井上 赳夫(いのうえ たけお、1914年12月31日 - 2… 井上 赳夫(いのうえ たけお、1914年12月31日 - 2003年10月)は、航空工学者、評論家。 神奈川県生まれ。1939年旅順工科大学機械工学科卒業、航空局技手。41年中央航空研究所研究官、44年航空局航空官、1956年科学技術庁科学調査官、66年科学審議官。1967年日本航空勤務、75年電商取締役営業部長。
1914年(大正3年)生まれ:620人
井上 赳夫(いのうえ たけお、1914年12月31日 - 2… 井上 赳夫(いのうえ たけお、1914年12月31日 - 2003年10月)は、航空工学者、評論家。 神奈川県生まれ。1939年旅順工科大学機械工学科卒業、航空局技手。41年中央航空研究所研究官、44年航空局航空官、1956年科学技術庁科学調査官、66年科学審議官。1967年日本航空勤務、75年電商取締役営業部長。
枯木 虎夫(かれき とらお、1914年〈大正3年〉12月29… 枯木 虎夫(かれき とらお、1914年〈大正3年〉12月29日 - 1977年〈昭和52年〉)は、日本の詩人。本名、井上虎夫。 北海道帯広市生まれ。詩人加藤愛夫に師事。戦時中は樺太豊原支庁に勤務、戦後は札幌地検事務官を長く務めた。更科源蔵主宰の詩誌『野性』を経て、『詩風土』を主宰。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
上原 げんと(うえはら げんと、1914年(大正3年)12月… 上原 げんと(うえはら げんと、1914年(大正3年)12月28日 - 1965年(昭和40年)8月13日)は、昭和期の日本の作曲家。上原 絃人とも。弟も同じく作曲家の上原賢六。 よこはま・たそがれ - 長崎から船に乗って - かもめ町みなと町 - 待っている女 - 夜汽車の女 - 旅鴉 - あなたの灯 - 霧の出船 - ふるさと - 狼のバラード - 夜空 - 別れの鐘の音 - 紅い花 - 浜昼顔 - みれん - 明日の愛 - 哀恋記 - ひろしのさくら音頭 - 千曲川 - ふたりの旅路 - 愛の始発 - 北酒場 - 旅人 - どこへ帰る - 途中駅 - 風の子守唄 - 今日だけは - 灯りが欲しい - 潮どき - まだ乾かない油絵に - あしたも小雨 - 熱愛 - 惜春 - 蟬時雨 - おまえとふたり 倖せさがして - 日本橋のうた - ふたりの夜明け - 港・ひとり唄 - 越前有情 - 人生かくれんぼ - 愛しつづけるボレロ - 流れのままに - 契り - あなた - 雨あがり - 細雪 - 科学万博音頭 - 長良川艶歌 - そして…めぐり逢い - 夢しずく - 浪花盃 - 追憶 - それは…黄昏 - 港の五番町 - 絆 - 面影の郷 - フラワー&グリーン 花の輪音頭 - 暖簾 - 二枚目酒 暖簾 (ニューバージョン) - 心 - 吹きだまり/母人よ - 時が過ぎれば… - おしどり - 杯に歌のせて - 愛別 - 終着駅 - べにばな - 涙でもかまわない - 女・ひとり - 汽笛 - パパとあそぼう - 愛のバラードを…となりで - 酒 尽尽 - 由良川慕情 - 女の酒場 - 粋な男 - 出発の朝 - 罪と罰 - 紫陽花 - 雑草 - そして…花送り - 千日草 - 傷だらけの人生 - 北のともしび - 酒ひとり - 流れ星 - 萩の花郷 - 再り会い 京都恋歌 - 山河 - 風雪に吹かれて聞こえる唄は… - おふくろの子守歌 - 逢いたかったぜ - 渚の女 (ニューバージョン) - 傘ん中 - 北物語 - 望郷の詩 - 逢えて…横浜 - アカシア挽歌/雪燃えて - 大阪ナイトスキャンダル - ふりむけば日本海 - 高瀬舟 - 献身 - ゆめかぜ - この愛に死んでも - ふるさと ~'08バージョン~ - 橋場の渡し - テネシーワルツ - 江戸の手毬唄 - 凍て鶴 - 雪が降る - 紅い花
斉藤 武(さいとう たけし、1914年12月27日~2001… 斉藤 武(さいとう たけし、1914年12月27日~2001年3月6日)は、日本の工学者。工学博士(北海道大学)。専門は、熱工学。札幌市出身 1939年北海道帝國大學工学部機械工学科卒業。1939年同工学部助手。1940年同工学部助教授。1949年北海道大学工学部教授。1957年同工学部教授。1960年北海道大学にて論題「高速流動域における管内熱伝導に関する研究」で工学博士受く。北海道大学工学部長や北海道大学副学長を経て、1978年同停年退官。同名誉教授。豊橋技術科学大学副学長。1980年同工学部教授。1984年同定年退職。同名誉教授。日本工学院北海道専門学校自動車整備科客員講師。1987年同退職。
岡澤 吉夫(おかざわ よしお、1914年(大正3年)12月2… 岡澤 吉夫(おかざわ よしお、1914年(大正3年)12月25日 - 1982年(昭和57年)7月16日)は日本の陸上選手、スキー指導者、スキー選手、政治家。 日本初の常設スキー学校開設者であり、全日本スキー連盟(SAJ)公認スキー学校の起案者。勲五等瑞宝章(現・瑞宝双光章)受勲。 岡澤(旧姓・香川)惣吉の二男。兄に喬。妹に千賀子、友子。妻は冨美。子に伸夫、由美子。 北海道網走郡美幌村(現・美幌町)に生をうける。 学生時代は陸上選手として活躍する。1927年(昭和2年)、新潟県立新潟商業学校(現・新潟県立新潟商業高等学校)に進学、陸上競技にうちこみ、ハードルでは常に上位の成績をおさめている。新潟商業学校4年の時、香川県の父の実家に預けられ、父の母校でもある香川県立高松商業学校(現・香川県立高松商業高等学校)4年に編入する。
龍田 峻次(たつた しゅんじ、1914年12月23日 - 1… 龍田 峻次(たつた しゅんじ、1914年12月23日 - 1991年1月1日)は、北海道小樽市出身の元スキージャンプ選手。「竜田」という表記もあり。 旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)を経て、早稲田大学専門部商科卒業。 1936年のガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックに出場し、73.5m、77.0mを飛ぶがいずれも転倒、46位に終わる。2本目の77.0mはこの大会最長の飛距離だった。 引退後はスコーバレー・グルノーブル両オリンピックでスキーチームの監督をつとめ、その後も全日本スキー連盟の常任理事を務めるなど、スキー界に携わった。実弟の龍田鳳三も元ジャンパーでスキー連盟常任理事などを歴任。
八切 止夫(やぎり とめお、1914年12月22日? - 1… 八切 止夫(やぎり とめお、1914年12月22日? - 1987年4月28日)は、歴史小説家。日本シェル出版代表。「八切史観」と呼ばれる独自の歴史観を展開した。
里井 陸郎(さとい ろくろう、1914年12月21日 - 1… 里井 陸郎(さとい ろくろう、1914年12月21日 - 1980年4月10日)は、日本の歌人。日本文学研究者。 1914年(大正3年)大阪府泉佐野市に生まれる。高知高等学校文科乙類を卒業後、京都帝国大学文学部に進学。在学中、吉澤義則が立ち上げた歌誌『ハハキギ』の会員となり、交流を深めた。1938年(昭和13年)京都大学国語国文学専攻を卒業、同年、同志社中学校教諭。1942年(昭和17年)同志社大学予科講師、翌年同予科教授を経て、1948年に同志社大学教授。1975年(昭和50年)に『謡曲百番 観世流名曲選』を著した縁で、1979年(昭和54年)観世流名誉師範を授与される[要出典]。1980年(昭和55年)4月10日、胆嚢癌のため死去。
池田 彌三郎(いけだ やさぶろう、1914年12月21日 -… 池田 彌三郎(いけだ やさぶろう、1914年12月21日 - 1982年7月5日)は、日本の国文学者・民俗学者・随筆家。 1914年、東京市京橋区(現・東京都中央区)で生まれた。生家は銀座の天麩羅屋"天金"で、その次男。 京橋区立泰明小学校、東京市立第一中学校(のちの東京都立九段高等学校)を経て、1931年4月、慶應義塾大学経済学部予科に入学。同級には井筒俊彦や加藤守雄がいた。1934年4月、文学部国文科に転じ、折口信夫に師事。戸板康二たちと共に、折口主宰の短歌結社「鳥船社」に参加。1937年、慶應義塾大学文学部国文科を卒業。 卒業後は、慶應義塾大学文学部に勤務。1963年、学位論文『日本芸能伝承論』を慶應義塾大学に提出して文学博士号を取得。
大友 恒夫(おおとも つねお、1914年12月21日 - 1… 大友 恒夫(おおとも つねお、1914年12月21日 - 1980年6月5日)は、日本の経営者。秩父セメント社長を務めた。 東京都出身。1939年に早稲田大学理工学部応用学科を卒業。 海軍燃料廠での勤務を経て、1945年11月に秩父セメントに転じ、1948年6月に常務、1967年5月に専務を経て、1968年3月には社長に就任。1976年8月には会長に就任した。 1980年6月5日、肝臓癌のために死去。65歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
楠本 保(くすもと たもつ、1914年(大正3年)12月19… 楠本 保(くすもと たもつ、1914年(大正3年)12月19日 - 1943年(昭和18年)7月23日)は、昭和初期の中等学校野球及び大学野球で活躍した野球選手(投手)。
松村 達雄(、1914年〈大正3年〉12月18日 - 200… 松村 達雄(、1914年〈大正3年〉12月18日 - 2005年〈平成17年〉6月18日)は、日本の俳優。東京俳優生活協同組合所属。 大学時代はラグビー選手として活躍し、劇団を結成して舞台で活動するが、劇団の解散後は映画・テレビドラマに多く出演した。しやがれた声の独得な台詞まわしと、芝居臭さを感じさせないリアルで深味のある演技で個性的なバイプレイヤーとして活躍し、崩れたインテリ役に定評があった。映画『男はつらいよ』シリーズで2代目おいちゃん役を演じたことでも知られる。 神奈川県横浜市に父・武重と母・トエ(高橋榮太郎の長女)の3男2女の3男として生まれる。兄は錠司と重雄。父は大阪府の松村繁三郎の三男として1882年3月に生まれ、帝国蓄音機やスタンダード蓄音機、コロムビアレコードの取締役文芸部長となった。
宮原 将平(みやはら しょうへい、1914年(大正3年)12… 宮原 将平(みやはら しょうへい、1914年(大正3年)12月17日 - 1983年(昭和58年)1月31日)は、日本の物理学者。学位は、理学博士(北海道大学・1943年)(学位論文「半導体の強磁性の理論について」)。北海道大学名誉教授。日本物理学会会長。 東京出身。1933年旧制東京高等学校卒、1937年北海道帝国大学理学部物理学科卒業。東北帝国大学金属材料研究所で本多光太郎の下で研究。1943年「半導体の強磁性の理論について」で北海道大学より理学博士の学位を取得、名古屋帝国大学理学部助教授、1949年北海道大学教授、1978年定年退官、名誉教授、中央大学商学部教授。固体物性論が専門、半導体の強磁性を電子論の観点から研究した。
今井 正雄(いまい まさお、1914年12月17日 - 没年… 今井 正雄(いまい まさお、1914年12月17日 - 没年不明)は、日本の経営者。明電舎社長、会長を務めた。京都府出身。 1939年に東京帝国大学経済学科を卒業し、同年に住友電気工業に入社。1962年11月に東海ゴム工業常務、1964年11月に同社専務、1965年5月に明電舎常務、1967年11月に住友電気工業取締役、1968年5月に同社常務、1972年11月に明電舎専務を経て、1974年11月には明電舎副社長に就任し、1977年6月には社長に昇格。1984年6月には会長に就任し、1991年6月から相談役を務めた。 1982年4月に藍綬褒章を受章し、1987年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
桜井 正寅(さくらい まさとら、1914年12月17日 - … 桜井 正寅(さくらい まさとら、1914年12月17日 - 1969年2月28日)は、日本のドイツ文学者。東京教育大学教授。 静岡県出身。旧制静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学文学部独文科卒業。東京教育大学助教授、教授。学生による筑波移転反対闘争の際、機動隊導入の日の深夜に帰宅後、心筋梗塞の発作で急死した。
浜口 玄吉(はまぐち げんきち、1914年〈大正3年〉12月… 浜口 玄吉(はまぐち げんきち、1914年〈大正3年〉12月17日 - 2001年〈平成13年〉8月24日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。第15代舞鶴地方総監。海機45期。最終階級は海軍少佐、海将。 1914年(大正3年)12月17日、浜口徳兵衛・くにの長男として和歌山県新宮市で誕生。浜口家は代々三重県二木島町で廻船問屋を営んでいたが、海事代理士となった父・徳兵衛の代に勝浦港へ移住。浜口は中学卒業まで本籍地である和歌山県東牟婁郡那智勝浦町で過ごした。 1932年(昭和7年)、新宮中学を卒業し海軍兵学校を受験するも失敗。 叔母・美代子が熊野速玉大社宮司・上野殖に嫁いでいたことから、浪人中に新宮市の神倉神社(熊野三山の元宮)の社務所に間借りする。
丸田 芳郎(まるた よしお、1914年12月16日 - 20… 丸田 芳郎(まるた よしお、1914年12月16日 - 2006年5月30日)は、日本の実業家。京都大学工学博士。花王の社長、会長を歴任した。 長野県更級郡信田村(現長野市)で教師の両親の元に生まれる。1932年旧制長野中学(後の長野県長野高等学校)卒業、1935年桐生高等工業学校(後の群馬大学工学部)卒業。花王の前々身、大日本油脂株式会社に入社。1948年3月、京都大学工学博士の称号を得る。学位は丸田たちが研究した航空潤滑油の合成に関する功績による。 1954年取締役。1956年常務、1968年専務を経て、1969年、副社長に就任。1971年、伊藤英三の死去にともない社長に就任。バイヤスドルフとの提携でニベア花王を設立し、1982年には「ソフィーナ」を発売して化粧品事業に進出するなど経営の多角化・省力化を進め、公害防止にも努めた。
藤崎 萬里(ふじさき まさと、1914年(大正3年)12月1… 藤崎 萬里(ふじさき まさと、1914年(大正3年)12月16日 - 2006年(平成18年)10月6日)は、日本の最高裁判所裁判官、外交官(外務省条約局長、オランダ駐箚大使、タイ王国駐箚大使等)。 鹿児島県出身。川辺郡知覧町(南九州市)生まれ、揖宿郡山川町(指宿市へ合併)出身。馬場家に生まれ、伯父の藤崎家の養子となる。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1933年(昭和8年)第七高等学校造士館 (旧制)卒業。1936年(昭和11年)、東京帝国大学文学部英文学科卒業。旧制高校の教師になろうと考えていたが就職口がなく、東京帝国大学法学部政治学科に再入学して学び1937年(昭和12年)外務省へ入省。
小笠原 長和(おがさわら ながかず 1914年12月16日 … 小笠原 長和(おがさわら ながかず 1914年12月16日 – 2009年9月15日)は、日本の歴史学者。 獣医として陸軍騎兵第18連隊に勤務していた小笠原長淳と房のあいだに、栃木県で生まれる。1938年、早稲田大学文学部史学科を卒業。卒業論文は「関塞の史的考察(王朝時代を中心として)」。在学中は、花見朔巳、荻野三七彦らに師事した。卒業後の1938年から1945年まで東京大学史料編纂所で史料編纂業務嘱託として勤め、また1944年9月からは東京都立牛込商業學校教諭を兼務し、1945年9月に千葉師範学校教授となる。1949年に同校が千葉大学となると、助教授となる。1965年に教授となり、人文学部長等の任にも当たった。
古荘 次平(ふるしょう じへい、1914年12月15日 - … 古荘 次平(ふるしょう じへい、1914年12月15日 - ?)は、日本の水球選手。1936年ベルリンオリンピックの水球競技に出場した。 熊本県出身。熊本県立商業学校、早稲田大学卒。クリーニング企業のシロヤパリガン創立者。
続 有恒(つづき ありつね、1914年12月15日 - 19… 続 有恒(つづき ありつね、1914年12月15日 - 1972年9月25日)は、日本の教育心理学者。 甥(姉の子)に、医学者で東京大学名誉教授の黒川清、都市工学者で東京工業大学名誉教授・筑波大学名誉教授の黒川洸、元NECインターチャネル代表取締役社長・会長の黒川湛がいる。 宮城県出身。1938年東京帝国大学文学部心理学科卒。国立教育研究所員、東北大学助教授、52年名古屋大学教育学部教授、70年「教育評価」で名大教育学博士。57歳で死去。
河北 倫明(かわきた みちあき、1914年12月14日 - … 河北 倫明(かわきた みちあき、1914年12月14日 - 1995年10月30日)は、日本の美術評論家。京都国立近代美術館館長、京都造形芸術大学学長を歴任。佐藤達夫は従兄。 福岡県浮羽郡山春村(現:うきは市)生まれ。福岡県中学明善校、第五高等学校、1938年京都帝国大学文学部哲学科卒。1943年文部省美術研究所に勤務。自身と同じ明善校にも学んだこともある久留米出身の夭逝の洋画家青木繁を研究テーマとし、日本美術史上にその評価を定めた。その後も近代日本美術史の研究を精力的に進め、1952年国立近代美術館事業課長、1963年次長、1969年京都国立近代美術館館長となる。1986年退官、同年秋、勲二等旭日重光章受勲。
石田 博英(いしだ ひろひで、1914年(大正3年)12月1… 石田 博英(いしだ ひろひで、1914年(大正3年)12月12日 - 1993年(平成5年)10月14日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等は勲一等、勲章は旭日大綬章。衆議院議員(14期)。通称は名を音読みした「バクエイ」。所属した自由民主党では1969年から1971年まで党内派閥の二日会を率いた。 政務では労働大臣(第14・17・18・22・23・39代)、運輸大臣(第47代)、内閣官房長官(第16・17代)を、衆議院では議院運営委員長(第6代)などを歴任した。 政界引退後の晩年および死後に、ソビエト連邦のスパイであったことを指摘する情報が複数発見されたが、立件されなかった(後述)。 秋田県山本郡二ツ井町(現能代市)で生まれ、大館市で育つ。
磯村 哲(いそむら てつ、1914年12月9日 - 1997… 磯村 哲(いそむら てつ、1914年12月9日 - 1997年8月23日)は、日本の法学者。学位は、法学博士(京都大学・論文博士・1976年)(学位論文「市民法学-社会法学の展開と構造-」)。京都大学名誉教授。兵庫県出身。 息子は、神戸大学名誉教授・早稲田大学大学院法務研究科教授の磯村保。
新田 長夫(にった たけお、1914年〈大正3年〉12月9日… 新田 長夫(にった たけお、1914年〈大正3年〉12月9日 - 2005年〈平成17年〉3月5日)は、日本の実業家。ニッタ社長。大阪ゴム工業会相談役。ニッタ創業者新田長次郎の孫。ニッタ会長・新田長彦の父。 大阪府大阪市出身。新田長三の長男。1939年に大阪帝国大学工学部応用化学科を卒業、新田帯革製造所に入社した。1945年に新田ベルト、新田ゴム工業各取締役に選ばれ、ついで新田ゴム工業社長に就任。芦原自動車教習所取締役をつとめる。 住所は大阪市浪速区芦原町、堺市出島海岸通2丁目、兵庫県西宮市上甲東園1丁目・2丁目。宗教は真言宗。趣味は写真、水泳、ゴルフ。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
安井 源治(やすい げんじ、1914年12月9日- 1998… 安井 源治(やすい げんじ、1914年12月9日- 1998年9月22日)は、フランス文学者。 京都府生まれ。1938年早稲田大学文学部卒、早大教授、85年定年退任、名誉教授。パスカルなどフランス思想が専門。
門上 千恵子(かどがみ ちえこ、1914年12月8日 - 2… 門上 千恵子(かどがみ ちえこ、1914年12月8日 - 2007年8月6日)は、愛媛県出身の弁護士。日本における初めての女性検事。門上チエ子、門上チヱ子とも表記する。旧姓、福枡。論理学の東京経済大学名誉教授である門上秀叡は夫。三男の門上光照は京都造形芸術大学芸術学部教授。 愛媛県伊予郡松前町で米屋の長女として生まれる。愛媛県立松山高等女学校(現・愛媛県立松山南高等学校)から広島県立女子専門学校(現・県立広島大学)国文科を経て、1939年に九州帝国大学法文学部法律学科を卒業。在学中、1937年にはローマ法の研究で帝国学士院から賞を受ける。岡山県林野高等女学校(現・岡山県立林野高等学校)の英語教諭を経て、1940年に九州帝国大学へ戻り、1944年まで法律学研究室の副手(のち助手)として勤務。
井浦 芳信(いのうら よしのぶ、1914年12月8日 - 1… 井浦 芳信(いのうら よしのぶ、1914年12月8日 - 1994年)は、日本の国文学者・演劇研究者。専門は、日本近世文学・近世演劇。中世に興った地方芸能の調査研究も行った。 福岡市地行西町(現・地行)にある浄土真宗本願寺派浄満寺の住職井浦領順の二男として生まれる。1932年福岡県中学修猷館、1935年旧制福岡高等学校文科甲類、1938年東京帝国大学文学部国文学科卒業、同大学大学院に進学し、1939年3月、同大学文学部副手となり国文学研究室に勤務する。 1945年10月旧制弘前高等学校教授となり、1950年3月同校が弘前大学となると、同大学文理学部の教授に就任。1953年8月から1959年4月まで同大学評議員も務めた。
松友 孟(まつとも つとむ、1914年12月5日 - 200… 松友 孟(まつとも つとむ、1914年12月5日 - 2003年9月23日)は、元愛媛県副知事。 愛媛県松山市出身。旧制松山中学卒業、旧制松山高校卒業、1937年 京都帝国大学法学部卒業、内務省に入る。山形県勤務、広島県、熊本県、兵庫県の各課長を経て、1947年 奈良県教育民生部長、1948年 奈良県教育長、1949年 奈良県総務部長、1951年 愛媛県民生部長に転じ、1955年 総務部長、1963年 出納長を経て、1969年から1974年まで副知事を務めた。戦時中は一時陸軍司政官として転出した。推されて松山市長選挙に出馬するが落選した。1975年から愛媛県人事委員会委員長、1976年から1999年まで愛媛県社会経済研究財団専務理事。
角田 房子(つのだ ふさこ、女性、1914年(大正3年)12… 角田 房子(つのだ ふさこ、女性、1914年(大正3年)12月5日 - 2010年(平成22年)1月1日)は、日本のノンフィクション作家、日本ペンクラブ名誉会員。本名は角田フサ(つのだ ふさ)、旧姓・中村。 東京府生まれ。福岡女学校(現 福岡女学院中学校・高等学校)専攻科卒業後、ソルボンヌ大学へ留学。第二次世界大戦勃発により、ソルボンヌ大学を中退して帰国。戦後、新聞記者の夫の転勤に伴って再度渡仏した。1960年代より執筆活動を開始。精力的な取材と綿密な検証に基づき、日本の近現代史にまつわるノンフィクションを数多く手掛けた。とくに、明治以降の激動の時代を生きた日本人を主な対象に、圧倒的な量の取材と検証に基づいて、歴史の中でのその生きざまを取り上げたノンフィクションが多い。
森山 重雄(もりやま しげお、1914年12月5日 - 20… 森山 重雄(もりやま しげお、1914年12月5日 - 2000年6月5日)は、日本の国文学者。専門は日本文学。東京都立大学名誉教授。筆名は森繁男。新潟県出身。 東京大学文学部国文科卒業後、都立高校教諭を経て、東京都立大学教授となる。都立大学定年後は様々な大学の誘いを断り、三一書房を中心に年1冊程度の研究書を刊行した。上田秋成や井原西鶴、浄瑠璃などを主に研究したほか、アナーキズムやプロレタリア文学にも言及した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
吉岡 棟一(よしおか とういち、1914年12月3日 - 1… 吉岡 棟一(よしおか とういち、1914年12月3日 - 1997年3月31日)は、日本の僧侶、作家。曹洞宗円通寺住職。同宗議会議長、駒澤大学理事長を歴任。 福島県福島市生まれ。福島師範学校、駒澤大学卒業。1956年「しのぶ保育所」園長、1967年「宗教法人福島ルンビニー幼稚園」初代園長。小説「椿の系譜」(1979年)で福島県文学賞受賞。曹洞宗円通寺住職。同宗議会議長、駒澤大学理事長などを歴任。日本ベトナム文化協会長としてテト休戦を提唱、両国間の友好に尽力。1995年5月12日外務大臣表彰。歌と評論同人。 著書に「小説 黄色い椿」「人間としていかに生きるべきか: 曹洞宗教典「修証義」を読む」「般若心経で意識革命を」「ベトナム仏教体験シリーズ」など。
増田 友也(ますだ ともや、1914年12月 - 1981年… 増田 友也(ますだ ともや、1914年12月 - 1981年8月)は、日本の建築家。建築研究者。元京都大学工学部教授。 兵庫県三原郡八木村(現・南あわじ市)に生まれる。八木村は徳島県鳴門市と鳴門海峡を挟んで向き合う淡路島の南西側に位置した。 1935年に京都帝国大学工学部建築学科に入学し、1年留年の上、1939年(昭和14年)に卒業した。卒業後は満州炭鉱工業会社に就職する。戦時体制が刻々と激化していく中で、いつ召集を受けるかもわからないという情勢であったが、増田は「関東軍コンクリート造船」の技術者として招かれ、試験を繰り返す3年間を過ごしたことで、結果的に戦地に送られることはなかった。 1950年8月15日に京都大学工学部建築学科講師に着任する。
斉藤 達雄(さいとう たつお、1914年11月30日 - 2… 斉藤 達雄(さいとう たつお、1914年11月30日 - 2012年11月4日)は、日本の内科学者。専門は、糖尿病、癌化学療法。医学博士。 福島県福島市生まれ。 福島中学(現福島県立福島高等学校)を経て第二高等学校 (旧制)から、東北帝國大学医学部卒業。1938年、同医学部内科教室(教授・山川章太郎)に入局。1947年、青森医学専門学校教授。1952年、東北大学医学部内科助教授(教授・黒川利雄)。1959年から1年間、アメリカ国立がん研究所 (NCI) に留学。1963年、東北大学抗酸菌病研究所教授(癌化学療法部門、1969年臨床癌化学療法部門と改称)、1974年、同研究所所長・東北大学評議員。
佐々木 基一(ささき きいち、1914年(大正3年)11月3… 佐々木 基一(ささき きいち、1914年(大正3年)11月30日 - 1993年4月25日)は、日本の文芸評論家。本名・永井善次郎。
横山 宗一(よこやま そういち、1914年(大正3年)11月… 横山 宗一(よこやま そういち、1914年(大正3年)11月30日 - 1985年(昭和60年)6月18日)は、日本の実業家。東京銀行頭取・会長を務めた。東京出身。 1938年旧制東京商科大学(現・一橋大学)卒業。同期に三洋証券社長の土屋陽三郎、新日本証券社長の鷹尾寛、三井不動産社長の坪井東、鹿島建設副会長の原明太郎、マツダ会長の岩沢正二、丸井今井社長の今井道雄、日東製網社長の小林政夫、一橋大学学長の小泉明らがおり、同窓会を結成している。 1938年に東京銀行の前身である横浜正金銀行に入行。ハノイ、サイゴンなどインドシナに派遣され、1946年に帰国するまでは生死の境をさまよったこともあるという。
小館 善四郎(こだて ぜんしろう 1914年(大正3年)11… 小館 善四郎(こだて ぜんしろう 1914年(大正3年)11月29日 - 2003年(平成14年)10月8日)は青森県出身の洋画家。梶井基次郎の作品「檸檬」に因んで檸檬をモチーフにした静物画が多く、「レモンの画家」と呼ばれる。 青森市生まれ。旧制青森中学校(青森県立青森高等学校)在学中、南部公鎮に師事。1932年(昭和7年)に旧制青森中学校を卒業して上京し、帝国美術学校(武蔵野美術大学)に入学、牧野虎雄に師事した。1936年(昭和11年)11月、学校側の都合により帝国美術学校を繰上卒業。同年から1943年(昭和18年)まで母校青森中の図画科教師。 1938年(昭和13年)、第13回国画会展に初入選。
杉澤 英男(すぎさわ ひでお、1914年11月29日 - 1… 杉澤 英男(すぎさわ ひでお、1914年11月29日 - 1983年5月11日)は、日本の実業家。神戸製鋼所社長を務めた。 奈良県奈良市出身。1938年に京都帝国大学工学部を卒業し、神戸製鋼所に入社した。取締役、常務、専務、副社長を経て、急死した鈴木博章の後任として1976年9月から社長に就任した。しかし、病気でわずか1年で退任し、社長の座を高橋孝吉に譲った。 1983年5月11日心不全のために死去。68歳没。
守屋 明男(もりや あきお、大正3年(1914年)11月26… 守屋 明男(もりや あきお、大正3年(1914年)11月26日 - 昭和59年(1984年)5月6日)は、日本の海軍軍人、商工官僚、実業家。東京計器販売(株)社長。元海軍主計少佐で通産省を経て防衛庁に精密測定機器を納入する会社を経営した。 父は元衆議院議員、元宮城県塩竈市長守屋栄夫。弟は元防衛事務次官守屋武昌。叔父は外交官守屋和郎。 宮城県人栄夫の三男。 昭和12年(1937年)高文行政科合格。翌年東京帝大政治学科卒業。商工省に入り短期現役士官(1期生)として海軍に勤務。海軍主計少佐となり昭和22年(1947年)6月通産省に復帰機械局勤務より公正取引委員会事務局会社課長に転出。昭和23年(1948年)12月退任。
加瀬 欣一(かせ きんいち、1914年11月26日 - 19… 加瀬 欣一(かせ きんいち、1914年11月26日 - 1983年12月13日)は、日本の経営者。新潟県出身。 1938年に早稲田大学商学部を卒業し、同年に三菱倉庫に入社。1968年5月に取締役に就任し、1971年5月に常務、1975年6月に専務を経て、1977年6月には社長に就任。1981年6月から会長を務めた。 1983年12月13日急性心不全のために死去。69歳没。
上田 常光(うえだ つねあき、1914年11月25日 - 1… 上田 常光(うえだ つねあき、1914年11月25日 - 1995年3月1日)は、日本の外交官。位階は正三位。初代駐シンガポール特命全権大使や、外務省経済協力局長、駐ドイツ連邦共和国特命全権大使、日独協会会長などを歴任した。 東京生まれ。1934年東京高等学校文科甲類卒業。1937年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1938年高等試験外交科合格、外務書記生、ドイツ在勤。1939年外交官補。 1951年外務省管理局在外邦人課長。同年外務省欧米局渡航課長。1952年外務省アジア局第五課長。1957年在ドイツ日本国大使館参事官。1959年外務省情報文化局報道課長。 1961年外務省欧亜局外務参事官。1964年在シンガポール日本国総領事館総領事。
宇梶 清司(うかじ きよし、1914年11月25日 - 19… 宇梶 清司(うかじ きよし、1914年11月25日 - 1998年12月8日)は、日本の経営者。茨城県出身。 1937年に青山学院商学科を卒業。1948年から1950年までにペンシルヴァニア大学院に留学。 大正海上火災保険での勤務を経て、1941年に東洋経済新報社に転じ、1970年11月に専務に就任し、1972年11月から1978年12月までに社長を務めた。石橋湛山記念財団監事も務めた。 1998年12月8日呼吸不全のために死去。84歳没。
金山 正信(かなやま まさのぶ、1914年11月25日-19… 金山 正信(かなやま まさのぶ、1914年11月25日-1997年9月27日)は、日本の法学者だった人物。専門は民法。関西大学法学部助教授を経て、同志社大学法学部名誉教授。子息は慶應義塾大学名誉教授の金山直樹(民法)。愛媛県西宇和郡町見村出身。 1942年高等試験司法科試験(現司法試験)合格。1942年関西大学法文学部卒。1942年同法文学部助手。1945年同法学部専任講師。1946年同法学部助教授。1948年同志社大学法学部助教授。1951年同法学部教授。1954年ハーバード大学に研究留学。1962年同志社大学法学部長・同大学院法学研究科長。1964年同付属図書館長。1971年ハーバード大学に研究留学。
尾崎 宏次(おざき ひろつぐ、1914年11月24日 - 1… 尾崎 宏次(おざき ひろつぐ、1914年11月24日 - 1999年11月9日)は、日本の演劇評論家。
佐藤 甚次郎(さとう じんじろう、1914年〈大正3年〉11… 佐藤 甚次郎(さとう じんじろう、1914年〈大正3年〉11月24日 - 2002年〈平成14年〉10月1日)は、日本の地理学者(地理学)。 山形県鶴岡市生まれ。東京高等師範学校研究科地理科卒、日本大学法文学部史学科地理学卒、日本女子大学附属高等学校教諭、1965年「日本農家の間取型に関する地理学的研究」で、東京教育大学より理学博士の学位を取得。日本女子大学教授、1985年定年、名誉教授。 1987年、勲四等旭日小綬章を受章。2002年10月1日、脳腫瘍による虚血性心不全のため死去。
長谷川 録太郎(はせがわ ろくたろう、1914年〈大正3年〉… 長谷川 録太郎(はせがわ ろくたろう、1914年〈大正3年〉11月24日 – 2001年〈平成13年〉11月25日)は、千葉県の政治家・実業家。6-11代目成田市長、長谷川呉服店社長。成田市名誉市民。 江戸時代から続く成田山新勝寺門前町の呉服屋に生まれる。 私立成田中(現・成田高等学校)卒業後、浅草の「大丸呉服店」で丁稚奉公する。召集され、中国大陸を転戦。 1949年に新勝寺檀家総代に選出され、成田市商工会長を務めるなど、復員後は成田の政財界で活動するようになる。 病気で辞任した藤倉武男の後任として1971年(昭和46年)から6期24年にわたり成田市長を務め、成田空港問題を始めとする困難な市政の中、都市基盤整備に尽力し国際都市を目指すとともに、福祉施設の整備、空港の騒音対策等の住民福祉の増進に貢献した。
福冨 芳美(ふくとみ よしみ、1914年11月23日 - 1… 福冨 芳美(ふくとみ よしみ、1914年11月23日 - 1992年4月22日)は、昭和~平成初期のファッションデザイナー、教育者。旧姓は小田。 岡山県生まれ。兵庫県立第一神戸高等女学校を卒業後、婦人服の仕立て職人に弟子入り。その後上京して杉野学園ドレスメーカー女学院で学び、1937年に神戸ドレスメーカー女学院(現・神戸ファッション専門学校)開校。戦後は大丸神戸店の顧問デザイナーに招聘され、パリやニューヨークへ出かける機会を得る。また、神戸在住のまま飛行機で日本大学芸術学部美術学科に通い、1961年に卒業した。 1967年に明石女子短期大学を創立し、学長兼教授となる。日本家政学会、人間工学会、日本デザイナークラブ、ザ・ファッション・グループ(本部ニューヨーク)等の会員。
大嶽 俊郎(おおたけ としろう、1914年 <大正3年> 1… 大嶽 俊郎(おおたけ としろう、1914年 <大正3年> 11月23日 - 1998年 <平成10年> 2月1日)は、日本の経営者。小糸製作所社長、会長を務めた。静岡県出身。位階は正五位。 1932年に東京電機学校を卒業し、同年に小糸製作所に入社。 1961年に取締役に就任し、1968年に常務、1972年に専務を経て、1976年6月に副社長に就任し、1979年6月には社長に昇格。1985年6月から1992年7月までに会長を務めた。 1982年11月に藍綬褒章を受章し、1987年11月に勲三等瑞宝章を受章。。 1998年2月1日糖尿病性昏睡のために死去。83歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
大塚 君代(おおつか きみよ、1914年11月23日 - 1… 大塚 君代(おおつか きみよ、1914年11月23日 - 1996年2月1日)は、日本の女優。1930年に東京松竹楽劇部(後の松竹歌劇団)に6期生として入る。同期に逢初夢子、水久保澄子がいる。 以下の公開年、作品名、製作会社、役名は特に記載がない限りKINENOTEに従った。
戸田 藤一郎(とだ とういちろう、1914年11月22日 -… 戸田 藤一郎(とだ とういちろう、1914年11月22日 - 1984年7月11日)は、兵庫県神戸市出身の元プロゴルファー。本名「阪野 藤一郎」。 戦前、戦後を通じ「トイチ」のニックネームで天才プロと謳われた。 実家の近くに日本で2番目に出来たゴルフコース「横屋ゴルフ・アソシエーション」があり、近所に住んでいた日本プロ第1号の福井覚治にゴルフを教えてもらった。小学生の時からキャディを始め、客のプレーを盗み見しながらゴルフを覚える。 1933年に出来たばかりの廣野ゴルフ倶楽部にプロ助手として入社し、この頃は200ヤード先にある松を目標に、毎日何百発、何千発とアイアンで打ち込み、ついに松を枯らしてしまったことがあった。