洪 翼杓(ホン・イクピョ、韓国語: 홍익표、1967年11月… 洪 翼杓(ホン・イクピョ、韓国語: 홍익표、1967年11月20日 - )は、韓国の政治家。第19・20・21代韓国国会議員、共に民主党院内代表を歴任した。本貫は南陽洪氏。 冠岳高等学校、漢陽大学校政治外交学科卒。同大学院政治学修士、政治学博士。 対外経済政策研究院専門研究員、ウリギョレ一つになる運動本部政策諮問委員、日本東北アジア経済研究所客員研究員、統一部政策補佐官、北韓大学院大学校兼任教授、仁川広域市南北交流協力委員会委員を歴任した。2012年の第19代総選挙で当選した以降は国会外交統一委員会委員、民主統合党戦略企画委員会委員長、民主党院内副代表、民主党院内スポークスマンを歴任した。 2023年9月の李在明逮捕同意案に造反者が出た事態において、朴洸瑥院内代表が辞任したことにより、「親明系」の洪が新しい院内代表に選出された。
李 林学(リー・リムハク、ハングル: 이임학; ハンチャ: … 李 林学(リー・リムハク、ハングル: 이임학; ハンチャ: 李林學、英: Rimhak Ree, Im-hak Ree、 (1922-12-18) 1922年12月18日 – 2005年1月9日(2005-01-09))は、韓国・カナダの数学者である。群論を研究した。李群(英語版)の概念で著名である (Ree 1960, 1961) 。 日本統治時代の朝鮮の咸興で初等教育を受けた。咸興第一公立普通学校に通い、1934年に咸興公立高等普通学校に入学した。京城帝国大学に進学し物理学を専攻した。1944年に大学を卒業し、満洲国奉天市(中華人民共和国遼寧省瀋陽市)にあった朴興植の朝鮮飛行機工業株式会社(朝鮮語版)で働いた。
申 鉉碻(シン・ヒョンファク、シン・ヒョナク、しん けんかく… 申 鉉碻(シン・ヒョンファク、シン・ヒョナク、しん けんかく、1920年12月29日 - 2007年4月26日)は大韓民国の政治家、実業家。本貫は平山申氏。創氏改名時の日本名は平林佑國、号は于湖(ウホ、우호)。 元国務総理室政策次長の申喆湜(朝鮮語版)は1人息子。 慶尚北道漆谷郡出身。大邱高等普通学校から京城帝国大学を経て、1943年に高等文官試験に合格して農商務省に入省し、商務系官僚を務めた。終戦時は軍需省の軍需管理官として働いた。 韓国独立後は、大邱大学校教授を経て1951年に商工部工業局工程課長として官界に復帰し、商工部電気局・鉱務局・工業局局長を務めた。1957年には復興部次官兼外資庁長官代理となり、1959年に復興部長官となるが、四月革命で逮捕され官界を追放。
柴田 平(しばた たいら、1920年1月7日 - 2004年… 柴田 平(しばた たいら、1920年1月7日 - 2004年4月10日)は、日本の経営者。西松建設社長を務めた。 富山県出身。1944年に京城帝国大学理工学部を卒業し、同年に西松組(のちの西松建設)に入社。1973年5月に取締役に就任し、1976年6月に常務、1977年6月に専務を経て、1979年6月に副社長に就任し、1983年6月には社長に昇格。1995年6月に会長を経て、2001年6月には最高顧問に就任。 1983年11月に藍綬褒章を受章。 2004年4月10日に肺炎のために死去。84歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
石原 清志(いしはら きよし、1919年6月18日 - 19… 石原 清志(いしはら きよし、1919年6月18日 - 1999年12月21日)は、日本の国文学者。 岡山県岡山市生まれ。1943年京城帝国大学法文学部卒。1963年大阪市立大学大学院博士課程満期退学。1980年「釈教歌の研究」で大阪市立大学より文学博士の学位を取得。龍谷大学文学部助教授、教授、1988年退任、名誉教授、神戸女子大学教授。中世和歌が専門。 1999年、脳内出血のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
洪 璡基(ホン・ジンギ、朝鮮語: 홍진기、1917年3月13… 洪 璡基(ホン・ジンギ、朝鮮語: 홍진기、1917年3月13日 - 1986年7月13日)は、韓国の実業家、政治家。 本貫は南陽洪氏。号は維民(ユミン、유민)。日本名は徳山 進一。1940年に京城帝国大学法文学部法学科で学士号を取得して、その年の日本の高等文官試験に合格した。 李承晩政権に加わった後、洪璡基は1954年に法務部副長官、1958年に法務部長官を務め、1960年に内務部長官に就任した。1960年6月15日、尹潽善(第4代大統領)と張勉(第2代国務総理)が率いる第二共和国は、新憲法によって発足した。第二共和国発足の際、経済情勢には多くの問題があり、最終的には国家再建最高会議の下で軍事政権によって終結した。
泉 靖一(いずみ せいいち、1915年6月3日 - 1970… 泉 靖一(いずみ せいいち、1915年6月3日 - 1970年11月15日)は、日本の文化人類学者。東京大学東洋文化研究所教授。専門は文化人類学。 1915年、東京府雑司ヶ谷で政治経済学者の父・泉哲、母・ハツヨの長男として出生。本籍地は北海道夕張郡角田村(栗山町の前身)。東京市青柳尋常小学校に入学したが、4年次に豊島師範学校付属小学校に転入。6年次の時に朝鮮半島に渡り、京城府公立東大門尋常小学校に転入。京城公立中学校、京城帝国大学予科を経て、京城帝国大学法文学部に進学。当初は文学科所属であったが、のち哲学科に転科し、卒業。 卒業後は、京城帝国大学法文学部助手に採用された。その後、同大学理工学部助手兼書記、同大学学生主事補、同大学大陸資源科学研究所嘱託を務めた。
嶋崎 昌(しまざき あきら、1914年9月24日 - 197… 嶋崎 昌(しまざき あきら、1914年9月24日 - 1974年3月3日)は、昭和時代の歴史学者。元中央大学学長。専門は、中央アジア史。特に高昌国史を研究。 1914年、富山県上新川郡島村(現・富山市)で生まれた。幼くして小学校教諭の父の転勤に伴い、朝鮮半島で育った。1934年3月、京城帝國大学予科を卒業。京城帝国大学法文学部史学科に進学し、1937年3月に卒業。 1937年4月、京城帝国大学法文学部助手に採用された。その際の指導教授は大谷勝真であった。その後、北京の中央亜細亜協会調査員として勤務。1944年に赤紙招集に伴い、邯鄲に拠点を置いた独立混成第1旅団に入隊。1946年に復員。 1947年6月、明星中学校に教諭として勤務。
橋本 正之(はしもと まさゆき、1912年〈大正元年〉12月… 橋本 正之(はしもと まさゆき、1912年〈大正元年〉12月16日 - 1976年〈昭和51年〉9月9日)は、日本の政治家。位階は従三位。 山口県知事(公選第5・6・7・8代)、衆議院議員(1期)を歴任した。山口県下松市笠戸島出身。
李 道栄(イ・ドヨン、朝鮮語: 이도영/李道榮、1912年ま… 李 道栄(イ・ドヨン、朝鮮語: 이도영/李道榮、1912年または1913年5月1日または1914年5月1日 - 1973年6月22日)は、大韓民国の実業家、政治家。第2代韓国国会議員。 本貫は延安李氏、号は文軒。2024年時点で弘益学園理事長を務めていた李勉栄は6親等の再従弟。 京城(現・ソウル)または忠清北道清原郡(現・清州市)出身。景福中学校を経て1932年京城第二高等普通学校卒。1934年京城帝国大学予科修了、1938年同大法文学部法科卒。 京城紡織株式会社業務課長・工場長を経て、1946年以降は忠北新報社長、一信(または一新)産業社長、南韓興産社長、朝鮮農薬社長、東洋滑石鉱業社長、南韓製糸代表取締役、太陽日報理事、国民日報理事、韓国遠洋漁業社長などを歴任し、1955年に韓国貿易協会理事、1957年に南韓製紙理事、1962年に大韓商工会議所副会長、1963年に韓国生産性本部副会長、大韓鉱業協会副会長、1964年に韓国輸出産業公団理事、全国経済人連合会理事、1965年に韓国製紙工業連合会理事を務めた。
林 学洙(イム・ハクス、朝鮮語: 임학수、1911年7月3日… 林 学洙(イム・ハクス、朝鮮語: 임학수、1911年7月3日 - 1982年6月21日)は、日本統治時代の朝鮮及び朝鮮民主主義人民共和国の詩人。 号は岳伊(アギ、악이)。本籍は全羅南道順天市金谷洞。本名は林 岳伊(イム・アギ、임악이)。ただし、系図には林 栄沢(イム・ヨンテク、임영택/林榮澤)と記載されており、そのほか別名は林 乃洪(イム・ネホン)である。 全羅南道順天市出身。京城第一高等普通学校(現・京畿高等学校)を経て京城帝国大学英文科卒業。 以後、培花女子高等学校などで教員を務めながら詩作。ホメーロスの『イーリアス』を韓国に初めて紹介するなど、翻訳文学者としても活動した。また、朝鮮文人協会の発起人と幹事を務め、戦線への慰問に参加した。
池田 勝(いけだ まさる、1911年3月2日 - 没年不明)… 池田 勝(いけだ まさる、1911年3月2日 - 没年不明)は日本の教育者。 熊本県荒尾市に生まれる。熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校、1928年卒業)を経て、京城帝国大学法文学部を卒業した。 卒業後は朝鮮・全州師範学校教諭となる。戦後は母校である玉名高等学校の教諭を務めた後、熊本県教育委員会指導委員となる。その後教職に復帰し、熊本県立荒尾高等学校(1956年着任)・熊本県立宇土高等学校(1960年着任)・熊本県立第一高等学校・熊本県立鹿本高等学校で校長を歴任した。荒尾高等学校長就任は、生徒のストーム事件の事後処理がその理由だった。熊本県教育委員会では指導室長も務めている。
李 孝石(イ・ヒョソク、1907年2月23日 - 1942年… 李 孝石(イ・ヒョソク、1907年2月23日 - 1942年5月25日)は朝鮮の小説家。本貫は全州。号は可山。兪鎮午に「小説の形式で詩を吟じた作家」と評され、郷土の美しさを詩のような流れる文筆で描いた。その代表作が『ソバの花咲く頃(메밀 꽃 필 무렵)』である。 1907年2月23日、江原道平昌郡蓬坪面倉洞2区南安洞681番地に1男3女の長男として生まれる。父の李始厚は漢城師範学校出身で、京城で教鞭を執っていた。母、康洪敬は珍富の聖潔教会の功労者として知られていた。父の仕事のため、一時京城に住むも、5歳のときに再び故郷に戻り、私塾で漢学を学んだ。非常に物覚えのよい李は村人から神童と呼ばれるほどであった。
兪 鎮午(ゆ ちんご、ユ・ジノ、1906年5月13日 - 1… 兪 鎮午(ゆ ちんご、ユ・ジノ、1906年5月13日 - 1987年8月30日)は、日本統治時代の朝鮮と大韓民国の小説家、法学者、教育者、政治家。号は玄民。初期はプロレタリア作家、中期は純粋文学、そして後期は親日派として時代に翻弄された[疑問点 – ノート]。解放後は、韓国において法学者、政治家として活動した。大韓民国憲法の起草者でもある。 1906年5月13日、ソウル嘉会坊斉洞に生まれる。杞渓兪氏(朝鮮語版)。1914年、斉洞公立普通学校に入学、1919年、京城高等普通学校に入学し、教育を受ける。京城高等普通学校を卒業後、1924年、京城帝国大学予科に入学する。この年、朝鮮人学生団体「文友会」を組織し、機関紙『文友』の発刊に携わった。
小竹 武夫(おだけ たけお、1905年9月3日 - 1982… 小竹 武夫(おだけ たけお、1905年9月3日 - 1982年5月2日)は、日本の中国文学者。石川県金沢市生まれ。京城帝国大学卒。兄の小竹文夫とともに『史記』を現代語訳し、ついで単独で『漢書』を全訳、1978年中日文化賞、1980年読売文学賞を受賞した。金沢美術工芸大学教授などを務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
黒田 嘉一郎(くろだ かいちろう、1905年(明治38年)8… 黒田 嘉一郎(くろだ かいちろう、1905年(明治38年)8月13日 - 1988年(昭和63年)5月13日)は、日本の医学者。息子は徳島大学医学部教授の黒田泰弘。 京城帝国大学を卒業。京城帝国大学助教授、三井産業医学研究所医化学部長を務めた後、1950年に徳島医科大学(現徳島大学)教授、1959年医学部長、1971年徳島文理大学学長を歴任。 1975年に坂口あさと共に第1回徳島県文化賞を受賞。1976年勲三等旭日中綬章受章。徳島ペンクラブや四国文芸協議会では理事や会長を務めた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
成 楽緒(ソン・ナクソ、朝鮮語: 성낙서/成樂緖、1905年… 成 楽緒(ソン・ナクソ、朝鮮語: 성낙서/成樂緖、1905年6月23日 - 1988年11月24日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の儒学者、教育者、政治家、実業家。制憲韓国国会議員、忠清南道知事を歴任した。 本貫は昌寧成氏(朝鮮語版)。号は芸庭(운정)。 忠清南道公州郡出身。漢学修学を経て公州普通学校、京城第1高等普通学校卒。京城帝国大学予科修了、1930年に同大法文学部朝鮮史学科卒。1930年に中央仏教専門学校教授、1932年に梨花女子専門学校教授、1943年に朝鮮音楽書籍編纂委員、京城以保合名会社重役、京城東英機工社代表、光復軍予備隊組織者、建国準備委員会忠南支部連絡部長、忠南教育協会会長、普門中学校設立者・初代校長、忠南労働調整委員、大韓独立促成国民会忠清南道協会副会長・大田支部長・中央執行委員、国学大学教務処長(1946年)、忠清南道労働調停委員、韓国民族代表外交使節大田後援会会長、反託闘争委員会副委員長、成均館大学学監、制憲国会議員(1948年)、忠清南道知事(1952年)、忠南大学校総長署理、忠清南道郷校財団理事長(1955年)、大韓赤十字社忠清南道支社長(1966年)、成均館理事長(1968年)、成均館長(1970年)、韓国儒林代表、韓国孔子学会長(1980年)を務めた。
李 周衡(イ・ジュヒョン、朝鮮語: 이주형、1905年または… 李 周衡(イ・ジュヒョン、朝鮮語: 이주형、1905年または1906年1月6日 - 1951年8月)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、政治家。制憲韓国国会議員。 慶尚南道密陽郡出身。徽文高等普通学校(現・徽文高等学校)、京城帝国大学予科・法文学部史学科卒。普成中学校教員、木浦高等女学校校長、馬山中学校校長、密陽中学校校長を経て、私立正進学校を経営したが、戦中に廃校された。光復後は慶尚南道米軍政顧問、独促国民会密陽郡支部長、過政立法議院議員、密陽中学校創設者・校長、国会議員を務めた。朝鮮戦争の際北朝鮮に拉致された。 1962年4月28日の東亜日報の連載によると、1951年6月の原因不明の伝染病にかかった後、同年8月下旬ごろに平壌付近で死去した。
李 在鶴(イ・ジェハク、朝鮮語: 이재학、1904年5月30… 李 在鶴(イ・ジェハク、朝鮮語: 이재학、1904年5月30日または5月31日 - 1973年11月23日)は、日本統治時代の朝鮮の官僚、大韓民国の官僚、政治家。丹陽郡守、制憲・第2・3・4・5代韓国国会議員を歴任し、第3・4代議員在任中は国会副議長を務めた。 本貫は原州李氏。号は東恩。妻は李正守(朝鮮語版)、元国会議員の李教善(朝鮮語版)と李応善(朝鮮語版)は息子。 江原道洪川郡西面出身。1924年に京城第1高等普通学校(現・京畿高等学校)を卒業し、1929年京城帝国大学(現・ソウル大学校)法文学部卒。1938年から忠清北道学務課嘱託・視学・社会課長を務め、1944年に丹陽郡守となった。 光復後は江原道学務局長・警務局長・内務局長・知事代理・知事署理、春川農業大学(現・江原大学校)学長を経て、1948年の初代総選挙で国会議員に当選した。
崔 丙柱(チェ・ビョンジュ、朝鮮語: 최병주、1903年10… 崔 丙柱(チェ・ビョンジュ、朝鮮語: 최병주、1903年10月25日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の法曹、政治家。第2代韓国国会議員。 全羅北道扶安郡幸安面出身。京城帝国大学法学部卒、高等文官試験司法科合格。以後は大法官、弁護士を務めた。1950年の第2代総選挙では扶安郡選挙区から無所属で出馬して当選し、国会議員を1期務めた。 しかし、同年の朝鮮戦争中に拉致された。妻による失郷私民申告書によると、1950年7月中旬ごろに全羅北道で北朝鮮側の関係者に拉致され、拘束中に通訳などをさせられていたということが伝わっている。その後は弟からも同書が提出された。1956年7月、在北平和統一促進協議会中央委員を務める。
板野 道夫(いたの みちお、1902年(明治35年)11月2… 板野 道夫(いたの みちお、1902年(明治35年)11月21日 - 1969年(昭和44年)3月28日 )は、日本の実業家。関西配電取締役を経て関西電力常務取締役となり、オーム社理事も務めた。大阪陶業(現:日本ネットワークサポート)代表取締役・会長。岡山県総社市出身。 1902年(明治35年)岡山県吉備郡秦村(現:総社市秦)の板野柳一の長男として出生。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。同期には、京城帝国大学教授となる森谷克己がいた。1921年(大正10年)同校を卒業し、第六高等学校文科乙類へ進学する。森谷と同じクラスであった。1924年(大正13年)同校を卒業し、森谷は東大法学部へ、板野は京都帝国大学法学部へそれぞれ進学した。
山口 正之(やまぐち まさゆき、1901年2月26日 - 1… 山口 正之(やまぐち まさゆき、1901年2月26日 - 1964年10月22日[要出典])は、日本の歴史学者。 福岡県三潴郡城島町(現・久留米市)出身。明善中等学校、佐賀高等学校卒、1929年京城帝国大学法文学部史学科卒。平壌高等女学校教諭。1931年京城中学校教諭。1933年李正職編修官兼務。1945年日本へ帰国。1947年滋賀県大津高等女学校教諭。1949年大津市教育委員会教育長。1956年滋賀県立甲賀高等学校長。1958年滋賀県立虎姫高等学校長。1960年彦根市教育委員会教育長。1964年退職。 教職のかたわら、日本キリシタン史などの著作をものした。
金 鍾烈(キム・ジョンヨル、朝鮮語: 김종열、1900年また… 金 鍾烈(キム・ジョンヨル、朝鮮語: 김종열、1900年または1901年2月28日 - 1985年5月29日)は、大韓民国の裁判官、政治家、弁護士。第2代韓国国会議員。 キム・ジョンニョル(김종렬)とも表記される。キリスト教徒。 忠南大田(現・大田広域市)出身。京城帝国大学(現・ソウル大学校)法文学部法科卒。清州地方法院判事、大田地方法院判事、第2代国会民議院法制司法委員会委員、大韓労総法律顧問、法務部秘書官を務めた。 1985年5月29日、ソウル市江南区の自宅で老衰により死去。享年84。 1950年の第2代国会第8回第51次本会議において、日程が急であるため、緊急議案を議事日程への掲載ができなかったことや印刷物を配布できなかったことについて、壇上で謝罪し弁解した。
小川 蕃(おがわ しげし、1891年〈明治24年〉10月14… 小川 蕃(おがわ しげし、1891年〈明治24年〉10月14日 - 1939年〈昭和14年〉9月1日)は、日本の外科学者、外科医。医学博士。京城帝国大学医学部外科学教室外科学第二講座初代教授。朝鮮医学界に大きな貢献をした。 新潟県中蒲原郡津島村大字古津(現 新潟市秋葉区古津)において津島村村長・小川重綽の五男として出生。 1909年(明治42年)3月に新潟中学校を卒業、1913年(大正2年)7月に第二高等学校を卒業、1917年(大正6年)12月に東京帝国大学医科大学医学科を卒業。 東京帝国大学医科大学外科学教室外科学第二講座(担任:近藤次繁教授)副手に就任、1919年(大正8年)12月から神戸三菱造船所病院に勤務、1921年(大正10年)3月に朝鮮総督府医院医官に就任、6月から京城医学専門学校教授を兼任。
広瀬 続(ひろせ つづく)は、日本の教育者、官僚。 熊本県に… 広瀬 続(ひろせ つづく)は、日本の教育者、官僚。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校、1923年卒業)、広島高等師範学校第二教員養成所を経て、京城帝国大学法文学部を卒業した。 山梨県立日川中学校教諭などを歴任後、朝鮮総督府に入り、総督府警務局編修官となる。 太平洋戦争中は従軍した。戦後は郷里である熊本に引き上げ、母校である玉名高校で教諭や教頭を歴任した。