出澤 三太(でざわ さんた、1917年12月25日 - 19… 出澤 三太(でざわ さんた、1917年12月25日 - 1985年5月17日)は、俳人。筆名は出澤珊太郎。作家星新一の異母兄。
1917年(大正6年)生まれ:599人
出澤 三太(でざわ さんた、1917年12月25日 - 19… 出澤 三太(でざわ さんた、1917年12月25日 - 1985年5月17日)は、俳人。筆名は出澤珊太郎。作家星新一の異母兄。
堀 太郎(ほり たろう、1917年 <大正6年> 12月25… 堀 太郎(ほり たろう、1917年 <大正6年> 12月25日 - 1995年 <平成7年> 11月17日 )は、日本の経営者、銀行家。十八銀行頭取を務めた。位階は従四位。 京都府京都市出身。1943年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に大蔵省に入省した。1968年7月に経済企画庁審議官、1970年7月に本州四国連絡橋公団理事、1973年6月に世界銀行日本代表理事兼大蔵省顧問兼外務省参与を経て、1976年12月に十八銀行に転じ、副頭取に就任し、1983年10月には頭取に昇格した。1990年2月には会長に就任。 1988年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1995年11月17日、心不全のために死去。
西村 元三朗(にしむら もとさぶろう、1917年12月25日… 西村 元三朗(にしむら もとさぶろう、1917年12月25日 - 2002年7月11日)は、昭和時代から平成時代にかけて活躍した洋画家。 神戸市に生まれる。1939年~1941年の京城での従軍中に画家になる決意を固め、帰国後1942年に小磯良平に師事した後、日本大学専門部芸術科に入学する。卒業後、小磯良平に誘われて新制作派協会(後の新制作協会)に参加し、その後の主たる活動の場とした。 作品の主題は一貫して建造物で、作風は初期の叙情的風景画から次第に想像上の空間を組み合わせたシュールレアリズム的風景画へと変化し、さらに1953年に発表した「洞」「空間」が高い評価を受けて以降は抽象化した建物の構造体による多次元的広がりをもつ空間の表現へと移行する。
浜田 知明(はまだ ちめい、本名の読みはともあき、1917年… 浜田 知明(はまだ ちめい、本名の読みはともあき、1917年(大正6年)12月23日 - 2018年(平成30年)7月17日)は、日本の版画家・彫刻家。日本の版画家が国際的に注目されはじめたのは1950年代からであるが、浜田も棟方志功、浜口陽三、駒井哲郎らと並び、第二次大戦後の日本を代表する版画家の一人に数えられる。 1917年(大正6年)、熊本県上益城郡高木村(現・御船町)生まれ。教育者の次男である。旧制御船中学校(現在の熊本県立御船高等学校)では、東京美術学校を卒業後すぐに美術教師として赴任していた富田至誠に指導を受ける。16歳の時には飛び級で東京美術学校(現・東京藝術大学)油画科に入学し、洋画家藤島武二の指導を受けた。
水野 良一(みずの りょういち、1917年12月23日 - … 水野 良一(みずの りょういち、1917年12月23日 - 1999年6月27日)は、愛知県出身のプロ野球選手。
松本 司朗(まつもと しろう、1917年 <大正6年> 12… 松本 司朗(まつもと しろう、1917年 <大正6年> 12月23日 - 1999年 <平成11年> 5月20日)は、日本の経営者。黄桜社長を務めた。位階は正六位。 京都府出身。1941年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、兵役を経て、復員した1946年に松本治六郎商店(のちの黄桜)に入社。1964年に社長に就任。1995年に相談役に就任。 1979年に藍綬褒章を受章。 1999年5月20日心不全のために死去。81歳没。死没日付をもって従七位から正六位に進階した。
矢野 幸夫(やの ゆきお、1917年12月22日 - 200… 矢野 幸夫(やの ゆきお、1917年12月22日 - 2004年5月17日)は日本の競馬の騎手、調教師、および整体師。 北海道静内郡静内町(現・日高郡新ひだか町)出身。実家は軍馬を生産する牧場だった。 1930年、中山競馬場・東原玉造厩舎所属の見習騎手となり、1933年に騎手免許を取得。日本競馬会時代の1941年には優秀騎手として表彰され、国営競馬時代の1951年には最高技能賞を受賞している。 1952年に調教師免許を取得し、その後中山競馬場で厩舎を開業。1978年、美浦トレーニングセンター開設に伴い移転。1994年2月をもって定年引退するまでの間に通算1060勝を挙げた。同年2月27日に中山競馬場で引退式が行われ、代表してファンに挨拶を行った。
山岡 康人(やまおか やすひと、1917年12月21日 - … 山岡 康人(やまおか やすひと、1917年12月21日 - 1963年10月24日)は、日本の経営者。ヤンマーディーゼル社長を務めた。創業者山岡孫吉の長男。 大阪府大阪市出身。1942年に早稲田大学政治経済学部を卒業。1943年9月に25歳で取締役に就任し、1945年3月に山岡内燃機副社長、1961年7月にヤンマー農機社長を歴任し、山岡孫吉をサポートし、会社を牽引していた。組織体制の強化を図り、新規事業への進出と海外事業の再編などにも取り組み、中でも小型貨物自動車の開発に意欲を見せ、臨時車輌部を新設し、1958年5月には「ヤンマーポニー」の愛称で知られる小型ディーゼルエンジンを搭載した農用作業車を世に送り出した。
長岡 文雄(ながおか ふみお、1917年12月18日 - 2… 長岡 文雄(ながおか ふみお、1917年12月18日 - 2013年?)は、日本の教育者、教育学者。 福岡県八女市出身。書道の雅号 長岡 光邨(こうそん)。1937年福岡県小倉師範学校本科第一部卒。小倉師範附小に勤務時、24歳で文部省 師範学校中学校高等女学校教員検定試験「習字」に当時の最年少で合格した。書道家として東京の学校への就職を薦められたが、同時期に奈良女子高等師範学校附小からの招聘を受け、迷った末、教育者としての道を歩むことを決心する。1943年奈良女子高等師範学校附属小学校教諭となり、木下竹次の「学習法」を引き継ぎ、戦後は重松鷹泰と共に「奈良プラン」を樹立した。 長岡は、「教育は、ひとりひとりの子どもが、人間としての可能性をぎりぎりまで発現していくように手伝うことであり、個性的思考の深化を支援して、人間としての生き方を創造させることである。
山崎 剛太郎(やまさき こうたろう、1917年12月16日 … 山崎 剛太郎(やまさき こうたろう、1917年12月16日 - 2021年3月11日)は、日本の詩人、フランス文学の翻訳家。 福岡県福岡市生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。在学中加藤周一、福永武彦らの『マチネ・ポエティク』同人となり、卒業後外務省勤務を経て東宝東和に入社し、『大いなる幻影』など多数のフランス映画の字幕翻訳を行う。調布学園女子短期大学教授、早稲田大学講師を歴任した。1979年、フランス政府より芸術文化勲章シュヴァリエを受勲。1990年、フランス政府より芸術文化勲章オフィシエを受勲される。 2021年3月11日、肺炎のため東京都港区内の病院で死去。103歳没。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
田谷 鋭(たや えい、1917年12月15日 - 2013年… 田谷 鋭(たや えい、1917年12月15日 - 2013年11月6日)は、昭和から平成にかけての日本の歌人。国鉄マンの労働現場を詠んだ歌がよく知られ、歌風はつつましさ、はじらいを特徴とする。 千葉県千葉市寒川町生まれ。2歳で父を、7歳で母を結核で失い、4人の兄のうち3人をやはり結核で奪われる。貧苦の中、夜学の千葉関東商業学校(現敬愛学園高等学校)を卒業し、国鉄に勤務。 1934年(昭和9年)に北原白秋顧問、村野次郎主宰の「香蘭」に入会。1935年(昭和10年)、白秋が新たに創刊した「多磨」に移る。1939年(昭和14年)4月に応召、習志野陸軍病院に衛生兵として勤務。1942年(昭和17年)1月召集解除、国鉄に復帰。
安田 貞栄(やすだ さだえ、 1917年(大正6年)12月1… 安田 貞栄(やすだ さだえ、 1917年(大正6年)12月15日 - 1989年(平成元年)11月20日)は、日本の教育者、政治家。鳥取県議会議員、境港市長(第3代)。 元鳥取県議会副議長永井貞録の四男。元米子今井書店社長永井準の実弟。鳥取県議会議員安田優子の実父。 鳥取県西伯郡中浜村出身。永井貞録の四男として生まれ、叔母に子供がなかったため安田家の養子となる。実父貞録の「貞」と養父栄の「栄」をとって「貞栄」と命名された。 学期末通信簿を持って帰って、成績が一番になったことを言うと「百姓の跡取りにならなくなるぞ」と叱られた。部落の長老百太郎じいさんは特に説教の名人で「百姓の跡取りは百姓となるべきである。
入江伸(いりえ しん、1917年12月15日 - 2006年… 入江伸(いりえ しん、1917年12月15日 - 2006年2月20日)は、かつて存在した学習塾伸学社(入江塾)の塾頭。本名は入江功二。なお、入江伸を「いりえ のぶる」と読ませていた時期もあった。
壷井 宇乃子(つぼい うのこ、1917年(大正6年)12月1… 壷井 宇乃子(つぼい うのこ、1917年(大正6年)12月13日 - 1940年(昭和15年)11月4日)は、昭和時代の競泳選手。専門は平泳ぎ。 京都府京都市出身。幼少時代は心臓が悪く、医師から「激しい運動をさせていけない」と言われていた子だったという。このため宇乃子の両親は娘が水泳をすることを快く思わなかったという。宇乃子自身は「水泳を始めたおかげで五尺三寸の体躯となり、精神力が強くなった」ことを後に語っている。 学童時代に大日本武徳会遊泳部(京都武徳会、現在の京都踏水会スイミングクラブ)に入り、本格的に競泳に取り組む。京都武徳会所属で京都府立京都第一高等女学校(現在の京都府立鴨沂高等学校)時代の1934年(昭和9年)の全日本選手権水上競技大会女子200m平泳ぎにて優勝した前畑秀子(椙山女学園)に次いで2位に入賞している。
大久間 喜一郎(おおくま きいちろう、1917年(大正6年)… 大久間 喜一郎(おおくま きいちろう、1917年(大正6年)12月13日 - 2012年(平成24年)3月24日)は、日本の国文学者・歌人。明治大学名誉教授。若い頃にはラジオアナウンサーを務めた経歴も持つ。 東京府東京市浅草区(現・東京都台東区)に生まれる。1940年、國學院大學文学部国文科を卒業。卒業後、日本放送協会アナウンサーから満洲電信電話勤務となる(満州電信電話には森繁久弥もアナウンサーとして勤務していた)。 戦後、獨逸学協会中学校(現・獨協中学校・高等学校)教師を経て、明治大学経営学部助教授となり、1962年に教授に就任。1972年「古代文学の構想」で國學院大學より文学博士の学位を取得。
白井 健三郎(しらい けんざぶろう、1917年12月12日 … 白井 健三郎(しらい けんざぶろう、1917年12月12日 - 1998年2月13日)は、日本の文芸評論家、フランス文学者、翻訳家。 東京市神田区(現千代田区神田)出身。 1943年東京帝国大学文学部仏文科卒業。1948年慶應義塾大学講師、1952年経済学部助教授、1954年学習院大学文学部フランス文学科助教授、1961年教授。1988年定年退任、名誉教授。 1995年勲三等瑞宝章を受章。 1998年死去。享年80。 戦時中に、福永武彦、中村真一郎たちが中心となったマチネ・ポエティクに参加し、数編の日本語による定型押韻詩や小説を遺した。その後のアルベール・カミュやジャン=ポール・サルトルの著書の翻訳紹介で知られる。
森田 欽二(もりた きんじ、1917年12月11日 - 19… 森田 欽二(もりた きんじ、1917年12月11日 - 1979年4月13日)は、日本の政治家、教育者。自由民主党衆議院議員(1期)。 福岡県甘木市(現・朝倉市)出身。福岡県立朝倉中学校を経て福岡県福岡師範学校卒。甘木市立石小教諭、福岡県視学委員を務めた後、1947年(昭和22年)に福岡県議会議員となる。以来6期当選を重ね、1967年(昭和42年)から1969年(昭和44年)まで県議会議長に就いた。1972年(昭和47年)に県議を辞任し、第33回衆議院議員総選挙で福岡1区から自由民主党公認で立候補したが落選。次の1976年(昭和51年)第34回衆議院議員総選挙で初当選する。衆議院では農林水産委員を務め農林行政に対する高い見識と実行力で注目された。
佐藤 忠義(さとう ただよし、1917年〈大正6年〉12月1… 佐藤 忠義(さとう ただよし、1917年〈大正6年〉12月11日 - 2020年〈令和2年〉9月5日)は、日本の経営者。四国電力社長を務めた。位階は従三位。 徳島県三好郡三加茂町(現東みよし町)出身。新潟高等学校を経て1941年に東京帝国大学経済学部を卒業し、1942年1月に三菱商事に入社。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。那智に配属。1942年7月、雉乗組となる。1943年11月、海軍主計大尉に昇進。同年12月、第二出水海軍航空隊に転じ、さらに第七二一海軍航空隊で勤務し、富高基地(現日向市)で終戦を迎えた。 1948年2月に日本発送電での勤務を経て、1951年5月に四国電力に転じ、1970年5月に取締役に就任し、1974年11月に常務を経て、1983年6月に副社長に就任し、1985年6月には社長に昇格。
武内 俊夫(たけうち としお、1917年 <大正6年> 12… 武内 俊夫(たけうち としお、1917年 <大正6年> 12月11日 - 2005 <平成17年> 6月20日)は、日本の経営者。トーメン (現在の豊田通商) 社長、会長を務めた。位階は従四位。 大阪府出身。1940年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に東洋綿花に入社。1967年11月に取締役に就任し、1969年11月に常務、1971年5月に専務、1976年4月に副社長を経て、1977年6月に社長に就任。1986年6月から1989年3月までに会長を務めた。 1980年4月に藍綬褒章を受章し、1988年4月に勲二等瑞宝章を受章。2005年死去。死没日付をもって従四位に叙された。
田辺 健一、田邊 健一(たなべ けんいち、1917年12月1… 田辺 健一、田邊 健一(たなべ けんいち、1917年12月10日 - 1985年10月7日)は、日本の地理学者。専門は人文地理学、特に都市地理学。宮城教育大学名誉教授、東北大学名誉教授。 東京神田生まれ。旧制東京府立五中から旧制浦和高等学校(現埼玉大学)に進学。卒業後東京帝国大学理学部に進んだ。 学生時代に、木内信蔵が主導して行なわれた東京市四谷谷町小住宅密集地区の学際的調査に参加したことを機に、都市地理学研究者として注目され、後には「木内門下生きっての都市地理学者」と評されるに至った。 1944年1月17日旧姓小石弘子と結婚。仙台に疎開する。 1945年に長男の好美(よしはる)、1950年に長女のさつきをもうける。
木村 剛輔(きむら ごうすけ、1917年(大正6年)12月1… 木村 剛輔(きむら ごうすけ、1917年(大正6年)12月10日 - 1994年(平成6年)8月16日)は、昭和期の政治学者、教育者、政治家。衆議院議員。父は初代法務大臣の木村篤太郎。 神奈川県出身。1942年(昭和17年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。戦後にシカゴ大学で学んだ。 東京帝大法学部助手となり、召集され陸軍中尉で復員した。その後、東京教育大学助教授、シカゴ大学政治学客員教授などを務めた。小田原女子短期大学(現小田原短期大学)を創立して理事長兼副学長に就任した。 1958年(昭和33年)5月の第28回衆議院議員総選挙に神奈川県第3区から出馬したが落選。次の第29回総選挙でも落選したが、1963年(昭和38年)11月の第30回総選挙で初当選し、衆議院議員に1期在任した。
尹 炳漢(ユン・ビョンハン、朝鮮語: 윤병한/尹炳漢、191… 尹 炳漢(ユン・ビョンハン、朝鮮語: 윤병한/尹炳漢、1917年12月10日 - 2000年4月5日)は、大韓民国の実業家、政治家。第5代韓国国会議員。 本貫は漆原尹氏(朝鮮語版)。号は曙東(ソドン、서동)。 日本統治時代の慶尚南道の巨済島(現・巨済市河清面)出身。日本大学法学部卒。1960年の第5代総選挙では民主党の公認で巨済郡選挙区から立候補し、他の11人の候補者を抑えて初当選した。1992年、75歳の尹は第14代総選挙に同じ選挙区から5回目の出馬をしたが、当選は第5代のたった1回であった。また、長春韓国僑民青年団長、大韓青年団(朝鮮語版)新馬山特別団副団長、産業日報社主幹・副社長、ミョンドク愛育園長、チャンソン青果株式会社社長、イリャン産業株式会社専務、ハニャン商事社長、用達業協会長などを務めた。
松井 正直(まつい まさなお、1917年12月9日 - 20… 松井 正直(まつい まさなお、1917年12月9日 - 2012年3月12日)は日本の農芸化学者。東京大学名誉教授、理化学研究所名誉研究員。生理活性天然物の合成に関する研究領域の第一人者として活躍した。 長野県上田市生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1938年旧制静岡高等学校理科卒業、1941年東京帝国大学農学部農芸化学科卒業。同年台湾製糖に入社し、理化学研究所に研究員として派遣され、1942年に理研研究員のまま理研栄養食品に移り、1945年住友化学に勤務しながら京都帝国大学に4年間派遣された。1953年東大助教授となり、1956年同教授。1967年から1978年まで理研主任研究員を兼ねる。
門司 親徳(もじ ちかのり、1917年12月9日 - 200… 門司 親徳(もじ ちかのり、1917年12月9日 - 2008年8月16日)は、日本の海軍軍人、実業家。短現6期。最終階級は海軍主計少佐。戦後は日本興業銀行取締役総務部長、丸三証券社長を務める。 1917年12月9日、東京府に生まれる。1933年に東京府立第六中学校を、1937年に浦和高等学校を、1941年に東京帝国大学経済学部を卒業し、日本興業銀行に入社。 1941年4月18日、6期短期現役海軍主計科士官として海軍経理学校に入校。同期生に中曽根康弘、鳩山威一郎がいる。8月11日、同校を卒業。8月、戦艦「陸奥」に乗組。1941年10月2日、「瑞鶴」に乗組、庶務主任に就任。12月、真珠湾攻撃及びマレー作戦により太平洋戦争開戦。
原口 幸隆(はらぐち ゆきたか、1917年12月7日 - 1… 原口 幸隆(はらぐち ゆきたか、1917年12月7日 - 1979年3月15日)は、昭和時代の労働運動家。日本労働組合総評議会(総評)議長。 福岡県生まれ。戸籍上は1918年1月7日生まれ。1941年九州帝国大学法文学部卒業、住友鉱業別子鉱業所に入社。エリートコースから労働運動に入り、1947年別子鉱業所職員組合委員長、全日本金属鉱山労働組合連合会(全鉱)副委員長。1948年から1979年2月(1953年を除く)まで全鉱委員長。1949年国際自由労連(ICFTU)結成大会に出席、1953年同東京事務所所長、1962年同加盟組合連絡会議議長。1956~1958年日本労働組合総評議会(総評)議長。1966~1971年総評民間単産会議議長。
小宮 曠三(こみや こうぞう、1917年〈大正6年〉12月5… 小宮 曠三(こみや こうぞう、1917年〈大正6年〉12月5日 - 1995年〈平成7年〉10月29日)は、日本のドイツ文学者。小宮豊隆の子として東京に生まれる。 旧制仙台二中、旧制二高を経て、1940年東京帝国大学文学部独文科を卒業。戦後、東京大学教養学部助教授、教授、1978年定年退官、専修大学教授、1988年定年退職、東京大学名誉教授。主としてベルトルト・ブレヒトを研究した。1992年、勲三等旭日中綬章を受章。1995年、急性心筋梗塞のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
佐賀ノ花 勝巳(さがのはな かつみ、1917年12月5日 -… 佐賀ノ花 勝巳(さがのはな かつみ、1917年12月5日 - 1975年3月28日)は、佐賀県佐賀市出身で二所ノ関部屋(入門時は粂川部屋)に所属した大相撲力士。本名は北村 勝巳(きたむら かつみ)。師匠の玉錦譲りの鋭い出足から「飛燕の出足」「サッと寄り切る佐賀ノ花」などと呼ばれていた。最高位は東大関。 1917年12月5日、佐賀市八戸町に生まれる。幼少期は西魚町で育った。日新小学校時代の地域の相撲大会での活躍ぶりは、現在も語り草になっているという。 高等小学校卒業後、苦しい家計を助けるため鹿島市の兄のもとで板前修業を始める。1934年、鹿島市へ巡業に来た玉錦三右エ門が佐賀ノ花が務めていた料亭に宿泊。
徳川 頼韶(とくがわ よりあき、1917年(大正6年)12月… 徳川 頼韶(とくがわ よりあき、1917年(大正6年)12月3日 - 1958年(昭和33年)12月6日)は、紀州徳川家第17代当主。 1917年(大正6年)12月3日、徳川頼貞と島津忠義の十一女・為子の長男として東京府東京市芝区白金三光町(現在の東京都港区白金)で生まれる。父の頼貞にとって唯一の男子であったが、生来病弱であった。 1936年(昭和11年)7月18日、母方の伯父である島津忠重夫妻の北海道旅行に随行して上野駅を出発し、翌7月19日に青函連絡船翔鳳丸で北海道に渡った。北海道旅行は空知郡上富良野村(現在の上富良野町)にある島津家富良野農場(島津農場)の視察を目的としていたが、他にも北海道庁真駒内種畜場、王子製紙苫小牧工場、日本製鋼所室蘭製作所などの見学をする一方、五稜郭、登別温泉、洞爺湖など北海道各地の観光も行っている。
笠間 祐一郎(かさま ゆういちろう、1917年 <大正6年>… 笠間 祐一郎(かさま ゆういちろう、1917年 <大正6年> 12月1日 - 2011年 <平成23年> 5月30日)は、日本の経営者。三井東圧化学(現在の三井化学)社長を務めた。位階は正四位。 福岡県出身。1940年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。1941年5月に三井化学に転じ、1970年11月に三井東圧化学取締役に就任し、1974年11月に常務、1977年4月に専務、199年6月に副社長を経て、1981年6月には社長に就任。1985年6月に会長に就任し、1993年6月には相談役に就任し、三井化学でも務めた。 1968年4月に勲二等旭日重光章を受章。 2011年5月30日に老衰のために死去。
鈴木 勲(すずき いさお、1917年12月1日 - 1987… 鈴木 勲(すずき いさお、1917年12月1日 - 1987年6月3日)は、日本の経営者。東京都出身。 1938年に横浜高等商業学校を卒業し、同年4月に三井物産に入社。1961年5月に取締役に就任し、1964年11月に常務を経て、1967年11月にゼネラル石油副社長に就任し、1974年2月には社長に昇格。1985年6月には会長に就任。 1987年6月3日肝不全のために死去。69歳没。
中村 孝(なかむら たかし、1917年12月 - 2009年… 中村 孝(なかむら たかし、1917年12月 - 2009年2月19日)は、日本の工学者、実業家。電元社製作所代表取締役、一般社団法人明専会元会長、工学博士。社団法人日本溶接協会、財団法人日本溶接技術センター、摩擦圧接協会などの設立に奔走し、溶接技術向上、人材育成、工業標準確立の中心的役割を果した。 山口県徳山市(現周南市)出身。1940年に明治専門学校(現・九州工業大学)電気工学科を卒業し、三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所に入社した。1945年にフタバ産業株式会社の設立に参加し、常務取締役、監査役などを歴任した。1950年に電元社製作所株式会社に移り、取締役技術部長、常務取締役、専務取締役、代表取締役を歴任した。
竹内 藤男(たけうち ふじお、1917年(大正6年)11月3… 竹内 藤男(たけうち ふじお、1917年(大正6年)11月30日 - 2004年(平成16年)9月7日)は、日本の政治家、官僚。茨城県知事を5期務めた(公選第8・9・10・11・12代)。元参議院議員(1期)。 日本統治下朝鮮京城府(現:大韓民国ソウル特別市)生まれ、茨城県鉾田市育ち。 旧制鉾田中学校、(現:茨城県立鉾田第一高等学校)、旧制水戸高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業。 大学卒業後は国家公務員となり、旧建設省で都市局長を務めた後に参議院議員に転じた。茨城県知事に当選後は、在任中に筑波研究学園都市・筑波科学万博の誘致、常磐自動車道建設など多くの大型プロジェクトを進めた。つくば市の成立にも尽力し、市名の実質的な名付け親でもある。
魚本 藤吉郎(うおもと とうきちろう、1917年 <大正6年… 魚本 藤吉郎(うおもと とうきちろう、1917年 <大正6年> 11月29日 - 1988年 <昭和63年> 3月31日)は、日本の外交官。在ソビエト連邦特命全権大使、財団法人交流協会理事長を務めた。位階は正三位。 愛媛県出身。山口高等商業学校を経て、1941年に東京商科大学(のちの一橋大学)を卒業し、外務書記生就任。大学では中山伊知郎ゼミナールに所属。卒業論文は「景気変動に関する二つの研究」。 外務省中近東アフリカ局長を経て、在ソビエト連邦特命全権大使、財団法人交流協会理事長などを歴任。 西堀正弘(国連大使)、内田宏(駐仏大使)、吉野文六(駐独大使)、奈良靖彦(駐加大使)、人見鉄三郎(駐コスタリカ大使)など。
福島 茂夫(ふくしま しげお、1917年11月28日 - 2… 福島 茂夫(ふくしま しげお、1917年11月28日 - 2012年7月15日)は、日本の医師、医学博士、政治家。位階は正五位。 参議院議員(1期、自由民主党)。 埼玉県出身。1942年日本大学専門部医学科(現医学部)卒。1944年、埼玉県児玉郡本庄町(現・本庄市)に福島病院(現・本庄福島病院)を開設し院長となる。埼玉県議会議員(自由民主党)を2期務めた後、1977年の第11回参議院議員通常選挙に日本医師会の政治連盟である日本医師連盟の支援を受け、全国区から自民党公認で立候補、127万を超える票を得て3位当選(自民党候補の中ではトップ)。1980年7月から1981年11月まで鈴木内閣において環境政務次官を務めた。
沼田 眞(ぬまた まこと、沼田真、1917年11月27日 -… 沼田 眞(ぬまた まこと、沼田真、1917年11月27日 - 2001年12月30日)は、日本の生態学者。弟に千葉県知事を務めた沼田武がいる。 茨城県土浦市生まれ、千葉育ち。東京文理科大学生物学科卒業。理学博士(京都大学)。 千葉大学文理学部助教授をへて、1962年理学部教授、定年後名誉教授、淑徳大学教授。千葉県立中央博物館初代館長。 植物生態学から、自然保護、都市生態学の研究など広く活動、東ネパールへ調査団を率いて行った。 日本生態学会会長、日本植物学会会長、日本雑草学会会長、日本環境教育学会会長、日本自然保護協会会長、東京湾学会会長、千葉県生物学会会長などを歴任。紫綬褒章受章。1988年、勲二等瑞宝章受章。
佐藤 泰正(さとう やすまさ、1917年11月26日 - 2… 佐藤 泰正(さとう やすまさ、1917年11月26日 - 2015年11月30日)は、山口県出身の日本近代文学研究者・文芸評論家。学位は、文学博士(早稲田大学)。元梅光学院大学学長。 山口県生まれ。1934年(昭和9年)に山口県立豊浦中学校4年修了、第一早稲田高等学院を経て、1940年(昭和15年)に早稲田大学文学部卒業。早稲田大学より文学博士の学位を取得。 梅光女学院大学教授、副学長、学長を歴任。磯田光一を専任教員に迎えて大学院の設置に尽力し、詩人の北川透を客員教授に迎えるなどして、西日本における日本近代文学研究の拠点を作り、学長に就任した1972年から梅光女学院大学公開講座を行い、毎年論集を刊行した。
張 旭鎭(チャン・ウクジン、朝鮮語: 장욱진、英語: Cha… 張 旭鎭(チャン・ウクジン、朝鮮語: 장욱진、英語: Chang Ucchin、1917年11月26日 - 1990年12月27日)は、留学第二世代を代表する韓国の近代美術画家である。家族、木、子供、鳥といった日常風景でよく目にする素朴な素材をモチーフに、童話的な内面世界を表現した作品制作を行った。東京の帝国美術学校で西洋画を学んだ後に帰国し、1954年から1960年までソウル大学校美術大学の教授を務めた。 本貫は結城張氏(朝鮮語版)。 張旭鎭は1917年11月26日、忠清南道の燕岐郡で産まれた。幼い頃より美術に対する素質があり、1926年に広島高等師範学校が主催した「全国小学校美術展」で一等を受賞している。
樫尾 忠雄(かしお ただお、1917年(大正6年)11月26… 樫尾 忠雄(かしお ただお、1917年(大正6年)11月26日 - 1993年(平成5年)3月4日)は、日本の実業家。カシオ計算機の創業者である。 高知県長岡郡久礼田村(現・南国市)出身。1923年に一家で東京に移り、旋盤工を皮切りに機械・道具製作の道に進む。その間に早稲田工手学校(現・早稲田大学)にも在籍した。 1946年、東京都三鷹市に樫尾製作所を創業。すぐ下の弟である俊雄が逓信省を退官して参加。俊雄の考案した「指輪パイプ」(喫煙補助具)がヒットしてできた資金を元に電気式計算機の開発を開始、俊雄の弟である和雄と幸雄も加わって1957年に商品化に成功し、同年カシオ計算機が設立される(初代社長は忠雄ら兄弟の父である樫尾茂(1898〜1986))。
寺田 登(てらだ のぼる、1917年(大正6年)11月25日… 寺田 登(てらだ のぼる、1917年(大正6年)11月25日 - 1986年(昭和61年)9月26日)は、日本の水泳選手。静岡県磐田郡福島村中島(現磐田市福田中島)出身。慶應義塾大学出身。1936年ベルリンオリンピック1500m自由形で金メダルを獲得した。 静岡見付中(現在の静岡県立磐田南高等学校)から慶應義塾大学に進学。1936年ベルリンオリンピック競泳男子1500m自由形に出場し金メダルを獲得した。引退後は慶應義塾大学水泳部監督などの要職を歴任した。なお、結婚後は伊藤姓を名乗った。1986年、68歳で没した。 水泳選手には珍しい、筋肉質のずんぐりした体形であった。小学校時代に見にいった水泳大会で、人数が足りないからと飛び入り出場し1位になったのが縁で競泳と出会う。
重松 逸造(しげまつ いつぞう、1917年11月25日 - … 重松 逸造(しげまつ いつぞう、1917年11月25日 - 2012年2月6日)は、日本の医学者。ラバウルで海軍軍医として終戦を迎える。都築正男の後継としてABCCの日本側代表、国立公衆衛生院疫学部長、財団法人放射線影響研究所理事長、ICRP委員、厚生省研究班班長などを歴任したのをはじめ、疫学・公衆衛生学・放射線影響学において重要な役割を果たした。叙勲された。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
田代 毅(たしろ たけし、1917年11月24日 - 199… 田代 毅(たしろ たけし、1917年11月24日 - 1999年4月15日)は、日本の経営者。元住友信託銀行社長。東京都出身。 1940年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に住友信託銀行に入行。1964年5月に取締役に就任し、1967年12月に常務、1969年11月に専務、1972年5月に副社長を経て、1979年9月には社長に就任。1984年6月に会長に就任し、1989年6月に取締役相談役を経て、1991年6月には相談役に就任。 信託協会会長、京王電鉄取締役なども歴任。 1983年11月に藍綬褒章を受章し、1989年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1999年4月15日に呼吸不全のために死去。
氏家 卓也(うじいえ たくや、1917年〈大正6年〉11月2… 氏家 卓也(うじいえ たくや、1917年〈大正6年〉11月24日 - 2008年〈平成20年〉11月15日)は、日本の実業家、銀行家。ダイヤモンドリース(現・三菱HCキャピタル)社長。 宮城県出身。氏家清吉の二男。1943年、東北大学法学部卒業。三菱銀行に入行。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、同年9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。摩耶に配属。経理学校付第12期見習尉官隊指導官付に転任。1945年(昭和20年)3月、海軍主計大尉に昇進し、川棚海軍工廠会計部兼水雷部部員として終戦を迎えた。 解員(復員)後、三菱銀行に復帰し、外資部次長や鉄鋼ビル支店長等を歴任。
横山 薫範(よこやま しげのり、1917年(大正6年)11月… 横山 薫範(よこやま しげのり、1917年(大正6年)11月23日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍特務少尉。 鳥取県出身。横山家は農業を営み、三男一女の末子である。小学校高等科を卒業し、海軍を志願したが一度目は失敗し、二度目の挑戦で合格した。1934年(昭和9年)6月呉海兵団に入団。同期生に同じく九軍神とされた稲垣清がいる。 海軍水兵としての基礎訓練を受け、戦艦「扶桑」乗組となる。水雷学校及び潜水学校を卒業。横山は成績優秀で、水雷学校は優等卒業であり、懐中時計を授与された。
二宮 洋一(にのみや ひろかず、1917年11月22日 - … 二宮 洋一(にのみや ひろかず、1917年11月22日 - 2000年3月7日)は、兵庫県出身のサッカー選手、サッカー指導者。第二次世界大戦後初のサッカー日本代表監督を務めた。現役時代のポジションはフォワード。 兵庫県御影師範学校付属小学校を経て、1934年に旧制第一神戸中学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)を卒業し、慶應義塾大学予科に進学。予科時代より慶應義塾体育会ソッカー部に入部して、予科1年より関東大学リーグに出場した。1938年より慶應義塾大学法学部政治学科に進学。1941年の大学卒業まで慶應義塾ソッカー部および慶應BRBの選手として、全日本選手権大会(現在の天皇杯全日本サッカー選手権大会)で、4度の優勝(1936年、1937年、1939年、1940年)を経験した。
武藤 英司(むとう えいじ、1917年11月22日 - 19… 武藤 英司(むとう えいじ、1917年11月22日 - 1999年1月5日)は、日本の俳優である。本名:武藤 栄治(読みは同じ)。岐阜県武儀郡美濃町(現:美濃市)出身。
緒方 研二(おがた けんじ、1917年 <大正6年> 11月… 緒方 研二(おがた けんじ、1917年 <大正6年> 11月21日 - 2009年 <平成21年> 10月31日) は、日本の技術者。日本電気 (NEC)副社長や、NECエンジニアリング社長、テレビジョン学会会長、電子通信学会会長などを歴任した。従四位、勲二等瑞宝章受章。父は緒方竹虎元副総理。岳父に名和武。 福岡県福岡市出身。東京府立第四中学校、第一高等学校を経て、伊藤庸二の勧めで、1941年東北帝国大学工学部電気工学科を卒業した。在学中大日本帝国海軍委託生となり、1942年海軍技術士官に任官して、横須賀海軍工廠に配属され、横須賀砲術学校に入校した。 タラワ島や、マキン島でレーダーサイトの整備にあたったのち、海軍技術研究所に転属する。
伊藤 昌哉(いとう まさや、1917年(大正6年)11月21… 伊藤 昌哉(いとう まさや、1917年(大正6年)11月21日 - 2002年(平成14年)12月13日)は、日本の政治評論家。満洲生まれ。池田勇人内閣総理大臣の秘書官を経て、政治論壇や宏池会で活動した。愛称は「ブーちゃん」。池田内閣の影の官房長官と呼ばれた。 南満洲大石橋(現:中国遼寧省大石橋市)生まれ。奉天中学、旧制一高を経て、1942年に東京帝国大学法学部卒業。1943年11月に新京陸軍経理学校卒業。卒業後、経理部将校として終戦まで従軍した。母と妹のいる満洲に向かうため湖南省長沙で現地除隊となり、北上する。しかし湖北省漢口で日本人は旧日本租界に設けられた集中区と呼ばれる一角に収容され、しばらく収容日本人向けの商売で食いつないだ後、上海から福岡市に送還される。
安川 七郎(やすかわ しちろう、1917年11月21日 - … 安川 七郎(やすかわ しちろう、1917年11月21日 - 2008年4月11日)は、日本の官僚。東京国税局長、日本銀行政策委員会大蔵省代表委員、国税庁長官、日本債券信用銀行頭取を務めた。 東京府出身。1945年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年10月に大蔵省に入省。金融局属。1946年2月から銀行局。1948年2月には高文行政科に合格。同年10月に和歌山税務署長。 銀行局総務課長補佐、銀行局銀行課長補佐などを経て、1958年12月に大臣官房財務参事官付課長補佐、1959年1月に大臣官房財務調査官(財務参事官室担当)、1961年6月に銀行局保険第二課長、1964年7月6日に証券局証券業務課長、1966年7月22日に証券局総務課長、1968年6月25日に大臣官房審議官(証券局担当)兼関東財務局東京証券取引所監理官、1969年8月15日に大臣官房審議官(証券局担当)、1970年6月25日に東京国税局長、1972年6月27日に日本銀行政策委員会大蔵省代表委員、1973年6月から1975年7月までに国税庁長官を務めた。
野本 重雄(のもと しげお、1917年(大正6年)11月20… 野本 重雄(のもと しげお、1917年(大正6年)11月20日 - 没年不明)は、日本の政治家。埼玉県桶川市長(2期)。勲四等旭日小綬章。 埼玉県北足立郡桶川町(現・桶川市)出身。1935年、埼玉県立大宮工業学校(現・埼玉県立大宮工業高等学校)卒。桶川市議会議員、同議長を経て、1985年、桶川市長選挙に立候補し現職の岡田仲太郎を破って当選する。桶川市長を2期務め、1993年に退任した。1999年秋の叙勲で勲四等旭日小綬章を受章。
服部 毅一(はっとり きいち、1917年(大正6年)11月2… 服部 毅一(はっとり きいち、1917年(大正6年)11月20日 - 1999年(平成11年)10月25日)は、日本の政治家。静岡県焼津市長(4期)。位階は正五位。 静岡県志太郡焼津町出身。1935年、静岡県立焼津水産学校(現・静岡県立焼津水産高等学校)卒。1951年、焼津市議会議員に初当選、3期務め、議長も務めた。1963年、静岡県議会議員に初当選、4期務め、副議長と議長を務めた。1975年、焼津市長に当選、市長を4期務めた。1991年、5期目を目指したが落選した。1999年死去。