亀井 龍夫(かめい たつお、1930年8月6日 - 2010… 亀井 龍夫(かめい たつお、1930年8月6日 - 2010年10月23日)は京都市出身の編集者。 父亀井三郎(化学者、京都帝国大学教授)と叔父亀井奎介(内科医、岐阜医大教授)は共に高知県出身で第三高等学校 (旧制)OB。旧制京都府立第一中学校(現・京都府立洛北高等学校)のころから文学作品に魅せられ太宰治に私淑していた。第三高等学校 (旧制)を経て、1954年、東京大学文学部仏文科卒業。同年、古山高麗雄の後任として河出書房に入社。主に文芸出版を担当した。『知性』編集部での同僚に山口瞳がいる。 1957年に河出書房倒産に伴い退社し、フリーライターとなる。テレビ関連の仕事もこなした。 1957年11月、新潮社に入社し三高の先輩の野平健一と仕事をするようになる。
永山 武臣(ながやま たけおみ、1925年(大正14年)8月… 永山 武臣(ながやま たけおみ、1925年(大正14年)8月30日 - 2006年(平成18年)12月13日)は、日本の実業家。松竹社長・会長を歴任した。 東京出身。屯田兵設立の功労者である男爵永山武四郎の孫。息子はフジテレビプロデューサーの永山耕三。 学習院初等科から高等科 (旧制) を卒業。京都帝国大学経済学部へ入学し、1948年(昭和23年)3月に京都大学経済学部を卒業した。 2006年(平成18年)12月13日午前7時48分、急性白血病のため都内の病院で死去。享年81歳。墓所は多磨霊園。 大学在学中の1947年(昭和22年)10月に松竹に入社し、東京劇場監事室に配属された。 1951年(昭和26年)1月の東京・歌舞伎座の再開と同時にその監事室に配属され、松竹創業者の一人である大谷竹次郎の下で、同年に上演された「源氏物語」(9代目市川海老蔵(後の11代目市川團十郎)や7代目尾上梅幸、2代目尾上松緑ら)や6代目中村歌右衛門襲名披露興行など第2次世界大戦後初期の歌舞伎の代表的な公演に関わることになった。
濱口 博章(浜口博章、はまぐち ひろあき、1925年2月10… 濱口 博章(浜口博章、はまぐち ひろあき、1925年2月10日 - )は、日本の国文学者。甲南大学・姫路獨協大学名誉教授。 兵庫県尼崎市生まれ。甲陽中学校を経て、1948年京都帝国大学文学部国文学科卒業。1956年同大学院退学。甲南大学講師、助教授、教授、1989年名誉教授、姫路獨協大学教授、1996年名誉教授。
奥山 融(おくやま とおる、1924年1月21日 - 200… 奥山 融(おくやま とおる、1924年1月21日 - 2009年11月7日)は、日本の実業家・映画プロデューサー。元松竹株式会社社長。創業家である白井家、大谷家以外からは永山武臣以来2人目の社長であった。父は元松竹専務の奥山市三、次男は元松竹専務でチームオクヤマ代表の奥山和由。 京都市出身。京都府立京都第一中学校、第五高等学校を経て、1947年京都帝国大学法学部政治学科卒業。同年大和証券入社。1951年松竹入社。主に映画興行部門、国際部門を歩き、1955年プロデューサー、国際部長を経て1968年取締役、1971年常務、1974年専務、1978年副社長。1986年、松竹大船撮影所50周年を期して「ニュー大船調」を打ち出す。
猪瀬 敏弘(いのせ としひろ、1924年〈大正13年〉1月1… 猪瀬 敏弘(いのせ としひろ、1924年〈大正13年〉1月11日 - 2007年〈平成19年〉8月12日)は、日本の実業家。中田大三とともに神戸電鉄グループの発展に尽力した。 1924年(大正13年)1月11日、福島県生まれ。1944年(昭和19年)高知市立高知商業高等学校を卒業。 京都帝国大学へ入学するも中退し、1947年(昭和22年)神有三木電気鉄道(現:神戸電鉄)に入社する。1964年(昭和39年)6月より秘書室長を経て、1970年(昭和45年)6月神鉄観光の取締役に就任。 1976年(昭和51年)6月より神戸電鉄の経理部長に就任、1979年(昭和54年)からは取締役に就任した。1985年(昭和60年)6月より神戸電鉄の代表取締役常務に就任。
南沢 貞美(みなみさわ さだみ、1923年10月2日 - 2… 南沢 貞美(みなみさわ さだみ、1923年10月2日 - 2003年9月25日)は、日本の倫理学者。 長野県北佐久郡南大井村(現小諸市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)、旧制第二高等学校を経て、京都帝国大学文学部卒業。1950年京都工芸繊維大学講師、1967年同教授、のち名誉教授。佛教大学教授。2000年春、勲三等旭日中綬章受勲。
上田 三四二(うえだ みよじ、1923年(大正12年)7月2… 上田 三四二(うえだ みよじ、1923年(大正12年)7月21日 - 1989年(平成元年)1月8日)は、昭和期の歌人・小説家・文芸評論家。内科医。専門は結核。医学博士。 兵庫県加東郡市場村字樫山(現:小野市樫山町)出身。柏原中学、第三高等学校、1948年京都帝国大学医学部卒。結核を専門とする内科医として、国立京都療養所や国立療養所東京病院に勤務。 1949年(昭和24年)に北原白秋系の歌誌「新月」に参加し、その後アララギ派に移行。1956年(昭和31年)には歌会「青の会」結成に参加。1966年(昭和41年)に大腸癌、1983年(昭和58年)に膀胱癌を患う。二度の大病を経て、晩年は生命の内面を見つめ直した著述が多くなり、西行や良寛といった仏教の死生観を追求した歌人に傾倒した。
久保田 晴寿(くぼた せいじゅ、1923年(大正12年)6月… 久保田 晴寿(くぼた せいじゅ、1923年(大正12年)6月26日 - 2004年(平成16年)8月31日)は、日本の薬学者。専門は薬品合成化学。 長野県上田市出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1946年京都帝国大学医学部薬学科卒業。1947年母校助手。1951年徳島大学薬学部助教授、1957年教授、1972年薬学部長を経て、1988年に徳島大学学長に就任し1991年に学長を退任。退任後の1992年に大阪薬科大学学長に就任、1995年に同大学学長を退任。1997年、勲二等旭日重光章受章。 1953年、京都大学薬学博士。論文名は「アセチレンとアンモニアの縮合に関する研究」。 2004年に急性呼吸不全のため徳島県小松島市の病院で死去。
内藤 千百里(ないとう ちもり、1923年6月10日 - 2… 内藤 千百里(ないとう ちもり、1923年6月10日 - 2018年1月27日)は、日本の経営者。元関西電力(関電)代表取締役副社長。旧姓は竹内。 大阪府出身。天王寺中学校、旧制松江高等学校を経て、1947年、京都帝国大学経済学部卒業と同時に関電前身の関西配電に入社。1962年に芦原義重社長の秘書になり、政財界とのパイプ役を約30年間務めた。1970年に芦原は会長に退き、さらに相談役名誉会長に退いたが、その後も腹心であった内藤を用いて社内に強い影響力を持った。ところが、1986年に『朝日ジャーナル』誌で連載されていた「企業探検」で関電が取り上げられ、その一種恐怖支配とも取れるワンマンぶりが公となった(なお、この記事を執筆したのは当時龍谷大学教授だった奥村宏であった)。
森政 逸郎(もりまさ いつろう、1923年(大正12年)3月… 森政 逸郎(もりまさ いつろう、1923年(大正12年)3月2日 - 1992年(平成4年)6月8日)は、実業家である。元日清製粉(現:日清製粉グループ)取締役。広島県出身。 1923年(大正11年)、広島県に生れる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学し、同期には、日本原子力研究所副理事長となる天野昇、新見市長となる福田正彦、丸善石油副参与・北海道の丸善石油関連社長となる古米初男、大学教授となる田井庄之助がいた。1940年(昭和15年)3月に同校卒業した。 その後、同年に旧制松山高等学校文科乙類へ進学する。1943年(昭和18年)に同校を卒業を経て、京都帝国大学法学部へ進学。1946年(昭和21年)3月に京都帝国大学法学部を卒業する。
山本 潤造(やまもと じゅんぞう、1923年〈大正12年〉2… 山本 潤造(やまもと じゅんぞう、1923年〈大正12年〉2月13日 - 1994年〈平成6年〉7月29日)は、日本の政治家。徳島市長。京都帝国大学工学部卒業。徳島県徳島市出身。 1923年(大正12年)、名東郡八万村沖浜(現在の徳島市沖浜町)で生まれた。 1940年(昭和15年)、徳島県立徳島中学校を卒業。1944年(昭和19年)、第五高等学校を卒業し京都帝国大学工学部に進学、1947年(昭和22年)に卒業した。 1963年(昭和38年)4月に徳島県議会議員に当選、1971年(昭和46年)まで3期を務める。1973年(昭和48年)に徳島市長選に出馬し当選。3期に渡って市長を務める。1982年(昭和57年)、徳島県体操競技振興会の会長に就任。
鳥井 道夫(とりい みちお、1923年1月22日 - 201… 鳥井 道夫(とりい みちお、1923年1月22日 - 2011年2月6日)は、日本の実業家。サントリー名誉会長。龍谷大学経済学部客員教授。 父はサントリー創業者である鳥井信治郎。妻は日本生命第5代社長弘世現の娘の準子。長男にサントリー副社長、3代目マスターブレンダーの鳥井信吾がいる。京都近鉄百貨店社長の若林誠郎、メルボ紳士服オーナーの清水貞夫大阪マルビル会長の吉本晴彦など関西の財界人や祇園・先斗町の元芸子など、同じ大正12年(1923年)生まれのメンバーで構成する「いのしし会」を開いており、酒食など行動を共にしていた。
数原 洋二(すはら ようじ、1921年12月3日 - 202… 数原 洋二(すはら ようじ、1921年12月3日 - 2020年1月11日)は、日本の実業家、工学博士。三菱鉛筆相談役。 数原三郎の次男(長男が夭折したため人名事典等では長男と表記されているものもある)として現在の東京都品川区(当時は東京府)に生まれる。旧制神奈川県立川崎中学校、旧制静岡高等学校理科甲類を経て、1944年に京都帝国大学工学部工業化学科を卒業、同年10月より同大学院にて工業化学の研究に従事し、1946年京大文部省特別研究生前期課程修了。1948年4月三菱鉛筆に入社、1958年2月常務となり、1960年2月社長に就任。1981年11月藍綬褒章を受章。1987年3月に社長の座を長男・数原英一郎に譲り会長に退き、1993年3月に名誉会長、その後相談役となる。
戸谷 松司(とたに まつじ、1921年 <大正10年> 6月… 戸谷 松司(とたに まつじ、1921年 <大正10年> 6月30日 - 1999年 <平成11年> 6月26日)は、日本の政治家。姫路市長を務めた。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。 印南郡米田町(現・加古川市)に6人きょうだいの3男として生まれる。実家は宝殿駅前の料亭「荒熊」で、父は大阪相撲の元関脇だった。姫路中学校(旧制)、姫路高等学校(旧制)を経て1944年(昭和19年)京都帝国大学工学部土木工学科卒業。建設省に入り、九州電力嘱託、島根県土木砂防電気課長補佐、徳島県土木部河川課長、広島県土木建築部河川課長を歴任。島根時代には竹下登の知遇を得た。 1966年(昭和41年)、兵庫県庁に入り土木部河川部長、企画部長、土木部長を経て1976年(昭和51年)から1983年(昭和58年)まで兵庫県副知事を務めた。
鈴木 喬(すずき たかし、1920年11月10日 - 201… 鈴木 喬(すずき たかし、1920年11月10日 - 2010年10月29日)は、熊本県の歴史研究家。地名研究家としても知られる。 鈴木喬は、父・鈴木登(1888年 - 1954年、京都帝国大学文学部史学科出身)が京都市視学であったので、京都大学医学部附属病院で生まれた。満2歳で父が第五高等学校教授に招請されて、熊本で育つ。碩台幼稚園、白川小学校時代を通じて本を読むのが好きであった。熊本中学校(現県立熊本高等学校)時代は3年にわたって結核を患う。日本大学文学部史学科卒業。1945年の東京大空襲は辛うじて逃れたが、熊本大空襲で自宅が被爆、父親の多くの史料が焼失した。 戦後は新制中学で教職につき、熊本市立白川中学校、熊本市立出水中学校などに勤務する。
稲葉 侃爾(いなば かんじ、1920年 <大正9年> 10月… 稲葉 侃爾(いなば かんじ、1920年 <大正9年> 10月31日 - 2017年 <平成29年> 1月14日 )は、日本の経営者。中国銀行頭取を務めた。位階は従四位。 岡山県出身。福山誠之館中学(現:広島県立福山誠之館高等学校)、旧制姫路高等学校を経て、1946年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に中国銀行に入行した。1970年9月に取締役に就任し、1975年12月に常務、1978年4月に専務を経て、1985年6月に副頭取に就任し、1987年6月には頭取に昇格した。1997年6月には会長も兼任し、1999年4月には会長に専任。2000年3月から6月までには再び頭取を兼任し、2001年6月に相談役を経て、2005年4月から参与を務めた。
平 修二(たいら しゅうじ、1920年10月22日 - 19… 平 修二(たいら しゅうじ、1920年10月22日 - 1978年10月23日)は日本の機械工学者。 兵庫県出身。甲陽中学校(19回卒)、姫路高等学校 (旧制)(現在の神戸大学)を経て、京都帝国大学卒。昭和32年京都大学教授となる。1971年、金属材料の強度に関する研究で、横堀武夫とともに、日本学士院賞を受賞。X線フラクトグラフィの権威。 姫路高校時代は水泳に打ち込んだ。その著書はしばしば大学の機械工学科で教科書として用いられた。 元衆議院議員の平智之は息子。
岸 俊男(きし としお、1920年9月15日 - 1987年… 岸 俊男(きし としお、1920年9月15日 - 1987年1月21日)は、日本史学者、京都大学名誉教授、専門は日本古代史。 1920年、古社寺修理技師・岸熊吉の子として京都市上京区に生まれ、直後に父の仕事の都合で奈良市に移り、以後生涯の拠点であった。奈良県立奈良中学校・第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部史学科に入るが、学徒動員によって満足に学業に打ち込めないまま、1944年9月に卒業。直後に再度召集を受けて海軍少尉となった。敗戦後に京都帝国大学大学院生として学業復帰を認められ、復学した。 1946年9月、京都帝国大学助手に採用された。1951年、奈良女子大学文学部講師となり、1953年に助教授昇格。
小坂 雄太郎(こさか ゆうたろう、1920年3月18日 - … 小坂 雄太郎(こさか ゆうたろう、1920年3月18日 - 1990年8月21日)は、日本の経営者。信越化学工業創業者小坂順造の甥で、信越化学工業社長を務めた。勲二等瑞宝章受章。 長野県上水内郡柳原村(現長野市)出身。地元の地方財閥の信越化学工業創業家小坂一族に生まれる。旧制長野中学・旧制松本高校を経て、1943年に京都帝国大学工学部機械工学科を卒業。海軍技術大尉を経て、1945年に信越化学工業に入社。 取締役、常務を経て、1975年8月に専務に就任し、1983年8月に社長に昇格。 1990年8月21日、肝不全のために死去。70歳没。同日勲二等瑞宝章受章。従兄に小坂善太郎、小坂徳三郎、従弟に小坂健介(信濃毎日新聞社社長)、岳父に舞出長五郎がいる。
木本 元敬(きもと げんけい、1920年(大正9年)2月22… 木本 元敬(きもと げんけい、1920年(大正9年)2月22日 - 2014年(平成26年)9月12日)は、日本の実業家。西日本鉄道第11代社長(1981年 - 1985年)を務めた。 福岡県小倉市(現北九州市)出身。医師の三男。福岡県立小倉高等学校を経て京都帝国大学を繰上げ卒業し、1942年(昭和17年)に西鉄の前身となる九州電気軌道に入社するも、まもなく太平洋戦争で陸軍の歩兵部隊に応召。フィリピン戦線でレイテ島の隣島の独立守備大隊長(少尉)を務めたが、足を負傷したため部隊を離脱。部隊はその後全滅し、九死に一生を得た。この経験から「私は一度無くしたはずの命を与えられた」と言って、西鉄や地域の発展に尽くすことを自らに課し、仕事に打ち込んだという。
熊田 誠(くまだ まこと、1920年1月17日 - 2007… 熊田 誠(くまだ まこと、1920年1月17日 - 2007年6月28日)は、日本の化学者。専門は、有機ケイ素化学・有機金属化学・有機合成化学など。京都大学名誉教授。1993年勲三等旭日中綬章受章。1994年恩賜賞・日本学士院賞受賞。2007年正四位。福井県小浜市出身。 有機金属化学、特に有機ケイ素化学、遷移金属触媒反応の分野において先駆的な研究をしこの分野の発展に指導的役割を果たした。また多くの門下生を輩出した。 専門は有機ケイ素化学、有機合成化学、有機金属化学を中心とする有機化学。 特に有機ケイ素化合物その他有機金属を用いる有機合成、構造有機化学で先駆的研究成果を多数。現在、シリコーン接着剤や化粧品などの原材料として幅広く使われる有機ケイ素化合物の新しい合成法や物性の研究開発を行った。
藤田 和夫(ふじた かずお、1919年7月24日 - 200… 藤田 和夫(ふじた かずお、1919年7月24日 - 2008年12月1日)は、日本の地球科学者。専門は構造地質学。地形学。 大阪市生まれ。幼少期を兵庫県芦屋市で過ごす。京都帝国大学理学部地質・鉱物学科卒業。1961年「西南日本中央帶(瀬戸内)の中新世以降における構造発達」で京都大学理学博士。京都帝大助手をへて、1950年大阪市立大学理学部助教授、60年教授、83年定年退官、名誉教授。帝塚山大学教養部教授。 主として近畿地方の活断層と地形の成因論を研究した。近畿地方に活断層が多く見られる理由を、琵琶湖の東と西とで地質構造が大きく変わる点に求め、当該地域を特別な地質構造帯として「近畿トライアングル」と名付けた。
安原 美穗(やすはら よしほ、1919年1月2日 - 199… 安原 美穗(やすはら よしほ、1919年1月2日 - 1997年3月20日)は、日本の検察官、法務官僚、検事総長、弁護士。 京都府出身。京都府第二中学校(現京都府立鳥羽高等学校)、第三高等学校 (旧制)を経て、京都帝国大学卒業。 1943年司法官試補。1947年検事となる。東京地方検察庁検事、オランダ大使館一等書記官などを経て、1973年法務省刑事局長、1977年法務事務次官、1979年東京高等検察庁検事長。1981年7月23日-1983年12月2日検事総長。 1984年弁護士を開業。のち財団法人国際研修協力機構理事長、財団法人矯正協会会長、株式会社住友銀行顧問弁護士を務めた。 著書『検察の窓から』(高文堂出版社、1985年)のほか、論文・記事を多数執筆している。
安原 美穗(やすはら よしほ、1919年1月2日 - 199… 安原 美穗(やすはら よしほ、1919年1月2日 - 1997年3月20日)は、日本の検察官、法務官僚、検事総長、弁護士。
真田 秀夫(さなだ ひでお、1918年〈大正7年〉10月18… 真田 秀夫(さなだ ひでお、1918年〈大正7年〉10月18日 - 1981年〈昭和56年〉1月10日)は、日本の法制官僚、裁判官、弁護士。内閣法制局長官。 福井市出身。弁護士・真田一夫、政乃夫妻の七男として生まれた。福井県立福井中学校、第三高等学校を卒業。大学在学中に高等試験司法科試験に合格。京都帝国大学法学部を卒業。1942年(昭和17年)1月、司法官試補となり東京地方裁判所判事に任官。召集され陸軍の戦車隊に配属されたが、海軍短期現役士官を志願し海軍法務官に転じ、終戦時は海軍法務中尉であった。 戦後、裁判官に復帰したが、1947年(昭和22年)法制局に転じ参事官となり、第二部長、第一部長、内閣法制次長などを歴任。
丸濱 徹郎(まるはま てつろう、1918年(大正7年)7月2… 丸濱 徹郎(まるはま てつろう、1918年(大正7年)7月22日 - 詳細不明)は、実業家である。三菱スペース・ソフトウエア(現:三菱電機ソフトウエア)取締役となり、郵政省電波技術審議会専門委員、鉄道通信協会副会長を務めた。岡山県高梁市出身。 1918年(大正7年)、岡山県川上郡成羽町(現・高梁市)に生れる。その後、1931年(昭和6年)に地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学した。1936年(昭和11年)に同校を卒業し、同年、岡山市にある旧制第六高等学校へ進学する。その後、1939年(昭和14年)3月に同校を卒業し、京都帝国大学理学部へ入学する。1942年(昭和17年)に同校物理学科を卒業した。
松谷 健一郎(まつたに けんいちろう、1918年〈大正7年〉… 松谷 健一郎(まつたに けんいちろう、1918年〈大正7年〉1月1日 - 2002年〈平成14年〉10月23日)は、日本の実業家。元中国電力代表取締役社長、元中国経済連合会会長。 広島市生まれ。旧制広島高等師範学校附属中学、旧制広島高等学校を経て、1941年(昭和16年)京都帝国大学工学部を卒業し、海軍を経て、中国配電入社。 1975年(昭和50年)中国電力株式会社取締役総合企画室第一企画室長、1977年(昭和52年)中国電力株式会社常務取締役、1979年(昭和54年)中国電力株式会社取締役副社長、1981年(昭和56年)中国電力株式会社代表取締役社長、1987年(昭和62年)中国経済連合会会長、1989年(平成元年)中国電力株式会社代表取締役会長、1995年(平成7年)中国電力株式会社相談役。
島田 虔次(しまだ けんじ、1917年(大正6年)8月12日… 島田 虔次(しまだ けんじ、1917年(大正6年)8月12日 - 2000年(平成12年)3月21日)は、日本の東洋史学者。京都大学名誉教授。1940年代から中国近世・近代思想史の研究を続け、その後の日本の研究を牽引した。 1917年、広島県三次市で生まれた。広島高等師範学校附属中学校(現:広島大学附属中学校・高等学校)、広島県立三次中学校(現:広島県立三次高等学校)、中華民国青島日本中学校を経て、1938年に第三高等学校文科丙類を卒業した。京都帝国大学文学部史学科で学び、1941年に卒業。 卒業後は長野県立野沢高等女学校(現:長野県野沢南高等学校)に勤務。1943年、東方文化研究所(現:京都大学人文科学研究所)助手に採用された。
池 真理子(いけ まりこ、1917年1月2日 - 2000年… 池 真理子(いけ まりこ、1917年1月2日 - 2000年5月30日)は、ジャズ・ラテン・フォルクローレの歌手。京都府生まれ。宝塚音楽学校卒業。愛称は「アイク」。なお、サインや後年のテレビ出演のテロップでは池眞理子となっている。宝塚歌劇団24期生。宝塚歌劇団在団時の芸名は三日月美夜子である。 1917年(大正6年)1月2日、京都の万寿寺生まれだが、実家は僧ではなく、父親はその婿養子で京都帝国大学の学生だった。生後6か月で父が結核で亡くなり、母は女学校教員となったため、祖父母の手で養育された。 平安女学院に入学したが、友達の家出に付き合ったことから祖父の怒りを買い、京都高等女学校に転校させられる。
河野 健二(かわの けんじ、1916年11月25日 - 19… 河野 健二(かわの けんじ、1916年11月25日 - 1996年8月10日)は、日本の歴史学者・経済史家(専攻はフランス経済思想史)。京都大学名誉教授・京都市立芸術大学名誉教授。新京都学派の一人。 1916年、徳島県生まれ。旧制徳島中学校を経て、京都帝国大学経済学部に入学。1940年に卒業した。同1940年、京都帝国大学助手に採用された。 戦後の1946年、山口経済専門学校(現・山口大学経済学部)教授となった。1947年、京都大学助教授に転じ、1960年京都大学教養部教授となった。1961年、学位論文『フランス革命と経済思想』を京都大学に提出して経済学博士の学位を取得。1968年、京都大学人文科学研究所教授に異動となり、1970年からは2期6年にわたって第7代所長を務めた。
岡野 良定(おかの よしさだ、1916年9月10日 - 20… 岡野 良定(おかの よしさだ、1916年9月10日 - 2008年1月30日)は、実業家、元三菱自動車工業会長。サッカー選手、サッカー指導者、三菱重工業サッカー部(現:浦和レッズ)創設者、初代監督。選手時代のポジションはフォワード。 広島県広島市白島(現:中区白島)出身。広島一中(現:広島県立国泰寺高校)、広島高等学校卒業。一中時代からサッカー一筋で一中の2つ上の先輩にのちに東洋工業サッカー部を創設する山崎芳樹がいる。広高時代、1938年の第14回全国高等学校ア式蹴球大会では主将・フォワードとしてチームを優勝に導く。京都帝国大学経済学部進学後も蹴球部で活躍、1941年卒業。同年、三菱重工業入社。
守分 勉(もりわけ つとむ、旧姓藤井、大正5年(1916年)… 守分 勉(もりわけ つとむ、旧姓藤井、大正5年(1916年)4月19日 - 平成12年(2000年)8月16日)は、日本の銀行家。元中国銀行頭取・会長。 中国地方各地で、税務署長を務めた地主藤井宇一郎の5男として、広島県深安郡千田村(現福山市)で生まれる。 京都帝大卒後、神戸海上保険勤務を経て守分家の婿養子となる。 1948年(昭和23年)中国銀行入行。支店長、役員等歴任。義父である守分十の死去に伴い、頭取に就任する。 頭取在任時は、自主健全経営を堅持したほか、時代に即応した経営戦略を打ち出し人事諸制度の整備、改革の実施、事務管理体制の強化、店舗網の整備拡充、総合オンライン体制への移行や相次ぐ関連会社の設立などの施策を講じた。
石黒 孝次郎(いしぐろ こうじろう、1916年(大正5年)3… 石黒 孝次郎(いしぐろ こうじろう、1916年(大正5年)3月28日 - 1992年(平成4年)3月2日)は、日本の実業家、古美術商。レストランクレッセント創業者。栄典は紺綬褒章。祖父に石黒忠悳、父に石黒忠篤が居る。 1916年(大正5年)3月28日、東京府東京市牛込区揚場町17番地(現東京都新宿区揚場町)に石黒忠篤の次男として生まれる。父は農政の神様といわれた農林大臣の石黒忠篤。祖父は日本陸軍軍医で日本赤十字社第4代社長の石黒忠悳。 旧制成蹊高等学校を経て1941年(昭和16年)に京都帝国大学法学部を卒業し、翌年三井物産に入社。戦時中は物資補給を担った。このときの部下に楊馥成が居る。1946年(昭和21年)、三井物産退社。
中馬 辰猪(ちゅうまん たつい、1916年2月27日 - 2… 中馬 辰猪(ちゅうまん たつい、1916年2月27日 - 2010年4月18日)は、日本の政治家。衆議院議員、建設大臣。 現在の鹿児島県霧島市国分に、参議院議員を務めた中馬猪之吉の二男として生まれる。鹿児島県立加治木中学校 (旧制)、第七高等学校 (旧制)を経て、1941年京都帝国大学法学部を卒業。陸軍主計大尉としてインパール作戦に従事し、負傷するものの危機一髪で生還した経験を持つ。帰国後は水産会社役員、鹿児島県煙草耕作連嘱託等を経て、1949年第24回衆議院議員総選挙に吉田茂率いる民主自由党公認で旧鹿児島2区から立候補し当選(当選同期に池田勇人・岡崎勝男・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など)。
柿本 奨(かきもと つとむ、”奬”と書く場合もあり、1915… 柿本 奨(かきもと つとむ、”奬”と書く場合もあり、1915年11月30日 - 2000年5月)は、国文学者。大阪大学・追手門学院大学名誉教授。専門は中古文学。 大阪府岸和田市生まれ。岸和田中学校(現:大阪府立岸和田高等学校)、大阪高等学校卒、1938年京都帝国大学文学部国文科卒。大阪市立岡第二商業学校(現:大阪市立市岡商業高等学校)教諭、熊本師範学校教授、大阪第一師範学校教授、二度応召。戦後、大阪学芸大学助教授、67年校名変更で大阪教育大学教授、大阪大学教養部教授、79年定年退官、名誉教授、追手門学院大学教授。同名誉教授。
筧 正典(かけひ まさのり、1915年10月12日 - 19… 筧 正典(かけひ まさのり、1915年10月12日 - 1993年1月14日)は、日本の映画監督、助監督。 長野県下諏訪町出身。旧制諏訪中学(現:長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、京都帝国大学法学部卒業。1940年東宝入社、東宝映画(社長シリーズ)やウルトラシリーズを監督。1968年フリーランスとなる。仕事には厳格な人物であったとされる。 1989年、勲四等瑞宝章受章。
佐々木 英治 (ささき えいじ, 1915年(大正4年)8月… 佐々木 英治 (ささき えいじ, 1915年(大正4年)8月23日 - 2007年12月15日) は、日本の実業家。元宇部興産(現・UBE)代表取締役副社長、元テレビ山口社長。 山口県山口市生まれ。山口県立山口高等学校を経て京都帝国大学経済学部卒業。 1940年、沖ノ山炭鉱入社。1944年に宇部炭鉱が宇部興産と合併。1969年にテレビ山口株式会社取締役と宇部興産株式会社常務取締役を兼務。1983年宇部興産代表取締役副社長、1984年テレビ山口代表取締役社長に就任。宇部興産飲料と宇部ゴルフ観光の社長を歴任。山口テレメッセージ株式会社相談役も勤めた。
山内 邦臣(やまのうち くにおみ、1915年5月28日 - … 山内 邦臣(やまのうち くにおみ、1915年5月28日 - 1998年6月17日 )は、英米文学者。京都大学名誉教授。旧姓は「姉嵜 邦臣(あねざき)」。主としてユージン・オニールを研究。 1915年、奈良県奈良市生まれ。旧制奈良師範附属小学校、旧制奈良中学校、旧制高岡中学校を経て、旧制富山高等学校を1935年に卒業。京都帝国大学文学部(英文学専攻)に進み、1938年に卒業した。その後は同大学大学院に進み、1943年まで在籍した。 その後は文学部副手となり、1939年までつとめた。1939年より旧制大谷女子専門学校講師、1940年旧制龍谷大学予科教授、1944年旧制京都府立女子専門学校教授(1946年まで)、旧制第三高等学校教授(1948年まで)。
磯村 哲(いそむら てつ、1914年12月9日 - 1997… 磯村 哲(いそむら てつ、1914年12月9日 - 1997年8月23日)は、日本の法学者。学位は、法学博士(京都大学・論文博士・1976年)(学位論文「市民法学-社会法学の展開と構造-」)。京都大学名誉教授。兵庫県出身。 息子は、神戸大学名誉教授・早稲田大学大学院法務研究科教授の磯村保。
松友 孟(まつとも つとむ、1914年12月5日 - 200… 松友 孟(まつとも つとむ、1914年12月5日 - 2003年9月23日)は、元愛媛県副知事。 愛媛県松山市出身。旧制松山中学卒業、旧制松山高校卒業、1937年 京都帝国大学法学部卒業、内務省に入る。山形県勤務、広島県、熊本県、兵庫県の各課長を経て、1947年 奈良県教育民生部長、1948年 奈良県教育長、1949年 奈良県総務部長、1951年 愛媛県民生部長に転じ、1955年 総務部長、1963年 出納長を経て、1969年から1974年まで副知事を務めた。戦時中は一時陸軍司政官として転出した。推されて松山市長選挙に出馬するが落選した。1975年から愛媛県人事委員会委員長、1976年から1999年まで愛媛県社会経済研究財団専務理事。
今西 壽雄(いまにし としお、1914年〈大正3年〉9月9日… 今西 壽雄(いまにし としお、1914年〈大正3年〉9月9日 - 1995年〈平成7年〉11月15日)は、日本の登山家。元日本山岳会会長。マナスル世界初登頂に成功。記念切手も発行された。 奈良県出身。旧制浪速高等学校を経て、1941年、京都帝国大学農学部卒業。 旧制高校在学時代より登山を始める。1953年、京大学士山岳会ヒマラヤ・アンナプルナ2峰遠征隊隊長としてアンナプルナ登頂に挑戦するが撤退。1956年、槇有恒率いる日本山岳会第三次マナスル登山隊に参加し、シェルパのギャルツェン・ノルブとともにマナスル世界初登頂に成功した。この快挙は戦後の日本人に誇りと自信を取り戻させるニュースとして大きく伝えられ、さらにネパールと日本との国交が結ばれるきっかけとなった。
日比野 丈夫(ひびの たけお、1914年(大正3年)3月4日… 日比野 丈夫(ひびの たけお、1914年(大正3年)3月4日 - 2007年(平成19年)7月2日)は、日本の東洋学者、歴史学者(歴史地理学)。京都市生まれ。祖先は高須藩(現在の岐阜県海津市)に代々仕えた漢学者の家柄。 京都一中、三高を経て、1936年京都帝国大学文学部史学科東洋史専攻卒業。1936年東方文化学院京都研究所嘱託、1942年東方文化研究所副研究員。この間、中国留学(39-41年)や出張(43年)によって、中国国内の遺跡の実地調査に当たる。 1948年京都大学人文科学研究所研究員。49年助手、51年講師、57年助教授、68年教授。59年「居庸関」(共同研究)により、日本学士院賞受賞。
植村 光雄(うえむら みつお、1914年1月1日- 2006… 植村 光雄(うえむら みつお、1914年1月1日- 2006年1月21日)は、日本の経営者。住友商事社長、会長を務めた。 兵庫県出身。旧制姫路中学、旧制姫路高等学校文科乙類を経て、1936年京都帝国大学法学部を卒業。住友合資入社、住友商事に転じ、1961年5月に取締役に就任。常務、専務を経て、1971年11月に副社長に就任し、1977年6月に社長に昇格し、1983年6月に会長に就任し、1987年6月から相談役を務めた。。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1984年6月には貿易功労者に選ばれ、1989年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 2006年1月21日、肺炎のために死去。92歳没。
山口 良忠(やまぐち よしただ、1913年(大正2年)11月… 山口 良忠(やまぐち よしただ、1913年(大正2年)11月16日 - 1947年(昭和22年)10月11日)とは、日本の裁判官。佐賀県杵島郡白石町出身。太平洋戦争の終戦後の食糧難の時代に、闇市の闇米を拒否して食糧管理法に沿った配給食糧のみを口にし、栄養失調で亡くなったことで知られる。 1913年(大正2年)、佐賀県杵島郡福治村(現在の白石町)に、小学校教師の長男として生まれる(→白石町ホームページ)。鹿島中学校(旧制)・佐賀高等学校(旧制)・京都帝国大学法学部を卒業。大学院に進み宮本英脩・佐伯千仭に師事、高等文官試験司法科試験に合格、判事となる。1942年(昭和17年)に東京民事地方裁判所に転任後、1946年(昭和21年)10月に東京区裁判所の経済事犯専任判事となる。
白澤 正二(しらさわ しょうじ、1913年2月2日 - 19… 白澤 正二(しらさわ しょうじ、1913年2月2日 - 1995年1月23日)は、日本の実業家。茨城放送(現在のLuckyFM茨城放送)社長・会長、朝日新聞編集委員などを務めた。 長野県南安曇郡明盛村(三郷村を経て、現在の安曇野市)生まれ。1930年(昭和5年)旧制松本第二中学校(現在の長野県松本県ヶ丘高等学校)を卒業した。1936年(昭和11年)旧制松本高校を経て、京都帝国大学法学部を卒業した。 1937年、朝日新聞社に入社した。東京本社整理部次長、同学芸部次長、西部本社運動部長、東京本社編集委員を経て、1965年に茨城放送代表取締役社長に就任し、その後は会長を務めた。 また、1972年に日本記者クラブ会員、1978年(昭和53年)7月から1979年(昭和54年)6月まで、水戸ロータリークラブ会長(第29期)を務めた。
森下 正明(もりした まさあき、1913年〈大正2年〉1月2… 森下 正明(もりした まさあき、1913年〈大正2年〉1月27日 - 1997年〈平成9年〉2月25日)は、日本の生態学者。京都大学名誉教授。日本における個体群生態学の建設者。理学博士(京都大学、1950年)。正四位。大阪市東区東雲町59番地(旧住所表示)生まれ。 今西錦司とともに京都学派を代表する動物生態学者であり、内田俊郎と共に個体群生態学の発展期に日本の動物個体群生態学を牽引した。ただし内田が室内実験的研究を得意としたのに対して、森下は主として統計学を駆使して野外研究のデータを数理解析する手法によっており、この分野で独創的な貢献をした。 教育者としても大きな足跡を残しており、教諭を務めた京都府立鴨沂高等学校で生物研究会の顧問として指導にあたった。
松澤 太郎(まつざわ たろう、1912年(大正元年)12月2… 松澤 太郎(まつざわ たろう、1912年(大正元年)12月26日 - 2007年(平成19年)3月11日)は、昭和期の機械技術者、政治家。 長野県下伊那郡上飯田村(現飯田市)で、松澤茂雄、寿美の長男として生まれた。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)、旧制松本高等学校理科甲類を経て、1938年(昭和13年)3月、京都帝国大学工学部機械工学科を卒業。 石川島芝浦タービンから1950年(昭和25年)芝浦ミシンに転職し、1955年(昭和30年)退社。飯田市商工観光課工業指導事務嘱託を経て、1956年(昭和31年)飯田市教育長、1964年(昭和39年)飯田市総務部長となり、1968年(昭和43年)に退職。
宮本 正太郎(みやもと しょうたろう、1912年12月1日 … 宮本 正太郎(みやもと しょうたろう、1912年12月1日 - 1992年5月11日)は、日本の天文学者。荒木俊馬の弟子の一人で、惑星気象学の開拓者として有名。広島県出身。
藤牧 直(ふじまき なおし、1912年9月23日 - 198… 藤牧 直(ふじまき なおし、1912年9月23日 - 1980年3月22日)は、日本の総務官僚。元拓務省南洋庁ヤップ支庁長、郵政省監察局長。 長野県生まれ。1929年(昭和4年)旧制松本第二中学(現:長野県松本県ヶ丘高等学校)卒業。1934年(昭和9年)、旧制富山高等学校を経て、京都帝国大学経済学部卒業。 戦前は、拓務省南洋庁ヤップ支庁長を務めたほか、戦後は1949年(昭和24年)人事院給与局実施課長、1954年(昭和29年)郵政省(現:総務省)人事部厚生課長、1962年(昭和37年)監察局長を務め、翌年に退官、郵政弘済会長となり、1967年(昭和42年)福島テレビ専務取締役、1972年(昭和47年)民間放送テレビ回線運営センター常任監事などを務めた。
原田 正夫(はらだ まさお、後年の姓名は藤江、1912年(大… 原田 正夫(はらだ まさお、後年の姓名は藤江、1912年(大正元年)9月22日 - 2000年(平成12年)1月22日)は、日本の陸上競技選手。1936年ベルリンオリンピック銀メダリスト。 1912年9月22日、京都府亀岡市曽我部町西条出身。京都一中、三高、京都帝国大学法学部卒業。のち藤江家に養子に入ったため藤江姓を名乗った。 1936年、ベルリンオリンピック男子三段跳に出場。15m66をマークし銀メダルを獲得した。金メダリストは同じ京都帝大出身の田島直人だった。田島は、オリンピック2年前に両者が出席して京都大学陸上競技部誌に掲載された「三段跳座談会」では「(ベルリンオリンピックに代表として)大島さんと原田さんが行くことになるだろう」と発言していた。