三好 昇(みよし のぼる、1949年2月14日 - )は、日… 三好 昇(みよし のぼる、1949年2月14日 - )は、日本の政治家。勲等は旭日小綬章。元北海道江別市長(4期)。 北海道津別町出身。北海道津別高等学校卒業。明治薬科大学卒業。1972年(昭和47年)5月、北海道庁に採用される。2004年(平成16年)4月、保健福祉部次長に就任。2005年(平成17年)4月、石狩支庁長に就任。 2007年(平成19年)4月の江別市長選挙において無投票により初当選。5月1日、市長就任。 2011年(平成23年)も無投票により再選。 2015年(平成27年)4月26日に行われた市長選では元市議ら2候補を破り3選。 2019年(平成31年)4月21日に行われた市長選では元市議を破り4選。
沼川 洋一(ぬまかわ よういち、1931年11月11日 - … 沼川 洋一(ぬまかわ よういち、1931年11月11日 - 2016年10月28日)は、日本の政治家、薬剤師。衆議院議員(2期)、熊本県議会議員(4期)、熊本市議会議員(1期)。公明党に所属した。 衆議院石炭対策特別委員会委員、社会労働委員会委員、公明党熊本県支部選挙対策委員長、明治薬科大学同窓会組織明薬会熊本支部長などを歴任。 熊本県生まれ。1955年、明治薬科大学卒業。1963年、熊本市議会議員選挙に公明政治連盟公認で立候補して当選し、当選後は公明会(その後公明党に改称)に所属した。1967年の熊本県議会議員選挙立候補を理由に同年3月31日付で市議を辞職した。県議選は熊本市選挙区から公明党公認で立候補して初当選を果たした。
中村 淳治(なかむら じゅんじ、1930年(昭和5年)4月2… 中村 淳治(なかむら じゅんじ、1930年(昭和5年)4月23日 - 2010年(平成22年)11月19日)は、昭和から平成時代前期の政治家。醸造家。青森県黒石市長。 青森県南津軽郡黒石町(現黒石市)出身。1951年(昭和26年)明治薬学専門学校を卒業し、黒石市職員となる。黒石市議会議員を2期務めたのち、1974年(昭和49年)黒石市長に当選。3期12年に渡り務め、市民文化会館や黒石公民館の建設、勤労青少年ホームや中央スポーツ館などの整備、3度に渡る浅瀬石川水害の復旧などに尽力した。退任後は、酒蔵「中村亀吉」を経営し、平成22年度の全国清酒鑑評会で金賞を受賞した。 2010年(平成22年)11月19日午前7時52分、黒石病院で死去。
榎本 栄蔵(えのもと えいぞう、1909年〈明治42年〉7月… 榎本 栄蔵(えのもと えいぞう、1909年〈明治42年〉7月4日 - 1983年〈昭和58年〉10月21日)は、日本の政治家。東京都青梅市長(1期)。位階は正六位。勲四等瑞宝章。 東京府西多摩郡調布村(現在の東京都青梅市)生まれ。明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)卒。卒業後は薬剤師となり、青梅町(現・青梅市)で薬局を開業する。青梅町収入役、同助役、多摩証券社長、青梅公民館長、青梅商工会議所副会頭、青梅市議会議員、同議長、市助役などを歴任する。 1963年〈昭和38年〉青梅市長に当選。一年目は市役所経営会議発足させ、市上下水道事業に着手した。二年目は教育相談所を開設、福祉に力を入れ、市立総合病院に人間ドックを開設、老人家庭奉仕員制度をスタートさせた。
小川 友三(おがわ ともぞう、1904年〈明治37年〉4月2… 小川 友三(おがわ ともぞう、1904年〈明治37年〉4月29日 - 1968年〈昭和43年〉3月16日)は、日本の実業家、政治家。元参議院議員(1期)。 埼玉県出身。1921年(大正10年)に明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)を卒業して薬剤師免許を取得し、薬局や製薬会社を開業。古物商・農業などを手がける一方で東京市議選や府議選にも出馬し、昭和会から衆議院議員への立候補を目論んだ。1938年(昭和13年)には中華民国への移住絡みの詐欺事件で逮捕されている。 戦後は国民協同党に入党。同党公認で1947年(昭和22年)4月5日の埼玉県知事選挙に出馬するものの、直後に離党して自ら親米右翼の『親米博愛勤労党』を結成。
田中 耕(たなか こう、1897年(明治30年)7月6日 -… 田中 耕(たなか こう、1897年(明治30年)7月6日 - 1969年(昭和44年)9月22日)は、日本の政治家・薬剤師。衆議院議員(2期)。右翼活動家。 長野県北安曇郡会染村(現・池田町)生まれ。長野県師範学校第三種講習を経て、1917年(大正6年)明治薬学校(現・明治薬科大学)卒。薬剤師を経て、長野県豊科町(現・安曇野市)で薬局を開設。また、長野県豊科町商工会議員も務め、1936年(昭和11年)第19回衆議院議員総選挙で立憲養正会の公認で出馬し、落選するも、その後繰り上げ当選。院内では興亜議員同盟に所属した。1937年(昭和12年)の第20回衆議院議員総選挙で再選。1940年(昭和15年)、大政翼賛会が結成されるも、立憲養正会はかねてより新体制運動を批判しており、大政翼賛会には合流しなかった。