小川 信(おがわ まこと、1920年12月31日 - 200… 小川 信(おがわ まこと、1920年12月31日 - 2004年11月15日)は、日本の日本史学者。日本学士院賞受賞者。國學院大學名誉教授。 専門は日本中世史。室町時代政治史をテーマとし、考証に重きをおいた。晩年、歴史地理的な研究にも取り組んだ。自身が中心となって『久我家文書』編纂・刊行に従事。 東京市に生まれる。1938年暁星中学校卒業。1940年國學院大學予科修了。1942年9月國學院大學史学科卒業。卒業論文は「荘園内に於ける番頭に就いて」。同年10月応召。後、陸軍少尉に至る。1945年8月シベリア抑留。1948年5月復員。10月埼玉県立浦和高等学校教諭。1949年暁星高等学校講師。1952年麻布高等学校講師。
中鉢 正美(ちゅうばち まさよし、1920年12月30日 -… 中鉢 正美(ちゅうばち まさよし、1920年12月30日 - 2013年7月11日)は、日本の経済学者、経済心理学研究者、慶應義塾大学名誉教授。 「生活」をキーワードに、心理学・生態学の視点を加えて人間の経済行動を学際的に研究し、「生活構造論」の方法を確立する傍ら、行政の各種諮問委員として幅広くフィールドワークを行い、日本の社会政策、社会保障の充実に寄与した。元(財)地域開発研究所所長。第4回今和次郎賞受賞。 (「回想・林試の森」(1995)P.203~205より作成) 趣味は、動物生態・能面鑑賞。 カトリック目黒教会(聖アンセルモ教会)の教会員であり、自身の洗礼名もアンセルモ(アンセルムス)。
閔 庚植(ミン・ギョンシク、朝鮮語: 민경식、1920年12… 閔 庚植(ミン・ギョンシク、朝鮮語: 민경식、1920年12月30日 - 2000年12月22日)は、満洲国のジャーナリスト、大韓民国の政治家、実業家。制憲韓国国会議員。 本貫は驪興閔氏。号は三隠(サムン、三隱/삼은)。 日本統治時代の京畿道龍仁郡(現・龍仁市器興区)出身。日本大学芸術科卒。満州日報記者、大韓青年団員を経て、1948年の初代総選挙に大韓独立促成国民会の候補として龍仁選挙区より出馬し、国会議員に当選した。その後は韓国ポプラ社長を務め、1960年代には全国でポプラの植樹運動を推進した。2000年に死去、享年80。
金 永求(キム・ヨング、朝鮮語: 김영구、1920年12月2… 金 永求(キム・ヨング、朝鮮語: 김영구、1920年12月29日 - 2007年3月20日)は、大韓民国の教育者、官僚、政治家。第5代韓国国会議員。 本貫は彦陽金氏(朝鮮語版)、号は蕙村(ヘチョン、혜촌)。カトリック教徒。 日本統治時代の京畿道抱川郡(現・抱川市)または京城府(現・ソウル特別市)出身。第一高等普通学校(現・京畿高等学校)、福岡高等学校、東京帝国大学(現・東京大学)法学部政治科卒。普成専門学校(現・高麗大学校)講師、高麗大学校・東国大学校・ソウル大学校法科大学教授を経て、民主党結党後は同党抱川郡党委員長を務めた。その後は第5代国会議員、内務部(現・行政安全部)政務次官、大韓民国憲政会(朝鮮語版)運営委員を務めた。
申 鉉碻(シン・ヒョンファク、シン・ヒョナク、しん けんかく… 申 鉉碻(シン・ヒョンファク、シン・ヒョナク、しん けんかく、1920年12月29日 - 2007年4月26日)は大韓民国の政治家、実業家。本貫は平山申氏。創氏改名時の日本名は平林佑國、号は于湖(ウホ、우호)。 元国務総理室政策次長の申喆湜(朝鮮語版)は1人息子。 慶尚北道漆谷郡出身。大邱高等普通学校から京城帝国大学を経て、1943年に高等文官試験に合格して農商務省に入省し、商務系官僚を務めた。終戦時は軍需省の軍需管理官として働いた。 韓国独立後は、大邱大学校教授を経て1951年に商工部工業局工程課長として官界に復帰し、商工部電気局・鉱務局・工業局局長を務めた。1957年には復興部次官兼外資庁長官代理となり、1959年に復興部長官となるが、四月革命で逮捕され官界を追放。
佐々木 醇三(ささき じゅんぞう、1920年12月27日 -… 佐々木 醇三(ささき じゅんぞう、1920年12月27日 - 2002年4月30日)は、日本の経営者。ニチロ社長を務めた。北海道出身。 1946年に北海道帝国大学農学部農業経済学科を卒業し、1947年に農林中央金庫に入社し、1973年には理事に就任。1980年12月に日魯漁業(のちのニチロ)に転じ、最高顧問に就任し、1981年2月に副社長を経て、1986年2月には社長に就任。1990年1月に取締役相談役を経て、同年6月には相談役に就任。社長在任時には、積極的な海外展開による加工食品事業の強化などにより、当時経営不振に陥っていた自社の再建に尽力した。 1997年に勲三等瑞宝章を受章。 2002年4月30日に心筋梗塞のために死去。
小泉富太郎(こいずみ とみたろう、1920年12月25日 -… 小泉富太郎(こいずみ とみたろう、1920年12月25日 - 2008年5月1日)は日本の地方公務員、刀剣研究家。横浜市助役、神奈川県公安委員会委員などを務めた。1992年には勲三等瑞宝章を受章。 1938年に神奈川県立横浜第三中学校を卒業後、1943年に國學院大學文学部国史科卒業。その後大日本帝国海軍に入隊した。 1949年に横浜市に入庁。主に清掃局の畑一本で過ごしてきた。清掃局清掃施設課長、清掃局管理部長などを経て、1971年9月1日に清掃局長、1972年8月3日に総務局長、1975年5月26日には横浜市助役に就任した。1979年5月25日に辞職。 1982年10月21日 神奈川県公安委員会委員。
杵島 隆(きじま たかし、1920年12月24日 - 201… 杵島 隆(きじま たかし、1920年12月24日 - 2011年2月20日)は、日本の写真家。 以降安田光昭(元鳥取県議会議員、米子市教育長)の著書『「あの人この人」私の交友録』245頁により
阿川 弘之(あがわ ひろゆき、1920年〈大正9年〉12月2… 阿川 弘之(あがわ ひろゆき、1920年〈大正9年〉12月24日 - 2015年〈平成27年〉8月3日)は、日本の小説家、評論家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。広島県名誉県民。日本李登輝友の会名誉会長。 海軍体験を基にした戦争物や私小説的作品、伝記物で知られる。代表作として『春の城』『雲の墓標』のほか、大日本帝国海軍提督を描いた3部作(海軍提督三部作)『山本五十六』『米内光政』『井上成美』などがある。 法学者の阿川尚之は長男、タレント・エッセイストの阿川佐和子は長女。 自身は『私の履歴書』では、〔私の「履歴」を一と言で記せば、「地方の平凡な中流家庭に生まれ、小学校から大学まで、ごく平坦平凡な学生生活を送り、戦争中は海軍に従軍して多少の辛酸を嘗めたが、戦後間もなく志賀直哉の推輓により文壇に登場、以来作家としてこんにちに至る」、これだけである〕と回顧している。
市村 俊幸(いちむら としゆき、本名:石川 清之助、1920… 市村 俊幸(いちむら としゆき、本名:石川 清之助、1920年12月20日 - 1983年8月9日)は、昭和期の俳優。旧東京市(東京都)出身。「ブーちゃん」の愛称で親しまれた。クレイジーキャッツのリーダーであるハナ肇の名付け親としても知られる。 東京府立第五中学校卒。日本医師会勤務を経て1938年、日劇ダンシングチームに入団。戦後の1946年、南里文雄らの「南里文雄とホットペッパーズ」でピアニストを務める。 1951年9月21日に上映された映画『花嫁蚤と戯むる』(製作:ラジオ映画、配給:東映)で俳優デビュー、翌年の黒澤明監督作品『生きる』で脚光を浴びる。映画ではフランキー堺主演の作品に多数出演した。
大崎 憲司(おおさき けんじ、1920年12月20日 - )… 大崎 憲司(おおさき けんじ、1920年12月20日 - )は、福岡県出身のプロ野球選手(投手)。
牧内 栄蔵(まきうち えいぞう、1920年12月18日 - … 牧内 栄蔵(まきうち えいぞう、1920年12月18日 - 1995年9月25日)は、日本の経営者。倉敷紡績社長、会長を務めた。 東京都出身。1941年に大阪商科大学高商部を卒業し、1942年に倉敷紡績に入社。1965年12月に取締役に就任し、1967年12月に常務、1974年12月に専務を経て、1976年7月に副社長に就任し、1979年7月に社長に昇格。1987年7月には会長に就任し、1993年6月から相談役を務めた。 1984年4月に藍綬褒章を受章し、1992年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1995年9月25日、肺炎のために死去。74歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
野見山 暁治(のみやま ぎょうじ、1920年〈大正9年〉12… 野見山 暁治(のみやま ぎょうじ、1920年〈大正9年〉12月17日 - 2023年〈令和5年〉6月22日 )は、日本の洋画家。位階は従三位。勲等は文化勲章。東京芸術大学名誉教授、文化功労者。 本名は「暁」が旧字体の野見山 曉治であり、文化勲章受章時の名簿でもそのように記載されている。 福岡県穂波村(現飯塚市)にて、炭鉱経営者の子として生まれる。東京美術学校(現東京芸術大学)入学当時は故郷の炭鉱を制作の原風景とし、その後12年間のパリ生活を経て、抽象画へと変化。帰国後は東京芸術大学で教え、美術学部助教授、教授などを歴任し、同大名誉教授となる。 2023年6月22日、心不全のため死去。102歳没。
佐々木 栄造(佐々木 榮造、ささき えいぞう、1920年(大… 佐々木 栄造(佐々木 榮造、ささき えいぞう、1920年(大正9年)12月16日 - 2019年(令和元年)12月26日)は、昭和から平成時代前期の政治家。青森県五所川原市長。号に遠城。位階は従四位。旭日中綬章。 青森県北津軽郡五所川原町(現五所川原市)出身。五所川原農学校を経て、日本大学法学部、同大学大学院法学研究科修士課程修了。1958年(昭和33年)日本青年団協議会長、1959年(昭和34年)青森県議会議員を経て、1962年(昭和37年)五所川原市長に当選。公職選挙法違反で1966年(昭和41年)に一度は失職しながらも直ぐに復帰、1979年(昭和54年)に病気で市長から退くものの2代後の森田稔夫がリコールによって解職されたことに伴い1989年(平成元年)6月に12年ぶり市長に返り咲き。
鈴木 敬(すずき けい、1920年12月16日- 2007年… 鈴木 敬(すずき けい、1920年12月16日- 2007年10月18日)は、日本の美術史家。東京大学名誉教授、日本学士院会員。
李 一珪(イ・イルギュ、1920年12月16日 - 2007… 李 一珪(イ・イルギュ、1920年12月16日 - 2007年12月2日)は、大韓民国の第10代大法院長。本貫は韓山李氏(朝鮮語版)。 1943年9月、関西大学専門部第二部法科を卒業後、関西大学法文学部に進学するも同年11月学徒出陣し、高射砲陣地で終戦を迎えた。1948年第2回朝鮮弁護士試験に合格し、大邱地方法院(地方裁判所)、光州高等法院(高等裁判所)などで裁判官を歴任。1975年の人民革命党事件裁判では、大法院判事として被告人の死刑判決決定に際し唯一の少数意見を表明した。1988年には第10代大法院長(日本の最高裁長官に相当)に任命された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
三宅 幸夫(みやけ ゆきお、1920年(大正9年)12月16… 三宅 幸夫(みやけ ゆきお、1920年(大正9年)12月16日 - 1988年(昭和63年)2月25日)は、日本の官僚。特許庁長官、日本鋼管(現JFEスチール・JFEエンジニアリング)副社長などを務めた。 旧制八高、東京帝国大学法学部政治学科卒業後、1943年に商工省入省。同期に山下英明(通産事務次官)、新田庚一(経企事務次官)、楠岡豪(繊維雑貨局長)、長橋尚(公益事業局長、中部電力副社長、東邦石油社長)、井土武久(特許庁長官)など。 「官僚たちの夏」の庭野のモデル。統制経済志向の佐橋滋の八高後輩であり、なおかつ重用され、池田勇人通産大臣秘書官(1959年 - )、重工業局鉄鋼業務課長(1960年 - )などを経て、通産省企業局次長(1968年 - 1969年11月)から繊維雑貨局長(1969年11月 - 1970年10月)を歴任。
平林 栄治(ひらばやし えいじ、1920年12月15日 - … 平林 栄治(ひらばやし えいじ、1920年12月15日 - 戦死)は長野県出身のプロ野球選手。
楠岡 豪(くすおか たけし 1920年12月15日 - )は… 楠岡 豪(くすおか たけし 1920年12月15日 - )は、日本の通産官僚。元通産省繊維雑貨局長。
嶋 清一(しま せいいち、本名:島 清一[1]… 嶋 清一(しま せいいち、本名:島 清一[1]、1920年12月15日 - 1945年3月29日)は、和歌山県出身の野球選手(投手)。
藤井 澄二(ふじい すみじ、1920年(大正9年)12月14… 藤井 澄二(ふじい すみじ、1920年(大正9年)12月14日 - 2004年(平成16年)1月30日)は、機械工学を専門とする日本の研究者、教育者。工学博士(東京大学)、東京大学名誉教授、東京電機大学名誉教授。振動工学、車両工学、人間工学、安全工学、制御工学、ロボット工学など、多岐にわたる実績があり、富山県立大学では初代学長を務めた。紫綬褒章、従三位勲二等瑞宝章。 東京帝国大学助教授、東京大学教授、工学部長、東京電機大学教授、理事、理工学部長、富山県立大学学長を務めると共に、日本機械学会会長、日本ロボット学会会長、日本IFToMM会議実行委員長も歴任した。1960年代半ばから1970年代の東京大学藤井研究室におけるロボット研究は、その後のロボット制御のほとんどの基がここにあるとも言われている。
大畑 忠義(おおはた ただよし、1920年12月13日 - … 大畑 忠義(おおはた ただよし、1920年12月13日 - 2005年7月20日)は、日本の経営者。時事通信社社長を務めた。 広島県出身。1944年に東京商科大学を卒業。召集され大竹海兵団に入団。短期現役海軍主計科士官(11期)を志願し、同年2月に海軍主計見習尉官となり海軍経理学校に入校。同年9月に経理学校を卒業し、光海軍工廠に配属。同年12月、海軍主計少尉に任官。1945年9月に主計中尉に進んで予備役に編入された。 1946年1月に時事通信社に入社。1972年5月に取締役に就任し、1977年6月に代表取締役を経て、1978年6月に社長に就任。1984年6月に相談役に就任し、1986年6月から顧問を務めた。
前川辰男(まえかわ たつお、1920年 <大正9年> 12月… 前川辰男(まえかわ たつお、1920年 <大正9年> 12月12日 - 2017年 <平成29年> 12月31日)は、三重県の地方議員。環境運動家。日本自然保護協会会員。ナチュラリスト。位階は従五位。 高花平(新興住宅団地)連合自治会長。四日市市議会議員を7期務め、昭和56年5月15日から ~昭和57年5月18日まで四日市市議会議長を務める。日本社会党所属。 四日市ぜんそくで四日市コンビナート企業と九鬼喜久男四日市市長を糾弾して、塩浜地区の公害患者の味方となり公害対策に貢献した。俳人や本の執筆者として活躍した文化人である。 三重県四日市市(塩浜地区)出身。一志郡(久居市)生まれ。 四日市市塩浜地区を中心とする四日市コンビナートから大気汚染で発生した四日市ぜんそくの公害裁判の公害患者による訴訟を推進するため政治家となる。
山根一郎(やまね いちろう、1920年12月12日-1998… 山根一郎(やまね いちろう、1920年12月12日-1998年2月21日)は、日本の農学者。 朝鮮平壌生まれ。1942年東京帝国大学農学部農芸化学科卒。1961年「ガス分析法ならびに水田土壌におけるガス成分の消長に関する研究」で東京大学農学博士。東北農業試験場、東北大学農学研究所助教授、教授、1976年東京農工大学教授、宮城県農業実践大学校校長。79年日本草地学会賞・齋藤賞受賞。
川越 邦雄(かわごえ くにお、1920年12月12日 - 1… 川越 邦雄(かわごえ くにお、1920年12月12日 - 1994年11月2日)は、日本の建築学者。専門は防災科学および防火。日本火災学会会長などを歴任した。 東京府(現・東京都渋谷区)出身。父の丈雄は大蔵次官、平和相互銀行会長を歴任した。母のタミは陸軍大佐の長女。建設省建築研究所第5研究部長を経て、1969年に建設省建築研究所長となる。 1973年に東京理科大学教授に就任し、同大学火災科学研究所を主宰した。1984年に、日本建築設備安全センター理事長となった。 著書に『新建築学大系 12. 建築安全論』『建築施工』(建築士試験講座)など。日本建築学会特殊コンクリート造関係設計基準の基準作成関係委員も務めた。
上野 義秋(うえの よしあき、1920年12月11日 - )… 上野 義秋(うえの よしあき、1920年12月11日 - )は、福岡県出身のプロ野球選手(捕手、一塁手、外野手)。
西川 新次(にしかわ しんじ、1920年(大正9年)12月1… 西川 新次(にしかわ しんじ、1920年(大正9年)12月11日 - 1999年(平成11年)9月18日)は、日本彫刻史学者。慶應義塾大学名誉教授。 1920年12月、福井県武生市(現:越前市)蓬莱の商家に生まれる。慶應義塾大学に進学した。 日本彫刻史の研究を志すきっかけは、和辻哲郎の著『古寺巡礼』の名文に刺激されて日本美術の仏像彫刻に興味を覚えた。慶應の文学部在学時に、生涯の師となる丸尾彰三郎の門を敲く。 1943年9月、同大学文学部哲学科(芸術学専攻)を卒業し、東京帝室博物館に採用となり、列品課勤務(技術雇員)。 1947年5月、国立博物館陳列課勤務(文部技官)。1950年9月文化財保護委員会保存部美術工芸課に配置換。
慶伊 富長(けいい とみなが、1920年12月10日 - 2… 慶伊 富長(けいい とみなが、1920年12月10日 - 2007年9月20日)は、日本の化学者。東京工業大学(のちの東京科学大学)名誉教授。第4代沼津工業高等専門学校校長等を経て、東京工業大学先端科学技術大学院準備調査室長として北陸先端科学技術大学院大学設立にあたり、初代学長を務めた。元触媒学会会長。 北海道滝川市生まれ。1945年九州帝国大学理学部化学科卒業。1956年北海道大学理学博士。北海道大学助教授、東京工業大学(のちの東京科学大学)教授、東京理科大学教授を経て、1982年沼津工業高等専門学校校長。1985年豊橋技術科学大学参与。1988年東京工業大学先端科学技術大学院準備調査室長。1990年初代北陸先端科学技術大学院大学学長。
中村 正秀(なかむら まさひで、1920年12月10日 - … 中村 正秀(なかむら まさひで、1920年12月10日 - 没年不明)は、日本の経営者。第四銀行頭取、会長を務めた。新潟県出身。 1946年に京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、1947年1月に第四銀行に入行した。1974年11月に取締役に就任し、1976年11月に常務、1978年11月に専務を経て、1983年3月に頭取に就任した。1990年3月に会長に就任し、1996年6月から1998年6月までに取締役を務めた。 1988年11月に藍綬褒章を受章し、1993年11月に勲三等瑞宝章を受章した。
小泉 重則(こいずみ しげのり、1920年12月10日- 2… 小泉 重則(こいずみ しげのり、1920年12月10日- 2003年4月23日 )は、日本の経営者。広島ホームテレビ社長を務めた。 広島県広島市出身。1942年に法政大学予科を卒業し、1943年に芸備銀行(現在の広島銀行)に入社した。1971年に取締役に就任し、1981年に常務、1984年に専務を経て、1985年に広島ホームテレビ社長に就任。1989年に名誉会長に就任し、1990年から相談役を務めた。 2003年4月23日、心不全のために死去。82歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
林 英夫(はやし ひでお、1920年12月10日 - 200… 林 英夫(はやし ひでお、1920年12月10日 - 2007年2月5日)は、日本の歴史家(日本史)。立教大学名誉教授。 織物業史・農村工業史を専門とし、マニュファクチュア論争に大きな影響を与える。『豊島区史』などの自治体史編纂にも従事した他、古文書解読字典の編纂など、近世古文書学にも通じる。 愛知県中島郡(現在の一宮市)生まれ。生家は美濃路・起宿の脇本陣。立教大学文学部史学科に進学し、当時講師として出講していた伊東多三郎の指導を受けて日本近世史を専攻するようになった。起宿を取り上げた卒業論文の採点も伊東が行った。1943年卒業。 台湾から復員後、本郷高等学校に勤務。1951年開成高等学校に転じ、文部省検定の教科書を使わずに、手作りの「開成日本史」を活用した。
越智 伊平(おち いへい、1920年〈大正9年〉12月10日… 越智 伊平(おち いへい、1920年〈大正9年〉12月10日 - 2000年〈平成12年〉3月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(10期、自由民主党)。越智電気商会(現四国通建)創業者。位階は正三位、勲等は勲一等。 愛媛県越智郡(旧玉川町、現今治市)鈍川出身。1941年相模原工学校卒。戦後、越智電気商会を設立。1954年7月、鈍川公民館建設費として22万円寄付により1955年1月18日紺綬褒章受章。 1955年今治市議会議員選挙にトップで初当選、1959年愛媛県議会議員選挙でもトップで初当選。1962年10月、今治市立今治小学校給食費として10万円寄付により1963年10月24日、紺綬褒章受章(飾版)。
古谷 弘(ふるや ひろし、1920年12月9日 - 1957… 古谷 弘(ふるや ひろし、1920年12月9日 - 1957年8月23日)は、日本の経済学者。元・東京大学教授。専門は線型分析。静岡県御殿場生まれ。
永利 勇吉(ながとし ゆうきち、1920年12月9日 - 1… 永利 勇吉(ながとし ゆうきち、1920年12月9日 - 1962年6月27日)は、福岡県出身のプロ野球選手(外野手・捕手)、野球解説者。 嘉穂中学から立教大学へ進み、野球部へ入部。当初は外野手だったが、捕手難だったため、1942年の春季リーグ前に捕手へコンバートされた。同年の春季リーグでは打率.500で首位打者を獲得した。 その後、社会人野球の強豪チームの星野組で荒巻淳らと共に都市対抗野球大会でプレーし、第19回都市対抗野球大会では本塁打2本を放ちこの大会チームは準優勝。永利は久慈賞を受賞した。 1948年に阪急ブレーブスに入団。1950年に宇高勲に引き抜かれ西日本パイレーツへ移籍となる。同年は開幕から5番・左翼手を務めたが、シーズン途中に関口清治と守備位置を交換し、3番・右翼手に定着した。
半谷 高久(はんや たかひさ、1920年12月8日 - 20… 半谷 高久(はんや たかひさ、1920年12月8日 - 2008年1月17日)は、日本の地球化学者。 福岡県門司市(現北九州市)出身。1942年東京帝国大学理学部化学科卒。1954年理学博士。名古屋大学助手、1950年旧・東京都立大学助教授、61年教授、84年定年退官、名誉教授。MV研究所長。1979年地球化学研究協会学術賞(三宅賞)受賞。委託により渡良瀬川や水俣の水質調査をおこなったが、その分析結果を公開しない官庁を批判した。
赤司 道雄(あかし みちお、1920年12月7日 - 199… 赤司 道雄(あかし みちお、1920年12月7日 - 1993年2月22日)は、日本の聖書学・宗教学者。立教大学名誉教授。 第一高等学校を経て、1943年東京帝国大学宗教学科卒、1952年東京大学大学院特別研究生修了、助手、1950-1952年シカゴ大学へ留学、1953年立教大学一般教育部助教授、教授。1965年「旧約聖書捕囚以後の思想史の研究 神の応報の問題をめぐって」で文学博士(東京大学)。1980年シカゴ大学併設ミドヴィル神学校名誉神学博士。1986年立教大学を定年退職。立教大学名誉教授。同仁自由キリスト教会牧師。 1993年2月22日、肝臓癌のため死去。
石内 展行(いしうち のぶゆき、1920年12月5日 - 2… 石内 展行(いしうち のぶゆき、1920年12月5日 - 2017年)は、日本の造園家。 兵庫県に生まれる(『都政人名鑑 1962年版』では山口県防府市出身とされる)。東京府立園芸学校(現・東京都立園芸高等学校)、日本大学高等工学校(日本大学理工学部・大学院理工学研究科)を経て、1938年に東京市に入庁した。 東京都自然公園課長、東京都多摩動物公園長、恩賜上野動物園長、東京都造園緑化業協会専務理事等を歴任した。 1991年秋の叙勲で勲四等旭日小綬章を受章。1993年、第15回日本公園緑地協会北村賞を受賞した。
角田 礼次郎(つのだ れいじろう、1920年12月4日-20… 角田 礼次郎(つのだ れいじろう、1920年12月4日-2020年11月17日 )は、日本の法律家。位階は正三位。 元最高裁判所判事、元内閣法制局長官。角田 禮次郎とも表記。 台湾総督府勤務の父親の任地である台湾の高雄で生まれ、1932年(昭和7年)まで同地に住んでいた。 第一高等学校を経て1944年(昭和19年)に東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入り、自治省から内閣法制局に。大平、鈴木、中曽根の三内閣にわたって内閣法制局長官を務めた。内閣法制局長官として憲法改正、閣僚靖国神社公式参拝、徴兵制違憲などについて政府統一見解を政府答弁書をまとめる中心的存在だった。 1975年3月18日、衆議院内閣委員会で内閣法制局第一部長として「昭和という元号は、法律上の基礎はなく、慣習として用いられている」「陛下に万一のことがあれば、昭和という元号がその瞬間に消え、空白の時代が始まる」と答弁した。
市橋 保雄(いちはし やすお、1920年〈大正9年〉12月3… 市橋 保雄(いちはし やすお、1920年〈大正9年〉12月3日 - 1984年〈昭和59年〉11月8日)は、日本の政治家。新潟県両津市(現・佐渡市)長(3期)。 新潟県出身。新潟県立佐渡中学校(現・新潟県立佐渡高等学校)を経て、1941年、東京外国語学校(現・東京外国語大学)卒。翌年、陸軍に入隊し、中尉で終戦を迎える。その後は県立新潟高等女学校(現・新潟県立新潟中央高等学校)教諭となり、1962年、両津市議会議員に当選し、4期務め、議長も務めた。1974年、両津市長に当選、1978年、1982年と続けて再選した。3回目の当選の翌年の1983年に市長を辞職した。 1984年(昭和59年)11月、肝硬変に肝不全を併発し死去した。
大植 武士(おおうえ たけし、1920年12月3日 - 19… 大植 武士(おおうえ たけし、1920年12月3日 - 1984年3月31日)は、日本の経営者。リコー社長を務めた。福井県出身。 1943年に神戸商科大学(現神戸大学)を卒業し、同年に湯浅電池に入社。1964年11月にリコーに転じ、常務に就任し、1968年5月に専務を経て、1976年10月に社長に就任した。 1984年3月31日、出張で福岡市に滞在中に心筋梗塞のために死去。63歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
浅沼 清太郎(あさぬま せいたろう、1920年〈大正9年〉1… 浅沼 清太郎(あさぬま せいたろう、1920年〈大正9年〉12月2日 - 2011年〈平成23年〉11月30日)は、日本の内務・警察官僚。警察庁長官。神奈川県出身。 旧制一高を経て東京帝大法学部を卒業後、内務省に入省し東京府属となる。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、1942年(昭和17年)9月、海軍経理学校に入学、1943年(昭和18年)1月に卒業し、海軍主計中尉に任官。1944年(昭和19年)5月、主計大尉に進み終戦を迎えた。 内閣総理大臣秘書官、警察庁長官官房長、大阪府警察本部長、警察庁警務局長、警察庁次長を経て、1974年(昭和49年)警察庁長官に就任。 1978年(昭和53年)に退官し、1979年(昭和54年)から1987年(昭和62年)まで阪神高速道路公団理事長。
糸井 貫二(いとい かんじ、1920年〈大正9年〉12月2日… 糸井 貫二(いとい かんじ、1920年〈大正9年〉12月2日 - 2021年〈令和3年〉12月19日)は、日本の前衛芸術家、ハプニング・アーティスト、ダダイスト。日本のハプニング・アートの元祖。1964年東京オリンピックや1970年大阪万博といった高度経済成長の最中に、路上で裸体を用いたハプニングをゲリラ的に行った。長年美術界から黙殺され、記録資料が乏しいこともあり、しばしば「伝説」と称される。通称、ダダカン。映画監督の小田基義は従兄。元東北放送アナウンサーの天野清子は妹。 1920年、東京府豊多摩郡淀橋町(現在の西新宿)に生まれる。1923年の関東大震災で被災。少年期は祖母や叔母の影響で宗教に親しみ、小学校時代にキリスト教の洗礼を受けた。
東条 寿三郎(とうじょう じゅさぶろう、1920年12月1日… 東条 寿三郎(とうじょう じゅさぶろう、1920年12月1日 - 2003年11月26日)は福島県出身の作詞家。 法政大学卒業後、1950年にキングレコード専属作詞家となり、代表作は1951年に津村謙が歌唱した「上海帰りのリル」。「リル リル…誰かリルを知らないか」のフレーズが大流行した。主に渡久地政信・吉田矢健治とコンビを組み、主な作品は他に「雨降る街角」「吹けば飛ぶよな」「星屑の町」などがある。 2003年11月26日午前2時55分、老衰のため千葉県柏市の病院で死去。享年82。
石神 忠真郎(いしがみ ただまろ、Peter Baptist… 石神 忠真郎(いしがみ ただまろ、Peter Baptist Tadamaro Ishigami, O.F.M. Cap., 1920年12月1日 - 2014年10月25日)は、日本のカトリック教会聖職者でカトリック那覇教区初代司教。カプチン・フランシスコ修道会員で、洗礼名は「ペトロ・バプティスタ」。 鹿児島県の奄美大島笠利村(現奄美市笠利町)で生まれる。福岡と東京の神学校で学んでいたが、1944年に戦地に赴き、戦後は奄美大島でカテキスタをしていた。1947年9月14日に、奄美大島名瀬港でカプチン・フランシスコ会宣教師フェリックス・レイ神父とオーバン・バルトルドス神父に遭遇。ラテン語で「エゴ スム セミナリウス(わたしは、神学生です)と自己紹介し、その後2人の神父の司牧の手伝いをしていた。
横山 桂次(よこやま けいじ、1920年11月30日-200… 横山 桂次(よこやま けいじ、1920年11月30日-2008年12月19日)は、日本の政治学者。中央大学名誉教授。高岡法科大学学長。神奈川県横浜市出身。
長島 公佑(ながしま こうすけ、1920年11月30日 - … 長島 公佑(ながしま こうすけ、1920年11月30日 - 2003年11月19日)は、日本の実業家。長島商事創業者。鹿児島県唯一の遊園地であったジャングルパーク遊園地や長島美術館などを建設した。 鹿児島県大島郡喜界町羽里出身。1951年10月、長島商事を設立。1960年には指宿市で熱帯植物の育成販売業開始した(現、長島植物園)。1970年、鹿児島市与次郎に国際ジャングルパークを建設した。1971年12月、かごしま熱帯植物園を隣接地に開園した。 1985年4月、財団法人長島文化財団を設立する。故郷の喜界町に2億2千万円を寄付し、1985年4月に喜界町図書館が開館された。1989年に現在の武三丁目に長島美術館を建設し、長年収集してきた美術品を公開した。
天辰 祐之郎(あまたつ ゆうしろう、1920年11月29日 … 天辰 祐之郎(あまたつ ゆうしろう、1920年11月29日 - 1996年11月8日)は、日本の経営者。現在の鹿児島県薩摩川内市出身。 1944年に水産講習所を卒業し、1945年11月に西大洋漁業統制(のちの大洋漁業)に入社。1972年3月に取締役に就任し、1973年10月に常務、1978年4月に専務、1981年4月に副社長、1986年4月に会長を経て、1987年2月に社長に就任。1989年6月に会長を経て、1990年6月から相談役を務めた。 1994年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1996年11月8日肝硬変のために死去。75歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
宮城 信勇(みやぎ しんゆう、1920年11月28日 - 2… 宮城 信勇(みやぎ しんゆう、1920年11月28日 - 2019年9月16日)は、沖縄県出身の八重山方言研究家、郷土史家。石垣市名誉市民。 1920年11月28日、沖縄県八重山郡石垣町(現在の石垣市)新川で生まれる。母は『八重山生活誌』で第1回伊波普猷賞を受賞した宮城文。 九州帝国大学法文学部を卒業。教員を経て、八重山群島政府文教部長、八重山地区教育長、琉球政府企画局長、沖縄電力取締役等を歴任。 定年後の1976年、母とともに石垣方言の研究をはじめ、翌1977年に『八重山ことわざ事典』を出版。2003年には、1万7千語余りを収録する『石垣方言辞典』を完成させた。1993年に東恩納寛惇賞、2016年に伊波普猷賞、2020年に吉川英治文化賞を受賞。
太田 正己(おおた まさみ、1920年 〈大正9年〉11月2… 太田 正己(おおた まさみ、1920年 〈大正9年〉11月28日 - 2004年〈平成16年〉1月24日)は、日本の外交官。OECD環境委員会議長、駐ケニア特命全権大使兼国連環境計画政府代表、外務省参与兼ユネスコ執行委員会委員・政府代表などを務めた。 1942年東京商科大学(現一橋大学)卒業、外務省入省。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。1944年5月に海軍主計大尉に進み終戦を迎えた。 1946年終戦連絡中央事務局総裁官房連絡官。1949年外務省総務局経済課外交官補。 1951年外務省条約局条約課外務事務官。
今西 晃(いまにし あきら、1920年11月27日 - 20… 今西 晃(いまにし あきら、1920年11月27日 - 2007年3月29日)は、日本の実業家。丸美屋食品工業社長。 岐阜県出身。旧制豊橋中学(のちの愛知県立時習館高等学校)を経て、旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業[要出典]。 1962年丸美屋食品工業入社。1966年に資金難に陥り三井物産と国内総代理店契約を締結し資金援助を受け、4年後に完済。ふりかけトップの丸美屋を、1978年にふりかけに参入した永谷園が追い上げてくる中、需要層の9割を占める中学生以下の子供向けに「Dr.スランプふりかけ」、「忍者ハットリくんふりかけ」、「ドラゴンボールふりかけ」のほか、大人向けふりかけ「是はうまい」、学校給食向け「いわしくん」などを販売し、首位攻防戦を展開する。