巖谷 大四(いわや だいし、1915年12月30日 - 20… 巖谷 大四(いわや だいし、1915年12月30日 - 2006年9月6日)は、日本の文芸評論家。 童話作家・巖谷小波の四男として東京に生まれる。早稲田大学英文科卒。卒業後、菊池寛の世話により社団法人日本文藝家協会書記となる。 戦時中日本文学報国会で事務をとる。1945年の終戦後、高見順の誘いで鎌倉文庫の編集者となる。1949年秋に鎌倉文庫がつぶれ、1950年1月に河出書房に入社して「現代日本小説大系」の編集者となる。1950-56年『文藝』編集長。『週刊読書人』編集長を務め、1965年から文筆活動に入る。 父の評伝『波の跫音』がある。1989年勲三等瑞宝章受章、1991年大衆文学研究賞受賞。墓所は多磨霊園。
宮野 善治郎(みやの ぜんじろう、1915年(大正4年)12… 宮野 善治郎(みやの ぜんじろう、1915年(大正4年)12月29日 - 1943年(昭和18年)6月16日)は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機搭乗員。 海兵65期。最終階級は海軍中佐。 大阪府に生まれる。中河内郡龍華尋常小学校(現・八尾市立龍華小学校)、旧制大阪府立八尾中学校(現・大阪府立八尾高等学校)を経て、1938年(昭和13年)に65期生として海軍兵学校を卒業した。 八尾中学は野球がさかんで、宮野の在校中に春4回、夏2回の甲子園出場を果たした。同期にはのちに読売巨人軍の初代永久欠番「4」となる黒澤俊夫などもいたが、宮野は家庭の事情でクラブ活動には参加できず、官費で学べる海軍兵学校をめざす。
河村 喜典(かわむら よしぶみ、1915年12月27日 - … 河村 喜典(かわむら よしぶみ、1915年12月27日 - 2010年5月25日)は、日本の経営者。三共株式会社(現第一三共)代表取締役社長・会長。 1915年12月27日山口県生まれ。豊浦中学校、第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業。 サラリーマン社長ながら1975年から25年間の長期にわたって三共株式会社社長を務め、抗炎症剤ロキソニンや高脂血症治療剤メバロチンなどを大型製品に育てた。1997年、勲二等旭日重光章受章。2000年に代表取締役会長に就任するが、同年、取締役である息子の不祥事によって会長を退任する。2011年5月25日死去、95歳。
肥後 正典(ひご まさのり、1915年(大正4年)12月27… 肥後 正典(ひご まさのり、1915年(大正4年)12月27日 - 2004年(平成16年)9月28日)は、日本の政治家、鹿児島県指宿市長(2期)。医師、医学博士。鹿児島県議会議員、山川町議会議員も務めた。位階は正五位。 鹿児島県指宿市出身。旧制鹿児島県立指宿中学校(現鹿児島県立指宿高等学校)、日本医科大学予科を経て、1943年日本医科大学卒業。陸軍に入隊し、陸軍軍医学校卒業後、上海検疫官(陸軍軍医大尉)。1946年7月復員、1946年10月開業。復員後は旧揖宿郡山川町に居住。1953年新制鹿児島大学・旧制県立鹿児島医科大学の桝屋富一内科教室専攻生。1955年4月30日から山川町議会議員を務める。
岩尾 裕純(いわお やすずみ、1915年12月27日 - 1… 岩尾 裕純(いわお やすずみ、1915年12月27日 - 1991年2月11日)は、日本の経営学者。中央大学・名古屋経済大学名誉教授。 岡山県出身。1940年中央大学商学部卒、1962年「中小企業の近代化」で商学博士。満州農産公社調査役、運輸調査局調査役を経て、1948年中央大学商学部講師、1950年助教授、1956年教授、商学部長、同大学企業研究所所長。1986年定年、名誉教授。名古屋経済大学教授、名誉教授。日本学術会議委員。
武藤 騤雄(むとう たけお、1915年12月26日 - 20… 武藤 騤雄(むとう たけお、1915年12月26日 - 2009年4月4日)は、日本の劇作家、翻訳家、法政大学名誉教授。福岡生まれ、東京大学英文科卒。法政大学教授。1986年定年退任。 藤川健夫(ふじかわ たけお)をペンネームとして劇作家としても活躍。 受験参考書の「英単語連想記憶術」の著者として知られ、同書は受験生のバイブルとして版を重ねる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
芹沢 守利(せりざわ もりとし、1915年12月25日 - … 芹沢 守利(せりざわ もりとし、1915年12月25日 - 2003年9月25日)は、日本の実業家。 長野県小県郡城下村(上田市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1941年に東北帝国大学法律学科を卒業し、同年に湘南電気鉄道(のちの京浜急行電鉄)に入社。1965年に取締役に就任し、自動車部長、常務、鉄道事業本部長、専務を経て、1981年6月に副社長に就任し、1987年6月には社長に昇格し、1991年6月に会長に就任した。 1993年から1995年までに日本民営鉄道協会会長を務めた。 1982年4月に藍綬褒章を受章し、1996年4月に勲一等瑞宝章を受章した。 2003年9月25日、肺炎のために死去。
中村 登一(なかむら とういち、1915年(大正4年)12月… 中村 登一(なかむら とういち、1915年(大正4年)12月25日 - 1969年(昭和44年)6月28日)は、日本の建築指導者、建築家で、戦後の日本建築界を席捲した民主化運動の中心的存在。日本初の分譲マンション「九段コーポラス」を設計し、艮衆のための住宅設計に力を注いだ。東京本所生まれ。 1938年、東京美術学校建築科卒業。東京市役所建築部に就職。12月兵役によって満州に渡る。1944年、陸軍建築研究所勤務。 1945年、吉田五十八建築研究所員。東京美術学校専任講師。1947年、新日本建築家集団(NAU)の結成に参加。1949年、東京芸術大学文部教官。1950年、東京芸術大学を辞任、匠建築研究所所長となる。
雲井 昭善(くもい しょうぜん/あきよし、1915年12月2… 雲井 昭善(くもい しょうぜん/あきよし、1915年12月24日 - 2017年12月5日)は、日本の僧侶、仏教学者。大谷大学名誉教授。インド学・仏教学専攻。 大阪府和泉市出身。1941年大谷大学文学部仏教学科卒。1961年「佛教と社会的基盤の研究」で東京大学文学博士。1956年大谷大学助教授、61年教授、86年定年、名誉教授、佛教大学教授。75-81年日本学術会議会員。2000年仏教伝道文化賞受賞。享年101。
古賀 雷四郎(こが らいしろう、1915年12月23日 - … 古賀 雷四郎(こが らいしろう、1915年12月23日 - 2008年6月13日)は、日本の政治家。参議院議員(3期、自由民主党)。 佐賀県鳥栖市出身。旧制五高を経て1940年に九州帝国大学工学部土木工学科を卒業後、内務省に入省し、河川局長、建設技監などを経て、退官。1971年6月27日投票の第9回参議院議員通常選挙に全国区から出馬し、23位で初当選。自由民主党では佐藤栄作派(周山会)→田中角栄派(木曜クラブ)→竹下登派(経世会)に属した。 1977年7月10日投票の第11回参議院議員通常選挙に全国区から出馬し、12位で2回目の当選。1983年6月26日投票の第13回参議院議員通常選挙に比例区から出馬し、26位で3回目の当選。
秋田 一季(あきた かずすえ、1915年〈大正4年〉12月2… 秋田 一季(あきた かずすえ、1915年〈大正4年〉12月23日 - 1997年〈平成9年〉3月30日)は、旧三春藩主家秋田氏第15代当主。夫人は喜美子。養子に秋田美篤(男爵・藤大路親美の子)。三春町名誉町民。 秋田重季・芳子夫妻の子として生まれる。学習院高等科を経て、東北帝国大学卒業。1953年(昭和28年)2月に宮中御歌会諸役へ選ばれる。日本教文社専務取締役となり、1977年(昭和52年)に社団法人出版梓会幹事長へ就任し、その後理事長も務めた。また、日本書籍出版協会理事にもなっている。1987年(昭和62年)11月30日、学習院の同窓会「桜友会」の3代目会長、学校法人学習院理事及び学習院剣道部総監督を歴任。
大久保 政賢(おおくぼ まさかた、1915年 <大正4年> … 大久保 政賢(おおくぼ まさかた、1915年 <大正4年> 12月23日 - 2000年 <平成12年> 7月1日)は、日本の経営者。新潟県西蒲原郡巻町(現・新潟市西蒲区)出身。位階は従五位。 1939年に早稲田大学商学部を卒業。日本郵船での勤務を経て、1960年に新潟臨港海陸運送(のちのリンコーコーポレーション)常務に就任し、1965年に副社長を経て、1971年には社長に就任。1986年6月から会長を務めた。 その一方で、新潟テレビ21初代社長、会長、新潟商工会議所会頭なども歴任。 1981年に藍綬褒章を受章し、1987年に勲三等旭日中綬章を受章。 2000年7月1日急性腎不全のために新潟市の病院で死去。
金沢 康隆(かなざわ やすたか、1915年12月22日 - … 金沢 康隆(かなざわ やすたか、1915年12月22日 - 1970年7月27日)は、日本の劇評家。 東京府東京市麹町区生まれ。東京帝国大学農学部卒業。学校図書館嘱託をしつつ劇評、演劇評論を書いた。
大隈 孝一(おおくま こういち、1915年12月22日 - … 大隈 孝一(おおくま こういち、1915年12月22日 - 1997年8月23日)は、日本の経営者。大隈鉄工所(のちのオークマ)社長、会長を務めた。愛知県名古屋市出身。 1940年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、1943年に大隈鉄工所に入社した。副社長などを歴任し、1948年から1978年までに社長を務めた。 名古屋青年会議所初代会頭、中部経済連合会副会長、名城大学理事長、南山大学非常勤講師なども務めた。1977年に藍綬褒章を受章し、1992年に勲三等旭日中綬章を受章した。 1997年8月23日脳梗塞のために死去。81歳没。
建内 保興(たけうち やすおき、1915年(大正4年)12月… 建内 保興(たけうち やすおき、1915年(大正4年)12月20日 - 2011年(平成23年)1月7日)は、日本の石油実業家。日本石油社長及び会長を16年、石油連盟会長を11年務めた。 オイルショック後の時期に、日本石油社長及び会長を16年、石油連盟会長を11年務め、中東産油国との連携、石油業界の是正、石油エネルギーの安定供給に貢献した。この功績が認められ、1988年に瑞宝大綬章を授与された。日本石油「中興の祖」、「天皇」などと評される。 戦前の甲陽中学で野球が盛んだったこともあり、野球愛好家であった。1956年から1973年まで日本石油野球部長を務めた。その間、都市対抗野球大会では、初優勝を含めて5回の優勝を果たした。
春日 學 (かすが まなぶ、1915年(大正4年)12月19… 春日 學 (かすが まなぶ、1915年(大正4年)12月19日 - 1993年(平成5年)2月5日)は、昭和期の音楽家であり、全日本吹奏楽連盟理事長、日本吹奏楽指導者協会会長を務めた。名が 学 と表記されることもある。 大正4年(1915年)、長野県伊那市に生まれる。 昭和7年(1932年)横須賀海兵団軍楽隊入隊。チューバを担当する。昭和12年(1937年)海軍省委託学生として東京音楽学校(現東京芸術大学)で学び、昭和14年(1939年)修了。その後も昭和18年(1943年)まで学び続ける。昭和20年(1945年)横須賀海兵団軍楽隊の教官(階級は海軍軍楽兵曹長)で終戦を迎える。 戦後、昭和28年(1953年)に大臣官房人事部の技術嘱託職員として郵政省に採用され、郵政中央吹奏楽団の指揮者に就任し、昭和38年(1963年)まで指導する。
岩合 徳光(いわごう とくみつ、1915年12月18日 - … 岩合 徳光(いわごう とくみつ、1915年12月18日 - 2007年2月12日)は、日本の写真家。写真家の岩合光昭は息子。 北海道釧路市生まれ。日本大学経済学部中退。戦中、戦後は満州(中国東北部)の大連日日新聞の写真部員として働く。帰国後、毎日新聞社などを経て、1961年フリーに。主に動物写真を専門に撮影し、その分野の草分け的存在である。2007年2月、低酸素脳症のため、東京都新宿区で死去。91歳没。
関 正彦(せき まさひこ、1915年12月17日 - 201… 関 正彦(せき まさひこ、1915年12月17日 - 2011年12月14日)は、日本の経営者。三井銀行社長、会長を務めた。岡山県岡山市出身。 大阪高等学校を経て、1938年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に三井銀行に入行した。1968年11月に取締役に就任し、1971年5月に常務、1975年3月に専務、1977年12月に副社長を経て、1978年12月に社長に就任した。1982年2月に会長に就任し、1984年6月を相談役を経て、1997年7月からさくら銀行名誉顧問を務めた。 2011年12月14日脳梗塞のため死去、95歳没。
鄭 世煥(チョン・セファン、朝鮮語: 정세환、1915年12… 鄭 世煥(チョン・セファン、朝鮮語: 정세환、1915年12月16日または1916年または1918年 - 1986年10月12日)は、大韓民国の政治家。第3・4代韓国国会議員。本貫は晋州鄭氏(朝鮮語版)。 全羅北道(現・全北特別自治道)高敞郡出身。日本大学政治科卒。高敞中学校財団理事長、大山面(朝鮮語版)金融組合長、中山水利組合長、財団法人政治学院・政治大学理事、国民会全羅北道支部長・道代議員、自由党中央委員、国会財経委員を務めた。 1986年10月12日、高敞郡大山面栗村里の自宅で老衰により死去。享年72。 院内活動は欠席や遅刻がほとんどで、あまり議事堂に姿を見せないため、財務部の正門の前で待てば会えるという噂が広まった。
竹内 歌子(たけうち うたこ、1915年12月15日 – 没… 竹内 歌子(たけうち うたこ、1915年12月15日 – 没年不明)は日本の政治家、衆議院議員(1期)。 岡山県牛窓町(現瀬戸内市)生まれ。山陽高等女学校(のち山陽女子中学校・高等学校、現・山陽学園中学校・高等学校)卒。都新聞に入り記者となり、その後国際通信社に移る。報知新聞社監査役、1942年東京第一服装女学院長に就任。1944年に退任し、王子産業(株)取締役になる。1946年に房総産業(株)代表取締役社長になり、同年に行われた第22回衆議院議員総選挙に千葉県から新日本青年党公認で立候補して当選する。翌1947年の総選挙で埼玉1区から民主党公認で立候補して落選した。その後は再び選挙に出ることはなかった。
阿部 謙四郎(あべ けんしろう、1915年〈大正4年〉12月… 阿部 謙四郎(あべ けんしろう、1915年〈大正4年〉12月15日 - 1985年〈昭和60年〉12月1日)は、日本の柔道家、合気道家、剣道家である。柔道7段(1960年代末に8段を授与されたとする情報もある)、合気道6段、剣道6段。 日本では戦前の著名な柔道家として知られる。戦後は日本の柔道界と対立して1955年にイギリスに渡った。イギリスではKenshiro Abbeの名で、1960年代のイギリスに合気道・剣道などを紹介した人物として知られる。1960年代にイギリス柔道カウンシル(BJC)を設立した。求心道(英語版)(Kyūshindō)を創始し、その理論に基づいて武道を教える道場が現在も多くある。
広瀬 巌(ひろせ いわお、1915年12月15日 - 198… 広瀬 巌(ひろせ いわお、1915年12月15日 - 1982年10月11日)は、日本の柔道家(講道館九段)。 身長170cmに満たない小柄な体格ながら、戦前の明治神宮競技大会、昭和天覧試合、日本選士権大会、全日本東西対抗大会、戦後の全日本選手権大会等の主要大会で永く活躍。後に大阪府警察の柔道師範として後進の指導に当たり、今日の府警柔道の礎を築いた。 宮崎県出身。身長150cm・体重70kgの小躯ながら支釣込足や巴投、肩車の名手として名を馳せた尾崎伊助8段に柔道の手ほどきを受け、旧制都城中学校(のちの県立都城泉ヶ丘高校)を経て武徳会武道専門学校に進学すると、磯貝一や田畑昇太郎ら範士、阿部謙四郎等の先輩に学び、終生の得意技となる払腰・釣込腰・一本背負投等に磨きをかけた。
佐古 一(さこ はじめ、1915年12月15日 - 2010… 佐古 一(さこ はじめ、1915年12月15日 - 2010年1月13日)は、広島県出身の実業家。大成建設社長、日本建設業団体連合会会長などを務める。
戸板 康二(といた やすじ、1915年12月14日 - 19… 戸板 康二(といた やすじ、1915年12月14日 - 1993年1月23日)は、日本の演劇・歌舞伎評論家、推理作家、随筆家。 東京市芝区三田四国町(現在の東京都港区芝)出身。旧姓山口。藤倉電線に勤める父・三郎、母ひさの長男として生まれる。父親の仕事の関係で中国に引っ越し、上海小学校に通い、帰国後愛宕小学校(東京都港区)に入学。山口家に男子が生まれたら母方の戸板家の養子になる約束があり、初めは「康夫」と名付けられたが、養子になった1923年7月9日、「康二」と改める。 幼時、母方の祖母で戸板裁縫女学校の創立者である戸板関子の養子となる。関東大震災のとき、鎌倉材木座の別荘にいた母親が幼い次男をかばって圧死するも、康二は東京の自宅にいたため難を逃れる。
大野 保四(おおの やすし、1915年(大正4年)12月13… 大野 保四(おおの やすし、1915年(大正4年)12月13日 - 1945年(昭和20年)6月27日)は日本の大日本帝国海軍軍人。海軍兵学校65期を昭和13年(1938年)3月16日卒業。太平洋戦争において呂号第六十四潜水艦と伊号第百六十五潜水艦に艦長として乗艦した。昭和20年(1945年)6月15日、人間魚雷回天二基を搭載して山口県の光基地より出撃したまま消息不明となり昭和20年7月16日をもって搭乗員は戦没、潜水艦は7月29日喪失と認定し、回転搭乗員であった北村十二郎一飛曹(長野県出身)、水知創一(兵庫県出身)少尉以下106 名の戦死を公表。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍中佐。 大正4年(1915年)12月13日、父 大野謹平と忠(旧姓:千代倉)の次男として茨城県稲村郡生板村大字竜ヶ崎に生まれる。
浅見 筧洞(あさみ けんどう、1915年〈大正4年〉12月1… 浅見 筧洞(あさみ けんどう、1915年〈大正4年〉12月13日 - 2006年〈平成18年〉1月27日)は、東京都出身の書家。名は精一。謙慎書道会顧問。元大東文化大学教授。 1915年(大正4年)東京府に生まれる。二松學舍専門学校を卒業し、西川寧らに書を学ぶ。1962年(昭和37年)毎日書道展で大賞を受賞する。日展で1963年(昭和38年)特選、1983年(昭和58年)内閣総理大臣賞。1986年(昭和61年)「曾子語(そうしのご)」で日本芸術院賞を受賞する。甲骨文や金文を研究し、大東文化大学教授、日展理事、謙慎書道会理事長などを務めた。2006年(平成18年)1月27日、90歳で死去する。墓所は東京都世田谷区の浄因寺。
氏家 栄一(うじいえ えいいち、1915年(大正4年)12月… 氏家 栄一(うじいえ えいいち、1915年(大正4年)12月12日 - 2002年(平成14年)12月6日)は、日本の銀行家。七十七銀行会長、頭取。 四代目氏家清吉(七十七銀行頭取)の長男として、宮城県伊具郡角田町(現・角田市)に生まれる。 1940年(昭和15年)、短期現役海軍主計科士官(4期)に志願。同年5月、海軍経理学校に入校して海軍主計中尉に任官。同年9月に卒業。重巡「摩耶」庶務主任などを務めた。1945年(昭和20年)5月、海軍主計少佐に進級して終戦を迎えた。 日銀勤務を経て、頭取だった父・清吉の死去に伴い、七十七銀行に副頭取として入行。1970年(昭和45年)には、頭取に昇格する。 トップ在任時においては、経営の近代化に努め、1972年(昭和47年)の東証2部上場(翌年1部に指定替え)、現本店ビルの竣工等を実現。
小池 禮三(こいけ れいぞう、1915年(大正4年)12月1… 小池 禮三(こいけ れいぞう、1915年(大正4年)12月12日 - 1998年(平成10年)8月3日)は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピックの200m平泳ぎの銀メダリスト。1936年ベルリンオリンピックの200m平泳ぎの銅メダリスト。オリンピック2大会連続でメダルを獲得。 静岡県沼津市出身。沼津商業時代に頭角を現した。 1932年ロサンゼルスオリンピックでは本命視されるも、体調を崩していたこともあり鶴田義行に次いで銀メダルを獲得した。 慶應義塾大学法学部政治学科に進学。200m平泳ぎで世界最高記録を樹立した。 1936年ベルリンオリンピックでは、葉室鐵夫、エルヴィン・ジータス(ドイツ)に次いで銅メダルを獲得した。
喜安 善市(きやす ぜんいち、1915年12月11日 - 2… 喜安 善市(きやす ぜんいち、1915年12月11日 - 2006年12月7日)は、日本の電子工学研究者。日本のコンピュータ研究における先駆者の一人とされる。日本電信電話公社電気通信研究所次長や、東北大学電気通信研究所教授、電子通信学会副会長、電子通信学会編集長などを歴任。 1939年、東北帝国大学工学部電気工学科を卒業後に逓信省電気試験所(のち、日本電信電話公社電気通信研究所、現・NTT武蔵野研究開発センタ)に入所。搬送用濾波器の研究に従事した。後年手がける自動ディジタル計算機は、この当時膨大な量の数値計算に苦労した経験がその発端となった。戦時研究員として飛行機の無線操縦の研究に携わった際にアナログ計算機に関心を抱いた。
白井 永二(しらい えいじ、1915年〈大正4年〉12月10… 白井 永二(しらい えいじ、1915年〈大正4年〉12月10日 - 2008年〈平成20年〉1月1日)は、日本の民俗学者、神職。神社本庁総長、日本会議顧問、鶴岡八幡宮名誉宮司などを務めた。 愛知県豊橋市花田町西羽田に生まれる。1928年、豊橋中学校(現・愛知県立時習館高等学校)卒業。國學院大學国文科卒業。折口信夫に師事し祝詞を研究。鶴岡八幡宮宮司を務め、かたわら菅江真澄などの研究を行った。 1979年2月24日、国際勝共連合と自民党の国防関係国会議員が中心となり、「スパイ防止法制定促進国民会議」が設立された。呼びかけ人は木内信胤、朝比奈宗源、宇野精一、郷司浩平、宝井馬琴、三輪知雄の6人。サンケイ会館で設立発起人総会が開かれ、白井は発起人に名を連ねた。
大野 忠男(おおの ただお、1915年12月10日 - 19… 大野 忠男(おおの ただお、1915年12月10日 - 1998年8月20日)は、日本の経済学者。大阪大学名誉教授。 1915年、岡山県児島郡灘崎町(現岡山市)生まれ。1938年、東京帝国大学法学部を卒業。商工省、岡山大学教授をへて、1971年より大阪大学経済学部教授。1973年、『シュムペーター体系研究』を大阪大学に提出して経済学博士号を取得。1979年に同大学を定年退官し、名誉教授となる。以降は、追手門学院大学教授、1984年より大阪学院大学教授を務めた。1990年退職。
西田 堯(にしだ たかし、1915年12月8日 - 2004… 西田 堯(にしだ たかし、1915年12月8日 - 2004年12月19日)は、日本の経営者。同和鉱業社長、会長を務めた。 大阪府出身。1939年に京都帝国大学工学部採鉱学科を卒業し、同年に藤田組に入社。1963年に同和鉱業取締役に就任し、1971年5月に常務、1977年6月に副社長を経て、1981年6月に社長に就任。1987年6月に会長に就任し、1991年6月には相談役に退いた。 1963年に藍綬褒章を受章し、1986年11月に勲二等旭日重光章を受章。
隈 治人(くま はると、1915年12月8日 - 1990年… 隈 治人(くま はると、1915年12月8日 - 1990年11月23日)は、長崎県出身の俳人。戦災の悲劇を句作の原点とした。 長崎市生。長崎医科大学附属薬学専門部(現長崎大学薬学部)卒。1951年、「かびれ」に入会し大竹孤悠に師事。1954年、長崎原爆忌俳句大会を創設。1959年、長崎新聞俳壇選者。1962年、金子兜太らと「海程」を創刊・同人。1965年、第12回現代俳句協会賞受賞。1971年「土曜」創刊・主宰。1990年、長崎新聞文化章。同年11月23日死去、74歳。1992年、「土曜」会員有志より「雲が首灼く浦上 花をもっと蒔こう」句碑が長崎平和公園周辺に建てられている。
中田 幸吉(なかだ こうきち、1915年〈大正4年〉12月7… 中田 幸吉(なかだ こうきち、1915年〈大正4年〉12月7日 - 1980年〈昭和55年〉9月18日)は、日本の農林技官、政治家。富山県知事(3期)。位階は正四位。勲二等瑞宝章綬章。 富山県富山市出身。薬種商・15代中田清兵衛の五男として生まれる。富山高等学校を経て、1940年(昭和15年)、東京帝国大学農学部林学科を卒業。農林省に入り山林局に勤務。 1952年(昭和27年)、沼田営林署長に就任。長野県林産課長、同林業課長、同林務部長を歴任。1963年(昭和38年)、林野庁林道課長となる。1966年(昭和41年)、富山県に派遣され農地林務部長を務める。 1969年(昭和44年)12月、吉田実の衆院選出馬による辞職に伴い行われた県知事選に自民党の公認を受けて富山県知事選に出馬。
清水 大典(しみず だいすけ、1915年12月6日 - 19… 清水 大典(しみず だいすけ、1915年12月6日 - 1998年8月19日)は、日本の菌類学者である。「原色 冬虫夏草図鑑」(1994)を出版するなど、昆虫の成虫や蛹、幼虫に寄生する冬虫夏草などのノムシタケ属の研究で知られる。 埼玉県秩父市に生まれた。旧制秩父農林学校を卒業後、独学で植物学を学び、東京大学理学部小石川植物園などで働き、1940年には満州国大陸科学院植物研究室に奉職した。戦後は小石川植物園に復職した後、埼玉県下のシイタケ試験場、服部植物研究所などを経て、山形県米沢市立博物館で働き、米沢市営白布温泉熱帯植物園園長などを務めた。1968年、斎藤茂吉文化賞を受賞した。
成相 善十(なりあい ぜんじゅう、1915年(大正4年)12… 成相 善十(なりあい ぜんじゅう、1915年(大正4年)12月4日 - 1998年(平成10年)11月10日)は、日本の政治家、参議院議員を務める(2期)。柔道家。 島根県出雲市出身。慶應義塾大学法学部政治学科を1941年に卒業。島根県議会議員を経て、1977年の第11回参議院議員通常選挙に出馬し当選。同郷の櫻内義雄に近かったため中曽根派に所属し、参議院議院運営委員会筆頭理事、参議院農林水産委員長、自由民主党参院副幹事長などの要職を歴任した。1989年の第15回参議院議員通常選挙では自民党公認が得られず、無所属で出馬して落選、政界を引退した。 1998年11月10日、肺炎のため出雲市の島根医科大学医学部附属病院で死去、82歳。
長野 嘗一(ながの じょういち、1915年12月3日 - 1… 長野 嘗一(ながの じょういち、1915年12月3日 - 1979年2月8日)は、日本の国文学者。古典から近代文学まで幅広く論じた。 1915年、新潟県佐渡で生まれた。東京帝国大学国文科に入学し、池田亀鑑に師事した。後に池田が若いころ作家としても活動していたことを明らかにした。 昭和女子大学助教授に就いた。1968年、学位論文『古典と近代作家:芥川龍之介』を立教大学に提出して文学博士号を取得。立教大学教授を務め、在職中に死去。
三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう、1915年〈大… 三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう、1915年〈大正4年〉12月2日 - 2016年〈平成28年〉10月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人、歴史学者(古代オリエント史)。三笠宮家初代当主。御称号は澄宮(すみのみや)、お印は若杉(わかすぎ)。身位は親王。敬称は殿下。勲等は大勲位。最終階級は陸軍少佐。第126代・今上天皇(徳仁)の大叔父。大正天皇と貞明皇后の第4皇子。昭和天皇は兄(長兄)、第125代天皇・現上皇の明仁は甥。現在の皇族には彼の孫が3人おり3人共女子である(息子3人は死去。娘2人と孫2人は皇籍離脱)。 1915年(大正4年)12月2日、大正天皇と貞明皇后の第四男子として誕生。3人の兄(昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王)は明治生まれ即ち父である大正天皇がまだ皇太子であった時にその男子として生まれ、早くから「皇孫御殿」に引き取られて養育された。
柿本 奨(かきもと つとむ、”奬”と書く場合もあり、1915… 柿本 奨(かきもと つとむ、”奬”と書く場合もあり、1915年11月30日 - 2000年5月)は、国文学者。大阪大学・追手門学院大学名誉教授。専門は中古文学。 大阪府岸和田市生まれ。岸和田中学校(現:大阪府立岸和田高等学校)、大阪高等学校卒、1938年京都帝国大学文学部国文科卒。大阪市立岡第二商業学校(現:大阪市立市岡商業高等学校)教諭、熊本師範学校教授、大阪第一師範学校教授、二度応召。戦後、大阪学芸大学助教授、67年校名変更で大阪教育大学教授、大阪大学教養部教授、79年定年退官、名誉教授、追手門学院大学教授。同名誉教授。
熊谷 典文(くまがい よしふみ、1915年(大正4年)11月… 熊谷 典文(くまがい よしふみ、1915年(大正4年)11月30日 - 1999年(平成11年)4月1日)は、日本の官僚。通商産業事務次官で退官後、住友金属工業社長・会長。位階は従三位。 島根県浜田市出身。浜田中学、六高を経て、1939年(昭和14年) 東京帝国大学法学部法科を卒業し住友本社に入社する。 翌年、商工省(後、通産省)入省。同期に、吉國一郎、小島慶三など。 戦後、通産省重工業局長、官房長、公益事業局長、企業局長を経て、1968年(昭和43年) 通産事務次官就任。八幡製鐵・富士製鐵の合併を推進した。 1969年(昭和44年)に退官し、1971年(昭和46年)住友金属工業に入社、常務に就任。
中田 祝夫(なかだ のりお、1915年11月30日 - 20… 中田 祝夫(なかだ のりお、1915年11月30日 - 2010年4月13日)は、日本の国語学者、筑波大学名誉教授。 奈良県奈良市生まれ。東京文理科大学卒業。1958年「古点本の国語学的研究総論編」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。戦後、東京教育大学教授、筑波大学教授、1980年定年退官、名誉教授、愛知大学教授。1986年退職。1989年春、勲三等旭日中綬章受勲。 2010年、心不全のため94歳で死去。 漢文古訓点の権威で、『古語大辞典』編纂のほか、『日本霊異記』の全訳などで知られるが、専門は古辞書で、節用集諸本の影印作成、索引作成を行った。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
柿本 幸造(かきもと こうぞう、1915年11月30日 - … 柿本 幸造(かきもと こうぞう、1915年11月30日 - 1998年12月)は広島県(安芸高田市吉田町)出身の童画家。 「どんくまさん」シリーズ(蔵冨千鶴子作)の挿絵画家として知られる。1959年小学館児童文化賞受賞。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
梅園 龍子(うめぞの りゅうこ、1915年11月28日 - … 梅園 龍子(うめぞの りゅうこ、1915年11月28日 - 1993年4月30日)は、日本の女優。 梅園 竜子と表記されることもある。 1915年(大正4年)11月28日、植草正枝として東京市日本橋区村松町(現在の東京都中央区東日本橋)に生まれる。 三崎英語学校在学中の1929年(昭和4年)に榎本健一の第2次カジノ・フォーリーの旗揚げ公演に踊り子で出演した。 1931年(昭和6年)退団し、1932年(昭和7年)パイオニヤ・クインテット舞踊団、益田隆のトリオ舞踊団に入団した。 1935年(昭和10年)P.C.L.映画製作所準専属で『乙女ごころ三人姉妹』で映画デビューした。 1936年(昭和11年)に専属となり、1937年(昭和12年)『夜の鳩』、『江戸の白鷺』、1938年(昭和13年)『エノケンの猿飛佐助 ありゃありゃの巻』、『泣蟲小僧』などに出演した。
林田 悠紀夫(はやしだ ゆきお、1915年(大正4年)11月… 林田 悠紀夫(はやしだ ゆきお、1915年(大正4年)11月26日 - 2007年(平成19年)11月11日)は、日本の政治家。自由民主党参議院議員や京都府知事を務めた。綾部市名誉市民。正三位勲一等旭日大綬章。 京都府舞鶴市出身。東八田尋常小・舞鶴中・旧制三高を経て東京帝国大学(現・東京大学)法学部卒業後の1939年、農林省に入省。同年5月5日、海軍主計短期現役第2期生として海軍経理学校入校し海軍主計中尉に任官、9月5日卒業。1941年5月、主計大尉に進む。1944年2月、第三一航空隊主計長としてマニラ、ジョグジャカルタで勤務。同年11月、主計少佐に昇進。1945年4月、ボルネオ海軍民政部経済課長を命ぜられパンジェルマシンに転属。
三田 周(みた いたる、1915年11月26日 - 1994… 三田 周(みた いたる、1915年11月26日 - 1994年12月12日)は、日本の経営者、理学博士。参天製薬社長を務めた。兵庫県出身。 1938年に大阪帝国大学理学部化学科を卒業し、1944年に母校の大阪大学で助教授を務め、1946年に参天製薬に入社。1970年12月に副社長に就任し、1983年7月には社長に昇格。1990年10月に会長に就任。 1994年12月12日心不全のために死去。79歳没。
藤井 典明(ふじい のりあき、1915年(大正4年)11月2… 藤井 典明(ふじい のりあき、1915年(大正4年)11月26日 - 1994年(平成6年)11月17日)は、日本の声楽家(バリトン、一部にテノールとなっているものも存在する)、合唱指揮者、音楽教育者。名前の読みをテンメイとしている資料もある。 広島県出身。1940年(昭和15年)東京音楽学校卒、1942年(昭和17年)東京音楽学校研究科修了。 1940年(昭和15年)読売新人演奏会でデビュー。オペラでは、藤原歌劇団を中心に、バリトン歌手として出演するとともに、1947年(昭和22年) - 1955年(昭和30年)藤原歌劇団合唱部の指導にあたった。オペラの公演に関わった記録は66回に及ぶ。 音楽教育面では、1940年(昭和15年)東京音楽学校教師。
石沢 芳次郎(いしざわ よしじろう、1915年11月26日 … 石沢 芳次郎(いしざわ よしじろう、1915年11月26日 - 2019年11月2日)は、日本の経済学者。位階は従四位。 三木内閣首席参事官、拓殖大学学長、防衛大学校名誉教授、拓殖大学名誉教授。財団法人産業経済研究協会理事長等を歴任した。 1915年、栃木県宇都宮市生まれ。1944年、旧制東京商科大学(現一橋大学)を卒業した。大学では赤松要に師事した。 率朝護は、大倉経済専門学校(現東京経済大学)教授となった。社団法人日本貿易会調査課長の後、防衛庁防衛研修所所員、内閣国防会議事務局参事官、防衛大学校教授となった。拓殖大学教授、拓殖短期大学学長、拓殖大学学長、財団法人産業経済研究協会理事長をつとめた。
宗像 卯一(むなかた ういち、1915年(大正4年)11月2… 宗像 卯一(むなかた ういち、1915年(大正4年)11月26日 - 生没不明)は、日本のバスケットボール選手。早稲田大学在学中に、1936年ベルリンオリンピックに出場した。 1930年、広島県から満洲(関東州)・大連の大連一中に転校。体操の時間にサッカーを行っていたところ、宮畑虎彦教諭に見いだされ、1931年にバスケットボール部に入部した。 早稲田大学に進学し、バスケットボール部に所属。1936年ベルリンオリンピックに出場した。同時期、早稲田大学バスケットボール部には横山堅七がおり、宗像とともにベルリン五輪、東洋選手権大会(1938年)、東亜競技大会(1940年)で日本代表選手に選出されている。
細郷 道一(さいごう みちかず、1915年11月25日 - … 細郷 道一(さいごう みちかず、1915年11月25日 - 1990年2月15日)は、日本の政治家、内務官僚。神奈川県横浜市長(3期)、自治事務次官を歴任した。
江﨑 真澄(えさき ますみ、1915年〈大正4年〉11月23… 江﨑 真澄(えさき ますみ、1915年〈大正4年〉11月23日 - 1996年〈平成8年〉12月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(17期)、総務庁長官、通商産業大臣、自治大臣、防衛庁長官などを歴任した。位階は正三位。 愛知県一宮市出身。旧制私立東邦商業学校から旧制第八高等学校(現・名古屋大学)に入学。八高に入ってすぐに肺結核にかかり、闘病生活中に小説を書き始める。1934年、雑誌『改造』の懸賞小説に、恋愛小説『長良』を応募し佳作となる。また、禅寺で修行するなどし、八高を中退する。その後、日本大学経済学部に進学する。作家を目指し、横光利一や菊池寛に紹介されるが、結局母校である東邦商業学校で教師となった。