ペトロ 岐部(ペトロ きべ、日本名・本名: 岐部 茂勝(きべ… ペトロ 岐部(ペトロ きべ、日本名・本名: 岐部 茂勝(きべ しげかつ)、1587年(天正15年) - 1639年7月4日(寛永16年6月4日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのキリスト教(カトリック)の司祭。ペトロ・カスイ岐部とも呼ばれる。 司祭になるべくローマへ向かう途上、日本人として初めてエルサレムを訪問するなど、近世初頭の日本人の中で最も世界を渡り歩いたため「日本のマルコ・ポーロ」、「世界を歩いたキリシタン」ともいわれる。同時期に日本で殉教した187人の殉教者とともに、「ペトロ岐部と187殉教者」として2008年にカトリック教会の福者に列せられた。 1587年、豊後国国東郡の岐部(現・大分県国東市国見町岐部)で、父・ロマーノ岐部、母・マリア波多の元に生まれる。
春日局/斎藤福(かすが の つぼね/さいとう ふく、天正7年… 春日局/斎藤福(かすが の つぼね/さいとう ふく、天正7年〈1579年〉 - 寛永20年9月14日〈1643年10月26日〉)は、安土桃山時代から江戸時代前期の江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。 父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であった斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)の娘である稲葉安、又は稲葉一鉄の姉の娘・於阿牟、養父は稲葉重通。稲葉正成の妻で、正勝・正定・正利の母。養子に堀田正俊。 江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱・柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。また、朝廷との交渉の前面に立つ等、徳川政権の安定化に寄与した。
中浦 ジュリアン(なかうら ジュリアン、Nakaura Ju… 中浦 ジュリアン(なかうら ジュリアン、Nakaura Julian, Nacaura Julian, Nacaura Juliaô, 中浦寿理安、 1568年2月8日ころ〈永禄11年正月〉 - 1633年10月21日〈寛永10年9月19日〉)は、肥前国彼杵郡中浦(現・長崎県西海市西海町中浦)の城主・小佐々兵部少輔甚五郎純吉(小佐々純吉、こざさ すみよし)の一人息子で、中浦は地名、ジュリアンは洗礼名で、幼名は小佐々甚吾(こざさ じんご)。安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタンで、天正遣欧少年使節の副使。イエズス会士でカトリック教会の司祭となり、殉教して福者となった。 中浦ジュリアンの出自については、宣教師の報告書などを所蔵するイエズス会ローマ文書館や天正遣欧少年使節が公式訪問したイタリア・スペイン各地の文書館に資料が残されている。
セバスチャン木村(セバスチャンきむら、1566年(永禄9年)… セバスチャン木村(セバスチャンきむら、1566年(永禄9年)ごろ - 1622年9月10日(元和8年8月5日))はカトリック教会の日本人最初の司祭、また日本人最初の殉教司祭である。イエズス会士。元和の大殉教のときに長崎・西坂で殉教した55人の中の一人であり、教皇ピウス9世により1867年7月7日に列福された。記念日は9月10日。 1566年(永禄9年)ごろ、平戸のキリシタン一家に生まれる。祖父は、フランシスコ・ザビエルが1550年秋、鹿児島からミヤコに向かう途中の平戸で宿泊した屋敷の主人で、同地でのザビエルからの最初の受洗者であった。1580年(天正8年)に開設された有馬のセミナリオに最初の生徒20人の一人として入学した。
西郷局(さいごうのつぼね、天文21年(1552年)(永禄4年… 西郷局(さいごうのつぼね、天文21年(1552年)(永禄4年(1561年)説もあり) - 天正17年5月19日(1589年7月1日))は、戦国時代・安土桃山時代の女性。初名はあい、お愛とされるが、お相が正しいとする説もある(後述)。徳川家康の側室となって以降は西郷局と称した。院号は宝台院。贈位を受けた際の名は源昌子。 江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠、松平忠吉を産んだ。 江戸後期に成立した『寛政重修諸家譜』・『以貴小伝』によれば、父は戸塚忠春とされる。母は源姓土岐氏流三河西郷氏とされ、西郷正勝の娘とされる。 幼少時、父忠春と兄の忠家が討ち死し、母とともに、祖父・西郷正勝に保護された。『以貴小伝』・『寛政重修諸家譜』では母が忠春の死後蓑笠之助正尚に嫁いだためにその養女になり、その後正勝に引き取られたとしている。
吉山 明兆(きつさん みんちょう、正平7年/文和元年(135… 吉山 明兆(きつさん みんちょう、正平7年/文和元年(1352年) - 永享3年8月20日(1431年9月26日))は、室町時代前・中期の臨済宗の画僧。 淡路国津名郡物部庄(現:兵庫県洲本市物部)出身。西来寺(現:兵庫県洲本市塩屋2丁目)で出家後、臨済宗安国寺(現:兵庫県南あわじ市八木大久保)に入り、東福寺永明門派大道一以の門下で画法を学んだ。その後、大道一以に付き従い東福寺に入る。周囲からは禅僧として高位の位を望まれたが、画を好む明兆はこれを拒絶して、初の寺院専属の画家として大成した。作風は、北宋の李竜眠や元代の仏画を下敷きにしつつ、輪郭線の形態の面白さを強調し、後の日本絵画史に大きな影響を与えた。