林 雄一郎(はやし ゆういちろう、1912年(大正元年)12… 林 雄一郎(はやし ゆういちろう、1912年(大正元年)12月31日 - 2004年(平成16年)8月19日)は、昭和時代から平成時代にかけての合唱指揮者、作曲家。 大阪市・船場で紙箱製造業を営む家庭の五男として生まれる。汎愛小学校、明星商業学校を経て1930年(昭和5年)関西学院高等商業部に入学。在学中は関西学院グリークラブに所属し、3年生より学生指揮者を務める。在籍中に後に「関学トーン」と呼ばれる独自の響きを編み出し、1933年(昭和8年)第7回競演合唱祭に初出場で優勝。 卒業後は合唱指揮、作曲・編曲で活動。特に宗教曲、歌曲、流行曲等多岐にわたる合唱編曲に力を入れ、また師事した山田耕筰から山田の全歌曲を合唱に編曲するよう依頼され精力的に取り組んだ。
澤野 久雄(さわの ひさお、1912年12月30日 - 19… 澤野 久雄(さわの ひさお、1912年12月30日 - 1992年12月17日)は、埼玉県浦和町(現・さいたま市)出身の小説家。 埼玉県浦和町(現・さいたま市)生まれ。埼玉県立浦和高等学校を経て、早稲田大学国文科卒。都新聞(現東京新聞)に勤務した後、1940年、朝日新聞社に入社、49年に同人誌『文学雑誌』に発表した「挽歌」が芥川賞候補になり、川端康成の恩顧を受ける。1951年、「方舟追放」で再度芥川賞候補、52年に「夜の河」を発表、三度芥川賞候補となるが落選、しかし同作は1956年に山本富士子主演で映画化され、これが代表作となった。1955年、「未知の人」で四たび芥川賞候補、遂に受賞には至らなかった。
早瀬 鎮雄(はやせ しずお、1912年12月28日 - 19… 早瀬 鎮雄(はやせ しずお、1912年12月28日 - 1975年2月26日)は、日本の経営者。日興証券社長を務めた。愛知県名古屋市出身。 1933年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に日興証券に入社した。 1958年11月に取締役に就任し、1961年11月に常務、1964年10月に専務、1968年8月に副社長を経て、1973年12月に社長に就任。 1975年2月26日脳出血のために在任中に死去。62歳没。
倉林 誠一郎(くらばやし せいいちろう、1912年12月28… 倉林 誠一郎(くらばやし せいいちろう、1912年12月28日 - 2000年5月2日)は、日本の演劇制作者(演劇プロデューサー)。劇団俳優座主事として、俳優座劇場創立を主導し、新劇の制作者(プロデューサー)を務めた。また、日本芸能実演家団体協議会(芸団協)、日本新劇経営製作者協会(現・日本新劇製作者協会)、中劇場協議会等の業界団体の設立を主導し、会長・常任理事を歴任した。 ※主な出典は著書『演劇制作者』(而立書房)による。 現在の東京都江東区深川に生まれる。1927年3月に開進第一尋常小学校高等科を卒業して智山中学校2年に編入となる。 1933年に徴兵検査を受けたが、丙種で徴兵免除となる。向島の資生堂化粧品工場で働く。
大原 久友(おおはら ひさとも、1912年 <大正元年> 1… 大原 久友(おおはら ひさとも、1912年 <大正元年> 12月26日 - 1994年 <平成6年> 9月25日)は、日本の畜産学者・農学者・元地方公務員。専門は、畜産学・酪農学・草地学。学位は、農学博士(北海道大学・1945年)。元帯広畜産大学学長。位階は従三位。恩師は井口賢三。 北海道苫前郡羽幌町生まれ。1936年(昭和11年)北海道帝国大学農学部を卒業し、北海道庁技官。1942年(昭和17年)帯広高等獣医学校教授。1945年、北海道大学より農学博士の学位を取得。学位論文の題は「北海道産笹類の家畜栄養学的研究」。1950年(昭和25年)帯広畜産大学畜産学部教授。1969年(昭和44年)、同学長事務取扱。
松澤 太郎(まつざわ たろう、1912年(大正元年)12月2… 松澤 太郎(まつざわ たろう、1912年(大正元年)12月26日 - 2007年(平成19年)3月11日)は、昭和期の機械技術者、政治家。 長野県下伊那郡上飯田村(現飯田市)で、松澤茂雄、寿美の長男として生まれた。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)、旧制松本高等学校理科甲類を経て、1938年(昭和13年)3月、京都帝国大学工学部機械工学科を卒業。 石川島芝浦タービンから1950年(昭和25年)芝浦ミシンに転職し、1955年(昭和30年)退社。飯田市商工観光課工業指導事務嘱託を経て、1956年(昭和31年)飯田市教育長、1964年(昭和39年)飯田市総務部長となり、1968年(昭和43年)に退職。
奥田 眞啓(おくだ まさひろ、1912年12月26日 – 1… 奥田 眞啓(おくだ まさひろ、1912年12月26日 – 1949年4月8日)は日本の歴史学者。専門は日本中世史。 東京生まれ。関東大震災罹災のため一時、鹿児島県に転居。1933年3月、府立高等学校 (旧制)を卒業。同年4月に東京帝国大学文学部国史学科入学、同期に井上清、磯貝正義、新城常三らがいる。卒業論文「鎌倉時代の武士と神社−特に其民族的信仰形態に就て」をまとめて、1936年に卒業。その後、東京帝国大学史料編纂所勤務。日本中世における氏寺について、先駆的な研究を行った。
阿部光子(あべ みつこ、1912年12月25日 - 2008… 阿部光子(あべ みつこ、1912年12月25日 - 2008年2月26日)は、作家、キリスト教伝道者。本名、山室光(みつ)。
オリエ 津阪(オリエ つさか、1912年12月24日 - 2… オリエ 津阪(オリエ つさか、1912年12月24日 - 2003年)は、日本の俳優。松竹少女歌劇の男役スターとして、1930年代のレビュー・ブーム期に同じ松竹の水の江瀧子や宝塚少女歌劇の小夜福子、葦原邦子らと共に「男装の麗人」として人気を博した。松竹歌劇の黄金時代を築いた人物として水の江と並び称される。松竹退団後は劇団主宰などを経て1950年代初頭まで映画にも出演。その後は日本舞踊の師匠となり表舞台からは退いた。 1912年、秋田県秋田市下米町に添田浩道、貞夫妻の長女(一人娘)として生まれる。本名は添田テフ。後に「順真(よしみ、『よし美』とも)」と改めている。1921年に東京府王子区中野に移り住み、以後同地で育った。
斉藤 丑松(さいとう うしまつ、旧姓鹿倉(しかくら)、191… 斉藤 丑松(さいとう うしまつ、旧姓鹿倉(しかくら)、1912年12月24日 - 1994年6月4日)は日本の作曲家、ホルン奏者。茨城県猿島郡新郷村(現古河市)出身。 1912年、茨城県猿島郡に鹿倉浅之丞の四男として生まれる。1929年、海軍軍楽兵として横須賀海兵団に入団。アルトホルンを専攻する。1931年には地中海方面に派遣された練習艦隊に乗り組む。成績優秀につき1932年には東京音楽学校に練習生として派遣される。1935年に処女作である「空軍の威力」を発表して以来、帝国海軍軍楽隊のエースとして活躍。その独特の旋律は「鹿倉節」と軍楽隊関係者でよばれていた。もっとも、作品の著作権を軍楽隊員個人が持つことがふさわしくないとされたため、作品は発表当時はすべて「○○(陸軍、海軍、帝国のいずれかが入る)軍楽隊作曲・編曲」と記されるようになった。
永島 福太郎(ながしま ふくたろう、1912年12月22日 … 永島 福太郎(ながしま ふくたろう、1912年12月22日 - 2008年8月19日)は、日本の歴史学者。関西学院大学名誉教授。
飯田 三郎(いいだ さぶろう、1912年(大正元年)12月2… 飯田 三郎(いいだ さぶろう、1912年(大正元年)12月20日 - 2003年(平成15年)4月24日)は、昭和期の作曲家。北海道根室市出身。 初め、独学で作曲を学ぶ。根室商業学校卒業後上京し、作曲を池内友次郎、指揮を山田和男に師事する。 同じ根室出身で、根室商業学校の先輩でもある作詞家・高橋掬太郎と組み、「啼くな小鳩よ」「ここに幸あり」などの楽曲を作った。故郷を愛し、交響組曲「北国讃歌」等の根室に関連する曲を数多く作った。 1973年、ミサ曲が認められ、ローマ法王庁より褒状を授与される。 根室市総合文化会館1階には飯田三郎資料展示室がある(2022年11月26日に根室市図書館から移転)。
武田 邦太郎(たけだ くにたろう、1912年(大正元年)12… 武田 邦太郎(たけだ くにたろう、1912年(大正元年)12月20日 - 2012年(平成24年)11月15日)は、日本の政治家。元参議院議員(1期)。日本新党副代表。1998年勲三等旭日中綬章を受章。 広島県福山市生まれ。福岡高等学校を経て、東京帝国大学文学部卒業後、鐘紡に入社。同社農林部に所属し、満洲において農業事業に取り組んでいるとき、職業軍人・石原莞爾と知り合う。これは、武田の従兄に当たる池本喜三夫が石原のブレインであったことも大きいという。 終戦を迎え、石原は生まれ故郷である山形県・鶴岡に戻り、遊佐の鳥海山麓に自給自足の農村共同体である「西山農場」を創設し、理想郷づくりをはじめる。石原が目指した「小さな満洲」建設には、武田や石原の一番弟子で、武田の良きパートナーであった曹寧柱をはじめ全国から「東亜連盟」の理想に共鳴するものが参加。
平賀 健太(ひらが けんた、1912年12月20日 - 20… 平賀 健太(ひらが けんた、1912年12月20日 - 2004年2月18日)は、日本の裁判官、弁護士、行政官。 1969年、北海道長沼町の保安林解除処分の執行停止申し立て事件(いわゆる長沼ナイキ基地訴訟)は、保安林への自衛隊基地の建設をめぐり自衛隊の合憲性を争点とするものとなった。 札幌地方裁判所所長であった平賀は、裁判の長沼ナイキ事件の裁判長であった福島重雄に対し、数度にわたり口頭で保安林解除を認める国側の主張に沿った判断を下すよう指導、福島が指導を聞き入れないとみると「一先輩のアドバイスとして、参考になるようなら判断の一助にしてください」とする書き出しで改めて判断を翻すことを促す書簡を送った。
佐々木 慶市(ささき けいいち、1912年12月20日 – … 佐々木 慶市(ささき けいいち、1912年12月20日 – 2002年 8月21日)は、日本の歴史家。 宮城県大崎市生まれ、1930年に第二高等学校に入学。柔道部の選手でもあった。3年生のときに日本史の本を読むようになり、特に三浦周行『国史上の社会問題』を読んだことが室町期の社会に興味を持つきっかけとなった。また、在学中に 武内義範らと歴史同好会の活動をし、そこで伊東信雄と知り合い、東北帝国大学への進学を勧められた。1933年に二高を卒業する。同年、東北帝国大学法文学部に入学。古田良一に師事するとともに、中村吉治の指導も受けた。また、伊木寿一から古文書学を学び、実習で飯野八幡宮文書の調査を行ったことが、のちの好嶋荘や岩城氏の研究につながった。
栗田 英男(くりた ひでお、1912年(大正元年)12月20… 栗田 英男(くりた ひでお、1912年(大正元年)12月20日 - 1996年(平成8年)10月4日)は、日本の商人(肥料商)、実業家(東京毎夕新聞社主、鉱山経営者)、総会屋、衆議院議員、美術評論家(栗田美術館創設者)。中央大学法学部中退。 栃木県足利市の豪商出身。復員後の1946年第22回衆議院議員総選挙に、栃木県全県区から諸派扱いで初出馬したが落選。 翌1947年の第23回衆議院議員総選挙では、新設の旧栃木県第2区から民主党公認で立候補し、初当選。政界進出と同時に栗田政治経済研究所を設立した。 在職中、栗田の拠出した金が汚職に用いられた疑惑が持ち上がり、1948年の衆議院不当財産取引調査特別委員会で証人喚問された。
高橋 定(たかはし さだむ、1912年(大正元年)12月19… 高橋 定(たかはし さだむ、1912年(大正元年)12月19日 - 2015年(平成27年)12月25日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。航空参謀、艦上爆撃機操縦士。全日空顧問。海兵61期。階級は海将(海上自衛隊)、海軍少佐(大日本帝国海軍)。 1912年(大正元年)12月19日、愛媛県松山市生まれ。6人兄弟の3男。旧制松山中では剣道は初段、サッカーでは主将を務め四国大会で優勝した。医者志望であったが、兄の勧めで1930年(昭和5年)4月、海軍兵学校入学(61期)。同期に野中五郎、板倉光馬、大野博、吉川猛夫など。1933年(昭和8年)11月、卒業。 「磐手」で遠洋航海を行った後、「加古」、「多摩」乗組みを経て、1935年(昭和10年)10月、飛行学生として霞ヶ浦海軍航空隊、1936年(昭和11年)12月には艦爆の延長教育課程を大村海軍航空隊で受け、1937年(昭和12年)4月、佐伯海軍航空隊に配属された。
小原 重徳(おばら しげのり、1912年12月18日 - 1… 小原 重徳(おばら しげのり、1912年12月18日 - 1993年11月28日)は、日本のジャズベーシスト。ブルーコーツのバンドリーダー。本名は小原(おはら)重徳。 東京府に生まれ、1936年に法政大学経済学部を卒業する、学生時代にはハワイアンを演奏する。1936年に松本伸のバンドに参加し、1946年にベース奏者としてブルーコーツに加入、長尾正士の後をうけてバンドリーダーを務める。同バンドを日本の3大バンドのひとつに育て上げた。その後、ホテルニューオータニ専属のジョイフル・オーケストラの指揮者やNHK総合テレビジョン「ザッツミュージック」の準レギュラー出演などで活躍した。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
花布 辰男(はなぶ たつお、1912年12月17日 - 没年… 花布 辰男(はなぶ たつお、1912年12月17日 - 没年不詳)は、日本の俳優。本名同じ。花布 辰夫と表記に揺れがある。大映の名脇役の一人である。 1912年(大正元年)12月17日、東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)に生まれる。1930年(昭和5年)、東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)卒業と共に日本映画俳優学校の1期生として入校し、1934年(昭和9年)に卒業する。同期に織田政雄がいた。 1937年(昭和12年)、新興キネマ大泉撮影所に入社し、同年に公開された青山三郎監督映画『煙る故郷』で映画デビュー。以後、脇役として多数の作品に出演した。1942年(昭和17年)、大映に統合された後は東京撮影所に所属し、1971年(昭和46年)に倒産するまで脇役として長く活躍した。
大井 正(おおい ただし、1912年12月17日 - 199… 大井 正(おおい ただし、1912年12月17日 - 1991年1月27日)は、日本の哲学者。明治大学名誉教授。 山形県出身。1938年東京帝国大学文学部哲学科卒。1970年「唯物史観の形成過程」で明治大学経済学博士。満鉄調査局員、高崎市立短期大学教授、明治大学政経学部助教授、教授を務め、1984年定年、名誉教授となる。
許斐 氏利(このみ うじとし、1912年12月16日 - 1… 許斐 氏利(このみ うじとし、1912年12月16日 - 1980年3月5日)は、クレー射撃選手・右翼・特殊株主・興行師。隻流館初代理事長。東京温泉経営者。戦時中は特務機関員。 参加したメルボルンオリンピックでフィンランドの選手が持っていたサウナを日本に持ち込んだことで、スチームサウナの創始者としても知られている。 家系は古代から宗像大宮司を世襲した武家・宗像氏で、氏利はその分家・許斐氏の後裔。孫にUZI (ラッパー)。 福岡市萱堂町(現:奈良屋町)で金融業者の家庭に生まれる。幼時から柔道を修業し、1931年、武道家を志して上京し、講道館に入門。その後、中学生では日本初となる柔道四段を授与されるも、素行不良のため五段への昇段を嘉納治五郎から拒否される。
葦原 邦子(あしはら くにこ、1912年〈大正元年〉12月1… 葦原 邦子(あしはら くにこ、1912年〈大正元年〉12月16日 - 1997年〈平成9年〉3月13日)は、兵庫県武庫郡本庄村字深江(現・兵庫県神戸市東灘区深江)出身の女優。元宝塚歌劇団星組トップスター。本名は中原 英子(なかはら えいこ)、旧姓は岡本。夫に画家の中原淳一、長男に画家の中原洲一、孫に声優・俳優の加古臨王がいる。 尼崎市立高等女学校(現・尼崎市立尼崎高等学校)卒業後、1928年に宝塚音楽学校に入学する。翌1929年、「春のをどり」で初舞台。宝塚歌劇団18期生で宝塚歌劇団のトップスターとして活躍し、同期生に春日野八千代、冨士野高嶺らがいた。 宝塚歌劇団在団中は「アニキ」の愛称で上級生の小夜福子や同期生の春日野と共に男役として人気を争い、宝塚歌劇団を背負って立っていった。
大井 廣介(おおい ひろすけ、1912年12月16日 - 1… 大井 廣介(おおい ひろすけ、1912年12月16日 - 1976年12月4日)は、日本の文芸評論家、野球評論家。本名、麻生賀一郎。麻生太郎の父親である麻生太賀吉は従兄にあたる。 福岡県出身。旧制嘉穂中学校卒業。早くに父を喪ったため、伯父から庇護を受ける。1930年に東京へ行く。1939年、文芸同人誌『槐』(えんじゅ)を創刊。1940年、同誌の誌名を『現代文学』と改め、平野謙や荒正人、佐々木基一、杉山英樹たちを迎えて文芸時評を執筆。同誌を昭和10年代の代表的な文芸同人誌に育て上げた。 同誌は戦後の『近代文学』の礎となったが、大井は『近代文学』から距離を置き、党派性を批判して自由人を標榜。イデオロギーを排し、ゴシップ的手法によって社会批判をおこなった。
河野 六郎(こうの ろくろう、1912年12月16日 - 1… 河野 六郎(こうの ろくろう、1912年12月16日 - 1998年10月7日)は、日本の言語学者。文学博士(東京大学、1962年)。東京教育大学名誉教授。専門は朝鮮語・中国語。 1912年、兵庫県神戸市生まれ。第一高等学校を経て、1937年(昭和12年)東京帝国大学言語学科卒業。 1940年(昭和15年)小倉進平の推薦を受け京城帝国大学助手に就任。1941年(昭和16年)同大講師。1942年(昭和17年)同大助教授。 第二次世界大戦後、1958年より東京教育大学言語学教室教授。1962年、「朝鮮漢字音の研究」を東京大学に提出して文学博士号を取得。1976年、東京教育大学定年退官後に大東文化大学教授に就いた(1983年まで)。
橋本 正之(はしもと まさゆき、1912年〈大正元年〉12月… 橋本 正之(はしもと まさゆき、1912年〈大正元年〉12月16日 - 1976年〈昭和51年〉9月9日)は、日本の政治家。位階は従三位。 山口県知事(公選第5・6・7・8代)、衆議院議員(1期)を歴任した。山口県下松市笠戸島出身。
大内 格之助(おおうち かくのすけ、1912年12月15日 … 大内 格之助(おおうち かくのすけ、1912年12月15日 - 2001年3月2日)は、日本の経営者。北海道文化放送社長を務めた。北海道上川郡剣淵町出身。 1931年に旧制名寄中学校を卒業。旭川新聞社、小樽新聞社での勤務を経て、1964年に北海道新聞社取締役に就任し、1968年に代表専務を経て、1974年に顧問に就任。1971年には北海道文化放送初代社長に就任し、1978年から1980年までに会長を務めた。 2001年3月2日急性肺炎のために死去。88歳没。
滝田 実(たきた みのる、1912年 <大正元年> 12月1… 滝田 実(たきた みのる、1912年 <大正元年> 12月15日 - 2000年 <平成12年> 12月9日)は、昭和から平成時代の労働運動家。ゼンセン同盟名誉会長。全国繊維産業労働組合同盟(全繊同盟)第3代会長、全日本労働組合会議(全労)初代議長、全日本労働総同盟(同盟)第2代会長。位階は従三位。 富山県射水郡小杉町(現射水市三ケ)生まれ。1931年富山県立工芸学校機械電気科卒、日清紡績に入社。戦後、松岡駒吉と出会い労働運動に入る。1946年4月日清紡績労働組合結成とともに副組合長。同年7月全国繊維産業労働組合同盟(全繊同盟)結成に参加、中執委員。1948年5月全繊同盟会長。同年日清紡績労働組合組合長。
櫻井 欽一(さくらい きんいち、1912年12月11日 - … 櫻井 欽一(さくらい きんいち、1912年12月11日 - 1993年10月6日)は、日本のアマチュア鉱物学者、地球科学者。家業(東京都・神田須田町にある老舗の鳥鍋屋「ぼたん」)の傍ら、独学で鉱物学を修めた。理学博士(東京大学・1955年)(学位論文「神奈川県湯河原産沸石類の研究」)。1964年紫綬褒章受章。 ぼたんの主人桜井謙吾の長男として東京神田連雀町に生まれる。宗教は天台宗。祖父の八四郎は旧高崎藩士で司法省に出仕した桜井欽哉の次男として生まれ、先代の桜井重郎治の養子となっている。八四郎の弟には朝鮮総督府判事となった柳沢佐五郎がいる。永田町小学校(現:麹町小学校)[要出典]、攻玉社中学校・高等学校[要出典]を経て、1932年専修大学予科修了。
武智 鉄二(たけち てつじ、旧字体:鐡二、1912年〈大正元… 武智 鉄二(たけち てつじ、旧字体:鐡二、1912年〈大正元年〉12月10日 - 1988年〈昭和63年〉7月26日)は、大阪市出身の日本の演劇評論家、演出家、映画監督。役者の型や口伝に影響されない狂言作者の意図に忠実な武智歌舞伎を世に問うたことで知られる。歌舞伎のみならず、能や文楽、オペラ、舞踏、映画の演出も手がけ、わいせつ図画公然陳列罪で起訴された「黒い雪裁判」の被告人の一人としても知られる。本名ははじめ武智 鐡二、のち西村 鐡二(にしむら てつじ)、のち川口 鐡二(かわぐち てつじ)。 日本演劇学会、伝統芸術の会、日本文芸家協会、日本オペラ協会、日本演劇協会、各会員。 1912年、大阪市梅田に生まれる。
菅 寿雄(かん ひさお、1912年12月10日 - 1991… 菅 寿雄(かん ひさお、1912年12月10日 - 1991年3月18日)は、日本の実業家、化学技師。雅号は木桃。セントラル硝子常務取締役・監査役。 第94代内閣総理大臣菅直人の父。武蔵野市議会議員菅源太郎の祖父。三井信託銀行専務を務めた平地弘和は長女の夫。広島大学医学部教授を務めた医学者の津下健哉は義弟。 岡山県久米郡福渡町下神目(現岡山市北区建部町下神目)出身。江戸時代、菅家は村の庄屋を務めた家柄であった。父の菅實は開業医であり、久米郡医師会長、郡会議員等を歴任した。 1936年、東京工業大学(東京科学大学の前身)応用化学科卒業。1937年1月、宇部曹達工業(セントラル硝子の前身)に入社。取締役技術部長を経て1965年、セントラル硝子常務取締役に就任、1977年、同社監査役。
おおえ ひで(本名:大江 ヒデ(読み同じ)、1912年12月… おおえ ひで(本名:大江 ヒデ(読み同じ)、1912年12月10日 - 1996年12月14日)は、日本の児童文学作家。 夫は小説家の大江賢次。 1912年(大正元年)12月10日、長崎県野母崎町(現・長崎市)生まれ。高浜高等小学校卒業。 19歳で上京、独学で保母となり保育園で働くなか、小説家として名の売れ始めた大江賢次と結婚。戦時中、夫・賢次の実家である鳥取県に疎開中に長崎への原子爆弾投下によって姉や甥・姪を亡くす。夫・賢次の影響もあって、亡くなった親族や数多くの原爆犠牲者のために原爆の悲劇を記録として残し、また多くの人々に伝えるため、40歳から児童文学の創作をはじめる。 1961年(昭和36年)、長崎への原爆投下による孤児たちを題材にした「南の風の物語」で第5回未明文学賞奨励賞を受賞。
松岡 英夫(まつおか ひでお、1912年12月9日 - 20… 松岡 英夫(まつおか ひでお、1912年12月9日 - 2001年4月8日)は、日本の政治評論家、歴史家。 新潟県新潟市生まれ。1938年東京帝国大学卒業、東京日日新聞社に入社、戦後、毎日新聞政治部長、論説委員、編集局次長を経て、政治評論家に。1971年から『サンデー毎日』の「サンデー時評」を担当、幕末史の研究者でもあり、1979年『大久保一翁』で毎日出版文化賞受賞。1983年の東京都知事選に、革新統一候補として立候補し、148万2169票を獲得したが、鈴木俊一に敗れた。2001年、肺炎のため88歳で死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
田中 武夫(たなか たけお、1912年(大正元年)12月8日… 田中 武夫(たなか たけお、1912年(大正元年)12月8日 – 1979年(昭和54年)1月31日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。 兵庫県出身。1937年(昭和12年)中央大学法律科を卒業した。 1937年、鉄道省に入省し大阪鉄道局勤務となる。その後、川西機械製作所に転じ、労働組合を結成し委員長に就任した。1947年(昭和22年)日本社会党に入党。明石地区労働組合協議会議長、兵庫県労働組合会議副議長、東播労連会長、兵庫県地方労働委員、兵庫労働金庫理事などを務めた。 1952年(昭和27年)10月の第25回衆議院議員総選挙で兵庫県第3区から社会党左派公認で出馬したが落選し、次の第26回総選挙でも次点で落選した。
舟越 保武(ふなこし やすたけ、1912年12月7日 - 2… 舟越 保武(ふなこし やすたけ、1912年12月7日 - 2002年2月5日)は、日本の彫刻家。佐藤忠良と共に戦後日本を代表する具象彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。東京藝術大学名誉教授。文化学院出身。直彫りによる石彫の第一人者とされ、日本でまだ石彫が珍しかった時代に、大理石や砂岩を使った作品に取り組み、独自のスタイルを築いた。 画家・俳人の妻道子との間に子供6人。次男の舟越桂や三男の舟越直木も彫刻家として活躍。長女の末盛千枝子(末盛憲彦の妻)は、児童文学編集者で「すえもりブックス」経営者。四女の舟越カンナはアーティスト・絵本作家。 1912年、岩手県二戸郡一戸町小鳥谷生まれ。父親が熱心なカトリック信者だった。
坪内 八郎(つぼうち はちろう、1912年〈大正元年〉12月… 坪内 八郎(つぼうち はちろう、1912年〈大正元年〉12月7日 - 1996年〈平成8年〉12月25日)は、昭和期の教育者、政治家。衆議院議員、剣道七段・達士。 長崎県出身。1940年(昭和15年)日本大学高等師範部修身公民科を卒業した。 帝京商業学校(現帝京大学中学校・高等学校)教諭、長崎逓信講習所教官、長崎市立商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)教諭、同第二商業学校(長崎市立長崎高等学校となり2000年閉校)教諭などを務めた。 政界では、長崎県議会議員、長崎市議会議員に選出された。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で長崎県全県区に無所属で出馬して落選。今村等の公職追放、本田英作の死去により1948年(昭和23年)11月に実施された第23回総選挙の長崎県第1区補欠選挙に民主自由党公認で出馬して初当選。
江上 茂(えがみ しげる、1912年12月7日 - 1981… 江上 茂(えがみ しげる、1912年12月7日 - 1981年1月8日)は、松濤館空手家の開拓者であり、松濤会の創始者。現代空手の創始者として広く知られる船越義珍の弟子。 江上は1912年12月7日、 福岡県大牟田市に生まれた。船越義珍の初期の弟子の一人で、江上は早稲田大学に進学して船越と出会った。江上は大学の空手部の設立につとめる。その前に彼はすでに柔道、剣道、合気道などを経験していた。 江上は船越義珍と息子の船越義豪 、下田猛とともに、空手を日本の武道として宣伝するために、展覧会のステージを回って日本中を旅した。最年少のインストラクターとして船越義珍から評価委員に選出され。以降は学習院、東邦、中央大学で空手を教えた。
田中 謙二(たなか けんじ、1912年12月6日 - 200… 田中 謙二(たなか けんじ、1912年12月6日 - 2002年11月17日)は、日本の中国文学者。 1912年、滋賀県で生まれた。京都帝国大学文学部支那文学科で学び、1937年に卒業。1944年春、安田二郎と共に北京に留学した。 卒業後は、天理大学助教授に就いた。京都大学人文科学研究所助教授に転じ、後に教授昇格。1962年、学位論文『西廂記の研究』を京都大学に提出して文学博士の学位を取得。1977年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は関西大学教授として教鞭を執った。 専門は中国の古典文学。特に戯曲を研究対象とし、文化と言葉について研究を進めた。
木下 惠介(きのした けいすけ、新字体:恵介、1912年12… 木下 惠介(きのした けいすけ、新字体:恵介、1912年12月5日 - 1998年12月30日)は、日本の映画監督、脚本家。本名は同じ(旧名:正吉)。日本映画の黄金期を築いた一人で、抒情的な作風で知られ、数多くの名作・話題作を生み出した。弟は作曲家の木下忠司、妹は脚本家の楠田芳子。監督としての映画の名前の表記は1960年代には「恵介」が混在している。
佐伯 幸三(さえき こうぞう、1912年(大正元年)12月4… 佐伯 幸三(さえき こうぞう、1912年(大正元年)12月4日 - 1972年(昭和47年)12月27日)は、日本の映画監督、脚本家である。サイレント映画の時代からキャリアを持つ。 1912年(大正元年)12月4日、東京府東京市芝区(現在の東京都港区芝)に生まれる。 旧制・早稲田中学校(現在の早稲田高等学校)を中途退学した後に、内外通信社、博報堂に勤める。 映画界での最初のキャリアは東京・巣鴨に撮影所を持つ大都映画で、1934年(昭和9年)、同社のオーナーの河合徳三郎の原作を脚色し、中島宝三が監督したサイレント映画『名君道中記』で脚本家としてデビューした。1934年(昭和10年)、大都映画に助監督として入社。
桜井 京子(さくらい きょうこ、1912年12月2日 - 没… 桜井 京子(さくらい きょうこ、1912年12月2日 - 没年不詳)は、日本の女優である。本名池田 善子(いけだ よしこ)、旧芸名糸浦 柳子(いとうら りゅうこ)。身長は5尺1寸(約154.5センチメートル)、体重は非公表である。 1912年(大正元年)12月2日、東京府東京市日本橋区葺屋町に生まれる。 旧制・千代田高等女学校(現在の武蔵野大学附属千代田高等学院)に進学するも、1927年(昭和2年)に中途退学し、同年2月、満14歳で松竹蒲田撮影所に入社した。同年10月、入社早々に松竹下加茂撮影所に異動になり、「糸浦 柳子」の芸名を名乗って、同撮影所と製作提携をしていた衣笠貞之助が主宰する衣笠映画聯盟の製作、山崎藤江の監督による『天保悲剣録』に出演して、映画界にデビューした。
田部 シメ子(たなべ シメこ、 1912年(大正元年)12月… 田部 シメ子(たなべ シメこ、 1912年(大正元年)12月2日 - 1930年(昭和5年)11月29日)は作家太宰治の恋人の一人。別名田部あつみ、また田辺あつみとも。太宰の短篇「道化の華」(1935年)に登場する心中事件の相手"園"のモデル。 広島県安佐郡小河内(現:広島市西区小河内町)で田部島吉・シナの四女として誕生。シメ子とはこの子で終わりにしようという意味で命名された名前で、当人はこの名前を嫌っており、兄と相談の上、早くからあつみを名乗っていた。 学業優秀だったが、広島市立第一高等女学校(現:広島市立舟入高等学校)を3年時に中退後、広島の繁華街新天地の大型喫茶店「平和ホーム」の女給となる。
石塚 直隆(いしづか なおたか、1912年12月2日 - 1… 石塚 直隆(いしづか なおたか、1912年12月2日 - 1993年9月15日)は、日本の産婦人科学者。名古屋大学医学部教授、同大学総長(第7代)を歴任し、大阪府立母子保健総合医療センター初代総長を務めた。絨毛性腫瘍の臨床的研究で知られる。 アメリカ合衆国・サンフランシスコに生まれる。大阪帝国大学医学部を卒業後、大阪大学で助手・助教授を務め、奈良県立医科大学教授を経て、1961年に名古屋大学医学部教授に就任した。 名古屋大学では、1971年から1972年にかけて名古屋大学医学部附属病院の院長事務取扱を務め、1972年から1974年まで医学部長、1975年から1981年まで第7代総長を務めた。 総長在任中の事績としては、大幸キャンパスへの名古屋大学医療技術短期大学部の設置(1977年)、医学部附属病院分院の移転(1979年)、中央図書館の完成(1981年)などが挙げられる。
大原 栄一(おおはら えいいち、1912年12月2日 - 1… 大原 栄一(おおはら えいいち、1912年12月2日 - 1998年3月9日)は日本の実業家。富士重工業元社長・元会長。広島県沼隈郡沼隈町田島(現福山市)出身。満州安東育ち。 旧制広島高校を経て1936年東京帝国大学経済学部卒業後、日本興業銀行入社。1957年復興金融金庫に出向、1950年興銀復帰後、1962年取締役常務。1963年富士重工業副社長に転じ、1970年同社社長に就任。三菱重工業、いすゞ自動車との提携破棄、日産自動車との提携強化などを進め自動車業界再編の台風の目となった。この間、スバル1000などの名車を世に出した。1978年会長となり、1985年から名誉会長。1998年3月9日死去。
大岩 和雄(おおいわ かずお、1912年12月2日 - 20… 大岩 和雄(おおいわ かずお、1912年12月2日 - 2001年2月14日 )は、日本の経営者。伊奈製陶(INAXを経て、現在のLIXIL)社長を務めた。 愛知県常滑市出身。1933年に名古屋高等商業学校を卒業した。佐藤商会での勤務を経て、1935年10月に伊奈製陶に入社した。1958年12月に取締役に就任し、1963年12月に常務、1967年12月に専務を経て、1971年12月に副社長に就任し、1976年1月に社長に就任した。1980年1月に会長に就任し、1984年6月からは相談役を務めた。 1976年10月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲三等瑞宝章を受賞した。 2001年2月14日、肺炎により死去した。
占部 実(うらべ みのる、1912年12月2日 - 1975… 占部 実(うらべ みのる、1912年12月2日 - 1975年9月4日) は、日本の数学者。専門は数値解析。(簡易) ニュートン法に対する収束定理・誤差評価や非線形微分方程式に対する占部-Galerkin法などの業績がある。 福岡県出身。1940年に広島文理科大学卒業、同大学の助手・講師・助教授を経て、1952年に教授に就任。1953年「不動点をもつ正則変換」により理学博士の学位を取得。1963年、九州大学に転任。1966年、京都大学数理解析研究所教授に就任。 この項目は、数学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
宮本 正太郎(みやもと しょうたろう、1912年12月1日 … 宮本 正太郎(みやもと しょうたろう、1912年12月1日 - 1992年5月11日)は、日本の天文学者。荒木俊馬の弟子の一人で、惑星気象学の開拓者として有名。広島県出身。
新井 正明(あらい まさあき、1912年〈大正元年〉12月1… 新井 正明(あらい まさあき、1912年〈大正元年〉12月1日 - 2003年〈平成15年〉11月27日)は、日本の実業家。住友生命保険社長・会長、松下政経塾理事長、関西師友協会会長を歴任した。
田中 千金(たなか ちかね、大正元年(1912年)12月 -… 田中 千金(たなか ちかね、大正元年(1912年)12月 - 昭和53年(1978年))は、日本の病理学者。医学博士。黄疸発生に関する病理学的研究者として著名であった。正四位勲三等。 鳥取県米子市博労町に生まれた。田中猗猗(いい)の長男。 米子中(現在の米子東高校)、松江高を経て1937年九州帝国大学医学部を卒業し、同病理学教室に入る。 1942年医学博士の学位を受ける(論文の題は 「ワイル氏病黄疸の成因に関する実験的研究 」)。翌年旅順医専教授となる。 1947年米子医専(現鳥取大学医学部)教授となり病理学を担当する。翌年米子医科大(現鳥取大学医学部)助教授。 1951年に鳥大教授となり、第2病理学教室を主宰した。
岡庭 博(おかにわ ひろし、1912年11月30日 - 20… 岡庭 博(おかにわ ひろし、1912年11月30日 - 2004年2月20日)は、日本の実業家、経営学者。日本興業銀行勤務を経て、三光汽船の代表取締役、会長を務めた。大阪産業大学名誉教授、経済学博士。 長男は評論家の岡庭昇。 兵庫県神戸市出身。姫路高等学校を経て、1935年に九州帝国大学法文学部に入学。在学中に高等文官試験に合格したが、官僚への道には進まず、卒業後、日本興業銀行に入行。調査部に配置され、大阪支店に勤務した。 1943年、姫路高校の先輩である河本敏夫に乞われて、三光汽船に取締役として入社。三光汽船の番頭格として河本を補佐し、財務担当役員として活躍した。 1949年、河本が第24回衆議院議員総選挙に兵庫県第4区から出馬し当選。
玉ノ海 梅吉(たまのうみ うめきち、1912年11月30日 … 玉ノ海 梅吉(たまのうみ うめきち、1912年11月30日 - 1988年10月23日)は、長崎県東彼杵郡(現:長崎県大村市)出身で二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。本名は蔭平 梅吉(かげひら うめきち)。最高位は東関脇。 当初から近眼だったため、家業である真珠の養殖作業を継ぐことが出来ず、既に立派な体格をしていたことから宮相撲で活躍し、力士を志すようになる。1930年に同郷の肥州山栄を頼って上京したものの、既に巡業へ出発した後だったために入門は叶わなかったが、偶然そばを通りかかった玉錦三右エ門から見出され、二所ノ関部屋へ入門した。四股名は故郷・長崎県の名産である真珠をイメージして「海ノ玉」または「玉ノ海」で迷ったが、後者を選択したと後年になって語った。