旭南海 丈一郎(きょくなんかい じょういちろう、1977年1… 旭南海 丈一郎(きょくなんかい じょういちろう、1977年12月14日 - )は、鹿児島県大島郡天城町出身で大島部屋に所属した元大相撲力士。本名は健 博一(けん ひろかず)、愛称はケン。身長180cm、体重142kg、血液型はA型。得意手は食い下がり、出し投げ、左四つ。最高位は東前頭16枚目(2010年9月場所)。2011年の大相撲八百長問題にて引退勧告処分を受け、引退した。 1992年に同郷の徳之島出身である大島部屋の旭道山が徳之島へスカウトに来た際に自ら入門を志願して、中学卒業と同時に大島部屋に入門し、1993年3月場所において初土俵を踏んだ。1995年11月場所に三段目へ昇進し、1999年11月場所に幕下へ昇進したものの、幕下昇進から5年以上にわたって幕下中位から下位に在位し続けた。
西見 健吉(にしみ けんきち、1967年4月27日 - )は… 西見 健吉(にしみ けんきち、1967年4月27日 - )は、日本の元レスリング選手で元自衛官、階級は一等陸尉。職種は情報科。鹿児島県の徳之島(天城町)出身。1996年アトランタオリンピックの日本代表。現在はアイアンガードコーポレーション株式会社代表。 中学校では野球部所属であったが、徳之島の全島相撲大会に出場し優勝したことで鹿児島商工高等学校(現樟南高等学校)レスリング部の加治佐正昭監督のスカウトを受け、同校でレスリングを始めた。卒業後、自衛隊体育学校に進学、後に同校の第二教育科のレスリングコーチも務めながら競技を続けた。 全日本レスリング選手権大会では1991年にグレコローマン52kg級で優勝、1993年からは57kg級で3連覇、1996年からは58kg級で4連覇した。
重田 光康(しげた みつやす、1965年9月8日 - )は、… 重田 光康(しげた みつやす、1965年9月8日 - )は、鹿児島県徳之島天城町出身の実業家。アメリカ合衆国ロサンゼルスでレストラングループ「新撰組(英語: Shin-Sen-Gumi)」のオーナーを務める。 父は徳之島の闘牛会会長を務めており、幼い頃に牛の世話を父から任されて育った。また、実家は建設業で跡継ぎ候補であった。 1988年に大学の土木科を卒業し、同年に渡米。半年ほど現地の英語学校に通ったが、これといった物も得られず、起業を志し、アルバイトをしながら不動産ライセンスを取得する。しかし、英語力と信用力に欠けていたため不動産の物件売買やリースに必要な清掃業を始める。同時に自身の肩書を増やすために1991年に全米空手大会ミドル級に初出場し、初優勝を果たす。
稲村 公望(いなむら こうぼう、1948年〈昭和23年〉12… 稲村 公望(いなむら こうぼう、1948年〈昭和23年〉12月10日 - )は、日本の郵政・総務官僚、外交官、経営者。月刊日本客員編集委員。反郵政民営化の論客として知られる。 琉球列島米国民政府占領下の奄美地方徳之島出身。総務省政策統括官、郵政事業庁次長、日本郵政公社常務理事、日本郵便副会長を歴任。 琉球列島米国民政府占領下の徳之島、現在の鹿児島県大島郡天城町で生まれる。 1967年、ラ・サール高等学校15期卒業。1972年、東京大学法学部政治学科卒業。東大での同級生に鳩山邦夫、舛添要一が居る。 同年、郵政省(現総務省)入省。 1976年、フレッチャー法律外交大学院留学(アメリカ研修)。1978年、フレッチャー法律外交大学院修了、国際関係論修士。
武 建一(たけ けんいち、1942年 - )は、日本の政治運… 武 建一(たけ けんいち、1942年 - )は、日本の政治運動家。全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部執行委員長、組織内シンクタンク「社会資本政策研究会」代表理事を務めた。 1942年、鹿児島県大島郡天城町生まれ。北中学校卒業後、島内の商店に住み込みで働いていたが、19歳の時に大阪府に移住し、三生運送に就職。 1965年6月、23歳の時に連帯労組関西地区生コン支部の発足準備委員会発足に伴い、委員長に選出され、4ヶ月後の同年10月17日、関西地区生コン支部を結成し、初代委員長に就任。 ミキサー車の運転手から、専従組合員となる。同社内に全国自動車運輸労働組合所属の労組が別々に組織しており、同社内の組織の統一機関となる。
徳 三宝(とく さんぽう、1887年12月12日 - 194… 徳 三宝(とく さんぽう、1887年12月12日 - 1945年3月10日)は、日本の柔道家。講道館柔道九段。大日本武徳会柔道教士。 鹿児島県の徳之島(大島郡天城町兼久)出身。亀津小学校から鹿児島県立第二鹿児島中学校(現在の鹿児島県立甲南高等学校)へ進学。剣道・柔道に励み、全九州の中学柔道大会を制しその名を知られる。師事した七校の佐村嘉一郎三段(後の十段)の勧めで上京し、東京高等師範学校体育科へ入学後、1906年に講道館へ入門。 一日に100本超える程の猛稽古を積み上達すると、当時の講道館でも最強を誇り、稽古中に姿勢が崩れる事のない強さ故に野中の一本杉とあだ名され、また、“膝つき一本(徳に膝をつかせただけでも、通常の一本に値するという意)”という言葉が生まれた。