川原田 純平(かわらだ じゅんぺい、2002年5月21日 -… 川原田 純平(かわらだ じゅんぺい、2002年5月21日 - )は、岩手県花巻市出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。読売ジャイアンツ所属。 2歳年上の兄の影響で「北上リトルリーグ」で硬式野球を始め、中学校では「花巻リトルシニア」に所属する。チームメイトには高校の先輩になる堀田賢慎がいた。 高校は青森県青森市の青森山田高等学校に進学。1年生の夏からベンチ入りを果たし、2年生には遊撃手のレギュラーとなる。2年生の秋に秋季東北大会に進出するも、準々決勝で鶴岡東高等学校に敗れ、3年生の夏の第102回全国高等学校野球選手権大会は、コロナ禍の影響で中止となり甲子園出場はならなかった。代替試合として行われた夏季青森県高等学校野球大会では、決勝戦で八戸学院光星高等学校に8対5で勝利し県大会優勝を果たした。
堀田 賢慎(ほった けんしん、2001年5月21日 - )は… 堀田 賢慎(ほった けんしん、2001年5月21日 - )は、岩手県花巻市出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。読売ジャイアンツ所属。 小学校1年の頃から野球を始める。小学校時代のポジションは遊撃手、二塁手、捕手(小学校6年次)を守っていた。中学校は花巻リトルシニアに所属し、2年秋ごろに投手になる。高校は青森山田高校に進学し、投手に専念するが、甲子園出場ならず。同学年に本田真凜がいる。 2019年のドラフト会議で奥川恭伸・宮川哲の抽選を外した読売ジャイアンツから1位指名を受け、契約金8000万円、年俸800万円で入団に合意(金額は推定)。背番号は32。担当スカウトは柏田貴史。 2020年、1月の新人合同自主トレ期間中に右肘に違和感を訴え、病院で右肘の軽度の炎症と診断された。
高橋 樹也(たかはし みきや、1997年6月21日 - )は… 高橋 樹也(たかはし みきや、1997年6月21日 - )は、岩手県花巻市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。プロサッカー選手で鹿児島ユナイテッドFCの藤村慶太は従兄弟にあたる。 小学校(花巻市立笹間第一小学校)から笹間一スポーツ少年団(軟式野球)で野球を始める。花巻市立西南中学校卒。 花巻東高等学校では1年秋からベンチ入り。3年夏に岩手大会決勝戦で13回190球を投げ、第97回全国高等学校野球選手権大会出場に貢献。初戦の専大松戸高校戦では2失点で完投勝利。3回戦では仙台育英高校と対戦し、1失点を喫し敗退した。U18ワールドカップにも出場し、中継ぎとして3試合に登板。6回を投げ無失点で準優勝に貢献した。
畠山 和洋(はたけやま かずひろ、1982年〈昭和57年〉9… 畠山 和洋(はたけやま かずひろ、1982年〈昭和57年〉9月13日 - )は、岩手県花巻市出身の元プロ野球選手(内野手・外野手、右投右打)、コーチ。 小学校から野球を始め、4年時には地元の少年団チームに加入した。当時は野球だけでなくバスケットボールなど他のスポーツも楽しんでいた。進学した中学校にはバスケ部が無かったため、野球に集中する。ずば抜けた飛距離の打撃で活躍したが、フォームは我流であった。中学3年の時に県大会で優勝している。その後、実兄がエースを務めており、1972年に実父も投手として所属し選抜出場を果たしている、専修大学北上高等学校に進学した。1年から三塁のレギュラーに定着し、打撃フォーム矯正にも成功した。
阿部 成宏(あべ なりひろ、1947年3月27日 - )は、… 阿部 成宏(あべ なりひろ、1947年3月27日 - )は、岩手県出身の元プロ野球選手(投手、外野手)。左投左打。1970年までの登録名は阿部 成行(あべ なりゆき)。兄は元プロ野球選手の阿部雄厚。 岩手・花巻商高(現・花巻東高)では1964年にエース、四番打者として夏の甲子園に出場。1回戦で鹿児島玉龍高を完封するが、2回戦では、この大会に優勝した高知高の光内数喜投手(芝工大-鐘淵化学)に抑えられ敗退。 1965年に大洋入団。 1969年には一軍で2試合に登板するが結果を残せなかった。 1970年11月の第1回選抜会議(トレード会議)の対象となり、12月に巨人に移籍。 1971年に外野手に転向する。
煤孫 伝(すすまご つとう/でん、1911年6月16日 - … 煤孫 伝(すすまご つとう/でん、1911年6月16日 - 没年不明)は、岩手県花巻市出身のプロ野球選手。ポジションは一塁手、外野手。 盛岡商業学校(現・岩手県立盛岡商業高等学校)在学中は、1930年の甲子園東北大会決勝で、東北中学を相手に猛打を振るい語り草となった(試合自体は敗れ、甲子園出場とはならなかった)。卒業後は、日本大学、仙台鉄道局(現・JR東日本東北硬式野球部)でプレーした。 1937年春、大東京軍に入団。岩手県出身者としては初のプロ野球選手となった。1937年5月1日の名古屋戦(洲崎球場)で一塁手の守備(浅原直人の代役)としてデビュー。5月8日の金鯱戦(上井草球場)ではプロ初打席初安打をマークし、6月1日の金鯱戦(甲子園球場)では初ホームランを打つなど、前評判通りの打棒を見せ、1937年春季シーズンはレギュラーとして定着した(規定打席にも到達し26位だった)。