pバレーボール/PJバレーボール)。
丸尾 英司(まるお えいじ、1972年4月26日 - )は、… 丸尾 英司(まるお えいじ、1972年4月26日 - )は、兵庫県姫路市出身の元プロ野球選手(投手)。2008年から2015年まで社会人野球のパナソニック野球部にてヘッドコーチを務めていた。 網干中学では完全試合を記録するなど活躍し、東洋大姫路から勧誘を受けたが、のびのびした環境を求めて地元の姫路南高校に進学した。高校では1年夏からエースとなり、2年および3年の夏に兵庫大会で5回戦まで進出している。 高校卒業後は佛教大学に進学。京滋大学リーグで通算30試合に登板し25勝1敗。最優秀選手3回、最優秀投手2回、ベストナイン4回受賞。4年春にかけて18連勝のリーグ記録を樹立する。1992年秋季の京都学園大戦でノーヒットノーランを達成する。
種浦 マサオ(たねうら マサオ、本名:種浦 勝夫、1968年… 種浦 マサオ(たねうら マサオ、本名:種浦 勝夫、1968年5月2日 - )は、兵庫県姫路市出身のシンガーソングライターである。血液型:O型、身長:169cm、体重:60kg。ニックネームは「ターネー」。初期の素人時代は「ヨーグリー種浦」や「ターネー種浦」と名乗っていた。妻は元大阪パフォーマンスドール(OPD)の古谷文乃である。
ぜんじろう(1968年1月30日 - )は、日本のお笑いタレ… ぜんじろう(1968年1月30日 - )は、日本のお笑いタレント。本名、金谷 善二郎(かなたに ぜんじろう)。 兵庫県立姫路南高等学校卒業、大阪芸術大学芸術学部デザイン学科中退。師匠は上岡龍太郎。 高校在学時、「親元から離れたい」という思いがあり、仕送りを貰いながら、独り暮らしのできる生活環境を望んで、大学進学を希望。大阪芸術大学環境計画学科を受験したが、高校時の成績は451人中451番であった為、本人も合格するとは真剣に思っておらず、入試の日まで大学がどこにあるのかも知らなかった。その為か、入試会場に遅刻する事になる。木の枝を描くという実技試験の内容に対し、「なんかどうでもええわ。ようわからんし、適当に描いとこ」と花瓶のみならず、教室全体までも絵にして提出した。
加納 茂徳(かのう しげのり、1949年5月17日 - )… 加納 茂徳(かのう しげのり、1949年5月17日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手(捕手)。右投右打。 姫路南高校では、1967年夏の甲子園県予選で準々決勝に進むが、姫路商に敗退。高校の2年上に黒田正宏がいた。卒業後は社会人野球の新日本製鐵広畑に進み、1971年にドラフト外で阪神タイガースに入団する。 1年目の1972年から控え捕手としてベンチ入り。しかし10試合に偵察要員として起用されたのみで、捕手としての出場はなかった。1977年に現役生活唯一のヒットを、星野仙一から打つ。この年以降一軍での試合出場はなく、ブルペン捕手としてチームを支えた。1982年からは選手兼コーチ補佐(ブルペン担当)、1986年は選手兼ブルペンコーチとしてチームに貢献し、この年限りで現役を引退した。
黒田 正宏(くろだ まさひろ、1947年12月21日 - )… 黒田 正宏(くろだ まさひろ、1947年12月21日 - )は、兵庫県印南郡大塩町(現・姫路市)出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ、野球解説者・評論家。 生家は黒田官兵衛の子孫と伝わる。黒田が生まれた頃、生家は薬局を経営しており、薬剤師をしていた母から整腸剤を毎日飲むように言われていたことが強い体の基礎となったと回想している。 中学生の時に本格的に野球を始め、姫路南高校では1年次の1963年からベンチ入り。その時の3年生主砲が切通猛で、凄い筋肉で打球をポンポン飛ばしていた。黒田は一流になるにはあのぐらいの筋力がないといけないのかと思い、足腰を徹底的に鍛えた。切通からは「何でもええから走っとけ」と言われ、野球人生で最初に影響を受けた人になった。
切通 猛(きりとおし たけし、1944年4月21日 - 20… 切通 猛(きりとおし たけし、1944年4月21日 - 2015年6月15日)は、兵庫県姫路市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ。 姫路南高では明治大学時代に杉下茂とバッテリーを組んだ安藤邦夫監督の指導を受け、3年次の1963年に4番・左翼手として夏の甲子園兵庫大会決勝に進出するが、市西宮高に5-6で惜敗し甲子園出場を逸する。2年後輩の黒田正宏は、切通が凄い筋肉で打球をポンポン飛ばしていたのを見て、一流になるにはあのぐらいの筋力がないといけないのかと思い、足腰を徹底的に鍛えた。切通は黒田に「何でもええから走っとけ」とアドバイスし、黒田が野球人生で最初に影響を受けた人になった。 高校卒業後は1964年に芝浦工業大学へ進学し、田部輝男監督の指導を受ける。