岡戸 武平(おかど ぶへい、1897年12月31日 - 19… 岡戸 武平(おかど ぶへい、1897年12月31日 - 1986年8月31日)は、日本の小説家、ノンフィクション作家。 愛知県知多郡横須賀町(現・東海市)生まれ。小学校教員を経て、『名古屋新聞』『大阪時事新報』に勤務。小酒井不木の助手として『闘病術』の執筆を手助けする。 後に上京して博文館に入社。『文藝倶楽部』の最後の編集主任となる。1932年の同誌廃刊と同時に退社し、作家活動に入る。 1935年に第1回直木賞の候補となる。 太平洋戦争下の1944年に愛知県有松町(現・名古屋市)へ疎開し、そのまま名古屋に定住する。 戦後は東海地方の企業史執筆が多く、1960年に愛知県文化功労者。 『大阪時事新報』時代には江戸川乱歩と同僚であり、乱歩名義で発表された『蠢く触手』の代作を行ったことがある。
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手塚 文蔵(文藏、てづか ぶんぞう、1897年 <明治30年… 手塚 文蔵(文藏、てづか ぶんぞう、1897年 <明治30年> 12月29日 - 1988年 <昭和63年> 11月16日)は、日本の経営者、銀行家。佐賀銀行頭取を務めた。位階は従五位。 佐賀県西松浦郡有田町出身。1920年に東京高等商業学校を卒業。1954年4月に佐賀興業銀行頭取に就任し、1955年7月から1960年5月までに佐賀銀行頭取を務めた。 1969年に勲四等瑞宝章を受章。 1988年11月16日急性心不全のために死去。90歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
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出口 日出麿(でぐち ひでまる、旧名:高見元男、1897年1… 出口 日出麿(でぐち ひでまる、旧名:高見元男、1897年12月28日 - 1991年12月25日)は、大本教の第三代教主補。岡山県倉敷市出身。第二次大本事件にて当時の政府管轄の元特高警察により不当逮捕後、投獄。獄中にて殴打、抜歯、焼鉄、抜爪、ほか、筆舌に尽くし難い凄惨な拷問を受けるが、奇跡的に一命を取り留める。 1897年(明治30年)岡山県倉敷市阿智町に高見元男として生まれる。旧制岡山中学、旧制六高を経て、1924年に京都帝国大学文学部を中退。 1928年、大本の第三代教主となる出口直日と結婚。大本総統補、昭和青年会総裁補、人類愛善新聞社社長など大本の要職につき出口王仁三郎の後継と目される。
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山田 穣(やまだ みのる、1897年(明治30年)12月27… 山田 穣(やまだ みのる、1897年(明治30年)12月27日 - 1985年(昭和60年)12月4日)は、昭和時代の日本の鉱山学者。採鉱学の権威。主な研究分野は炭坑内のガス爆発や炭塵爆発。九州大学名誉教授。 現在の愛媛県伊予市にて生まれる。1922年(大正11年)九州帝国大学工学部採鉱学科を卒業。1939年(昭和14年)工学博士。同年、母校の九州帝国大学の教授となり、生産科学研究所長、工学部長を歴任。1953年(昭和28年)11月から1961年(昭和36年)11月まで同大学総長を、退官後の1967年(昭和42年)4月から1978年(昭和53年)3月まで九州共立大学の学長を務めた。ほか、1963年(昭和38年)11月に起きた三井三池三川炭鉱炭塵爆発の政府技術調査団団長を務めた。
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上原 正吉(うえはら しょうきち、1897年(明治30年)1… 上原 正吉(うえはら しょうきち、1897年(明治30年)12月26日 - 1983年(昭和58年)3月12日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。参議院議員(5期、自由民主党)。科学技術庁長官(第16代)。 若き頃、大正製薬創業者の石井絹治郎に見出され、以後、懐刀として活動、後に第3代目社長に就任した。また高額納税者番付の常連としても知られ、1964年-1966年、1976年、1977年、1979年の計6回トップを占めた。甥は参議院議長、埼玉県知事を務めた土屋義彦。 埼玉県北葛飾郡田宮村(現在の杉戸町)に、中学校教師の六男として生まれる。幼くして両親と死別し、高等小学校卒業後兄を頼って上京。
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海野 十三(うんの じゅうざ)、1897年(明治30年)12… 海野 十三(うんの じゅうざ)、1897年(明治30年)12月26日 - 1949年(昭和24年)5月17日)は、日本の小説家、SF作家、推理作家、漫画家、科学解説家。「日本SFの始祖の一人」と呼ばれる。本名は佐野 昌一(さの しょういち)。 徳島市徳島本町に生まれ、幼少期は安宅町の祖父の家で育つ。徳島市立福島小学校3年生の時、神戸に移住。神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)を卒業後、早稲田大学理工科で電気工学を専攻。逓信省電務局電気試験所に勤務しながら、機関紙などに短編探偵小説を発表。 1928年(昭和3年)、雑誌『新青年』から依頼を受け、探偵小説「電気風呂の怪死事件」を発表して本格的文壇デビュー。
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岸田 正次郎(きしだ まさじろう、1897年〈明治30年〉1… 岸田 正次郎(きしだ まさじろう、1897年〈明治30年〉12月26日 – 1979年〈昭和54年〉3月29日)は、日本の実業家。 元衆議院議員岸田正記の弟。元衆議院議員岸田文武の叔父。衆議院議員・第100代内閣総理大臣岸田文雄の大叔父。 広島県出身。父は岸田幾太郎。大正10年(1921年)早稲田大学政経科、大正14年(1925年)ハーバード大学各卒業。英独に留学、昭和元年(1926年)帰朝、内務省嘱託、富士瓦斯紡績に勤務、昭和9年(1934年)幾久屋百貨店専務。 宗教は真宗。趣味は庭球、碁。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
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大久保 琴(おおくぼ こと、1897年〈明治30年〉12月2… 大久保 琴(おおくぼ こと、1897年〈明治30年〉12月24日 - 2013年〈平成25年〉1月12日)は、日本のスーパーセンテナリアン。神奈川県川崎市在住していた長寿の女性。2012年(平成24年)12月17日から死去するまで存命中の女性長寿世界一となっていた。 2011年12月2日に佐賀県在住の長谷川チヨノが死去したことに伴い、女性長寿日本一となる。 2012年12月17日、ディーナ・マンフレディーニが死去したことに伴い、114歳359日で女性長寿世界一となる。 2013年1月12日午前12時過ぎ、肺炎のため川崎市高津区の有料老人ホームで死去。7002115000000000000♠115歳19日没。
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金子 武麿(かねこ たけまろ、1897年〈明治30年〉12月… 金子 武麿(かねこ たけまろ、1897年〈明治30年〉12月22日 - 1959年〈昭和34年〉1月14日)は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。位階は従四位。勲等は勲六等。 官僚・政治家、金子堅太郎の二男として生まれる。父の死去に伴い1942年(昭和17年)6月1日、伯爵を襲爵した。 1922年(大正11年)、東京帝国大学文学部を卒業。1923年(大正12年)内閣属となる。以後、加藤友三郎内閣・第2次山本内閣・清浦内閣の内閣総理大臣秘書官、田中義一内閣内閣総理大臣秘書官兼外務大臣秘書官、齋藤内閣・中島久万吉商工大臣秘書官、大礼使事務官などを歴任。 実業界では、電気化学工業取締役、台湾電化取締役、日本塗紙工業取締役、東北振興化学監査役、カーバイト共販監査役、東京都商工経済会評議員、日本硫硝酸統制社長などを務めた。
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呉 茂一(くれ しげいち、1897年12月20日 - 197… 呉 茂一(くれ しげいち、1897年12月20日 - 1977年12月28日)は、日本の西洋古典学者で古代ギリシア・ラテン文学者。 1897年、東京帝国大学医科大学教授(精神病学講座)を務めた呉秀三・みな夫妻の長男として東京市本郷区に生まれた。第一高等学校医科をへて、1919年東京帝国大学医学部に入学したが、1922年に文学部英文科へ転じた。有島武郎を崇敬し、生前しばしば訪ねており、また父と同じく精神科医の歌人斎藤茂吉とも終生交流があった。 1925年に大学卒業した後、東京帝国大学文学部言語学科副手に採用された。1926年にヨーロッパ留学し、古代ギリシア文学・ラテン文学を修めた。1929年に帰国し、文学部講師に昇格。
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神田 久太郎(かんだ きゅうたろう、1897年12月20日 … 神田 久太郎(かんだ きゅうたろう、1897年12月20日 - 1977年6月15日)は、日本の柔道家。講道館9段。 柔術を修行して肩車や双手刈といった技に長じ戦前の全日本選士権大会や明治神宮競技大会柔道競技で優勝、戦後も50歳で全日本選手権大会に出場するなど永く選手として活動した、昭和初期を代表する柔道家の1人である。警視庁柔道師範や福島県警柔道師範を務めたほか、1964年の東京五輪柔道競技での強化委員や福島県柔道連盟会長等も歴任した。 福島県出身で本籍地は福島市荒町。幼少時より宏道館道場の渡辺峰松の元で約3年、さらに大日本武徳会福島支部にて学んだ。 上京して日本大学中学校(現:日本大学第一中学校・高等学校)に進学するも中退し、時を前後し千葉の武徳殿で戸塚派揚心流山本欽作範士の門下となって1915年には武徳会の初段を取得。
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河野 密(こうの みつ、1897年(明治30年)12月18日… 河野 密(こうの みつ、1897年(明治30年)12月18日 - 1981年(昭和56年)1月4日)は、日本の政治家。千葉県出身。 東京帝国大学法学部卒。大学在学中に新人会に参加し、卒業後日本労農党に参加。更に社会大衆党へ移って、1936年の第19回衆議院議員総選挙で初当選する。以後、当選12回。 戦後、日本社会党結成に参加するも、戦時中に大政翼賛会の活動に参画していたことから公職追放。追放解除後、1952年の第25回衆議院議員総選挙で社会党右派から政界復帰、1955年10月左右統一の日本社会党結成に参加する。 1956年鈴木茂三郎委員長の下で党国会対策委員長に就任。1958年警察官職務執行法改正法案に成田知巳総務局長と政府の赤城宗徳内閣官房長官への抗議や浅沼稲次郎書記長と与党自民党の川島正次郎幹事長、村上勇国対委員長に抗議した。
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久米 精一(くめ せいいち、1897年(明治30年)12月1… 久米 精一(くめ せいいち、1897年(明治30年)12月18日 - 1949年(昭和24年)11月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 香川県出身。丸亀中学校(現香川県立丸亀高等学校)を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し山砲兵第11連隊付となる。1931年(昭和6年)11月、陸軍大学校(43期)を卒業し山砲兵第11連隊中隊長となる。 陸軍省軍務局付勤務、軍務局課員(防備課)、陸軍省兵務局課員、航空兵団参謀を務め、1938年(昭和13年)3月、兵科を航空兵に転科し航空兵中佐となる。1939年(昭和14年)9月、第3飛行集団参謀に発令され日中戦争に出征。
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室谷 邦夷(むろや くにい、1897年 <明治30年> 12… 室谷 邦夷(むろや くにい、1897年 <明治30年> 12月15日 - 1972年 <昭和47年> 4月30日)は、日本の経営者。北海道放送社長を務めた。位階は正五位。 北海道江差町出身、1905年より新潟県巻町(現・新潟市西蒲区)に住む伯母に養育された。このため新潟県出身と表記する資料も存在する。新潟県立巻中学校(現・新潟県立巻高等学校)を経て、1917年に東京薬学校を中退。 1917年3月に網走の回漕店に入社するも、同年9月に親戚が務める樺太の新聞社・樺太日日新聞社に転職し編集局社会部に配属される。 1918年に札幌で泊まっていた宿で記者募集の広告を見たことをきっかけに、北海タイムス社(現・北海道新聞社)に入社。
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嘉村 礒多(かむら いそた、1897年(明治30年)12月1… 嘉村 礒多(かむら いそた、1897年(明治30年)12月15日 - 1933年(昭和8年)11月30日)は、日本の私小説家。山口県吉敷郡仁保村(現在は山口市仁保)出身。わずか6年間に約30の短編小説を書いたのみだが私小説作家として当時高い評価を得た。 人生問題に悩み、近角常観に傾倒。妻の婚前の男関係に悩んだ末、妻子を捨てて、愛人と駆落ちして上京。『不同調』記者となり、同誌に発表した『業苦』『崖の下』で注目された。葛西善蔵に強く影響され、『途上』で文壇に地位を確立するも、翌年病没。厳しい倫理観を基調に、自己を告白した独自の作風で、いわゆる破滅型私小説の代表的存在と目された。 1897年(明治30年)12月15日、父・若松、母・スキとの間に生まれる。
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斉藤 正身(齊藤、さいとう まさみ、1897年(明治30年)… 斉藤 正身(齊藤、さいとう まさみ、1897年(明治30年)12月15日 - 1972年(昭和47年)6月6日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。斎藤と表記されることが多い。 宮崎県宮崎郡住吉村(現宮崎市)で、斉藤東作の四男として生まれる。1922年(大正11年)東亜同文書院商務科を卒業(第20期生)した。 東京中央金庫を経て天津隆和公司に入社。1927年(昭和2年)天津正栄洋行を設立した。その後、満州国の創立に尽力し、同国国務院総理秘書、満州日日新聞社顧問、大連日日新聞社顧問などを務めた。また1940年(昭和15年)財団法人宮崎県斉藤奨学会を設立し会長に就任した。 1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け宮崎県全県区から出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
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遠藤 常久(えんどう つねひさ、1897年(明治30年)12… 遠藤 常久(えんどう つねひさ、1897年(明治30年)12月15日 - 1989年(平成元年)12月)は、日本の実業家。作家・遠藤周作の父。フジテレビジョン代表取締役社長を務めた遠藤龍之介の祖父。 鳥取市出身。愛媛県温泉郡北吉井村出身の弁護士・和泉漱三の三男として生まれ、東伯郡浅津村下浅津(現・湯梨浜町下浅津)の医師・遠藤河津三の養子となる。遠藤家は鳥取藩の典医を務めた家系で、河津三には後嗣がいなかったため、常久を迎えた。 東京帝国大学法学部(独法科)に進学。在学中の1920年に郁と知り合い、翌1921年に結婚。同年に長男の正介、その2年後に次男の周作が誕生した。 卒業後は第三銀行に就職。第三銀行は1923年に安田銀行に統合されている。
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柴田 周吉(しばた しゅうきち、1897年〈明治30年〉12… 柴田 周吉(しばた しゅうきち、1897年〈明治30年〉12月15日 - 1982年〈昭和57年〉10月2日)は日本の教育者、実業家、財界人。位階勲等は勲二等正四位。桐蔭学園の創立者。 筑波大学(旧東京教育大学)移転の際には質実共に陰の力となり長期に渡ったプロジェクトの実現に尽力した。筑波学都資金財団を創設し各理事長をつとめ、筑波研修センターを建設した。紫峰会を設立。 理事長をつとめた茗渓会の同窓と共に茗溪学園創立。 未来ある若者を思い奨学金制度、財団法人柴田育英会(現公益財団法人柴田育英会)を創立。 茗渓会会長、桐蔭学園初代理事長、茗渓学園初代理事長、科学技術学園理事長、柴田育英会初代会長、筑波学都資金財団各理事長、紫峰会初代会長、都教育委員をつとめる。
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今牧 嘉雄(いままき よしお、1897年(明治30年)12月… 今牧 嘉雄(いままき よしお、1897年(明治30年)12月15日 - 1980年(昭和55年)5月17日)は、大正から昭和期の内科医、右翼活動家、政治家。衆議院議員、医学博士。 富山県射水郡新湊町(高岡市、新湊町、新湊市を経て現射水市)で生まれる。1920年(大正9年)長崎医学専門学校(のち長崎医科大学、現長崎大学)を卒業し、その後、京都帝国大学医学部で研究した。 別府市の朝見病院長を経て、1930年(昭和5年)東京市京橋区で開業した。大川周明の雑誌『満蒙』に執筆し、大川の治療を行ったことなどから神武会に加盟した。1936年(昭和11年)大日本青年党に加わり、その後、大日本赤誠会に改称。また、日本医師会理事、日本医療団評議員、富士工業社長などを務めた。
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真砂石 三郎(まさごいわ さぶろう、1897年12月14日 … 真砂石 三郎(まさごいわ さぶろう、1897年12月14日 - 1944年3月7日)は、宮城県栗原郡栗駒町(現栗原市)出身で尾車部屋、峰崎部屋、片男波部屋、伊勢ノ海部屋に所属した大相撲力士。本名は石川 三郎治。174cm、85kg。最高位は東前頭5枚目。 1916年5月尾車部屋より初土俵、その後兄弟子の三杦磯と行動をともにした。1920年5月十両昇進。1922年1月入幕し、この場所は優勝旗手を務めた。立合いの駆け引きがうまく、よく言えば「後の先」、悪く言えばペテン立ちの傾向があった。1927年10月に廃業してブラジルに渡り、料理店を経営。またブラジル相撲協会を立ち上げた。 陸奥ノ山→真砂石(1924年5月)
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潮ヶ濱 義夫(しおがはま ぎふ、1897年12月8日 - 1… 潮ヶ濱 義夫(しおがはま ぎふ、1897年12月8日 - 1937年11月6日)は、青森県西津軽郡木造町(現・つがる市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は長谷川 義夫。現役時代の体格は身長170cm、体重90kg。最高位は西前頭11枚目(1930年1月場所・3月場所)。得意手は突っ張り、左四つ、寄り、足癖。 旧制函館中学校(現・北海道函館中部高等学校)を卒業し、小学校の代用教員をしていたという、角界では異色の経歴を持つ。遠縁に幕内力士立汐祐治郎・立汐唯五郎の兄弟がいた。3代高砂(元大関2代朝潮)に入門して1917年1月場所で初土俵。6年後の1923年5月場所に十両昇進、1928年3月場所で入幕した。
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大石 兵太郎(おおいし ひょうたろう、1897年12月8日 … 大石 兵太郎(おおいし ひょうたろう、1897年12月8日 - 1954年11月30日)は、日本の学者。専門は、政治心理学。関西学院大学教授、法学部長、学長を歴任した。 1897年、滋賀県大津市に生まれる。関西学院専門部文学部社会学科を卒業後、東北帝国大学法文学部に進学し、1926年卒業。同年4月に、関西学院専門部教授に就任し、政治学・政治思想史を担当した。 1934年、大学昇格に際して法文学部助教授に就任。1937年、教授に昇任。1947年、新制大学法学部に移り、第2代法学部長に就任。1951年4月には学長に就任するが、学長在任中の1954年11月、病気のため急逝した。
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滑川 忠夫(なめかわ ただお、1897年12月7日 - 19… 滑川 忠夫(なめかわ ただお、1897年12月7日 - 1975年3月5日)は、日本の地球物理学・気象学者。京都大学理学部名誉教授。理学博士(京都帝国大学)。日本気象学会関西支部創設者・元支部長。日本農業気象学会元近畿支部長。河川水温調査会熱収支部会元会長。微細気象学・工業気象学の第一人者の一人。 専門は、地球物理学・気象学/気候学(特に微細気象学・工業気象学)、大気科学・水理学・農業気象学。 1897年神戸市生まれ。第二神戸中学校を卒業後、中央気象台練習部を経て、1916年中央気象台臨時雇となり神戸測候所勤務。1924年京都帝国大学理学部地球物理学科卒業(指導教授:地球物理学のパイオニアで京都大学阿武山観測所初代所長の志田順)。
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柳生 繁雄(やぎゅう しげお、1897年(明治30年)12月… 柳生 繁雄(やぎゅう しげお、1897年(明治30年)12月7日 - 没年不明)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。江原道知事、咸鏡南道知事。 柳生繁一の長男として愛知県に生まれ、1900年(明治33年)家督を相続する。1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治科を卒業し翌年、高等試験に合格した。同年、朝鮮総督府に出仕し、平安南道属、平壌専売支局長、全羅南道警察部長などを経て、1940年(昭和15年)10月、京畿道内務部長に就任する。その後、府事務官総督官房会計課長を経て、1941年(昭和16年)11月、江原道知事に任じた。のち咸鏡南道知事となった。1945年(昭和20年)退官した。
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堀内 敬三(ほりうち けいぞう、1897年(明治30年)12… 堀内 敬三(ほりうち けいぞう、1897年(明治30年)12月6日 - 1983年(昭和58年)10月12日) は、日本の作曲家、作詞家、訳詞家、音楽評論家。「あやしいぞ」をもじった安谷 鎮雄という筆名もある。
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森田 信義(もりた しんぎ、1897年12月6日 - 195… 森田 信義(もりた しんぎ、1897年12月6日 - 1951年7月15日)は、日本の映画プロデューサー、脚本家・劇作家、演出家である。山本 正夫(やまもと まさお)という筆名もある。 1897年(明治30年)12月6日、兵庫県神戸市に生まれる。 非常に裕福な商家の家庭に長男として生まれ、育てられた。父の金蔵の代から、大沢商会の大沢善夫(のちのゼーオー・スタヂオ社主)の祖父とも親交があった。長じて東京に移り、慶應義塾に進学する。1918年(大正7年)ころ岡本綺堂に師事、帝国劇場での上演台本等を書き、同人誌『群像』を主宰する。1920年(大正9年)、当時慶應義塾の学生でのちの映画監督・山本嘉次郎やのちの脚本家・小林正の「白夜会」と協力し、栗原トーマスの講演会等を行う。
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岡本 天明(おかもと てんめい、1897年(明治30年)12… 岡本 天明(おかもと てんめい、1897年(明治30年)12月4日 - 1963年(昭和38年)4月7日)は神道家、宗教家、神典研究家。岡山県浅口郡玉島町出身。本名は信之。天明は「雅号」である。 信之は幼少の頃から、他人には見えないものが見えたり(霊視能力)、聞こえたり(霊聴能力)、霊能力を持っている子供だったという(岡本三典『日月神示はなぜ岡本天明に降りたか』)(参)。また、絵が得意で17歳の頃に神戸三宮で絵の個展を開き、新聞に「天才少年画家現る」と称賛されたという。その後、上京し明治大学に学ぶ。紆余曲折を経て大本に出会ったのは1920年(大正9年)、天明が22歳の時だった。 1944年(昭和19年)6月10日、千葉県印旛郡公津村台方(現・成田市台方)の麻賀多神社の末社である天日津久神社を参拝する。
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小川 虎之助(、1897年〈明治30年〉12月1日 - 19… 小川 虎之助(、1897年〈明治30年〉12月1日 - 1967年〈昭和42年〉12月29日)は、日本の俳優。本名は小川 寅次。 1897年(明治30年)12月1日、東京市浅草区蔵前に生まれる。5歳のときに新派の舞台で初舞台を踏み、弟の小太郎と共に新派の名子役といわれる。のちに新国劇に入団。沢田正二郎に芸の細かさを認められ、『三等水兵の日記』『髪』などでのコミックな役や、『国定忠次』などの老爺役を得意として大幹部俳優となる。戦後の1946年(昭和21年)に退団して新国民座を主宰するが、経済的事情から解散する。 1951年(昭和26年)、映画俳優に転向し、大映の『万華地獄』に出演して以来、各社の作品に出演。
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薩摩 雄次(さつま ゆうじ、1897年12月1日 - 196… 薩摩 雄次(さつま ゆうじ、1897年12月1日 - 1966年8月4日)は、日本の政治家・新聞記者。衆議院議員。福井県おおい町出身。 地主・薩摩三蔵の二男。第三高等学校を経て、1922年に拓殖大学支那語科を卒業。学生時代から猶存社に出入りし、拓大魂の会を組織した。 1923年から1928年まで大東文化協会幹事となり、同協会の副会長であった政友会代議士・小川平吉の秘書役を務めた。 国民新聞に入社し、経済部長、主筆、論説委員を歴任した。 海軍大将の加藤寛治とは親戚であったことから、ロンドン海軍軍縮会議の結果をめぐって表面化した統帥権干犯問題の際に、北一輝らの民間右翼と加藤ら海軍艦隊派とのつなぎ役となる。
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金原 賢之助(きんばら けんのすけ、1897年11月30日 … 金原 賢之助(きんばら けんのすけ、1897年11月30日 - 1959年1月18日)は、日本の経済学者。慶應義塾大学教授。 1897年に静岡県浜松市に生まれる。1916年に浜松商業学校を卒業後、慶應義塾大学部理財科に入学し、高橋誠一郎のゼミナールで学ぶ。1921年に同大学を卒業し、助手となる。1923年に慶應義塾大学予科教員となり、1925年から1928年まで欧米(イギリス、ドイツ、フランス、オーストリア、アメリカ)に留学する。1928年に慶應義塾大学経済学部助教授、1929年に教授となる。1937年に「世界経済の動向と金本位制度」の題目の論文で博士号を取得する。1946年に経済学部長となり、1957年に商学部設置に伴い商学部長・商学部教授となる。
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山下 秀之助(やました ひでのすけ、1897年11月29日 … 山下 秀之助(やました ひでのすけ、1897年11月29日 - 1974年4月4日)は、日本の医師・歌人。短歌雑誌『創作』の若山牧水、『潮音』の太田水穂に師事し、吉植庄亮主宰の『橄欖』を経て、1946年『原始林』(第2次)を札幌市で創刊。北海道の歌壇の基礎を築いた一人と評価され、戦前・戦後の北海道文壇・歌壇の指導的な存在であった。 1897年(明治30年)11月29日、鹿児島県鹿児島市東千石町に生まれる。鹿児島第一中学校、第七高等学校造士館を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学医学部を卒業。同年5月、北海道帝国大学医学部助手として北海道に移る。北大医学部講師、小樽病院を経て、移住四年後の1926年(大正15年)から国鉄傘下の札幌鉄道病院(現在のJR札幌病院)に勤務。
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宇野 千代(うの ちよ、1897年〈明治30年〉11月28日… 宇野 千代(うの ちよ、1897年〈明治30年〉11月28日 - 1996年〈平成8年〉6月10日)は、大正・昭和・平成にかけて活躍した日本の小説家、随筆家。多才で知られ、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持った。作家の尾崎士郎、梶井基次郎、画家の東郷青児、北原武夫など、多くの著名人との恋愛・結婚遍歴を持ち、その波乱に富んだ生涯はさまざまな作品の中で描かれている。日本芸術院会員。 山口県玖珂郡横山村(現・岩国市)出身。実家は酒造業を営む裕福な家だが、父親は生涯生業に就いたことはなく、博打好きだった。幼い頃に母親が没し、父親は千代と12歳しか違わない若い娘と再婚。実母と思って育ち、大変慕っていた。
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鳥居 忠博(とりい ただひろ、1897年(明治30年)11月… 鳥居 忠博(とりい ただひろ、1897年(明治30年)11月28日 - 1976年(昭和51年)3月25日)は、大正から昭和期の実業家・政治家・華族。貴族院子爵議員。 旧壬生藩主、子爵・鳥居忠文の五男として生まれ、長兄鳥居忠一が京王線に衝突した自動車事故で死去したことで、1939年(昭和14年)2月15日、子爵を襲爵した。 学習院を経て、1923年(大正12年)東京帝国大学経済学部を卒業。三井物産に入社。三洞運輸監査役などを務めた。 1946年(昭和21年)8月22日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。
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沢田 ひさ(さわだ ひさ、1897年(明治30年)11月25… 沢田 ひさ(さわだ ひさ、1897年(明治30年)11月25日 - 1979年(昭和54年)11月9日)は、大正時代から昭和時代の女性政治家、女性解放運動家。日本社会党所属の衆議院議員(1期)。 1897年(明治30年)生まれ。滋賀県甲賀郡土山村(現甲賀市)出身で、結婚して三重県桑名市に移り、戦前から婦人参政権獲得運動に挺身して、中部地区婦人選挙権獲得同盟会員となる。 1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙で当選し、49歳で日本社会党の新人議員として日本最初の女性代議士(三重県の婦人代議士第1号)となり、衆議院議員1期を務めた。1953年(昭和28年)4月24日の第3回参議院議員通常選挙で三重県選挙区から55歳で右派社会党の新人として立候補して 150501票 (得票率28.4%)で落選した。
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安藤 信哉(あんどう のぶや、1897年11月24日 - 1… 安藤 信哉(あんどう のぶや、1897年11月24日 - 1983年1月1日)は、日本の洋画家。 千葉県生まれ。3歳の時、父が教員として赴任するため茨城県結城郡水海道町(現在の常総市)に移り住む。茨城県立水海道中学校卒業後一時教職に就くが、退職して洋画を学ぶ。 生前、売り絵を描かなかったため、画商がつかなかった。生前の親交により、遺族から静岡県の美術館に数十点の作品が寄贈されている。
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真田 穣一郎(さなだ じょういちろう、1897年(明治30年… 真田 穣一郎(さなだ じょういちろう、1897年(明治30年)11月21日 - 1957年(昭和32年)8月3日)は、日本の陸軍軍人。 第2総軍参謀副長・陸軍省軍務局長・参謀本部第一部長を歴任し、階級は陸軍少将功四級に至る。 屯田兵、沼貝町長真田嘉七の長男として生まれ、北海道庁立札幌第一中学校(後の北海道札幌南高等学校)・仙台陸軍地方幼年学校・陸軍中央幼年学校を経て1919年(大正8年)5月陸軍士官学校(31期)を卒業。 同年12月、陸軍歩兵少尉に任官され、歩兵第9連隊附を命ぜられる。 1922年(大正11年)12月中尉に進級し、1924年(大正13年)12月26日陸軍大学校(39期)に入校。1927年(昭和2年)12月6日卒業する。
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奥井 復太郎(おくい ふくたろう、1897年(明治30年)1… 奥井 復太郎(おくい ふくたろう、1897年(明治30年)11月21日 - 1965年(昭和40年)2月16日)は、昭和期の日本の都市経済学者・都市社会学者・農業経済学者。経済学博士。慶應義塾長、日本における都市研究の先駆者。景観論や風景へのアプローチも行った。 日本都市学会初代会長、文化勲章受章者選考委員会ならびに文化功労者選考審査会委員、特殊法人国民生活研究所(現・独立行政法人国民生活センター)所長、日本開発センター顧問、財団法人観光産業研究所所長、地域開発研究所所長、海運経済研究所調査委員会委員、ユネスコ国内委員、社会開発懇談会委員等を歴任。
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及川 顕司(おいかわ けんじ、1897年〈明治30年〉11月… 及川 顕司(おいかわ けんじ、1897年〈明治30年〉11月21日 - 1985年〈昭和60年〉11月28日)は、日本の政治家。初代岩手県北上市長(2期)。 現在の岩手県北上市生まれ。1917年〈大正6年〉和賀郡黒沢尻町(現・北上市)役場に入る。1937年〈昭和12年〉同町助役。1941年〈昭和16年〉稗貫郡湯本村村長代理。同年西磐井地方事務所総務課長を経て、県嘱託。1944年〈昭和19年〉九戸、二戸、下閉伊各地方事務所総務課長。1947年〈昭和22年〉地方事務官西磐井地方事務所長となる。翌1948年〈昭和23年〉黒沢尻町長に当選。4年後の1952年〈昭和27年〉に再選。1954年〈昭和29年〉黒沢尻町は周辺の町村と合併して北上市が発足。
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鈴木 脩蔵(すずき しゅうぞう、1897年(明治30年)11… 鈴木 脩蔵(すずき しゅうぞう、1897年(明治30年)11月20日 - 1977年(昭和52年)11月8日)は、日本の内務官僚。官選岩手県知事。 新潟県出身。第七高等学校造士館を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し兵庫県属となり宍粟郡長に就任。 以後、警視庁工場課長、滋賀県書記官・経済部長、広島県書記官・経済部長、京都府書記官・学務部長、北海道庁部長・土木部長などを歴任。 1942年6月、岩手県知事に就任。1945年4月に知事を退任。その後、公職追放となった。1954年5月に京都市助役となり1958年まで在任。以後、近江絹絲紡績監査役、同常務取締役、(社) 京都倶楽部常務理事を務めた。
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小田 勝(おだ まさる、1897年(明治30年)11月19日… 小田 勝(おだ まさる、1897年(明治30年)11月19日 - 没年不明)は、日本の医師。山口病院院長。医学士。外祖父は第6代広島市長の小田貫一。妹の和子は岸田正記の妻。 小田得一の長男として広島県佐伯郡廿日市町で生まれる。生家は医師として三代続く家であり、父・得一は、大阪医学校(現・大阪大学医学部)出身で内科、眼科を開業した。得一は、広島県の医学界において腕利きの一人として名声があり、長年に渡って県医師会理事に挙げられるほど逸材であった。 1925年(大正14年)、慶應義塾大学医学部を卒業し、同大学産婦人科教室に入り、3年間研究に没頭する。1928年(昭和3年)、山口病院初代院長・山口卓治の死亡により院長を承継し、山口病院院長に就任。
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佐伯 忠義(さへき ただよし、1897年(明治30年)11月… 佐伯 忠義(さへき ただよし、1897年(明治30年)11月19日 - 1969年(昭和44年)4月8日)は、大正から昭和期の農業指導者、政治家。衆議院議員、鳥取県西伯郡天津村長。 鳥取県西伯郡天津村大字福成(西伯町を経て現南部町)で生まれる。1911年(明治44年)法勝寺実業専修学校を卒業した。農業を営む。 天津村長に在任。1937年(昭和12年)4月、鳥取県会議員に選出され、1947年(昭和22年)まで在任。また、鳥取県産業組合連合会幹事、西伯郡畜産組合長、天津村農会長、同産業組合長、西伯郡家畜保険組合長、鳥取県農業会理事、同粗飼料製粉組合長、同馬匹組合長、同酪農組合連絡会長などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で鳥取県全県区から日本進歩党公認で出馬して当選し、のちに民主党に所属して衆議院議員に1期在任した。
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中川 善之助(なかがわ ぜんのすけ、1897年〈明治30年〉… 中川 善之助(なかがわ ぜんのすけ、1897年〈明治30年〉11月18日 - 1975年〈昭和50年〉3月20日 )は、日本の法学者。東北大学名誉教授、金沢大学名誉教授。正三位勲一等。日本の家族法の権威である。 1897年、東京府(現・東京都)神田で生まれた。金沢第一中学校、第四高等学校を経て、東京帝国大学に進学。穂積重遠門下で法学を学び、1921年に東京帝国大学法学部を卒業。 1922年9月、東北帝国大学法文学部助教授に就任し、民法学第一講座を担当した。1927年、東北帝国大学法文学部教授に昇格。1940年、第2代仙台法経専門学校校長に任命された。以後、死去するまで同校校長を務めた。 1961年、東北大学を定年退官し、名誉教授となった。
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北村 一男(きたむら かずお、1897年11月17日 - 1… 北村 一男(きたむら かずお、1897年11月17日 - 1965年3月29日)は日本の政治家、参議院議員、新潟県知事。 1897年、新潟県見附市出身。新潟県立加茂農林学校を経て1920年(大正9年)に中央大学商科を卒業後、堤商会(のちに旧日魯漁業、輸出食品と合同して社名を日魯漁業に、現マルハニチロ)に入社して樺太-カムチャツカ間を往復。この際ゲーペーウーに拿捕されるなどの苦労があったが、これによって堤清六社長の信頼を得た。戦後は自由党に所属し、1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙に新潟地方区から出馬して初当選。2期にわたって議員を務め、農林政務次官、国土総合開発審議会、米価審議会各委員、参議院法務委員長、党の政務調査会副会長、参議院幹事長などを歴任した。
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坂口 謹一郎(さかぐち きんいちろう、1897年(明治30年… 坂口 謹一郎(さかぐち きんいちろう、1897年(明治30年)11月17日 - 1994年(平成6年)12月9日)は、日本の農芸化学者。発酵、醸造に関する研究では世界的権威の一人で、「酒の博士」として知られた。東京大学応用微生物研究所初代所長および同大学名誉教授、理化学研究所副理事長。日本学士院会員。愛称は「坂謹(さかきん)」。 新潟県高田(現・上越市)出身。正利の長男 。新潟県立高田中学校を中退し上京、神田の順天中学校に編入。同期には中村震太郎もいたが、とくに学友との交流もなかった。同校卒業後、第一高等学校理科に首席で入学。1919年、同校卒業、1922年、東京帝国大学農学部卒業。同助手、講師、助教授を経て、1939年、教授。
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大倉 三郎(おおくら さぶろう、1897年〈明治30年〉11… 大倉 三郎(おおくら さぶろう、1897年〈明治30年〉11月16日 - 1982年〈昭和57年〉10月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)。 大阪府中河内郡布施町(現東大阪市)出身。旧制八尾中学中退。布施町議を務める。1935年(昭和10年)9月25日に大阪府会議員に当選して1939年(昭和14年)9月24日に退任した。そのほか布施市議となる。また、1937年(昭和12年)6月11日から1938年(昭和13年)8月1日までと、1939年(昭和14年)12月12日から1942年(昭和17年)6月15日まで初代及び第3代同市会議長を務めた。同年の第21回衆議院議員総選挙で大阪5区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。
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吉村 茂樹(よしむら しげき、1897年(明治30年)11月… 吉村 茂樹(よしむら しげき、1897年(明治30年)11月14日 - 1985年(昭和60年)4月16日)は、日本史学者。 広島県出身。東京帝国大学卒。1936年(昭和11年)に東京帝大史料編纂所編纂官。1952年(昭和27年)、東京大学史料編纂所第一研究部長として、朱雀天皇千年式年祭に先立ち御事績を昭和天皇に進講した。1954年(昭和29年)に東京大学史料編纂所教授。1958年(昭和33年)に定年退官、上智大学教授。1967年(昭和42年)に退職。専門は平安・鎌倉時代の政治・法制、古文書学。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
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足立 仁(あだち まさし、1897年〈明治30年〉11月13… 足立 仁(あだち まさし、1897年〈明治30年〉11月13日 - 1978年〈昭和53年〉1月25日)は、日本の農学者・微生物学者。 1897年、東京府出身(北海道生まれ)。1921年(大正10年)に北海道帝国大学農学部農芸化学科卒業後、同大学助教授。台湾総督府高等農林学校教授などを経て、欧米遊学後の1928年(昭和3年)に台北帝国大学助教授に着任、1937年(昭和12年)同教授に昇任して務めた。ちなみに、台湾時代に住んでいた住居(台北市昭和町)は現在も同地で保存されており、レストラン「青田七六」として営業している。 戦後は、大阪府立大学や玉川大学などの教授を務めた。1965年に論文「Mikrobiologisch und Mikrobiochemische Untersuchungen uber die Rhizosphare der Kultur-pflanzen zur Verbesserung der Bodenfruchtbarkeit in den Tropen-und Subtropen-Bodenあ(熱帯及び亜熱帯における栽培作物の土地改良による根圏の微生物学的及び微生物化学的研究) 」を北海道大学に提出して農学博士号を取得。
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内村 祐之(うちむら ゆうし、1897年(明治30年)11月… 内村 祐之(うちむら ゆうし、1897年(明治30年)11月12日 - 1980年(昭和55年)9月17日)は、日本の医学者、精神科医。専攻は臨床精神医学、神経病理学。東京大学名誉教授、日本学士院会員。プロ野球コミッショナー。 キリスト教思想家として著名な内村鑑三を父、内村の4度目の妻内村静子を母として、東京府に誕生する。 獨逸学協会学校中等部から第一高等学校(医科)を経て、東京帝国大学に進む。一高野球部と草創期の東大野球部でも活躍し、特に一高時代の1918年、同校の野球投手として三高(京都)、学習院のほか、早稲田と慶應義塾を久しぶりに撃破するなど、15年ぶりに事実上の全国制覇を果たした。学生野球界で、当時隆盛を極めた左腕投手としてその名を馳せた。
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宇野 弘蔵(うの こうぞう、1897年11月12日 - 19… 宇野 弘蔵(うの こうぞう、1897年11月12日 - 1977年2月22日)は、日本のマルクス経済学者。 日本のマルクス経済学者の中でも特に影響力の大きな一人であり、その学派は宇野学派と称された。宇野学派は新左翼や社会主義協会に影響をあたえた。 岡山県倉敷市に生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学し、同期には、後に宇野の人生に大きな影響を与えた西雅雄や一高の特待生となる松田享爾、関西大学法学部教授になる高木益郎がいた。卒業後、第六高等学校を経て、1921年に東京帝国大学経済学部卒業。1954年、経済学博士(東京大学)。 1921年、大原社会問題研究所入所。ドイツ留学を経て、1924年に東北帝国大学法文学部経済学第三講座(経済政策論)助教授。
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加世田 哲彦(かせだ てつひこ、1897年〈明治30年〉11… 加世田 哲彦(かせだ てつひこ、1897年〈明治30年〉11月11日 - 1971年〈昭和46年〉7月25日)は、日本の海軍軍人。成績優秀な将校であったが、神政龍神会の結成にかかわり、不敬罪に問われ失官となる。最終階級は海軍中佐。 鹿児島県出身。鹿児島二中より海軍兵学校47期に首席入校。在学中も学術優等章を2度授与され、次席及び恩賜で卒業した。同期生に光延東洋、横山一郎、城英一郎などがいる。 1920年(大正9年)、少尉任官。尉官時代は霞ヶ浦海軍航空隊附としてセンピル教育団に関わり、第一遣外艦隊参謀、練習艦隊副官、戦艦「長門」分隊長、財部彪副官などを歴任。1930年(昭和5年)12月1日、海軍少佐へ進級し海軍大学校甲種30期へ進む。
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