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浅田 高明(あさだ たかあき、1930年 - 2020年2月… 浅田 高明(あさだ たかあき、1930年 - 2020年2月11日)は医師、医学博士(京都大学)。太宰治研究者。 富山市生まれ。旧制富山高等学校理科乙類を経て、1954年京都大学医学部医学科卒業。京都大学結核胸部疾患研究所において結核および呼吸器学を専攻する。1960年京都大学医学博士。論文の題は「ツベルクリン過敏性の局所性受身感作に関する実験的研究」。(財)近江サナトリウム、京都府立洛東病院、国立療養所宇多野病院勤務のあと1988年現在、ダイハツ工業株式会社 京都工場診療所長を務めた。 その傍ら太宰治の人と文学に関する実証的研究に長年携わってきた。 その中で『パンドラの匣』 のモデルとなった木村庄助の実家の取材を通じて、この面における太宰治研究の第一人者として知られる。
金岡 祐一(かなおか ゆういち、1928年(昭和3年)2月2… 金岡 祐一(かなおか ゆういち、1928年(昭和3年)2月25日 -2021年(令和3年)5月24日 )は、日本の薬学者、実業家。学校法人富山国際学園理事長。北海道大学名誉教授。テイカ製薬代表取締役会長。 3代目金岡又左衛門(元富山相互銀行社長)の長男として、富山県上新川郡新庄町(現・富山市)で生まれる。 旧制富山高等学校から東京大学薬学科に進学する。富山高校時代の同級生には、中沖豊元富山県知事らがいた。また、薬学科3年次から大学院時代は、姉と結婚していた金岡幸二宅に同居し世話を受けた。 文部省が国立大学薬学科を増設する方針に踏み切ったため、父の反対を押切り、恩師の推薦を得て、未知の大地であった北海道に渡り、新設となった北海道大学医学部薬学科に赴任する。
中沖 豊(なかおき ゆたか、1927年9月16日 - 201… 中沖 豊(なかおき ゆたか、1927年9月16日 - 2018年6月24日)は、日本の政治家。富山県知事(6期)。 富山県富山市出身。旧制富山高等学校を経て、1950年東京大学法学部卒業後、地方自治庁(後の自治省、現在の総務省)に入庁。富山県総務部長、同県教育長、消防大学校校長、消防庁防災救急課長、石川県経済部長、北陸新幹線建設促進同盟会長を歴任。 1980年、当時の知事中田幸吉急死により行われた富山県知事選に立候補し初当選。以後、「健康・スポーツ」「花と緑」「科学・文化」の「三つの日本一」への挑戦を掲げた住みよい県作り等を推進。「いい人いい味いきいき富山」観光キャンペーンを展開したほか、富山空港のジェット化、北陸新幹線や北陸自動車道など交通インフラの整備、高志リハビリテーション病院(現・富山県リハビリテーション病院・こども支援センター)の開院、ジャパンエキスポ富山や2000年とやま国体の誘致、テレビユー富山(現・チューリップテレビ)の開局にも力を注いだ。
大谷 瑞郎(おおたに みずお、1926年4月14日 - 19… 大谷 瑞郎(おおたに みずお、1926年4月14日 - 1992年1月29日)は、日本の歴史学者。武蔵大学経済学部教授。 東京府荏原郡平塚村(現・東京都品川区)生まれ。東京、函館、静岡、富山に住み、富山高等学校尋常科・高等科を経て、1949年東京大学経済学部経済学科卒。学生時代は大内力のゼミに参加。1951年武蔵大学助手、1953年専任講師、1958年助教授、1960年教授。西洋経済史を担当。在職中に死去。
佐伯 彰一(さえき しょういち、1922年〈大正11年〉4月… 佐伯 彰一(さえき しょういち、1922年〈大正11年〉4月26日 - 2016年〈平成28年〉1月1日)は、日本のアメリカ文学者・比較文学研究者・文芸評論家・翻訳家。東京大学名誉教授。日本芸術院会員。勲三等旭日中綬章受章。 富山県出身。古代日本に存在した佐伯部の子孫で神官の家柄。先祖に佐伯有頼がいる。旧制富山高校を経て、東京帝国大学文学部英文科卒業、同大学院修了。旧・東京都立大学助教授を経て、1967年にカナダ・トロント大学で客員教授として日本文学を講義、1968年東京大学教養学部教授、1976年から大学院比較文学比較文化研究室主任。1983年定年退官後は中央大学教授を1993年まで勤め、世田谷文学館館長、2007年退任し名誉館長。
岩田 慶治(いわた けいじ、1922年1月12日 - 201… 岩田 慶治(いわた けいじ、1922年1月12日 - 2013年2月17日)は、日本の文化人類学者。国立民族学博物館名誉教授、東京工業大学名誉教授。 1922年、神奈川県横浜市で生まれた。旧制富山高校で学び、地理学に関心を持っていた。戦後の1948年、京都大学文学部市学科を卒業。卒業論文は、オーストラリアのアルンタ族の地域観に関するものであった。 その後は大阪市立大学助教授に就いた。東京工業大学教授の後、国立民族学博物館教授となった。1986年に国立民族学博物館を定年退官し、名誉教授となり、東京工業大学の名誉教授となった。その後は大谷大学教授として教鞭をとった。2013年2月17日、肺炎により死去。
翁 久次郎(おきな きゅうじろう、1921年(大正10年)1… 翁 久次郎(おきな きゅうじろう、1921年(大正10年)10月8日 - 1996年(平成8年)9月2日)は、日本の厚生官僚・実業家。内閣官房副長官。位階は正三位。 富山県出身。富山高等学校を卒業。短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、1944年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業。第11海軍航空廠に配属。同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年1月、工場が愛媛県八幡浜の繊維工場に疎開。同年5月、大阪監督官事務所に転属し終戦を迎えた。同年9月に主計中尉に進む。同年10月、予備役に編入され解員(復員)。 1946年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1947年4月、高等試験行政科試験に合格。
江幡 修三(えばた しゅうぞう、1921年1月11日 - 2… 江幡 修三(えばた しゅうぞう、1921年1月11日 - 2009年6月3日)は、日本の法曹。検事総長。弁護士。 富山県魚津市出身。旧制富山高等学校を経て、1943年東京帝国大学法学部卒。東京地検総務部長、札幌地検検事正、東京高検検事長などを歴任し、1983年12月から2年間、検事総長。 財田川事件、松山事件の再審無罪判決に対し、控訴見送りを指示した。1976年のロッキード事件では最高検検事として捜査。1979年のダグラス・グラマン事件では、東京地検検事正として捜査を指揮した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
武部 敏夫(たけべ としお、1920年11月26日-2008… 武部 敏夫(たけべ としお、1920年11月26日-2008年7月15日)は、昭和・平成時代の歴史学者。 1940年(昭和15年)富山高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部国史学科に入学。1942年(昭和17年)卒業。 1943年(昭和18年)宮内省公刊明治天皇御紀編纂事務嘱託となるが、応召。1945年(昭和20年)召集解除により、宮内庁図書寮編修官補に任じられる。その後、書陵部編修課長・正倉院事務所長を歴任。1984年(昭和59年)退官後、大正大学に遷り文学部教授として1991年(平成3年)まで近世史を講じる。 和宮の評伝として高い評価を受ける。 『日本歴史』第726号・2008・P.141 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
島谷 六郎(しまたに ろくろう、1920年1月24日 - 2… 島谷 六郎(しまたに ろくろう、1920年1月24日 - 2006年11月21日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。富山県出身。 旧制富山高校から1942年(昭和17年)に東京帝国大学法学部を卒業。海軍法務官となり、中国の海南島で敗戦、そのまま中国に抑留され、2年間捕虜生活を送った。 在学中に高等文官試験司法科に合格したが、軍隊生活のため司法修習生になったのは1948年(昭和23年)で、1950年(昭和25年)に弁護士登録をした。藤林益三の事務所に籍を置き、初めは刑事を手がけたが、後に銀行などの顧問弁護士を務め、銀行取引や会社関係の訴訟にも詳しい。日弁連外国弁護士対策委員会初代委員長を務めたほか、司法研修所教官、東京地裁調停委員なども務めた。
馬瀬 清亮(ませ せいすけ、1916年8月31日 - 199… 馬瀬 清亮(ませ せいすけ、1916年8月31日 - 1993年12月18日 )は、日本の経営者。北陸銀行頭取を務めた。 富山県出身。旧制富山高等学校を経て、1939年に東京帝国大学法学部を卒業。兵役を経て、1946年に北陸銀行に入行した。1961年5月に取締役に就任し、1964年11月に常務を経て、1970年3月に頭取に就任。1980年6月には会長に就任。 1978年11月には藍綬褒章を受章。 1993年12月18日、脳出血のために死去。77歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
中田 幸吉(なかだ こうきち、1915年〈大正4年〉12月7… 中田 幸吉(なかだ こうきち、1915年〈大正4年〉12月7日 - 1980年〈昭和55年〉9月18日)は、日本の農林技官、政治家。富山県知事(3期)。位階は正四位。勲二等瑞宝章綬章。 富山県富山市出身。薬種商・15代中田清兵衛の五男として生まれる。富山高等学校を経て、1940年(昭和15年)、東京帝国大学農学部林学科を卒業。農林省に入り山林局に勤務。 1952年(昭和27年)、沼田営林署長に就任。長野県林産課長、同林業課長、同林務部長を歴任。1963年(昭和38年)、林野庁林道課長となる。1966年(昭和41年)、富山県に派遣され農地林務部長を務める。 1969年(昭和44年)12月、吉田実の衆院選出馬による辞職に伴い行われた県知事選に自民党の公認を受けて富山県知事選に出馬。
渋谷 巌(しぶや いわお、1914年9月28日 - 2003… 渋谷 巌(しぶや いわお、1914年9月28日 - 2003年12月13日)は、日本の航空技術者。中島飛行機の課長、東北大学の教授、富士重工業の常務などを務めた。戦前は一〇〇式重爆撃機「呑龍」の構造設計、超大型爆撃機「富嶽」の開発など、戦後はジェットエンジン「JO-1」の開発などを手掛けた。 旧制富山高校を経て、東京帝国大学に入学した。とくに航空を好きなわけではなかったが、数学が好きで難しいなら受けようと思い、難関の航空学科に受験したという。教師からは難しいが、渋谷なら入れるだろうと言われたという。1937年(昭和12年)3月、東京帝国大学工学部航空学科を卒業。同期は東條輝雄、内藤子生、高山捷一などで「花の十二年組」と呼ばれた。
宮崎 梧一(みやざき ごいち、1914年5月5日 - 200… 宮崎 梧一(みやざき ごいち、1914年5月5日 - 2003年3月5日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。千葉県出身。 旧制富山高校から1940年(昭和15年)に東京帝国大学法科を卒業。司法官試補、裁判官になり、札幌地裁、大阪地裁などに勤務。1944年(昭和19年)に陸軍に召集され中国に出征し、トップで見習士官となり、敗戦の時に法務中尉。終戦後はソ連にシベリア抑留され、モスクワ郊外で労働をさせられた。 復員後、「裁判官ではとても食えない」として1948年(昭和23年)に弁護士登録。目立つような事件が手掛けなかったが、離婚、遺産、借金などの市民のゴタゴタや刑事事件の国選弁護人などをしてきた。 1980年(昭和55年)2月5日に最高裁判所判事となる。
西崎 一郎(にしざき いちろう、1903年1月14日 - 1… 西崎 一郎(にしざき いちろう、1903年1月14日 - 1983年1月3日)は、日本のアメリカ文学者・翻訳家。 富山県魚津生まれ。1927年東京帝国大学英文科卒。富山高等学校で教え、1937年学習院高等科教師、第二次世界大戦後学習院大学教授、お茶の水女子大学教授、1967年定年、白百合女子大学教授。1973年退職。
石井 逸太郎(いしい いつたろう 1889年-1955年)は… 石井 逸太郎(いしい いつたろう 1889年-1955年)は、日本の地質学者、教育者。 熊本県生まれ。東京帝国大学卒業後、1925年に旧制富山高校に赴任する。 富山では、恩師である山崎直方が発見した立山の山崎カール(石井が命名)の調査を続け、1943年に発表した論文「立山連峰の氷河作用‐特に山崎圏谷に就いて」により、1945年に氷河地形としては初めて国の天然記念物に指定させる契機を作った。1947年、富山市立芝園中学校の初代校長に就任。また、同年行われた昭和天皇の北陸巡幸の際には進講役を務めた。 1955年8月、立山剱沢の調査を行っている最中、誤ってクレバスから滝へ転落して死亡。同年11月、功績を評価されて富山県文化賞文化特別感謝状を授与された。