スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
久保園 晃(くぼその あきら、1930年5月6日 - 201… 久保園 晃(くぼその あきら、1930年5月6日 - 2016年12月26日)は、日本の宇宙航空エンジニアであり、日本の宇宙開発の草分け的存在である。 1930年(昭和5年)5月に中国遼寧省瀋陽市に生まれる。戦後鹿児島県日置郡伊集院町(現・日置市)に引き上げ、旧制第七高等学校、鹿児島大学文理学部物理学科を卒業後、1953年(昭和28年)運輸省運輸技術研究所航空部に入所。航空機の風洞実験などを学ぶ。1955年(昭和30年)新三菱重工(現・三菱重工業)名古屋航空機製作所に入社。技術部の空力研究課、電子技術課、飛翔体基礎設計課などで、航空機に関する実験、設計などを行い、国産旅客機YS-11の開発にも携わった。
梶山 純(かじやま じゅん、1930年(昭和5年)5月 - … 梶山 純(かじやま じゅん、1930年(昭和5年)5月 - )は、日本の法学者。専門は商法。八幡大学名誉教授。長崎県国見町出身。 長崎県立長崎中学校 (旧制)3年生の時に原爆を体験する。第七高等学校造士館 (旧制)を経て、1953年九州大学法学部法律学科卒業。その後九州大学大学院助手を経て、1960年八幡大学法経学部講師に就任、以後助教授、教授を歴任。2003年九州国際大学より名誉教授の称号を受く。
大里 仁士 (おおさと ひとし、1929年4月28日 - 2… 大里 仁士 (おおさと ひとし、1929年4月28日 - 2002年2月19日) は日本の経済学者。元九州国際大学学長。鹿児島県出身。 1949年 旧制第七高等学校理科卒業。1958年 福岡大学商学部商学科卒業。九州経済調査会にて研究員。1966年 八幡大学法経学部助教授就任(経済政策)。1989年 法経学部長就任。1992年 シェフィールド大学留学。1999年 九州国際大学学長就任。学長在任中の2002年2月19日、肺炎のため死去。 戦後日本社会におけるエネルギー問題(特に九州地方の石炭産業)の研究が多くある。
宮久 三千年(みやひさ みちとし、1928年 - 1983年… 宮久 三千年(みやひさ みちとし、1928年 - 1983年2月6日)は、日本の地球科学者。専門は、鉱床学・鉱物学。大分県生まれ。 旧制第七高等学校造士館を経て、1952年に九州大学理学部地質学科を卒業。その後、九州大学工学部採鉱学科応用地質学講座の木下亀城の指導を受け、1957年3月まで大学院に在籍。1957年5月、愛媛大学文理学部助教授として赴任し、1969年に同大学理学部教授に昇進。1980年4月以降、病気療養のため休職した。「尾平式鉱床に伴う鉱石鉱物の組織と共生」で、1962年、九州大学より工学博士の学位を取得。 卒業論文以来、一貫して大分県尾平鉱床地域を中心とした九州地方の各種金属鉱床の研究に精力を傾け、数多くの論文を発表した。
坂田 耕四郎(さかた こうしろう、1927年1月24日 - … 坂田 耕四郎(さかた こうしろう、1927年1月24日 - 2003年8月11日)は、日本の経営者。三井生命保険社長、会長を務めた。 鹿児島県肝属郡根占町出身。1945年旧制第七高等学校造士館文科卒業。1949年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に三井生命保険に入社。 1973年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1983年7月に副社長に就任し、1987年7月には社長に昇格。1997年4月に会長に就任し、2001年7月に相談役を経て、2002年1月から特別顧問を務めた。 1992年に藍綬褒章を受章し、2001年に勲一等瑞宝章を受章。 2003年8月11日心不全のために死去。76歳没。
森山 信吾(もりやま しんご、1926年11月2日 - 19… 森山 信吾(もりやま しんご、1926年11月2日 - 1987年12月9日)は、日本の通産官僚、経営者。資源エネルギー庁長官、第二電電初代社長を務めた。 鹿児島県出身。曽於郡有明町(志布志市)生まれ。1945年第七高等学校造士館文科卒業。1948年に京都大学法学部を卒業し、同年に通商産業省に入省。 中小企業庁、福岡通産局石炭部炭政課長、重工業局、1962年ジェトロサンフランシスコセンター、1966年貿易局輸出課長、1967年経済企画庁開発計画課長、1969年ジェトロバンコクセンター所長、1972年通商局政策課長、1973年通商政策局経済協力部長、1974年機械情報産業局次長、1975年資源エネルギー庁次長、1976年貿易局長、1977年機械情報産業局長、1979年資源エネルギー庁長官を経て1983年6月に退官し、京セラ副社長に就任。
稲川 誠一(いながわ せいいち、1926年1月11日 - 1… 稲川 誠一(いながわ せいいち、1926年1月11日 - 1985年3月20日)は、日本の歴史学者である。元聖徳学園岐阜教育大学教授。 愛知県名古屋市出身。第七高等学校造士館を経て、1948年に東京帝国大学文学部国史学科卒業、同大学院に進学。健康診断の結果、公立高校に就職できず、はじめ鶯谷女子高等学校に赴任し、後に健康が回復してから岐阜県立大垣北高等学校の教諭などをつとめる。その後、1980年に高山短期大学助教授、1982年に聖徳学園岐阜教育大学講師。1984年に助教授、1985年に教授に昇進。 七高で久保田収、東大で平泉澄に師事。日本中世史を専門とし、『新修大垣市史』の中世の部分を担当し、また岐阜県内の東大寺領荘園の研究に従事。
桐原 久(きりはら ひさし、1925年3月17日 - 198… 桐原 久(きりはら ひさし、1925年3月17日 - 1987年1月1日)は、南日本放送代表取締役社長。同局アナウンサー、マーケティング理論家、鹿児島経済大学講師。 鹿児島県薩摩郡東郷町(薩摩川内市)生まれ。熊本陸軍幼年学校を経て、1945年陸軍航空士官学校卒業(58期)、陸軍少尉任官。1949年旧制第七高等学校文科卒業。1955年神戸大学経営学部卒業。
進士 晃(しんじ あきら、1922年12月28日 - 199… 進士 晃(しんじ あきら、1922年12月28日 - 1995年?)(旧姓 守永晃)は、日本の天文学者(天文暦)。理学博士(東京大学)。 旧制第七高等学校、東京帝国大学理学部天文学科卒業。海上保安庁水路部編暦課長、参事官。後、ハイデルベルク大学天文計算研究所客員教授(1978-1980)、マレーシア工科大学客員教授、その後、放送大学講師、東洋大学講師等を兼任。 日本天文学会、宇宙開発事業団、日本学術会議等メンバー。国際天文学会では天文暦委員長(1979-1982)を務めた。交流を続けていた天文学者に、ヴァルター・フリッケ(英語版)、ハンス=ハインリヒ・フォークト(英語版)がいる。 戦時中の疎開について東京大学天文学教室のOBらと『されど天界は変わらず・諏訪の温泉宿で迎えた終戦』(東京大学理学部天文学教室編 1993年)を出版した。
海野 一隆(うんの かずたか、1921年12月19日 - 2… 海野 一隆(うんの かずたか、1921年12月19日 - 2006年5月4日)は、日本の地理学者(東洋地理学史)。大阪大学名誉教授。 1921年、静岡県浜松市生まれ。第七高等学校造士館を経て、京都帝国大学文学部に進学。史学科地理学専攻で小牧実繁、室賀信夫に師事した。1945年に同大学文学部を卒業。卒業後は岐阜県の中学校教員となった。 1948年、大阪第二師範学校の教員となった。その後、大阪学芸大学講師、後に助教授昇格。1963年、大阪大学教養部教授となり、人文地理学講座を担当した。1985年に大阪大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、大阪清浄女子短期大学で教鞭をとり、1991年に退任した。
横山 保(よこやま たもつ、1921年5月28日 - 199… 横山 保(よこやま たもつ、1921年5月28日 - 1996年7月30日)は、日本の経済学者・統計学者。大阪大学名誉教授、高岡短期大学初代学長・名誉教授。博士。数理経済学者として日本の戦後初期の経済学発展に大きく貢献した。 神奈川県生まれ。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業。第七高等学校造士館 (旧制)理科甲類に1940年4月入学、1942年9月卒業。東京帝国大学理学部数学科に1942年10月入学、1945年9月卒業。1946年2月1日に関東学院中学部講師嘱託となり、6月1日に関東学院工業専門学校講師に転任、12月1日に同校教授に昇任し1949年3月31日まで務める。1949年度は新制静岡県立富士高等学校に教諭として勤務。
高良 和武(こうら かずたけ、1921年2月9日 - 201… 高良 和武(こうら かずたけ、1921年2月9日 - 2019年1月30日)は、放射光科学を専門とする日本の物理学者。鹿児島市出身。東京大学及び高エネルギー加速器研究機構名誉教授。動力学X線回折理論の研究により、放射光科学と結晶学の発展に貢献した。また後年は、産学連携や高等教育におけるインターンシップ制度の推進にも尽力した。 フォトン・ファクトリー施設長、日本結晶学会会長、日本放射光学会会長、学校法人筑波研究学園理事長、総合科学研究機構理事長、日本インターンシップ学会会長を歴任した。 高良大社の宮司の家に生まれる。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校、旧制第七高等学校造士館、九州帝国大学理学部物理学科卒業。
福田 正臣(ふくだ まさおみ、1919年3月25日 - 20… 福田 正臣(ふくだ まさおみ、1919年3月25日 - 2012年3月28日 )は、日本の医師、医学者。内科医。医学博士。心筋梗塞研究の権威だった。 鹿児島県の奄美大島名瀬の生まれで、大島郡龍郷町出身。1942年第七高等学校造士館 (旧制)理科卒業。1945年九州帝国大学医学部を卒業して、操坦道教授の第一内科に副手として入局し、1951年九州大学第一医学部内科助手。1952年鹿児島市立病院内科医長に就く。1953年九州大学より医学博士授与。論文の題は「抗痙攣剤の人体脳波に及ぼす影響について」。1955年1月鹿児島大学医学部第一内科助教授に就任。鹿児島大学助教授を長く務めた後、再び鹿児島市立病院に転じて循環器内科部長。
赤星 進(あかほし すすむ、1918年11月10日 - 20… 赤星 進(あかほし すすむ、1918年11月10日 - 2012年5月18日)は、日本の精神科医。クリスチャンとして「医学と福音」をライフワークのテーマとし精神医学と神学の関係を研究した。また日本ルーテル神学大学や東京神学大学などの神学校で精神医学を講じた。 鹿児島県鹿児島市生まれ、出身。1938年(昭和13年)第七高等学校造士館 (旧制)理科卒業。1943年(昭和18年)東京大学医学部卒業。大槻外科入局、副手。医学博士。 1946年(昭和21年)、国立療養所清瀬病院外科医長。1953年(昭和28年)、東芝林間病院副院長兼外科医長。1961年(昭和36年)、浜松の社会福祉法人聖隷病院院長。1958年、シカゴ大学で「医学と宗教の関係」を研究。
曾山克巳(そやま かつみ、1918年7月21日 - 2006… 曾山克巳(そやま かつみ、1918年7月21日 - 2006年4月15日)は、日本の郵政官僚。郵政事務次官などを務めた。 鹿児島県鹿児島市出身。1938年第七高等学校造士館(現:鹿児島大学)文科卒業。東京帝国大学法学部政治学科在学中に高等試験に合格。東京帝大法学部政治学科を卒業し、1941年逓信省入省。 郵政省郵務局国際業務課長、郵務局次長、名古屋郵政局長。 1963年7月10日東京郵政局長。1964年5月27日 人事局長。1966年7月11日郵務局長。1969年11月21日郵政事務次官。1971年7月2日退官。 1974年日本電気(NEC)に入社し、常務、専務、副社長を歴任。1982年日本電気システム建設取締役会長。
中村 末男(なかむら すえお、1915年11月18日 - 1… 中村 末男(なかむら すえお、1915年11月18日 - 1996年3月9日)は、日本の物理学者、物性学者。鹿児島大学第4代学長・名誉教授、大分大学(旧)第5代学長、鹿児島女子大学(志學館大学)第3代学長。理学博士。専門は固体物性学。 長崎県出身。広島文理科大学(広島大学の前身)理学部物理学科へ1939年春に入学し、1941年12月に卒業。勝山小学校訓導兼旧制長崎県立長崎中学校物理学非常勤講師を経て、1944年、旧制第七高等学校造士館教授に就任。勤労動員で長崎の三菱工場へ行って、原子爆弾に被爆し、偶然トンネルに入っていたため自身は一命をとりとめる。 学制改革により、1950年3月31日、新制鹿児島大学文理学部助教授に就任。
服部 新佐(はっとり しんすけ、1915年8月10日 - 1… 服部 新佐(はっとり しんすけ、1915年8月10日 - 1992年5月12日)は日本の植物学者である。南九州の蘚苔類の研究で知られる。 宮崎県日南市飫肥に生まれた。第七高等学校を経て東京帝国大学理学部に入学し、卒業後東京科学博物館(現、国立科学博物館)で働いた。1946年に、家業の林業を継ぐため帰郷し、日南市に服部植物研究所を設立した。林業の傍ら、当時、研究がほとんどなされていなかった蘚苔類の研究を行い、南九州に分布する蘚苔類の分類学的研究を行い、その後日本各地、アジアやニューギニアの蘚苔類の研究も行った。服部植物研究所は蘚苔類の国際的な研究センターになった。胞子体がなく特徴的な配偶体をもつナンジャモンジャゴケ(Takakia lepidozioides)を記載したことでも知られる。
新福 尚武(しんふく なおたけ、1914年3月2日 - 20… 新福 尚武(しんふく なおたけ、1914年3月2日 - 2012年3月12日)は、日本の医学者・精神科医。東京慈恵会医科大学名誉教授。長男は医学者で神戸大学名誉教授の新福尚隆。 鹿児島県鹿児島市生まれ。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1937年九州帝国大学医学部卒業、下田光造に師事。1947年「ショック療法の精神病理学的研究」で九州帝国大学より医学博士の学位を取得。 台北帝国大学医学部精神科助手、陸軍軍医(高雄)、鳥取大学医学部助教授などを経て、1952年同教授。1966年東京慈恵会医科大学教授、1979年定年退職、名誉教授。アルコール医学会長、交通科学会長、心身医学会長、国際老年精神医学会名誉会長など。
橋口 隆(はしぐち たかし、1913年〈大正2年〉10月1日… 橋口 隆(はしぐち たかし、1913年〈大正2年〉10月1日 - 2005年〈平成17年〉2月21日)は、日本の政治家、元商工・通産官僚、元自由民主党衆議院議員(6期)。 鹿児島県肝属郡根占町(現・南大隅町)出身。橋口順孝の長男。第七高等学校造士館を経て、1938年、東京帝国大学法学部を卒業。1937年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1938年、商工省に入省し貿易局属となる。 以後、商工省・情報局・軍需省・綜合計画局・戦災復興院・物価庁などの事務官、商工省木製品課長、通商産業省アルコール事業長、広島通商産業局長、福岡通商産業局長などを歴任。 1967年1月の第31回衆議院議員総選挙で鹿児島3区から自民党公認で立候補して初当選。
三浦 靱郎(みうら ゆきお、1912年2月5日 - 1997… 三浦 靱郎(みうら ゆきお、1912年2月5日 - 1997年5月20日)は、日本のドイツ文学者。 東京出身。1934年東京帝国大学文学部独文科卒。1937年第七高等学校教授、陸軍教授、第五高等学校教授、法政大学教授、東京学芸大学教授。1975年日本工業大学教授、1978年学長。1987年勲二等瑞宝章受勲。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
築島 謙三(つきしま けんぞう、1911年1月24日 - 1… 築島 謙三(つきしま けんぞう、1911年1月24日 - 1992年4月7日)は、日本の社会心理学者、元東京大学東洋文化研究所教授。 鹿児島県生まれ。1934年旧制第七高等学校造士館文科卒業。1941年東京帝国大学文学部心理学科卒、同年東京府立第三商業学校教諭、1943年東京帝国大学東洋文化研究所助手、1951年専任講師、1962年「文学心理学基礎論」で東洋大学文学博士、1968年東京大学東洋文化研究所教授、1971年定年退官、成城大学文芸学部教授、1980年退職。日本社会心理学会理事長を務めた(1960年 - 1964年、1966年 - 1968年)。 次第に日本文化論に関心を移した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
田代 不二男(たしろ ふじお、1910年6月2日 - 199… 田代 不二男(たしろ ふじお、1910年6月2日 - 1992年8月29日)は、日本の社会学・社会福祉学者。 鹿児島県出身。1933年旧制第七高等学校造士館文科卒業。東京帝国大学卒。厚生省児童局企画課で、1949年アメリカに学び、1951年の児童憲章制定に関わる。1961年「公的扶助の現状と問題点」で東北大学文学博士。1960年東北大学文学部助教授、1964年教授、1974年定年退官、名誉教授、東北福祉大学教授、1975年立正大学教授を務め、81年退職。
国崎 望久太郎(くにさき もくたろう、1910年(明治43年… 国崎 望久太郎(くにさき もくたろう、1910年(明治43年)4月21日 - 1989年(平成元年)11月1日)は、日本文学研究者・歌人。立命館大学名誉教授。 福岡県山門郡大和町(現柳川市)生まれ。1931年第七高等学校中退。1936年東洋大学文学部国文科卒、同年7月九州帝国大学法文学部中退、立命館大学専門学部講師、1940年教授、1945年立命館大学予科教授、1947年4月立命館大学法文学部教授、5月退職、6月杉森女子学園講師、1950年福岡県立伝習館高等学校講師、1951年教諭、1953年立命館大学図書館副館長、1955年立命館大学専任講師、1957年教授、1961年 東洋大学文学博士。1966年から1968年まで立命館大学図書館長、1976年定年退任、名誉教授、園田学園女子大学教授。
平原 浩哉(ひらはら こうさい、1908年(明治41年)9月… 平原 浩哉(ひらはら こうさい、1908年(明治41年)9月27日 - 1992年(平成4年)10月7日[要出典])は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。 日本統治時代の台湾、台北庁生まれ。台北第一中を経て、第七高等学校造士館を卒業。1932年(昭和7年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、鹿児島県属となる。1935年(昭和10年)10月、高等試験行政科試験に合格。1937年(昭和12年)台湾総督府属に転じる。1940年(昭和15年)1月、地方理事官に進み、台南州北門郡守に就任。 ついで殖産局商工課勤務、企画部労務課勤務、高雄州総務部教育課長などを歴任した。
上野 喜一郎(うえの きいちろう、1907年11月13日- … 上野 喜一郎(うえの きいちろう、1907年11月13日- )は、日本の船舶工学者、歴史家。 1928年旧制第七高等学校造士館理科甲類卒業。1931年東京帝国大学工学部船舶工学科卒業。逓信局管船局に入る。東京高等商船学校教授(兼)、海務院船舶部、海軍艦政本部(商船班)、運輸省船舶局(検査制度課長)、東京大学工学部(船舶工学科)講師、川崎重工業株式会社技術顧問、日本船舶振興会及び日本海事科学振興財団(船の科学館)勤務。1977年度交通文化賞受賞。
福島 幸夫(ふくしま さちお、1907年11月8日 - 19… 福島 幸夫(ふくしま さちお、1907年11月8日 - 1983年2月13日)は、日本の検察官、弁護士。東京地検特捜部初代部長、検事正(佐賀地検、新潟地検)、最高検検事等を歴任した。 鹿児島県日置郡串木野村(後の串木野市、いちき串木野市)出身。1928年に第七高等学校造士館文科を卒業。1930年11月、高等試験司法科合格。1931年3月に東京帝国大学法学部を卒業し、同年6月に司法官試補となる。1933年9月、東京地方裁判所予備検事に任官され、11月より横浜地方裁判所予備検事。1934年4月、前橋区裁判所検事に任官され、1936年4月より千葉区裁判所検事、1937年7月より東京区裁判所検事。1939年10月、司法省刑事局事務官となる。
村上 忠敬(むらかみ ただよし、1907年7月23日 - 1… 村上 忠敬(むらかみ ただよし、1907年7月23日 - 1985年2月11日)は、日本の天文学者。広島大学名誉教授、広島女学院大学学長。 鹿児島県鹿児島市加治屋町生まれ。天文学者・物理学者である村上春太郎の三男。天体の地図である星座図を作る天文学者になってほしいという春太郎の想いから、日本の測量地図作りで有名な伊能忠敬(ただたか)にあやかり、読みを「ただよし」と変えて名付けられた。 1928年旧制第七高等学校造士館(現鹿児島大学)理科卒業。1931年京都帝国大学理学部宇宙物理学科卒業。金城女子専門学校教授、名古屋高等工業学校教授を経て、1941年夏より広島高等師範学校教授。後に、広島大学教養部教授。
吉川 覚(よしかわ さとる、1906年2月7日 - 1978… 吉川 覚(よしかわ さとる、1906年2月7日 - 1978年1月26日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。福井県最後(第36代)の官選知事だが、現地には赴任しなかった。 1906年(明治39年)、徳島県海部郡の海産物商の家に生まれる。熊本時習中学、第七高等学校造士館を卒業。1929年(昭和3年)10月、文官高等試験行政科試験に合格。1930年(昭和5年)3月、東京帝国大学法学部英法科を卒業、内務省に入省し宮崎県内務部土木課兼地方課に勤務。12月、宮崎県知事官房文書課長。以後、島根県警察部警務課長、同特別高等警察課長、熊本県警察部特別高等警察課長、内務省警保局保安課勤務、北海道庁拓殖部長、愛媛県経済部長、軍事保護院援護局指導課長、防空総本部総務局疎開課長、同施設局人員疎開課長、島根県内政部長、兵庫県経済部長などを歴任する。
水田 文雄(みずた ふみお、1906年1月23日 - 199… 水田 文雄(みずた ふみお、1906年1月23日 - 1994年 9月30日)は日本の小説家、広告評論家。 サラリーマンのかたわら書いたベストセラーを含み著作は多数で、マルチ広報活動エッセイストとしても活躍した。 第七高等学校造士館文科卒業。1930年東京大学文学部支那哲学科卒業、文学博士。 ベルリン及びミユンヘン大学留学 - 新聞研究室に在籍。 1930年朝日新聞入社。 南京、上海、欧州主にドイツ駐在で、ロシアを含み欧州各国を取材で回る。 自由言論弾圧にあい朝日新聞退社。 東宝(株)入社、宣伝部長。 後楽園スタヂアム支配人。 花王石鹸入社、中国駐在となり、上海公司取締役社長、天津支社長兼工場長。
黒松巌(くろまついわお、1906年1月18日-1976年11… 黒松巌(くろまついわお、1906年1月18日-1976年11月8日)は、日本の経済学者。 鹿児島市生まれ。第七高等学校造士館卒、1931年京都帝国大学経済学部卒、1960年「日本工業の構造」で京都大学経済学博士。1938年建国大学助教授、1944年教授、1948年同志社大学経済学部教授。59-61年経済学部長、1976年定年、名誉教授となる。
佐野 博(さの ひろし、1905年3月24日 - 1989年… 佐野 博(さの ひろし、1905年3月24日 - 1989年4月4日)は、日本の社会主義運動家、評論家。田中清玄とともに、いわゆる「武装共産党」時代の日本共産党(第二次共産党)の指導部を組織した。佐野学の甥で、共産党系演劇人で革命歌「インターナショナル」訳詞者の佐野碩、社会学者鶴見和子・哲学者鶴見俊輔姉弟は従妹弟にあたる。 1905年、大分県速見郡杵築町(現・杵築市)に生まれる。旧制第七高等学校在学中に、学生サークル「鶴鳴会(かくめいかい)」に参加。1923年(大正12年)9月、鹿児島港にソ連の船が入港した折に佐野を含む鶴鳴会のメンバー数人は手漕ぎのボートで接近、「インターナショナル」を歌って乗船を許され、身振り手振り(メンバーにはロシア語に通じたものがいなかった)で船長と意思疎通を図り、パンフレットなどを渡されて戻るという事件を起こす。
川上 米男(かわかみ よねお、1904年11月29日 - 1… 川上 米男(かわかみ よねお、1904年11月29日 - 1990年2月25日)は、日本の実業家、技術者である。長府製作所の実質的創業者であり、同社の社長と会長を歴任した。 1904年に福岡県久留米市に生まれる。第七高等学校(旧制)を経て、1928年3月九州帝国大学農学部を卒業する。 卒業後、農林省に入省し、農業試験場で農機具の試験などを行った。1946年山口県農業会長府工場の製造部長に就任する。8カ月ほどで見切りをつけたが、1949年山口県経済連(旧山口農業会)長府工場の再建を依頼され工場長として復帰し、以降実質的な経営者となる。 1954年長府工場が「株式会社長府製作所」へ改組後、専務取締役に就任する。
山岸 外史(やまぎし がいし、1904年(明治37年)7月1… 山岸 外史(やまぎし がいし、1904年(明治37年)7月16日 - 1977年(昭和52年)5月7日)は日本の評論家。 東京出身。大倉喜八郎の片腕で日本製靴(現在のリーガルコーポレーション)社長などを歴任した山岸覺太郎(1867年-1937年; 米国留学後、山岸藪鶯の筆名でダグラス・フォウセット『空中軍艦』などの翻訳もおこなった)の息子。第七高等学校を経て、東京帝国大学文学部哲学科で出隆に師事。1931年(昭和6年)、同人誌『アカデモス』を主宰。1934年(昭和9年)に『散文』を創刊。創刊号掲載の「『紋章』と『禽獣』の作家たち」で川端康成に、「佐藤春夫論」で佐藤春夫にそれぞれ認められた。 1934年、太宰治や檀一雄たちと共に同人誌『青い花』に参加。
日高 孝次(ひだか こうじ、1903年11月4日 - 198… 日高 孝次(ひだか こうじ、1903年11月4日 - 1984年8月15日)は、日本の海洋物理学者。弟は歴史学者の日高次吉。 1903年に宮崎県宮崎郡広瀬村(現在の宮崎市)で出生。旧制宮崎中学を経て第七高等学校造士館を卒業後、東京帝国大学理学部物理学科に進学し、1926年(大正15年)に同大学を卒業。その後すぐに中央気象台に入庁、海洋気象台で勤務した。この間、転倒温度計(英語版)に関する日高公式を作成した。 1934年(昭和9年)に「湖沼の振動及び海流に関する海洋物理学的研究」で理学博士。同論文で帝国学士院から学士院賞を受賞した。1941年(昭和16年)、他の日本の海洋学者らとともに日本海洋学会を設立し、自身も1948年(昭和23年)から1966年(昭和41年)まで同会会長を務めた。
秋山 謙蔵(あきやま けんぞう、1903年(明治36年)2月… 秋山 謙蔵(あきやま けんぞう、1903年(明治36年)2月1日 - 1978年(昭和53年)3月5日)は、日本の歴史学者。号は一石。日中関係史、琉球貿易などの研究で知られる。大正大学教授、國學院大學教授、女子美術大学教授などを歴任した。大日本言論報国会理事。主著に『日支交渉史話』『日支交渉史研究』。 広島県比婆郡西城町(現・庄原市)に生まれる。旧姓は江木。1925年に第七高等学校造士館を卒業し、東京帝国大学文学部国史学科に入学、1928年に卒業、同大学院に入学。 国史学科卒業後すぐに史学会委員となり、東洋史学者の中山久四郎や日本歌謡史研究者の高野辰之のところに出入りする。国史学科の1年後輩にあたる森克己によれば、当時、高野辰之は「秋山は近年国史学界の生んだ鬼才ではないか?」と評していたという。
隈元 謙次郎(くまもと けんじろう、1903年1月28日 -… 隈元 謙次郎(くまもと けんじろう、1903年1月28日 - 1978年1月25日)は、美術史家。近代日本美術の研究に貢献。 鹿児島県鹿児島郡中郡宇村大字中(現在の鹿児島市鴨池)出身。1924年旧制第七高等学校理科卒業。1928年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業、1931年大学院西洋美術史専攻中退。1932年帝国美術院附属(1947年から国立博物館附属)美術研究所入所。1951年美術研究所第二研究部長となり、1952年の改組によって東京文化財研究所(1954年東京国立文化財研究所と改称)美術部第二研究室室長、1966年退職。1966年から1974年まで東京家政大学教授。その他、文化財保護審議会専門委員、東京国立近代美術館評議員も務めた。
富永 理(とみなが ただし、1902年(明治35年)8月2日… 富永 理(とみなが ただし、1902年(明治35年)8月2日 - ? )は、日本の哲学者。松商学園短期大学第5代学長。「リベラルな思想家」と評された。 佐賀県佐賀市生まれ。第七高等学校から、東京帝国大学文学部に進み、哲学科を卒業した。東亜研究所に勤務したが、戦後にシベリア抑留を経験し、1950年に鹿児島商科短期大学(後の鹿児島経済大学〜鹿児島国際大学の前身)教授となり、1959年に松商学園短期大学教授に転じた。 1971年6月に、当時の学長であった長守善が死去した後、学長事務取扱となり、翌1972年3月1日から正式に第5代学長となった。4期8年の学長在任中に、松商学園高等学校と共有されていたキャンパスの分離移転に取り組み、新村地区(現在の松本大学の校地の一部)への短大の新築移転を実現した。
大津 有一(おおつ ゆういち、1902年3月27日 - 19… 大津 有一(おおつ ゆういち、1902年3月27日 - 1983年7月1日)は、日本の国文学者。 石川県生まれ。1930年東京帝国大学文学部国文科卒。第七高等学校造士館 (旧制)教授、1949年金沢大学法文学部教授、1957年「伊勢物語古註釈の研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。金沢大法文学部長、66年定年退官、名誉教授、皇學館大學教授。『伊勢物語』を専門とした。
市来 吉至(いちき よしじ、1900年 <明治33年> 4月… 市来 吉至(いちき よしじ、1900年 <明治33年> 4月21日 - 1971年 <昭和46年> 2月28日)は、昭和時代の台湾総督府官僚、陸軍司政長官。位階は従四位。 市来半次郎の二男として、鹿児島県姶良郡に生まれる。台北中学から第七高等学校造士館を経て、1925年(大正14年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、台湾銀行に入行する。1929年(昭和4年)10月、高等試験行政科に合格。以後、台湾総督府交通局書記、地方理事官・高雄州岡山郡守、高雄台中各州内務部勧業課長、総督府事務官・鉄道部監督課長、鉄道部経理課長兼庶務課長兼交通局総務課長、鉄道部勤務などを経て、1942年(昭和17年)6月、香港占領地総督部民事部長に就任した。
木村有香(きむら ありか、1900年(明治33年)3月1日 … 木村有香(きむら ありか、1900年(明治33年)3月1日 - 1996年(平成8年)9月1日)は、日本の植物学者。 ヤナギ科の分類を大成した植物学者として知られているとともに、旧制第七高等学校造士館に在学中に原始的な形態を持ち生きている化石として知られるキムラグモを発見したことでも著名である。様々な地域の野生のヤナギを個体識別し、季節ごとに標本を採集し、同一個体から得られた標本を比較することで葉の形態の季節変異の著しいヤナギ科の分類の確立に努めた。 1958年(昭和33年)8月、昭和天皇の採集品を鑑定するために那須御用邸に招かれる。翌月には、他の有識者とともに天皇から植物に関する質問を受けたほか座談会に参加。
森田 俊介(もりた しゅんすけ、1899年(明治32年)12… 森田 俊介(もりた しゅんすけ、1899年(明治32年)12月27日 - 1980年(昭和55年)10月6日)は、日本の台湾総督府・厚生官僚。台中州知事。 福岡県鞍手郡若宮村(現宮若市)で森田栄介の長男として生まれる。第七高等学校造士館を経て、1924年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年5月、台湾総督府に入り、同属・内務局配属となる。同年11月、高等試験行政科試験に合格。 以後、内務局地方課配属、地方理事官・台中州大屯郡守、地方警視・台北州警務課長、警務局警務課配属などを経て、1929年12月、警視・警務局理蕃課長に就任。在任中に霧社事件が起こり、その対応に当たった。さらに、警務局衛生課長、同局警務課長、新竹州内務部長、台北州内務部長、文教局学務課長、台中州知事、文教局長などを歴任し、鉱工局長として終戦を迎えた。
小保内 虎夫(おぼない とらお、1899年4月25日 - 1… 小保内 虎夫(おぼない とらお、1899年4月25日 - 1968年12月21日)は、日本の心理学者。 岩手県二戸郡福岡町(現在の二戸市)出身。旧制福島中学、旧制第七高等学校造士館を経て、1924年東京帝国大学文学部心理学科卒業。東京高等学校教授、日本大学教授、1945年東京文理科大学教授、1949年東京教育大学教授、1963年日本大学文理学部教授を歴任。 1952年「認識錯誤の法則に関する研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。視知覚の研究で小保内学説と呼ばれる感応理論を創設。
正宗 厳敬(まさむね げんけい、1899年(明治32年)4月… 正宗 厳敬(まさむね げんけい、1899年(明治32年)4月22日 - 1993年(平成5年)6月18日)は、日本の植物学者。理学博士。 岡山県和気郡伊里村穂浪(現在の備前市穂浪)に生まれる。旧制第七高等学校を経て、1929年(昭和4年)、東京帝国大学理学部植物学科を卒業後、台北帝国大学理農学部助手となり、1934年(昭和9年)には同大助教授兼農林専門部教授となった。太平洋戦争後は、一時、横浜国立大学で勤務した後、1950年(昭和25年)金沢大学に赴任。金沢大学理学部(現・金沢大学理工学域)植物分類・地理学講座の初代教授を務めた。 ボルネオと台湾の植物誌の編纂、ラン科植物の分類などを行うと同時に、植物地理学的な研究も行った。
宮田 笑内(みやた しょうない、1898年(明治31年)12… 宮田 笑内(みやた しょうない、1898年(明治31年)12月18日 - 1965年(昭和40年)5月18日)は、日本の内務・警察官僚。官選福井県知事。 鹿児島県坊津(現南さつま市の一部)出身。宮田長八の長男として生まれる。第七高等学校造士館を卒業。1924年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。東京市役所を経て、1929年、内務省に入省し徳島県属となる。 以後、三重県警察部保安課長、大分県警察部特別高等警察課長、岡山県警察部特別高等警察課長、大阪府警察部外事課長、滋賀県書記官・警察部長、満州ハルピン駐在、茨城県書記官・警察部長、警視庁衛生部長、同保安衛生部長、同特別高等警察部長、内務省警保局外事課長、京都府部長・警察部長、警視庁警務部長などを歴任。
田中 豊(たなか ゆたか、1898年10月11日 - 196… 田中 豊(たなか ゆたか、1898年10月11日 - 1969年2月5日)は、愛媛県出身の大蔵官僚。大蔵次官、宝酒造社長、日本勧業銀行副総裁。 第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学法学部に入学。東京帝大在学時はア式蹴球部に所属した。 1923年に大学を卒業して大蔵省に入省。銀行局に配属。主税局国税課長、理財局長を経て、太平洋戦争中の1944年に主税局長に就任。1945年2月24日に大蔵次官に就任したが、津島壽一の大蔵大臣辞任に伴って同年4月に退任した。 戦後の1945年9月より日本勧業銀行の副総裁を務めたが、公職追放により副総裁を辞任し、弁護士を開業した。1951年、宝酒造社長に就任し、1965年に相談役となった。
菊池 盛登(きくち もりと、1898年〈明治31年〉7月 -… 菊池 盛登(きくち もりと、1898年〈明治31年〉7月 - 1961年〈昭和36年〉5月2日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、禁衛府長官。旧姓・河野。 大分県出身。河野円吉の二男として生まれ、菊池要六の養子となる。第七高等学校造士館を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し高知県属となる。 以後、地方警視として佐賀県警察部、長野県警察部、大阪府警察部で勤務。さらに、宮崎県書記官・警察部長、山口県書記官・警察部長、警視庁総務部長、同特別高等警察部長などを歴任。 1943年7月、滋賀県知事に就任。戦時下の食糧対策として琵琶湖周辺の干拓事業を推進した。
森 周六(もり しゅうろく、1898年(明治31年)3月14… 森 周六(もり しゅうろく、1898年(明治31年)3月14日-1961年(昭和36年)2月4日)は、日本の農学者、農業工学者。専門は農業機械学。農学博士。九州大学教授。九州大学農学部長や日本学術会議会員を歴任。 鹿児島県大島郡瀬戸内町阿木名出身。医師の父の六男として生まれる。阿木名尋常小学校、鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、1919年(大正8年)第七高等学校造士館 (旧制)卒業。1922年(大正11年)東京帝国大学農学部農学科卒業。東大の恩師のすすめで同年より東京帝国大学農学部講師。1924年(大正13年)7月28日、九州帝国大学農学部助教授となる。1933年(昭和8年)4月19日、論文「本邦在来犂ニ関スル研究」で北海道帝国大学より農学博士号授与(農業機械関係では日本初)。
泉 守紀(いずみ しゅき、1898年2月11日 - 1984… 泉 守紀(いずみ しゅき、1898年2月11日 - 1984年10月21日)は、第二次世界大戦中の官選沖縄県・香川県知事。沖縄県知事として、沖縄戦前の住民保護や防衛態勢構築に携わったが、連合国軍上陸前に転任した。 山梨県北都留郡大原村(現・大月市)に教育者泉文作の三男として生まれる。旧制第七高等学校を経て、1923年東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、青森県庁への赴任を皮切りに、全国各地の警察畑を歩む。この間に妻となる女性との交際を深めるが、親族の反対で入籍はできず、内縁関係として結婚生活を始めた。 1943年7月、北海道庁内政部長を務めていた泉に、沖縄県知事の辞令が下り、7月26日に赴任した。
鈴木 脩蔵(すずき しゅうぞう、1897年(明治30年)11… 鈴木 脩蔵(すずき しゅうぞう、1897年(明治30年)11月20日 - 1977年(昭和52年)11月8日)は、日本の内務官僚。官選岩手県知事。 新潟県出身。第七高等学校造士館を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し兵庫県属となり宍粟郡長に就任。 以後、警視庁工場課長、滋賀県書記官・経済部長、広島県書記官・経済部長、京都府書記官・学務部長、北海道庁部長・土木部長などを歴任。 1942年6月、岩手県知事に就任。1945年4月に知事を退任。その後、公職追放となった。1954年5月に京都市助役となり1958年まで在任。以後、近江絹絲紡績監査役、同常務取締役、(社) 京都倶楽部常務理事を務めた。
山岸 金三郎(やまぎし きんざぶろう、1897年(明治30年… 山岸 金三郎(やまぎし きんざぶろう、1897年(明治30年)9月13日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。台東庁長。 山岸徳松の三男として福岡県福岡市に生まれる。第七高等学校を経て、1924年(大正13年)3月に東京帝国大学法学部政治科を卒業。安田保善社に勤務する。 翌年の11月、高等試験行政科に合格と同時に台湾総督府交通局に奉職し書記となる。ついで同局参事、鉄道部改良課庶務係長、同部経理課長、財務局金融課長、警察幹部講習会講師、刑事講習会講師を経て、会計課長を発令される。1940年(昭和15年)1月、台中州内務部長に転じ、同年同州総務部長、米穀局総務課長を経て、1942年(昭和17年)8月に台東庁長に就任。