行木 俊(なみき しゅん、2001年1月8日 - )は、千葉… 行木 俊(なみき しゅん、2001年1月8日 - )は、千葉県山武市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 山武市立大平小学校1年生の時に兄の影響から松尾町少年野球クラブで野球を始めた。小学校高学年の時は主に捕手。山武市立松尾中学校時代は九十九シニアに所属し、二塁や遊撃など内野を守った。 横芝敬愛高等学校時代は、遊びで投げていたところ、チーム内で一番球が速かったことから周囲に勧められ、2年時に投手と三塁を兼任。3年時に本格的に投手に取り組むようになる。しかし、その3年時に右肩の故障に苦しみ、右腕が肩の高さ以上上がらないほどの状態で、夏の県大会での登板に間に合うかも危うい状況だった。結局同大会には4番エースで出場するも球速は最速130km台しか出ず、1回戦で敗退を喫した。
田宮 裕涼(たみや ゆあ、2000年6月13日 - )は、千… 田宮 裕涼(たみや ゆあ、2000年6月13日 - )は、千葉県山武市出身のプロ野球選手(捕手、外野手)。右投左打。北海道日本ハムファイターズ所属。 小学1年生から山武ブリスキーボーイズで野球を始め、6年生の頃に千葉ロッテマリーンズジュニアに選出。中学時代は佐倉シニアでプレーし、3年春には、日本リトルシニア全国選抜大会で優勝し、自身も捕手としてベストナインに選ばれた。 成田高等学校では1年秋からレギュラーを獲得。2年夏の千葉大会では、打率.316を記録するも、ベスト16に終わった。2年秋からはキャプテンに就任。3年夏の東千葉県大会では、全6試合に「3番・捕手」で先発出場し、好調だったものの決勝で木更津総合高等学校に敗れ、準優勝。
福田 将儀(ふくだ まさよし、1992年4月17日 - )は… 福田 将儀(ふくだ まさよし、1992年4月17日 - )は、千葉県山武郡松尾町(現・山武市)出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 小学校2年生の時に「松尾キングスターズ」で野球を始め、当時は投手と遊撃手。松尾中学校時代は「九十九シニア」で投手としてプレーした。習志野高校では1年生で主に中堅手のレギュラーになった。2年生時の春の選抜大会の1回戦で「7番・中堅手」、2回戦では「4番・中堅手」で先発出場し、計8打数3安打1本塁打1打点、打率.375の成績だった(チームは2回戦敗退)。3年生時の夏の甲子園・千葉大会では準決勝で成田高校に3-4で敗れた。野球部の同期には山下斐紹がいる。 中央大学では1年生時の春に中堅手のレギュラーを獲得し、2年生時の秋季リーグで東都大学野球リーグのベストナイン(外野手)を獲得した。
鈴木 孝政(すずき たかまさ、1954年7月3日 - )は、… 鈴木 孝政(すずき たかまさ、1954年7月3日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。 蓮沼小学校、蓮沼中学校から成東高校へ進学、中学時代はサイドスローだったが高校ではオーバースローに変更。鵜沢達雄の後継として、速球を武器に1年秋からエースの座に着く。 1971年には夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東関東大会準決勝に進む。しかし練習時に負傷し、先発を控えの及川投手に譲りリリーフに回るが、竜ヶ崎一高に1-2で惜敗した。 1972年の春季関東大会では準決勝で日大三高の待井昇に投げ勝つ。しかし決勝では登板せず、後にプロで同僚となる田野倉利男のいた早実高に敗退し準優勝にとどまる。同年夏は県予選準決勝で銚子商の根本隆と投げ合い0-1で完封負け、甲子園には出場できなかった。
荒井 信久(あらい のぶひさ、1954年3月19日 - )は… 荒井 信久(あらい のぶひさ、1954年3月19日 - )は、千葉県山武市出身の元アマチュア野球選手(捕手)、元指導者。 千葉県山武郡松尾町(現在の山武市)出身。成東高校では、のちに中日に入団する1年下の鈴木孝政とバッテリーを組む。1971年には夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東関東大会準決勝に進むが、竜ヶ崎一高に1-2で惜敗し、甲子園への出場を果たすことができなかった。 高校卒業後に明治大学に入学。東京六大学野球リーグでは、同期でエースの丸山清光や名取和彦とバッテリーを組み、1975年に春秋季連続優勝を飾る。同年の第4回日米大学野球選手権大会日本代表にも選ばれた。同年の明治神宮野球大会に出場、決勝で中畑清を打の主軸とする駒大を降し優勝を果たした。
藤田 康夫(ふじた やすお、1950年11月11日 - )は… 藤田 康夫(ふじた やすお、1950年11月11日 - )は、千葉県出身の元野球選手(投手)、野球指導者。 千葉県山武郡成東町(現在の山武市)出身。成東高校では2年生の時、1967年夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東関東大会準決勝に進出するが、竜ヶ崎一高に敗退。1学年上に中村勝広がいた。翌1968年夏も県予選準々決勝に進出するが、宇佐美和雄、後に社会人野球で同僚となる長谷川勉の両投手を擁する木更津中央高に敗れる。1968年ドラフト会議でロッテオリオンズに11位指名を受けるが拒否。 卒業後は中央大学に進学。東都大学野球リーグでは在学中2度優勝。1972年春季リーグではエースとして6勝1敗と活躍。藤波行雄、佐野仙好ら打線の援護もあり、チームを優勝に導き、最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインに選出された。