スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
大椿 裕子(おおつばき ゆうこ、1973年〈昭和48年〉8月… 大椿 裕子(おおつばき ゆうこ、1973年〈昭和48年〉8月14日 - )は、日本の政治家、労働運動家。 参議院議員(1期)、社会民主党副党首、大阪教育合同労働組合執行委員長を歴任。既婚者であり、配偶者はバルセロナ出身のカタルーニャ人。 岡山県高梁市生まれ。岡山県立高梁高等学校、四国学院大学社会学部社会福祉学科卒業後、四国で非正規雇用を掛け持ちしながら暮らす。この間、社会福祉士と保育士の資格を取得。 2002年にフィリピン・ネグロス島で遊学。姉が住んでいた神戸市に移り、2004年からNPO法人被災地障害者センターで務める。 2006年、関西学院大学に上限4年の有期雇用で障害学生支援コーディネーターとして就職する。
石田 芳生(いしだ よしお、1966年〈昭和41年〉7月22… 石田 芳生(いしだ よしお、1966年〈昭和41年〉7月22日 - )は、日本の政治家。高梁市市議会議員(3期)、岡山県高梁市長(1期)。 岡山県出身。岡山県立高梁高等学校を経て、広島大学法学部卒業。卒業後は土地家屋調査士事務所に勤務し、2012年の高梁市議会議員選挙で初当選。3期目の2022年10月から2024年8月まで議長を務めた。 2024年8月に高梁市長選挙への立候補を表明、選挙戦では、市の財政を見直して給食費を無償化することや市街地に公園を整備することなどを有権者に訴えた。9月30日の投開票で現職で5期目を目指していた近藤隆則を破って初当選した。当選後のインタビューでは、厳しい財政状況であるからこそ、市民目線での財政の見直し、説明責任をしっかりと果たしていく必要があると述べた。
中島 俊治(なかしま しゅんじ、1963年〈昭和37年〉 -… 中島 俊治(なかしま しゅんじ、1963年〈昭和37年〉 - )は、日本のプログラマーであり、教育者でもある。ベクター企画副部長、ジョインベスト証券エグゼクティブマネージャーを経て、サイバー大学教授を務める。岡山県高梁市出身。 1963年(昭和37年)に岡山県高梁市に生れる。その後、地元の岡山県立高梁高等学校へ進学する。同期には、クリヤマホールディングス社長になる能勢広宣がいる。部活は、電気部と音楽部に所属し、それぞれ部長を務めていた。1981年(昭和56年)同校を卒業する。この後、広島県で郵政省関係の仕事を行っていた。その頃、まだ珍しかったインターネットを中島は日頃から使用しており、この経験が後の人生に大きな影響を与える。
能勢 広宣(のせ ひろのぶ、1962年(昭和37年)9月16… 能勢 広宣(のせ ひろのぶ、1962年(昭和37年)9月16日 - )は、日本の実業家である。クリヤマジャパンの代表取締役社長、クリヤマホールディングス代表取締役CEOを務めた。その後、タケックスラボ取締役を務める。岡山県総社市出身。 1956年(昭和21年)岡山県総社市に出生する。地元に近い岡山県立高梁高等学校へ進学し、同期には、サイバー大学教授となる中島俊治がいる。1981年(昭和56年)同校を卒業する。その後、立命館大学経営学部へ進学し、1986年(昭和61年)3月、同校を卒業する。 大学卒業後、ゴム合成樹脂の製品販売を行うクリヤマ株式会社へ入社する。商品開発部署へ配属され、2005年(平成17年)4月、商品開発本部副本部長となる。
和田 佐規子(わだ さきこ、旧姓:藤井、1961年(昭和36… 和田 佐規子(わだ さきこ、旧姓:藤井、1961年(昭和36年)6月 - )は、日本の教育者であり、比較文学者である。二松学舎大学、江戸川大学、神奈川大学の非常勤講師を勤める傍ら、海外書籍の翻訳家として執筆している。岡山県吉備中央町出身。 1961年(昭和36年)岡山県吉備中央町の藤井家に出生する。1977年地元に近い、岡山県立高梁高等学校へ進学した。2個上の先輩に高梁高校から同じく東大へ進学し国立がん研究センター研究所長となる間野博行がいる。1980年(昭和55年)に同校を卒業。同年東京大学文科一類へ進学し、1984年(昭和59年)東京大学法学部を卒業する[要出典]。その後、同年、東京大学大学院総合文化研究科の修士課程に進学するが、1年目を終えたところで、西ドイツへ渡りその後、ミュンヘンで結婚し大学院を中退する。
間野 博行(まの ひろゆき、1959年6月1日-)は、日本の… 間野 博行(まの ひろゆき、1959年6月1日-)は、日本の医師・医学者。国立がん研究センター理事長、がんゲノム情報管理センター長。肺がん原因遺伝子EML4-ALKの発見で知られる。岡山県高梁市出身。
近藤 隆則(こんどう たかのり、1959年(昭和34年)2月… 近藤 隆則(こんどう たかのり、1959年(昭和34年)2月1日 - )は、日本の政治家。元岡山県高梁市長(4期)。 岡山県高梁市出身。岡山県立高梁高等学校を経て、1981年(昭和56年)3月、岡山大学工学部卒業。同年4月、高梁市役所に採用される。1996年(平成8年)4月、総務部総務課財政係長に就任。2008年(平成20年)4月、産業経済部商工観光課長に就任。同年9月、退職。 同年9月28日に行われた高梁市長選挙に出馬し初当選。10月24日に市長就任。現在4期目。 2014年(平成26年)9月28日、スピード違反で検挙される。当時高梁市は秋の交通安全県民運動のさなかであった(9月21日-30日開催)。
沼田 伸彦(ぬまた のぶひこ、1956年3月24日 - )は… 沼田 伸彦(ぬまた のぶひこ、1956年3月24日 - )は、日本のジャーナリスト、実業家である。神戸新聞社へ入社し、デイリースポーツ記者を勤め、神戸新聞取締役・デイリースポーツ社長となった後、兵庫県のテレビ局・サンテレビジョン第13代社長を務めた。岡山県真庭市出身。 1956年(昭和21年)岡山県上房郡北房町(現:真庭市)に生まれる。1971年(昭和46年)、地元に近い岡山県立高梁高等学校へ入学する。同期には、漫画家の平松伸二がいた。1974年(昭和49年)高梁高校を卒業後、生まれ育った岡山県を離れ、京都で1年間の浪人生活を送る。その後、大阪大学文学部へ進学する。1979年(昭和54年)3月、同大学を卒業し、神戸新聞社に入社しデイリースポーツ記者を務める。
平松 伸二(ひらまつ しんじ、1955年8月22日 - )は… 平松 伸二(ひらまつ しんじ、1955年8月22日 - )は、日本の漫画家。岡山県高梁市出身、東京都葛飾区柴又在住。血液型はO型。代表作に『ドーベルマン刑事』『ブラック・エンジェルズ』『マーダーライセンス牙』など。妻は漫画原作者の安江うに。日本漫画家協会・参与。 中学生の頃から漫画を描き始める。岡山県立高梁高等学校1年生の時に描いた『勝負』(『週刊少年ジャンプ』1971年50号掲載)でデビュー。在学中に5~6本の読み切りが載り、編集者である後藤広喜にスカウトされて上京。中島徳博のアシスタントとして働いたのち、1974年『ドーベルマン刑事』で連載デビュー。 法で裁けない悪党・外道を徹底的に叩き潰す主人公たちの活躍を描いた作品が多い一方、『リッキー台風』(プロレス)や『どす恋ジゴロ』(相撲)といった格闘技漫画も少なからず描いており、両作品ともセクシー描写が多く導入されている。
山本 雅則(やまもと まさのり、1955年〈昭和30年〉 -… 山本 雅則(やまもと まさのり、1955年〈昭和30年〉 - )は、日本の政治家、元地方公務員。岡山県加賀郡吉備中央町長(4期)。 岡山県御津郡加茂川町(現・吉備中央町)出身。岡山県立高梁高等学校を経て、愛知学院大学商学部を卒業。 大学卒業後の1979年(昭和54年)4月、加茂川町役場に入職。2004年の合併による吉備中央町発足後は、協働推進課長や参事、企画課長などを歴任した。2011年(平成23年)6月に吉備中央町の副町長に就任。 2012年(平成24年)9月、当時の町長(重森計一)の死去に伴う吉備中央町長選挙に無所属で立候補。新人同士の三つ巴の選挙戦を制し、初当選を果たした(山本:4,188票、他候補:2,886票、1,879票)。
島谷 弘幸(しまたに ひろゆき、1953年(昭和28年)11… 島谷 弘幸(しまたに ひろゆき、1953年(昭和28年)11月26日- )は、日本の古美術研究者、文化人である。九州国立博物館館長を務めた後、国立文化財機構理事長。岡山県高梁市出身。 1953年(昭和28年)岡山県高梁市に生まれる。地元の岡山県立高梁高等学校へ進学し、1972年(昭和47年)に同校を卒業する。同年東京教育大学(現・筑波大学)教育学部芸術学科に入学。古筆学を専攻し、小松茂美に師事した。1976年に同大学卒業を経て、1979年、山梨英和短期大学講師となり、1984年(昭和59年)に東京国立博物館学芸部美術課書跡室研究員となった。 1994年(平成6年)41歳の時に学芸部美術課書跡室長となり、その後、2001年に学芸部資料課長へ昇進した。
土井 康作(どい こうさく、1953年(昭和28年)- )は… 土井 康作(どい こうさく、1953年(昭和28年)- )は、教育学者である。鳥取大学地域学部教授を務めた後、鳥取大学名誉教授となる。この他、日本産業教育学会・元理事、ものづくり文化振興協会理事長も務める。岡山県高梁市出身。 1953年(昭和28年)岡山県高梁市に生まれる。幼少期は活発であり、よく田圃でチャンバラなどをしていた。また、刃物で遊び道具やおもちゃ等もつくるなど手先が器用であった。この幼少期の田舎での体験が後に半世紀以上長くものづくりに携わる礎となった。その後、地元の岡山県立高梁高等学校へ進学し、1971年(昭和46年)に同校を卒業し、同年福岡教育大学教育学部に入学した。1975年に同大学卒業を経て、東京学芸大学大学院へ進学。
石井 博康(いしい ひろやす、1952年(昭和27年)- )… 石井 博康(いしい ひろやす、1952年(昭和27年)- )は、日本の画家であり、教育者でもある。東北芸術工科大学教授を務めた後、同大学副学長となる。東北芸術工科大学名誉教授。岡山県高梁市出身。 1952年(昭和27年)岡山県高梁市に出生。地元の岡山県立高梁高等学校へ進学し美術部に所属する。1970年(昭和45年)に卒業し、東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻へ進学する。その後、同大学卒業を経て、東京芸術大学大学院学美術研究科油画専攻に進学し、1977年(昭和52年)同大学院を卒業する。 卒業後、油絵画家となった石井は、1979年(昭和54年)に東京のギャルリー・ヴィヴァン(現在は神奈川県へ移転)で初めての個展を開く。
蛭田 道夫(ひるた みちお、1951年(昭和26年) - )… 蛭田 道夫(ひるた みちお、1951年(昭和26年) - )は、日本の実業家である。元日本環境認証機構代表取締役。岡山県高梁市出身。 1951年(昭和26年)に岡山県上房郡有漢町上市(現:高梁市)の蛭田禎男の子として出生。1970年(昭和45年)に、岡山県立高梁高等学校を卒業を経て、名古屋工業大学工学部機械工学科へ入学。1974年(昭和49年)同大学を卒業し、三菱電機へ就職した。 三菱電機へ入社後、開発本部業務グループマネージャ、情報技術総合研究所計画部長を歴任。2004年より環境推進本部副本部長として環境経営を担当。同社では1993年から、3年ごとに「環境計画」を策定し、環境負荷の低減や環境経営に取り組んできた。
伊賀 章(いが あきら、1949年(昭和24年)1月5日- … 伊賀 章(いが あきら、1949年(昭和24年)1月5日- 2017年(平成29年))は、研究者、実業家である。ソニー入社後、非接触カード(FeliCa)フェリカを開発した。FeliCaは、iD決済やSuicaやPASMO等の交通系決済へ多く採用されている。入退場管理や公共交通機関のチケットをICカード化しデジタル化した。岡山県高梁市出身の技術者。 1949年(昭和24年)岡山県上房郡有漢町(現:高梁市)で出生する。1964年(昭和39年)に地元の岡山県立高梁高等学校へ入学する。同期には、東芝副社長を務めた田井一郎、岡山大学医学部教授になる三村哲重がいる。卒業後、1967年(昭和42年)関西大学工学部に入学し、1971年(昭和46年)同大学電子工学科を卒業、すぐに北辰電機製作所(現:横河電機)へ入社する。
三村 哲重(みむら てつしげ、1949年(昭和24年)1月4… 三村 哲重(みむら てつしげ、1949年(昭和24年)1月4日 - )は、日本の医学者であり、教育者でもある。済生会西条病院、国立がん研究センターで研修を経て、岡山済生会総合病院に勤務。岡山大学医学部教授、日本肝胆膵外科学会の高度技能指導医となる。岡山県出身。 1949年(昭和24年)岡山県に生れる。その後、1964年(昭和39年)岡山県立高梁高等学校へ進学する。同期には、ソニー常務取締役となるFeliCaを開発した伊賀章、東芝副社長を務めた田井一郎がいる。1967年(昭和42年)同校を卒業する。同年、岡山大学医学部へ進学し、1973年(昭和48年)同大学を卒業する。 岡大医学部を卒業後、岡山済生会総合病院外科で研修医として勤務する。
樋口 修(ひぐち おさむ、1949年 - )は、日本の建築家… 樋口 修(ひぐち おさむ、1949年 - )は、日本の建築家。岡山県生まれ。 1973年、日本大学理工学部建築学科卒業。その後東京大学大学院工学系研究科池辺陽研究室研究生となり1976年に終了。1978年から丸川建築事務所で建築設計に従事する。その後独立。 1991年、環境デザインSDA賞入選(薬師あいロード商店街)。 1995年の第1回ヘーベルデザインコンテストで審査委員をつとめた。 2000年から地元 中野区都市計画マスタープラン、2004年中野区基本構想、2006年中野区都市計画審議委員をつとめた。 おもな作品にナイツ本社ビル、ヒグチビル、野口スタジオなどがある。
田井 一郎(たい いちろう、1948年(昭和23年)11月1… 田井 一郎(たい いちろう、1948年(昭和23年)11月16日 - )は、日本の実業家、元東芝取締役代表執行役・副社長。岡山県高梁市出身。先端技術学生論文表彰の審査委員を務める。 1948年(昭和23年)岡山県高梁市に生まれる。その後、地元の岡山県立高梁高等学校へ進学し、同期には、ソニー常務取締役となるFeliCaを開発した伊賀章、岡山大学医学部教授になる三村哲重がいる。その後、東京大学へ入学。元JR北海道社長の小池明夫や弁護士の濱田俊郎は、高梁高校から東京大学へ進学した2歳年上の先輩として深い親交があった。東京大学工学部を卒業後、同大学工学系研究科原子力工学専攻を経て東芝へ入社した。大学での研究は、原子力高速炉の計測装置の開発である。
小池 明夫(こいけ あきお、1946年(昭和21年)7月28… 小池 明夫(こいけ あきお、1946年(昭和21年)7月28日 - )は、日本の実業家、北海道旅客鉄道(JR北海道)第5代・第7代社長、第3代・第5代会長。現アークス社外取締役。岡山県高梁市出身。 1946年、岡山県高梁市に生まれる。1962年(昭和37年)、岡山県立高梁高等学校へ進学する。高校の同期には、最高裁判所司法研修所教官・電通監査役を務める濱田俊郎や、画家の平松利昭がいた。また、同校の仲の良い後輩として2個下には、後に東芝の副社長となる田井一郎もいる。1965年(昭和40年)同校を卒業し、東京大学へ入学。1969年(昭和44年)には東京大学経済学部を卒業し、日本国有鉄道(国鉄)に入社した。
三村 益一郎(みむら ますいちろう、1946年(昭和21年)… 三村 益一郎(みむら ますいちろう、1946年(昭和21年)4月3日 - )は、日本の実業家である。日本ビクター(現:JVCケンウッド)取締役の後、第5代アドテック代表取締役社長。岡山県出身。 1946年(昭和21年)岡山県に生れる。その後、地元の岡山県立高梁高校へ進学する。同期には、JR北海道社長をつとめた小池明夫、画家の平松利昭、最高裁判所司法研修所教官・電通監査役を務める濱田俊郎がいる。1965年(昭和40年)同校を卒業し、静岡大学工学部へ進学する。1969年(昭和44年)同校を卒業し、就職する。 1969年4月、日本ビクターへ入社する。その後、順調に出世していき、1995年(平成7年)4月にカーエレクトロニクス事業副部長に就任する。
平松 利昭(ひらまつ としあき、1946年〈昭和21年〉 -… 平松 利昭(ひらまつ としあき、1946年〈昭和21年〉 - )は、日本の芸術家。日本美術家連盟・臥竜会会員。ブルガリア国立美術館に『緑の太陽』等がナショナルギャラリーとして収蔵されている。高梁市市政アドバイザーも務める。岡山県高梁市出身。 1946年(昭和21年)、岡山県高梁市中原町の平松茂の子として出生する。その後、地元の岡山県立高梁高校へ進学する。同期には、JR北海道社長をつとめた小池明夫、最高裁判所司法研修所教官・電通監査役の濱田俊郎、日本ビクター取締役・アドテック社長の三村益一郎がいる。1965年(昭和40年)同校を卒業し、武蔵野美術大学へ進学する。1970年(昭和45年)同校を卒業し、油絵画家となる。
濱田 俊郎(はまだ としろう、1946年(昭和21年) - … 濱田 俊郎(はまだ としろう、1946年(昭和21年) - 2007年(平成19年)4月19日)は、日本の弁護士であり、小説家である。最高裁判所司法研修所教官、電通監査役、金融審議会専門委員を務めた。岡山県勝央町出身。 1946年(昭和21年)に岡山県勝田郡勝央町に生まれる。1960年(昭和35年)濱田が中学2年生のときに、家族で岡山県高梁市へ移住する。その後、地元の岡山県立高梁高等学校へ入学し、同期には、JR北海道社長をつとめた小池明夫、画家の平松利昭が親友としていた。また、2個下には、後に東芝の副社長となる田井一郎もいる。 濱田は高校時代を振り返って、高校の校則は非常に厳しく、外食や映画鑑賞も制限されていた。
那須 清重(なす きよしげ、1945年 <昭和20年> 8月… 那須 清重(なす きよしげ、1945年 <昭和20年> 8月14日 - )は、日本の公安官僚である。チェコスロバキアへの駐在を経て、国際情報官、公安調査局長となり、国際情報統括トップである公安調査庁幹部・調査第二部長となる。KFE JAPANの顧問も務めた。岡山県高梁市出身。 1945年(昭和20年)第二次世界大戦が終戦する前日に、岡山県高梁市で生まれる。1964年(昭和39年)地元の岡山県立高梁高等学校を卒業する。その後、明治大学法学部を経て、明治大学大学院法学研究科へ進学する。卒業論文は、「ケルゼンの「根本規範」とフラーの「法と道徳」との関係」であった。1971年(昭和46年)3月卒業し、博士課程に進学する。
赤木 攻(あかぎ おさむ、1944年(昭和19年)7月28日… 赤木 攻(あかぎ おさむ、1944年(昭和19年)7月28日 - )は、日本の東南アジア地域研究者。大阪外国語大学名誉教授、大阪外国語大学第9代学長、前大阪観光大学学長、元泉佐野市教育委員長。元アース製薬社外取締役、専門は、タイ政治・社会論。 1944年、岡山県阿哲郡草間村(現・新見市足見姫原)に生まれる。岡山県新見市立井倉中学校、岡山県立高梁高等学校を経て、1967年に大阪外国語大学外国語学部タイ語学科(現・大阪大学外国語学部)を卒業後、タイ王国立チュラーロンコーン大学文学部に留学した。 1969年から大阪外国語大学に助手として奉職する。1975年タイのチュラーロンコーン大学、タムマサート大学で客員講師を勤め、1985年には、在タイ日本国大使館の専門調査員となった。
深井 晃子(ふかい あきこ、1943年9月10日 - )は、… 深井 晃子(ふかい あきこ、1943年9月10日 - )は、日本の服装史研究者。京都服飾文化研究財団理事・名誉キュレーター。お茶の水女子大学名誉博士。神戸女子大学教授、静岡文化芸術大学教授を務めた。本名は、高橋晃子。岡山県高梁市出身。 1943年、岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)生まれ。1962年(昭和37年)岡山県立高梁高等学校卒業後、お茶の水女子大学家政学部被服学科入学。1968年9月、同大学院家政学研究科修士課程西洋服飾史専攻修了、家政学修士。1969年、帝人に入社。 建築家と結婚して渡仏。パリ第4大学ソルボンヌ芸術考古学部で美学・美術史を聴講。1979年より京都服飾文化研究財団に勤務。京都国立近代美術館をはじめ国内外の美術館において、「モードのジャポニスム」「身体の夢」「Future Beauty: 日本ファッションの30年」展などのキュレーションにより、美術館でのファッション展という新たな形式を確立した。
孝本 貢(こうもと みつぎ、1942年〈昭和17年〉10月2… 孝本 貢(こうもと みつぎ、1942年〈昭和17年〉10月20日 - 2009年〈平成21年〉9月26日 )は、日本の教育者であり、宗教学者でもある。明治大学商学部教授、「宗教と社会」学会会長、日本宗教学会理事を務めた。岡山県出身。 1942年(昭和17年)岡山県に生れる。地元に近い岡山県立高梁高等学校へ入学。1961年(昭和36年)同校を卒業後、岡山大学教育学部へ進学する。中学校教員養成課程を専攻し、1966年(昭和41年)同大学を卒業し、岡山大学教育学部専攻科を1967年(昭和42年)に修了した。 専攻を修了後、そのまま岡山大学教育学部の副手となり、1971年(昭和46年)東京教育大学(現:筑波大学)大学院文学研究科社会学専攻の修士課程を修了し、博士課程へ進学するが、1974年(昭和49年)単位取得後退学する。
立木 正夫(たちき まさお、1941年3月31日 - 201… 立木 正夫(たちき まさお、1941年3月31日 - 2018年8月6日)は、日本の経営者。サントリー取締役を経て日本バレーボール協会第7代会長となる。地元の市政アドバイザーも務めた。岡山県高梁市出身。 1941年、岡山県高梁市生まれ。地元の岡山県立高梁高等学校を卒業後、東京大学へ入学。東大では、バレーボール部に所属していた。その後、1964年に東京大学法学部を卒業し、同年にサントリーに入社した。 サントリーでは、1987年に取締役に就任し、宣伝担当となった。1990年には、日本マーケティングジャーナルへ「マス広告への期待」と題して寄稿している。 1991年に常務を経て、2003年4月に専務に就任する。
川端 正男(かわばた まさお、1941年(昭和16年)3月2… 川端 正男(かわばた まさお、1941年(昭和16年)3月21日 - 2018年(平成30年)6月22日 )は、日本の実業家である。大手非鉄金属メーカーであるフジクラ代表取締役・副社長を務めた。岡山県高梁市出身。 1941年(昭和16年)岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)に生れる。高梁北小学校時代は、1学年上に、ANAホールディングス会長になる大橋洋治がいた。大橋は途中で岡大附属小学校へ転校するが、以降生涯に渡り仲が良かった。その後、市立高梁中学校を経て、地元の岡山県立高梁高等学校へ進学、1959年(昭和34年)同校を卒業する。同年、岡山大学文学部へ進学し、1963年(昭和38年)同大学を卒業する。
佐藤 勝彦(さとう かつひこ、1940年3月7日 - 201… 佐藤 勝彦(さとう かつひこ、1940年3月7日 - 2017年3月13日)は、日本の画家・書家・陶芸家。 旧関東州大連生まれ。奈良県在住していた。 画壇に属さない画家として、独特の仏教観に根ざした豪放な書画を描き続けている。富士山と仏像を好むほか、朱色を多用し紙に余白を残さない点が特徴。作品を手がけるだけでなく、陶磁器や骨董品の蒐集家としても知られている。 7歳で生家の岡山県賀陽町(現・吉備中央町)に引き揚げたのち岡山県立高梁高等学校を経て、1958年、鳥取大学学芸学部入学。1960年、重度の結核で入院するが快癒。以来プラス思考に転じる。 1963年、帝塚山学園小学部で教師となるも、1968年、中川一政の作品展に影響を受け創作活動を開始。
野瀬 勝三(のせ かつぞう、1940年(昭和15年)- )は… 野瀬 勝三(のせ かつぞう、1940年(昭和15年)- )は、日本の実業家である。岡山県庁職員となった後、健康づくり財団の職員となり、井原鉄道の経営危機に際して取締役として経営再建に取り組んだ。岡山県倉敷市出身。 1940年(昭和15年)、岡山県倉敷市で野瀬富男の長男として出生する。その後、1956年(昭和31年)4月に岡山県立高梁高等学校へ進学する。同期には、第7代日本バレーボール協会会長、サントリー取締役となる立木正夫がいた。1959年(昭和34年)3月に同校を卒業後、同年、岡山県庁へ就職する。 岡山県庁では総務畑を歩み、空港対策室長代理を経験した後、1996年(平成8年)55歳で津山地方振興局総務課長となり、1997年(平成9年)総務部参与・総務部総務学事課長(次長扱い)となる。
高杉 弘之(たかすぎ ひろゆき、1938年(昭和13年) -… 高杉 弘之(たかすぎ ひろゆき、1938年(昭和13年) - )は、日本の教育者である。国立特殊教育総合研究所研究員として勤務した後、広島大学教育学部教授となる。障害児教育を研究分野としていた。岡山県真庭市出身。 1938年(昭和13年)岡山県阿賀郡呰部村(現:真庭市)の高杉家に出生する。地元に近い岡山県立高梁高等学校へ進学する。同期には、ノンフィクション作家になる河内洋輔がいる。その後、1957年(昭和32年)に同校を卒業する。 その後、東京大学へ進学する。同大学文学部で学び、1962年(昭和37年)に同大学を卒業する。その後、東京大学大学院人文社会系研究科へ進学する。ここで、日本において盲ろう教育の草分的な存在であった梅津八三名誉教授が高杉の指導教官となる。
河内 洋輔(かわうち ようすけ、1938年(昭和13年) -… 河内 洋輔(かわうち ようすけ、1938年(昭和13年) - )は、日本の実業家であり、作家でもある。日本統治下の台湾・高雄市で生れる。戦後台湾から引き揚げて、両親の故郷である岡山県へ帰郷する。東京都荒川区にある町工場の太陽興業社長を務め、現会長となる。岡山県加賀郡吉備中央町出身。 1938年(昭和13年)台湾警察に勤めていた岡山県出身の父・河内極の長男として出生。河内一家は、台湾南部の高雄市に住んでおり、父は特高警察に勤務、他に母と生れて間もない妹のマスミがいた。 第二次世界大戦で日本が負けると、その当日(1945年8月15日)の晩から翌日にかけて日本人への襲撃や暴動が台湾各地で発生する。この時、河内は、父親の勤める台湾警察の官舎に住んでいた。
伊達 美徳(だて よしのり、1937年 - )は、アール・ア… 伊達 美徳(だて よしのり、1937年 - )は、アール・アイ・エーの元取締役。伊達計画文化研究所代表取締役所長。日本都市計画家協会常務理事事務局長。日本の都市計画家。岡山県高梁市出身。 1937年(昭和12年)、岡山県高梁市に生まれる。実家は神社の境内にあった。その後、地元の岡山県立高梁高校を1956年(昭和31年)に卒業し、東京工業大学理工学部(建築学課程)へ進学。1961年3月、同大学を卒業した。卒業後、都市計画コンサルタント事務所であるアール・アイ・エーに就職した。 入社後、様々な都市計画を担当した。1963年には、日本住宅公団の名古屋港地区再開発計画を担当し、1980年代には東京都中央区勝どきの再開発を担当した。
向井 正剛(むかい まさかた、1935年(昭和10年)2月1… 向井 正剛(むかい まさかた、1935年(昭和10年)2月11日 - )は、日本の教育者であり、高校野球監督でもある。岡山県下の高校野球監督として春夏通じて唯一の優勝経験者。岡山東商業高等学校の監督時代に、同郷のエース平松政次を擁して春の甲子園で優勝した。岡山県高梁市出身。 1935年(昭和10年)に岡山県高梁市で生まれる。戦後に地元の岡山県立高梁高等学校に進み、同期には富士銀行(現:みずほFG)頭取・日本政策投資銀行社長になる橋本徹、伊藤忠商事副社長になる森澤寛二、群馬大学医学部教授の伊吹令人、ノートルダム清心女子大学教授の南智、新宿で高級和食料理店「車屋」を起業する佐藤勇がいた。 高校時代は硬式野球部に所属したが、普通科高校であるため、野球部の人気が無く部員不足により2年秋で休部となった。
伊吹 令人(いぶき よしと、1935年(昭和10年)1月19… 伊吹 令人(いぶき よしと、1935年(昭和10年)1月19日 - 2015年(平成27年)12月19日)は、日本の医学者であり、教育者である。群馬大学医学部教授を務めた後、日本産婦人科学会名誉会員。岡山県高梁市出身。 1935年(昭和10年)岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)に生れる。母・三千子は、漢詩人・磯部杳坡の孫であり、磯部にとって初曽孫であった。親戚にUCLAに留学後、お茶の水女子大学名誉教授の伊吹知勢がいる。 その後、1950年(昭和25年)地元の岡山県立高梁高等学校へ進学する。同期には、富士銀行頭取になる橋本徹、伊藤忠商事副社長になる森澤寛二、岡山東商を甲子園優勝に導いた向井正剛、大学教授の南智、新宿で高級和食料理店「車屋」を起業する佐藤勇がいた。
福本 晃(ふくもと あきら、1935年(昭和10年) - )… 福本 晃(ふくもと あきら、1935年(昭和10年) - )は松下電器(現・パナソニックホールディングス)の元副理事であり、教育者でもある。鳥取大学客員教授を務めた。岡山県出身。 1935年(昭和10年)に岡山県で生まれる。小学校時代から電気工作が好きであり、高梁市内にあるラジオ屋に出入りしていた。地元の岡山県立高梁高校へ進学し、高校時代には、放送機を自作し高校の友人と通信していた。1954年(昭和29年)に同校を卒業。同年、大阪大学理学部へ入学した。その後、同大学を1958年に卒業し、マサチューセッツ工科大学へ入学、Ph.D in Physics(理学博士)を取得し1960年(昭和35年)に卒業したと同時に松下電器へ入社した。
南 智(みなみ さとる、1935年(昭和10年) - )は、… 南 智(みなみ さとる、1935年(昭和10年) - )は、日本の教育者であり、歴史家である。郷土史家として活動し、岡山県教育史編集委員、岡山県文化財保護審議会会長、元ノートルダム清心女子大学文学部教授を務めた。岡山県高梁市出身。 1935年(昭和10年)岡山県高梁市で生まれる。1950年(昭和25年)岡山県立高梁高等学校へ進学する。同期には、富士銀行頭取・日本政策投資銀行社長になる橋本徹、伊藤忠商事副社長になる森澤寛二、岡山東商を甲子園優勝に導いた向井正剛、群馬大学医学部教授の伊吹令人、新宿で高級和食料理店「車屋本店」を起業する佐藤勇がいた。1953年(昭和28年)岡山県立高梁高等学校を卒業し、岡山大学法文学部へ進学する。
橋本 徹(はしもと とおる、1934年(昭和9年)11月19… 橋本 徹(はしもと とおる、1934年(昭和9年)11月19日 - )は、日本の銀行家。富士銀行頭取、ドイツ証券会長、日本政策投資銀行社長のほか、国際基督教大学理事長も歴任した。プロテスタント信者。 両親とも教員の子息として岡山県高梁町(現:高梁市)に生まれる。年若い頃から英語に関心を抱き、岡山県立高梁高等学校在学中は英語クラブに所属。高校の同期には、伊藤忠商事副社長の森澤寛二、大学教授の南智、岡山東商業を甲子園優勝に導いた向井正剛がいた。東京大学法学部在学中にも英語研究会に所属したほか、柔道部にも所属した。 外交官を目指し、外務公務員上級試験を受験するも不合格となったため、富士銀行(現:みずほ銀行)に入行。
安本 美典(やすもと びてん、1934年2月13日 - )は… 安本 美典(やすもと びてん、1934年2月13日 - )は、日本の心理学者・日本史研究家(古代史)。文章心理学、計量比較言語学日本古代史の分野で著書及び論文がある。日本行動計量学会会員。 満洲国奉天省鞍山市に生まれ、1946年に帰国して岡山県高梁市で育つ。1949年に岡山県立高梁高等学校へ入学。同期には公正取引委員会事務局長(事務方トップ)となる植木邦之がいる。同高校を卒業。京都大学文学部(心理学)卒業を経て、京都大学大学院文学研究科(心理学)修了。国家公務員採用上級甲種試験(現在の国家公務員総合職)の心理職試験にトップで合格し、旧労働省(現在の厚生労働省)に入省。 旧労働省退官後、社会心理学者の南博(一橋大学教授)が設立した日本リサーチセンターに入社。
森澤 寛二(もりさわ かんじ、1934年(昭和9年)- )は… 森澤 寛二(もりさわ かんじ、1934年(昭和9年)- )は、日本の実業家。元・伊藤忠商事副社長、顧問を経て岡山県高梁市の市政アドバイザーを務める。 1934年(昭和9年)父親の仕事の関係で旧満州に生まれる。終戦後、中学2年の時に親の実家のある高梁へ引き揚げた。その後、岡山県立高梁高等学校へ進学した。高梁高校時代は、同期に富士銀行頭取を務めた橋本徹が友人にいる。高校卒業後、慶応義塾大学へ進学。1955年(昭和30年)頃、東京での学生の生活費は月1万円程度であり、仕送りと育英会援助やアルバイトで捻出した。二年間、同郷の大学友人と同じ下宿で生活し、たまに友人の実家から送られてくる米や野菜で食事をつくってたべる生活だったと語っている。
植木 邦之(うえき くにゆき、1933年(昭和8年)7月16… 植木 邦之(うえき くにゆき、1933年(昭和8年)7月16日 - )は、日本の官僚。元公正取引委員会事務局長(現・事務総長)を務めた後、日本鉄道建設公団理事となった。その後、公正取引委員会の生え抜き出身として5人目の公正取引委員となった。岡山県出身。 岡山県生まれ。1949年(昭和24年)に岡山県立高梁高等学校へ入学する。同期には、後に大学教授となる安本美典、1個下には、同じく高梁高校から東大へ進学し、その後、富士銀行(現:みずほ銀行)の頭取となる橋本徹もいた。その後1952年(昭和27年)3月に高梁高校を卒業し、同年4月に東京大学文科一類へ入学。1956年(昭和31年)に東京大学法学部を卒業した。
橋本 實(はしもと みのる、1931年(昭和6年)8月17日… 橋本 實(はしもと みのる、1931年(昭和6年)8月17日 - )は、日本の実業家。日本鋼管常務を務めた後、日本鋼管子会社の社長を務めた。日本鋼管が川崎製鉄と合併し、JFEスチールが誕生すると子会社のJFE物流特別顧問となる。東京都渋谷区出身。 大日本麦酒(現:サッポロビール)の常務を務めた橋本卯太郎の孫。ジャーナリストの橋本明、外交官の橋本宏は弟。首相を務めた橋本龍太郎、高知県知事を務めた橋本大二郎は従弟にあたる。 1931年(昭和6年)後に最高検察庁検事になる東京在住の父・橋本乾三と母・千代の長男として出生する。東京の学校に通うが、小学校在学中に日本の戦況が徐々に悪化するに伴い、学習院初等科の3年生以上が疎開を開始する。
水野 晴郎(みずの はるお、1931年〈昭和6年〉7月19日… 水野 晴郎(みずの はるお、1931年〈昭和6年〉7月19日 - 2008年〈平成20年〉6月10日)は、日本の映画評論家、映画監督、タレント。倉敷芸術科学大学教授、大阪芸術大学客員教授。 映画監督としてはMIKE MIZNO(マイク・ミズノ)の名義を使っていた。出生時の本名は水野 和夫(みずの かずお)であったが、山下奉文陸軍大将への尊敬の念と、自ら製作・監督し山下を演じた『シベリア超特急』シリーズへの愛着から、戸籍上の本名を山下奉文と一文字違いの山下奉大(やました ともひろ)に改名した。日本アカデミー賞の発案者。 1931年(昭和6年)7月誕生。戸籍では19日の生まれだが、両親が「17日だったよ」と言っていたような気がするとも述べている。
三上 昭美(みかみ てるみ、1931年〈昭和6年〉1月1日 … 三上 昭美(みかみ てるみ、1931年〈昭和6年〉1月1日 - 2018年〈平成30年〉8月19日 )は、日本の歴史学者。元中央大学文学部教授。日本の近代史の研究者として知られ、日本古文書学会常任理事などを務めた。岡山県新見市出身。 1931(昭和6)年、岡山県阿哲郡新見町(現:新見市)で出生する。1943(昭和18)年、地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。同期には岡山大学名誉教授の佐藤巌がいた。1945(昭和20)年、学徒動員先だった山口県の小野田セメント工場で玉音放送を聴く。 5年制であった旧制中学を4年で飛び級卒業(新制中学校へ移行処置)し、旧制高等学校で最後の入学生となる1947年に京都にある第三高等学校文科へ進学した。
赤木 恭平(あかぎ きょうへい、1931年(昭和6年) - … 赤木 恭平(あかぎ きょうへい、1931年(昭和6年) - )は、日本の実業家で、スポーツ団体役員。世界のボウリング普及活動が認められて、2002年より日本オリンピック委員会名誉委員になる。岡山県高梁市出身。 地元の岡山県立高梁高等学校に進み、1950年(昭和25年)に卒業後、上京して早稲田大学法学部に進学した。早稲田大学法学部を卒業後、サラリーマン生活を経てから一念発起して起業。知人の誘いで1971年から全日本ボウリング協会(1964年設立)を財団法人化する活動に協力するようになった。認可を得てからも自身の会社を経営するかたわら協会の運営に携わり、1995年から16年にわたり会長を務め上げると同時に、世界ボウリング連盟の会長(1995年 - 1998年)として力を尽くしてきた。
植木 雄輔(うえき ゆうすけ、1931年(昭和6年) - 2… 植木 雄輔(うえき ゆうすけ、1931年(昭和6年) - 2021年(令和3年)5月12日 )は、日本のジャーナリストである。日本記者クラブ会員、産経新聞政治部記者、フジテレビ報道センター室長を務めた。その後、フジサンケイ静止画情報制作の代表取締役社長となる。岡山県新見市出身。 1931年(昭和6年)岡山県阿哲郡美穀村正田(現・新見市正田)にて出生する。1944年(昭和19年)、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学した。 第二次世界大戦を経て、植木が旧制中学5年制の時に、1948年(昭和23年)学制改革により、これまでの旧制小中高帝国大学(6・5・3・3)から新制(6・3・3・4)へ変更となり、新制岡山県立高梁第一高等学校が旧制高梁中学の後を継ぎ誕生する。
堀部 美行(ほりべ みゆき、1930年(昭和5年)11月15… 堀部 美行(ほりべ みゆき、1930年(昭和5年)11月15日 - 2013年(平成25年)9月13日)は、日本の美容家であり、教育家でもある。韓国・又松大学校客員教授、山野美容芸術短期大学客員教授を務めた。岡山県倉敷市出身。 1930年(昭和5年)岡山県浅口郡玉島町(現:倉敷市)にて誕生する。その後、1943年(昭和18年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学し、東京都渋谷区長とつとめる小倉基、学問分野で流行学の創始をした宮本悦也がいた。1948年(昭和23年)同校を卒業する。 堀部の学生時代は、旧制中学と新制高校との切替えと戦争直後の混乱時期が重なり世の中が安定しなかった。
佐藤 巌(さとう いわお、1930年(昭和5年)2月9日 -… 佐藤 巌(さとう いわお、1930年(昭和5年)2月9日 - 2014年(平成26年)1月25日 )は、日本のフランス文学者であり教育者である。岡山大学名誉教授。岡山県高梁市出身。 1930年(昭和5年)岡山県高梁市に生まれる。1947年(昭和22年)に地元の旧制高梁中学校(現在の岡山県立高梁高校)を4年で卒業(新制中学校へ移行処置)し、旧制高等学校で最後の入学生となる1947年に第六高等学校文科へ進学した。卒業を経て、1950年(昭和25年)東京大学へ入学した。東大では文学部フランス文学科に進学し、研究テーマは、ポール・エリュアール であった。1953年(昭和28年)同大学を卒業(旧制大学3年制最後の卒業者)した。
有田 英世(ありた えいせい、1929年(昭和4年)8月23… 有田 英世(ありた えいせい、1929年(昭和4年)8月23日- 2006年(平成18年)9月2日)は、実業家である。元資生堂取締役。岡山県出身。 岡山県に生まれる。旧制高梁中学校(現在の岡山県立高梁高等学校)に進み、1947年(昭和22年)に卒業し、旧制高松経済専門学校(現在の香川大学経済学部)に入学した。同期の友人には、香川銀行の第5代頭取だった大林一友がいる。 旧制高梁中学校を卒業した有田は、憧れである第六高等学校に進み、帝国大学を目指したかった。しかし、家庭の経済状態が良くなく、歴史が得意だったため、広島高等師範学校に進み、学校の教師になろうとも考えていたが、結局、高松経専へ進んだ。1950年(昭和25年)、21歳のときに同校を卒業し、資生堂に入社した。
小倉 忠夫(おぐら ただお、1929年3月22日 - )は、… 小倉 忠夫(おぐら ただお、1929年3月22日 - )は、日本の美術評論家。 岡山県高梁市生まれ。父は、小倉魚禾(おぐら ぎょか)であり、画家であった。 旧制高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)在学中は大西茂と同級生であり友人であった。その後、1945年4月(昭和20年)海軍兵学校に入学を経て、戦後、東京大学へ入学。1952年東京大学文学部美学美術史卒。国立近代美術館、京都国立近代美術館に勤務、国立国際美術館館長、京都国立近代美術館館長。1995-99年名古屋ボストン美術館館長。1998-2002年大原美術館館長。1999年、勲三等旭日中綬章受章。