松田 遼馬(まつだ りょうま、1994年2月8日 - )は、… 松田 遼馬(まつだ りょうま、1994年2月8日 - )は、長崎県島原市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 島原市立第四小学校2年生の時から、杉谷トータスでソフトボールを始める。島原市立第一中学校で軟式野球部に所属すると、投手を務めるようになった。中学3年生の時には、硬式野球で県内屈指の強豪校である長崎県立清峰高等学校への進学を目指していた。しかし結局は、自力で甲子園での全国大会出場を実現すべく、同じ県立の波佐見高校を進学先に選択した。 波佐見高校への進学後は、1年生の夏から背番号「11」でベンチ登録。3年生春の第83回選抜高等学校野球大会で、全国大会への出場を果たした。この大会では、1回戦で横浜高校の柳裕也らとの投げ合いに制し5-1で勝利したが、2回戦で兵庫県立加古川北高に0-2で敗退。
林田 堅吾(はやしだ けんご、1975年8月25日 - )は… 林田 堅吾(はやしだ けんご、1975年8月25日 - )は、長崎県島原市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 島原工高を卒業後、1994年に渡米し、フロリダ州のセントピーターズバーグ短期大学に留学する。 その後、アリゾナ・ウエスタン短期大学に転校。ここで、日本ハムファイターズのスカウトの目に留まり、1996年のドラフト会議で8位指名され入団。156km/hのストレートと大きく曲がるフォークが持ち球だった。 しかし、1年目に左肩を手術してリハビリ生活で一軍登板すること無く1998年に引退。 プロ入り直後、アリゾナ・ウエスタン短期大学の同級生であるビリー・ムニョスを球団に紹介し入団させたが、ムニョスも一軍出場することなく1年で退団した。
柴田 保光(しばた やすみつ、1957年8月20日 - 20… 柴田 保光(しばた やすみつ、1957年8月20日 - 2022年10月9日)は、長崎県島原市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 平成初のノーヒットノーランを達成している。 中学卒業後は進学せず就職する予定であったが、入社試験に落ちたので島原農業高への進学を決めた。 島原農業高に進学後は柔道部に入部したが、毎日のように投げられてばかりで嫌になった。顧問の先生に「退部させてください」と申し出たところ、「他の運動部に入るなら、許してやる」と返され、そこで、たまたま近所の先輩が所属していた軟式野球部を選んだ。当時の同校には硬式野球部がなかったため軟式野球部に所属し、本格的に野球を始めたのは高校時代からとなった。
松尾 格(まつお いたる、1954年4月23日 - 2015… 松尾 格(まつお いたる、1954年4月23日 - 2015年12月1日)は、日本の元プロ野球選手である。長崎県島原市出身。 海星高等学校では夏の甲子園に2年連続出場。1971年の選手権は控え投手として2回戦に進むが、桐蔭学園の大塚喜代美に完封を喫する。この試合ではリリーフとして甲子園初登板を果たす。翌1972年の選手権はエースとして出場。1回戦で三重・海星高を完封するが、2回戦で明星高に敗退。 1972年ドラフト3位でロッテに入団。しかし一軍では登板機会がなく、1980年限りでロッテを退団。引退後はプロゴルファーとなる[要出典]。 178センチメートルの恵まれた体格を利して正面から打者と勝負する本格派投手であったが、立ち上がりの制球の悪さに難があった。