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土橋 修(つちはし おさむ、1944年6月3日 - 1966… 土橋 修(つちはし おさむ、1944年6月3日 - 1966年12月21日)は、和歌山県那賀郡出身のプロ野球選手。ポジションは投手。 粉河高校、日本新薬(在籍中に、第35回都市対抗野球大会に出場した。)を経て、1965年に阪神タイガースに入団。179cmの長身を生かしたソツのない投法は高く評価されていた。 しかし、一軍公式戦の出場がないまま1966年12月19日に和歌山市六十谷の六十谷橋で乗用車にはねられ頭部打撲と両足骨折の重傷を負った。土橋はすぐに同市本町の堀口外科に入院したが、頭を強く打ったのが致命傷となり2日後の12月21日午後10時20分、同病院で死去した。22歳没。オフを利用して同市内の自動車学校に通い、学校からの帰宅途中に事故に遭ったと伝わる。
伊勢川 真澄(いせがわ ますみ、1921年6月30日 - 1… 伊勢川 真澄(いせがわ ますみ、1921年6月30日 - 1996年7月26日)は、和歌山県紀の川市出身のプロ野球選手(捕手)。 粉河中学を卒業後、1940年にライオン軍(1941年から朝日軍)へ入団。新人ながら正捕手・広田修三の控えとして49試合に捕手として出場し、1941年・1942年は正捕手を務めた。42年暮れに応召。戦後の1946年に旧朝日軍の選手が独立してゴールドスターを立ち上げる中、伊勢川は旧朝日軍の流れを汲むパシフィックに参加する。ここでも引き続き正捕手を務め、1946年は打率.230(リーグ37位)ながら、主砲の森下重好(54打点)に次ぐ51打点を挙げ、1947年は打率.257(リーグ19位)を記録している。
木村 勉(きむら つとむ、1921年1月12日 - 生死不明… 木村 勉(きむら つとむ、1921年1月12日 - 生死不明)は、和歌山県出身のプロ野球選手(外野手)。 粉河中学ではエースを務め、1学年下の伊勢川真澄とバッテリーを組んでいた。 1939年に南海軍に投手として入団するが、この年は僅か3試合の出場に留まる。なお、この年は鶴岡一人や岡村俊昭といった、後にコーチや監督として南海黄金期を支える人物も入団している。2年目から外野手に転向すると出場が増加し始め、3年目の1941年には捕手に転向。そこでレギュラーとなるが、その年末に応召。 戦後の1946年に南海改め近畿グレートリングに復帰するも、1年で解雇。翌1947年に国民リーグの唐崎クラウンに数少ないプロ野球経験者として入団。