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武田 翔太(たけだ しょうた、1993年4月3日 - )は、… 武田 翔太(たけだ しょうた、1993年4月3日 - )は、宮崎県宮崎市出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。KBO・SSGランダース所属。 大分県別府市生まれ。6歳で宮崎市に転居し、小学校でソフトボールを始める。宮崎市立住吉中学校時代は、軟式野球部に所属。3年夏には県大会決勝戦で延岡市立西階中学校に判定戦の末、勝利し優勝、続く九州大会では初戦で三好匠を擁する北九州市立大谷中学校に敗れる。その後、Kボールの宮崎県選抜チームに選出されて全国大会に出場し、近藤健介を擁する千葉県選抜チームと対戦した。当時から球速は142kmあった。 宮崎日大高等学校では1年秋からエースとなり、長身を活かした投球スタイルから「九州のダルビッシュ」と呼ばれる。
横山 弘樹(よこやま ひろき、1992年3月12日 - )は… 横山 弘樹(よこやま ひろき、1992年3月12日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロ野球選手(投手)。右投左打。 実父は高校野球の経験者。小学生時代から軟式野球を始めると、宮崎市立赤江東中学校時代には宮崎リトルシニアに所属した。宮崎日大高への進学後は、九州大会で準々決勝にまで残ったものの、甲子園球場との全国大会と縁がなかった。 桐蔭横浜大学への進学後は、神奈川大学野球リーグ戦へのデビューが3年時の春にまで持ち越されるほど、制球難の克服に時間を要した。3年秋にはチームが明治神宮大会で優勝するが同級生の右投手・小野和博(SUBARU)がフル回転して本大会での登板はなし。4年時に頭角を現すと、チームの春秋連覇に貢献して大学選手権では2回戦の愛知大戦では先発7回1/3を無失点に抑えるも準々決勝・亜大戦で延長10回から救援登板するもサヨナラ負け。
藤岡 好明(ふじおか よしあき、1985年3月12日 - )… 藤岡 好明(ふじおか よしあき、1985年3月12日 - )は、大阪府豊中市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。右投左打。 小学校で軟式野球、豊中第十五中学校では学校の部活で準硬式野球。宮崎日大高校では2年春に二塁手で九州大会優勝。同期に下園辰哉がいて2年秋の県大会決勝では下園が先発し、救援したが瀬間仲ノルベルト(日章学園高)に完投されて敗れた。続く九州大会では初戦で先発するも敗退。JR九州へ入社。樋口龍美や町豪将など、先輩に好投手が多かったため、入社当初は公式戦への登板機会に恵まれなかった。樋口が中日ドラゴンズ、町がオリックス・バファローズへ入団した2005年には、小松聖がエースとなり、公式戦では主に救援で起用。
下園 辰哉(しもぞの たつや、1984年11月22日 - )… 下園 辰哉(しもぞの たつや、1984年11月22日 - )は、宮崎県宮崎郡佐土原町(現・宮崎市)出身の元プロ野球選手(外野手)。愛称は「ゾノ」。 2025年から東北楽天ゴールデンイーグルス打撃コーチを務める。 宮崎日本大学高等学校では1年生から外野手の定位置を獲得し、2年生では九州地区の春季大会で優勝を果たす。高校のチームメイトに藤岡好明がいた。 九州国際大学に進学後は1年春からレギュラーとなり、秋は明治神宮大会出場。九州六大学リーグでベストナイン4回、打点王2回、首位打者1回、優秀選手賞1回を獲得したほか、リーグ通算114安打で当時の連盟新記録も樹立した。 2006年の大学生・社会人ドラフトで、横浜ベイスターズから4位指名を受け、入団。
堤内 健(つつみうち たけし、1980年7月20日 - )は… 堤内 健(つつみうち たけし、1980年7月20日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロ野球選手(投手)。 宮崎日大高2年夏に甲子園に出場し、登板するも敗退。日大では、大野隆治とバッテリーを組み、同期の館山昌平がエースであった。東都大学リーグで通算45試合に登板し5勝11敗、防御率2.84。4年生秋の専修大戦で当時のリーグタイの1試合18奪三振を記録した。ドラフト9巡目で横浜ベイスターズに入団。同年自由獲得枠で共に入団した村田修一は大学のチームメイト。 8月7日の巨人戦で初登板、8月16日の広島戦でプロ初勝利。 肘の手術を受けたこともあって一軍登板はなし。二軍の湘南シーレックスでもわずか2試合の登板に終わった。
榊原 聡一郎(さかきばら そういちろう、1962年9月3日 … 榊原 聡一郎(さかきばら そういちろう、1962年9月3日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。 宮崎日大高では、1979年秋季九州大会県予選決勝に進むが、延岡学園に敗退。翌1980年夏の甲子園県予選は準決勝で延岡高に敗れる。 1980年のプロ野球ドラフト会議で広島東洋カープから2位指名を受け入団。 ウエスタン・リーグで1985年に打点王、1988年に17本塁打・58打点で二冠王を獲得。プロ8年目となった1988年に初めて一軍出場を果たし、6試合に右翼手として先発出場を果たした。 しかしその後は出場機会に恵まれず、1990年途中に西清孝・松井隆昌との2対2の交換トレードで本村信吾と共に福岡ダイエーホークスに移籍し、背番号00を着けた。