深津 諭美子(ふかつ ゆみこ、1948年〈昭和23年〉8月2… 深津 諭美子(ふかつ ゆみこ、1948年〈昭和23年〉8月24日 - 2015年〈平成27年〉6月11日)は、日本の書家。娘は女優の深津絵里。大分県別府市出身。雅号は諭黄(ユンホン)。 実父も書道家であったが、自らは服飾デザイナー志望で福岡市にブティックを開く。1994年(平成6年)頃にブティックを閉めて東京に移り、本格的に書道に取り組む。その後、2003年頃に上海大学で書道を学び、歯ブラシ、ほうき、たわし、ストロー等も筆代わりにして、両手や左手を使って書く「漢字アート」とよばれる独自の手法で個展を催し始める。 娘が有名女優ということもあり、長く「諭黄」を名乗り本名を伏せてきた。しかし、2009年に開いた個展を機に実名の「深津 諭美子」を使用。
河野 隆(かわの たかし、1948年3月23日 - 2017… 河野 隆(かわの たかし、1948年3月23日 - 2017年11月3日)は、日本の篆刻家・書家・教育者。大東文化大学文学部書道学科名誉教授。号・鷹之。室号は晨風廬。 大分県臼杵市生まれ。生井子華に師事。日展会員、読売書法会常任理事、全日本篆刻連盟会長、大東文化大学書道科教授、国立台湾芸術大学客員教授、西泠印社名誉社員、中国芸術研究院中国篆刻芸術院研究員を歴任。 2017年11月3日、肺癌のため死去。
長 三洲(ちょう さんしゅう、天保4年9月23日(1833年… 長 三洲(ちょう さんしゅう、天保4年9月23日(1833年11月3日) - 明治28年(1895年)3月13日)は、豊後国生まれの勤皇の志士、官僚、漢学者、書家、漢詩人。諱は炗(ひかる)。幼名は富太郎、のち光太郎、太郎。字は世章。号は三洲(三州)のほか、蝶生、韻華、秋史、紅雪、楂客など。 勤皇の志士として倒幕運動に半生を捧げ、戊辰戦争を戦う。その後、山口藩の藩政改革に携わる。明治3年、上京し、太政官制度局の官僚となる。明治5年には文部官僚として、師の広瀬淡窓の咸宜園の学制を基礎に据え、日本の学制の礎を築いた。また、明治書家の第一人者で、近代学校制度の中に習字を位置づけた第一の功労者である。また漢学者、漢詩人としての名声高く、漢学の長三洲、洋学の福澤諭吉として明治前半期の教育界の双璧を成した。
奥 並継(おく なみつぐ、文政7年(1824年)12月 - … 奥 並継(おく なみつぐ、文政7年(1824年)12月 - 明治27年(1894年)2月26日)は、幕末・明治期の志士、国学者、書家、明治期日本の大蔵官僚である。字は子紹、菱池(菱池は宇佐神宮境内の池名)と号す。 豊前国宇佐村(現大分県宇佐市)の藤波氏に生まれ、宇佐神宮祠官漆島姓の奥氏の養嗣子になる。12歳で広瀬淡窓の門に入り、後に帆足万里に学んだ。 嘉永5年(1852年)、宇佐神宮官人代に任じられ、従五位下対馬守に叙せられた。安政2年(1855年)、江戸に出て平田篤胤の門に入り国学を修めた。 文久3年(1863年)、飄然して京都に出遊して憂国の志士と交わり、国事疾走の生活が始まる。丁度三条実美卿らの七卿落ちとなり、勤王攘夷党の蹉跌をみるや、憤慨し直ちに宇佐に帰り、豊前国、豊後国の志士らと語らい勤王倒幕の先鞭をつけんとしてならず、弟の時枝重明と共に日田の獄舎に投じられ、3年を経て即位の大赦により出獄した。