細川 ちか子(ほそかわ ちかこ、1905年(明治38年)12… 細川 ちか子(ほそかわ ちかこ、1905年(明治38年)12月31日 - 1976年(昭和51年)3月20日)は、日本の女優である。本名横田 冬(よこた ふゆ)。 東京市麹町区内幸町1-5(現在の千代田区内幸町1-5、現在の千代田区立内幸町ホール、第一ホテルアネックスの辺り)に生まれる。 香蘭女学校を卒業し、1925年に小山内薫らの「築地小劇場」に入団、新劇の世界に入った。演出家土方与志は恩師。細くて近眼の女だからと、芸名を「細川ちか子」と命名したのは土方である。 『各人各説』で伏見直江らと初舞台を踏み、その美貌でスターとなった。1929年、23歳のときに丸山定夫らとともに同劇団を脱退し、「新築地劇団」結成に参加する。
常盤 稔(ときわ みのる、1905年〈明治38年〉 12月3… 常盤 稔(ときわ みのる、1905年〈明治38年〉 12月31日 - 1981年〈昭和56年〉4月21日)は、日本の経営者。清水銀行頭取を務めた。 静岡県出身。1923年に沼津中学校を卒業し、同年6月に岩渕銀行に入行。 1948年に清水銀行に転じ、1960年4月に取締役に就任し、1969年4月に常務、1971年4月に専務を経て、1974年8月から1979年4月までに頭取を務めた。 1981年4月21日に胃癌のために死去。75歳没。
北島 織衛(きたじま おりえ、1905年〈明治38年〉12月… 北島 織衛(きたじま おりえ、1905年〈明治38年〉12月31日 - 1980年〈昭和55年〉4月27日)は、昭和期の日本の実業家。大日本印刷元会長。大平電工元社長。東邦紙業元取締役。 1905年12月31日、大日本印刷元社長・青木弘の三男として東京に生まれ、北島吉兵衛の養子となる。1923年、東京府立四中卒業。1929年、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、大日本印刷の前身・秀英舎に入社。1955年に同社社長就任、1979年、同社会長。経営陣の刷新や労使関係の調整に強気の姿勢であたり、事業の拡大と多角化に努めた。 大日本印刷を世界最大の印刷会社にするとともに、インテリア、清涼飲料、電気部品などに進出、多角化をはかった。
伊藤 よし子(いとう よしこ、1905年12月30日 - 1… 伊藤 よし子(いとう よしこ、1905年12月30日 - 1991年3月24日)は、日本の政治家。日本社会党の衆議院議員(2期)。 急逝した夫の伊藤好道の地盤を継いで政治家の道を歩んだ。衆議院議員、愛知県会議員を務めた本多鋼治は義兄。 愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市昭和町4丁目)に雑貨商の成瀬保吉の三女として生まれる。旧姓は成瀬。挙母第一尋常小学校(現・豊田市立挙母小学校)から、「山の学校」と呼ばれた挙母尋常高等小学校(現・豊田市立童子山小学校)に進んだ。『改造』『解放』など大正デモクラシーを支えた雑誌に親しむ。当時、挙母町には書店は一軒しかなく、そこから西加茂郡全域に毎月配本される4冊の『改造』のうち1冊を伊藤がとっていたという。
清水 末雄(しみず すえお、1905年12月30日 - 19… 清水 末雄(しみず すえお、1905年12月30日 - 1993年6月21日)は、日本の経営者。奈良県出身。 1928年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に朝日新聞社に入社。 1960年1月に神奈川新聞社に転じ、1969年1月には社長に就任した。1981年1月に会長に就任し、1982年1月に取締役相談役を経て、1984年1月には相談役に就任した。 1980年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1993年6月21日脳血栓のために死去。87歳没。
大谷東平(おおたに とうへい、1905年12月29日-197… 大谷東平(おおたに とうへい、1905年12月29日-1977年5月5日)は、日本の気象学者。学位は、理学博士(論文博士・1947年)(学位論文「止風線および集風線の研究」)。 東京出身。旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学理学部卒業。1947年「止風線および集風線の研究」で理学博士の学位を取得。1928年中央気象台嘱託、1939年11月気象技師、1945年7月満州国中央観象台長、1946年大阪管区気象台長、1963年気象大学校長、1964年気象研究所長、1966年退職。天気予報の技術分野に大きな影響を与えた。
長広 敏雄(長廣 敏雄、ながひろ としお、1905年12月2… 長広 敏雄(長廣 敏雄、ながひろ としお、1905年12月27日 - 1990年11月28日)は、日本の美術史学者。専攻は東洋美術史。文学博士(京都大学・論文博士・1962年)(学位論文「中国石窟寺院の研究」)。京都大学名誉教授。 東京府葛飾生まれ(牛込とする記述もあり)。1929年京都帝国大学文学部卒業、東方文化学院京都研究所所員となり、梅原末治の助手となる。1934年の中国旅行を経て仏教石窟研究へ関心が移り、1936年に水野清一と中華民国・河北省南北響堂山および河南省龍門石窟の調査を行った。1938年から1944年にかけては、山西省雲崗石窟の調査を行った。 1930年代後半には反ファシズムの隔週刊新聞『土曜日』の執筆に参加したこともある。
安中 忠雄(あんなか ただお、1905年 <明治38年> 1… 安中 忠雄(あんなか ただお、1905年 <明治38年> 12月27日 - 1999年 <平成11年> 8月17日)は、日本の内務・厚生官僚、政治家。宮崎県知事。位階は従四位。 新潟県出身、東京帝国大学卒。1928年内務省に入省。厚生省大臣官房会計課長を経て1945年宮崎県知事(官選)に就任。 1947年に知事が公選となったのに伴い、初の知事選挙に出馬。一位の二見甚郷が法定得票数に届かず、二見との決選投票となったが、二見の公職追放により無投票当選した。知事を1期務めた後1951年に郷里・新潟県の知事選に鞍替え出馬するが落選。翌1952年の総選挙において新潟2区から自由党公認で立候補したが落選。1959年に返り咲きを目指して再度宮崎県知事選に出馬するも黒木博に敗れた。
小川 弘貫 (おがわ こうかん、1905年12月26日 - … 小川 弘貫 (おがわ こうかん、1905年12月26日 - 1974年4月10日)は、日本の曹洞宗の僧侶、駒澤大学教授、駒沢女子短期大学初代学長。専門は如来蔵思想。
並河 亮(なみかわ りょう、1905年12月26日 - 19… 並河 亮(なみかわ りょう、1905年12月26日 - 1984年5月8日)は、日本の翻訳家、放送作家、放送・文芸・美術・ジャズ評論家、英文学者。 写真家の並河萬里の父。 島根県生まれ。東京帝国大学法学部卒。NHK国際部、毎日放送に勤務。日本大学で文学博士取得。その後同大学旧文学部で教授を務めた。 ドス・パソス『U.S.A.』を唯一完訳。そのほかにアプトン・シンクレアなどの翻訳、放送台本、評論活動がある。 生涯にわたり『華厳経』の研究著作を行った。
波多野 勤子(はたの いそこ、1905年12月26日 - 1… 波多野 勤子(はたの いそこ、1905年12月26日 - 1978年9月15日)は、日本の心理学者。東京出身。父は畠山健。 1927年(昭和2年)日本女子大学英文学部を卒業、女子経済専門学校の英語教師となる。 1928年(昭和3年)日本女子大学児童研究所の開設で所員になる。1930年(昭和5年)波多野完治と結婚。 1936年(昭和11年)東京文理科大学心理学科選科を卒業。 1937年(昭和12年)日本女子大学児童研究所を辞して東京文理科大学教育相談員兼心理学科副手となる。1948年(昭和23年)日本大学の大学院に入学する一方、恩賜財団愛育会愛育研究所教育部員となる(1957年まで)。 1950年(昭和25年)に出版した『少年期―母と子の四年間の記録』がベストセラーとなり、脚光を浴びる。
春見 文勝(かすみ ぶんしょう、1905年(明治38年)12… 春見 文勝(かすみ ぶんしょう、1905年(明治38年)12月25日 - 1998年(平成10年)10月17日)は、日本の僧侶。臨済宗妙心寺派第29代管長、妙心寺642世、海清寺住職、全日本仏教会会長。道号・諱は文勝無覚、室号は「南隠窟」「南陽室」「喝雲窟」「大楠窟」「大楠樹」「自春見」「大楠」遷化時の「大楠」には窟は付けない。 1905年(明治38年)12月25日に岐阜県美濃加茂市にて、父は兼四郎、母はひさの三男として生まれる。男五人、妹一人の六人兄弟。1919年(大正8年)に美濃加茂市の瑞林寺大崎文渓和尚に就て得度。1923年(大正12年)には京都の花園中学入学。1931年(昭和6年)法政大学高等師範部卒業、法政大学に入学。
渡辺 東一(わたなべ とういち、1905年(明治38年)12… 渡辺 東一(わたなべ とういち、1905年(明治38年)12月25日 - 1985年(昭和60年)5月27日)は、将棋棋士。棋士番号4。名誉九段。日本将棋連盟会長。関根金次郎十三世名人門下。千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)出身。日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 1918年、渡辺の親戚でもある関根金次郎に入門。1922年四段昇段。 1941年八段。順位戦に3期参加した後、1949年に引退。 1948年、日本将棋連盟会長に就任。在任中の1949年に名人戦の主催社が毎日新聞社から朝日新聞社に変更されるが、これは渡辺の北海道出張中に交渉を委任された加藤治郎副会長(後の名誉九段)がやったことで、渡辺の帰京後、委任の範囲を巡って渡辺と加藤の間で一悶着あったという。
村山 有(むらやま たもつ、1905年12月24日 - 19… 村山 有(むらやま たもつ、1905年12月24日 - 1968年12月31日)は、アメリカ合衆国シアトル生まれの日本のジャーナリスト。早稲田大学講師。ソルトレイク市名誉市民。ボーイスカウト日本連盟理事・相談役。
祝 宮静(ほうり みやしず、1905年12月24日 - 19… 祝 宮静(ほうり みやしず、1905年12月24日 - 1979年4月20日)は、日本の民俗学者。 大分県宇佐市出身。京都の下鴨神社の宮司の長男として誕生する。父は子爵園池家からの養子、母方の家は大分県杵築の社家であった。1928年國學院大學卒業。その後、國學院大學助手、講師などを勤め、1933年より渋沢敬三のアチック・ミューゼアムで水産史関係資料を研究する。東京農業大学教授を1947年に辞職し郷里に帰る。[要出典]文化財保護委員会事務局から民俗資料の保護の担当者の人選を求められた渋沢の推薦により、1952年に文化財保護委員会事務局記念物課民俗資料係長、のち主任文化財調査官となり、1967年まで勤める。
廣枝 音右衛門(ひろえだ おとえもん、1905年(明治38年… 廣枝 音右衛門(ひろえだ おとえもん、1905年(明治38年)12月23日 - 1945年(昭和20年)2月24日)は、台湾総督府警察の警察官、海軍巡査である。毎年9月第三土曜日か日曜日に、台湾・苗栗県南庄郷の勸化堂で慰霊祭が斎行されている。 1905年(明治38年)12月23日、神奈川県足柄下郡根府川村(片浦村を経て現在の小田原市)に生まれる。片浦尋常高等小学校(現・小田原市立片浦小学校)・逗子開成中学・日本大学予科を経て、1928年(昭和3年)に幹部候補生として佐倉歩兵第57連隊へ入隊。軍曹まで昇進する。 満期除隊後、湯河原町の小学校教員となるが、1930年(昭和5年)に職を辞して台湾に渡り、当時難関の職業であった台湾総督府巡査を志願し晴れて合格した。
西岡 ハル(にしおか ハル、1905年〈明治38年〉12月2… 西岡 ハル(にしおか ハル、1905年〈明治38年〉12月21日 - 1983年〈昭和58年〉11月30日)は、日本の実業家、政治家。位階は正五位。 参議院議員(1期)。旧姓は大串、永野。長崎県知事西岡竹次郎の妻。 長崎県長崎市桜馬場で、大串金三郎、イチ夫妻の五女(10人兄弟)として生まれ、2歳で叔母の養女となり永野に改姓した。1923年、市内の玉木女学校(現長崎玉成高等学校)を卒業後、社会経験のため資産家宅で女中として1年間働いた。1924年4月、第15回衆議院議員総選挙に出馬する西岡竹次郎の選挙事務所の手伝いの依頼を受けて働き、それがきっかけとなり同年10月に西岡と結婚した。夫の政治活動を支える日々を過ごした。
宮腰 喜助(みやこし きすけ、1905年(明治38年)12月… 宮腰 喜助(みやこし きすけ、1905年(明治38年)12月20日 - 1966年(昭和41年)11月30日)は、昭和期の計理士、税務代理士(税理士)、政治家。衆議院議員。 秋田県山本郡能代港町下川反町(現能代市下川反町)で生まれる。1932年(昭和7年)日本大学経済学部を卒業。計理士、税務代理士の業務に従事した。 東京産業社長、協商社社長、中央観光開発社長などを務めた。 1945年(昭和20年)日本協同党・山本実彦創立委員長秘書、同党中央常任委員に就任。1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で秋田県第1区から民主党公認で出馬して当選し、その後改進党に所属して衆議院議員に1期在任した。
赤須 文男(あかす ふみお、1905年12月19日 - 19… 赤須 文男(あかす ふみお、1905年12月19日 - 1991年5月22日)は、日本の医学者。専門は内分泌学。 長野県駒ヶ根市出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校理科を経て、昭和4年(1929年)東京帝国大学医学部卒業。同9年(1934年)医学博士。同10年(1935年)帝国女子医学専門学校(現東邦大学)教授、同33年(1968年)金沢大学医学部教授。同35年(1970年)金沢大学附属病院長、同46年(1971年)退官。私立金沢医科大学客員教授、国保松戸市立病院事業管理者を務めた。 また昭和35年(1970年)日本内分泌学会会長、同43年(1968年)日本産婦人科学会会長、同46年(1971年)日本輸血学会会長などを歴任した。
龍野 一雄(たつの かずお、1905年(明治38年)12月1… 龍野 一雄(たつの かずお、1905年(明治38年)12月19日 - 1976年)は医史学者、医学博士、漢方医学者。新字体表記は竜野一雄。 東京都千代田区出身。 独協中学校卒業後、1932年に慶應義塾大学医学部を卒業し、1935年に同大の医学部講師となる。東洋医学も積極的に研究し、1939年には拓殖大学の漢方講座講師、1951年には漢方研究会を発足させ、1952年にも漢方杏林会を発足させている。また、1950年設立の日本東洋医学会の初代会長(当時は理事長)に就任している。龍野は漢方の科学化を唱えたが、大塚敬節は漢方は学ではない、術だと主張し、龍野一雄を理事会から追放した。このことは山本巌が対談で明らかにしている。
木村 卜堂(きむら ぼくどう、1905年12月19日 - 1… 木村 卜堂(きむら ぼくどう、1905年12月19日 - 1975年8月9日)は、日本の書家。本名は信太郎、卜堂は号。木村東道は長男。栃木県足利市出身。 自ら日本書作家協会(1973年社団法人化)を興し、戦後書壇の隆盛の一翼を担いつつ、文人書家として多彩な創作活動を展開した。 戦前の旧東方書道会展で頭角を顕わし、戦後は新日本書道展、日本書作院、東方書道展などに創立から参画し、審査員を歴任、毎日書道展では初代グランプリ(準大賞)を受賞した。 1959年には同志を糾合、純正書道を標榜して日本書作家協会、新興書道展を創設し、書道の啓蒙と普及、後進作家の育成に尽力、会派を超えた指導力を発揮し、書芸術及び書壇の発展に寄与した。
田中 久雄(たなか ひさお、1905年(明治38年)12月1… 田中 久雄(たなか ひさお、1905年(明治38年)12月18日 - 1981年(昭和56年)4月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 三重県出身。1928年、関西大学専門部商業科を卒業。 時事新報社横浜販売局長、鐘淵紡績東北販売店取締役店長、鐘淵盛岡産業監査役、仙台市繊維製品統制組合理事長、東海航空社長などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に三重県から立候補し当選。その後、第23回、第25回から第27回総選挙まで4回当選し、衆議院議員を通算五期務めた。この間、第2次鳩山一郎内閣・防衛政務次官、改進党政策委員会文部々長、自由民主党青年局長などを歴任した。 1976年4月の春の叙勲で勲二等に叙され、瑞宝章を受章する。
内藤 亮一(ないとう りょういち、1905年12月18日 -… 内藤 亮一(ないとう りょういち、1905年12月18日 - 1983年3月28日)は、日本の建設官僚、建築学者。 東京帝国大学工学部建築学科卒業後、地方で住宅行政に携わった後、建設省住宅局の指導課長として建築士法制定のために活動した。晩年は横浜国立大学で教鞭をとった。
初代有明 月子(ありあけ つきこ、1905年〈明治38年〉1… 初代有明 月子(ありあけ つきこ、1905年〈明治38年〉12月18日 - 没年不明)は、元宝塚少女歌劇団月組主演娘役クラスの人物である。男役も経験した。大阪府大阪市北区中津出身。本名・横沢夏子、旧姓・福井。夫は元プロ野球監督、プロ野球選手の横沢三郎の兄。 この芸名は小倉百人一首の第21番:素性法師の 1918年(大正7年)、7期もしくは8期生として、宝塚少女歌劇団(現在の宝塚歌劇団)に入団。 1926年(大正15年)6月9日、宝塚歌劇団を20歳で退団。 1928年(昭和3年)、宝塚歌劇団に22歳で復帰。雪組に配属される。 1931年、宝塚歌劇団を退団。 高峰妙子・・初代瀧川末子・・奈良美也子・・汐見洋子・・神代錦・・打吹美砂・・越路吹雪・・淀かほる・・星空ひかる・・麻鳥千穂 ・・甲にしき - 安奈淳、松あきら&瀬戸内美八 - 榛名由梨&安奈淳 - 安奈淳 - 松あきら - 松あきら&順みつき - 順みつき - 高汐巴 - 大浦みずき - 安寿ミラ - 真矢みき - 愛華みれ - 匠ひびき - 春野寿美礼 - 真飛聖 - 蘭寿とむ - 明日海りお - 柚香光 - 永久輝せあ(現役) 秋田露子・・初代春日花子・・初代大江美智子・・久美京子・・打吹美砂・・日下輝子・・宮城野由美子・・鳳八千代・・夏亜矢子・・美和久百合・・竹生沙由里・・上原まり(固定でない) - 上原まり&北原千琴 - 美雪花代 - 若葉ひろみ - 秋篠美帆 - ひびき美都 - 森奈みはる - 純名里沙 - 千ほさち - 大鳥れい - ふづき美世 - 桜乃彩音 - 蘭乃はな - 花乃まりあ - 仙名彩世 - 華優希 - 星風まどか - 星空美咲(現役) 高砂松子 - 初代瀧川末子 - 奈良美也子 - 三浦時子 - 汐見洋子 - 神代錦 - 打吹美砂 - 大路三千緒 - 藤波洸子 - 打吹美砂 - 畷克美 - 美吉左久子 - 淡路通子 - 恵さかえ - 但馬久美 - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 星原美沙緒 - 磯野千尋 - 夏美よう - 高翔みず希 - 美風舞良(現役)
米谷 雄二(こめたに ゆうじ、1905年〈明治38年〉12月… 米谷 雄二(こめたに ゆうじ、1905年〈明治38年〉12月16日 - 没年不明)は、日本の政治家、地主。鳥取県西伯郡中浜村会議員。中浜農協組合長。鳥取県酪農協組連、鳥取県畜産会各監事。曹洞宗龍泉寺責任役員。 鳥取県西伯郡中浜村(現・境港市)の長山家に生まれ、米谷家の養子となる。倉吉農学校卒業後は祖父の遺業の肥料商を家業とするも、感ずる所あってその経営を断つ。1943年、農業会長。また中浜村学務委員、中浜村会議長、境港市教育委員会委員、境港市農業委員会委員などをつとめる。 趣味は読書。住所は境港市新屋町。 消防施設事業に私有地を提供したため、感謝状を贈呈される。 先考の光造は学務委員、米川水利組合会議員。
松崎 啓次(まつざき けいじ、1905年〈明治38年〉12月… 松崎 啓次(まつざき けいじ、1905年〈明治38年〉12月15日 - 1974年〈昭和49年〉10月10日)は、日本の映画プロデューサー、脚本家、作詞家。本名の青木 義久でも活躍した。梶井基次郎らの『青空』にも参加した。 京都府生まれ。京都府立医科大学出身。ソ連・ロシア文学の翻訳家として活躍し、1929年(昭和4年)に結成されたプロキノ(日本プロレタリア映画同盟)に参加していたが、次第に商業映画との関わりを強め、PCLから東宝、中華電影公司でプロデューサーを務めた。 戦後は東映や自ら設立した独立プロの「松崎プロダクション」(前身は内外映画社)で、劇場向け劇映画や『鉄腕アトム』、『鉄人28号』(いずれも実写ドラマ)などのテレビ番組、記録映画などを制作した。
大倉 精一(おおくら せいいち、1905年(明治38年)12… 大倉 精一(おおくら せいいち、1905年(明治38年)12月15日 - 1974年(昭和49年)8月14日)は、日本の労働運動家、政治家。参議院議員。 三重県、現在の桑名市で生まれる。1931年、早稲田大学商学部を卒業した。名古屋運搬合資会社に入社後、1941年、会社統合により日本通運に移籍した。 戦後、全日通労働組合(全日通)中部地区書記長、同中央執行委員長、全交通副議長、中央労働基準委員、中央職業安定委員などを務めた。 1953年4月、第3回参議院議員通常選挙に全国区から社会党左派所属で出馬して当選したが、栃木県佐野市の投票所で候補者平林剛の所属政党名の誤記があったことにより、1954年9月24日、最高裁判所の上告審判決により佐野市での選挙が無効となり、大倉を含めた6名が失格した。
岩淵 悦太郎(いわぶち えつたろう、1905年12月14日 … 岩淵 悦太郎(いわぶち えつたろう、1905年12月14日 - 1978年5月19日)は、日本の国語学者。専門は音韻史。『岩波国語辞典』の編者として知られる。 福島県白河市出身。1917年、東京市下谷区に転居。京北中学校、旧制静岡高等学校を経て、1930年、東京帝国大学文学部を卒業。 同年、東京帝国大学文学部助手に就任。1938年、大阪高等学校(現 大阪大学)教授、1942年、第一高等学校教授、1946年東京女子高等師範学校(現 お茶の水大学)教授。1947年、文部省文部事務官。1949年、国立国語研究所研究第一部長を経て、1960年、同研究所2代目所長に就任。1963年、『岩波国語辞典』(共編)を刊行する。
高橋 松蔵(たかはし まつぞう、1905年〈明治38年〉12… 高橋 松蔵(たかはし まつぞう、1905年〈明治38年〉12月14日 - 1981年〈昭和56年〉1月31日)は、日本の外科医、内科医、小児科医。紫野診療所元所長、京都民医連第2代会長、ミノファーゲン製薬本舗元顧問。 新潟県出身。新潟師範学校附属小学校を経て、1922年(大正11年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1925年(大正14年)3月に新潟高等学校を卒業、1929年(昭和4年)3月に京都帝国大学医学部医学科を卒業。 1929年(昭和4年)4月に京都帝国大学医学部外科学教室副手に就任、1930年(昭和5年)9月15日に京都府宇治市の花屋敷浮舟園で結婚。 1931年(昭和6年)に京都府京都市左京区田中馬場町の養正隣保館に診療所を開設。
島田 正吾(しまだ しょうご、本名;服部 喜久太郎<は… 島田 正吾(しまだ しょうご、本名;服部 喜久太郎<はっとり きくたろう>、1905年12月13日 - 2004年11月26日)は、新国劇の俳優。横浜市生まれ。
佐藤 正彰(さとう まさあき、1905年12月12日 - 1… 佐藤 正彰(さとう まさあき、1905年12月12日 - 1975年11月1日)は、フランス文学者。
深沢 晟雄(ふかさわ まさお、1905年12月11日 - 1… 深沢 晟雄(ふかさわ まさお、1905年12月11日 - 1965年1月28日)は、日本の政治家。岩手県沢内村(現・西和賀町)の村長(2代目)を務めた。 明治38年(1905年)12月11日、岩手県沢内村の小地主の家に一人っ子として生を受ける。小学校は村立新町小学校太田分教場に入学した。性格は明るく、人一倍賢いが、心根は常に優しい子だったという。学業が優秀だったことから、後に一関中学校から第二高等学校を経て東北帝国大学に進む。かつて深沢の祖父が政治家をして家財を傾けた経験から、両親からは医者になるよう望まれたが、本人は早くに医学部に愛想を尽かし、後にこっそりと法文学部へと移籍しそのまま卒業した。
浅野 信(あさの しん、1905年〈明治38年〉12月11日… 浅野 信(あさの しん、1905年〈明治38年〉12月11日 - 1984年〈昭和59年〉11月16日)は、日本の国語学者・国文学者。文学博士。和洋女子大学教授、國學院大學講師。本名は浅野信(のぶ)。 1905年(明治38年)、栃木県に生まれる。1929年(昭和4年)、國學院大學卒。松下文法の松下大三郎に学んだ。浅野の文法論も浅野文法とも言われ、「国語学・国文学の泰斗」とされ、文法学のみならず、すぐれた俳諧文芸の研究者としても評価された。1958年(昭和33年)3月、「切字の研究」によって國學院大學より文学博士号を授与される。 著書として、『切字の研究』のほか、『音韻上より見たる俳諧文法論』『日本文法辞典』『日本文法文章論』『日本文法語法論』『日本文法文体論』『日本文法発想論』『文法と文学』『俳諧の語意と文法』など。
前尾 繁三郎(まえお しげさぶろう、1905年12月10日 … 前尾 繁三郎(まえお しげさぶろう、1905年12月10日 - 1981年7月23日)は、日本の政治家、官僚。宏池会第二代会長。第58代衆議院議長。
本郷 新(ほんごう しん 、1905年(明治38年)12月9… 本郷 新(ほんごう しん 、1905年(明治38年)12月9日 - 1980年(昭和55年)2月13日)は、日本の彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。息子は俳優の本郷淳、義娘(息子の妻)は柳川慶子。孫は俳優の本郷弦(無名塾所属)。 北海道札幌区(現札幌市)生まれ。父・敏慎(びんしん)は島根県松江市出身で、札幌農学校を卒業後に種苗・農具の会社を設立した。母・楯(じゅん)は山形県鶴岡市出身で、スミス女学院を卒業。キリスト教的な雰囲気の教育方針をとった。6人兄弟の次男。実家は南1条西13丁目。 1919年、旧制・札幌第二中学校(現北海道札幌西高等学校)に入学。父の経営する会社が東京に進出したことから、東京の順天中学校に転入。
澁川 善助(しぶかわ ぜんすけ、1905年12月9日 - 1… 澁川 善助(しぶかわ ぜんすけ、1905年12月9日 - 1936年7月12日)は、日本の政治運動家。 福島県若松市七日町の海産物問屋に生まれた。会津中学校、仙台陸軍地方幼年学校を経て陸軍士官学校予科に進む。予科卒業時に「恩賜の銀時計」を贈られるほど成績優秀であったが、陸軍士官学校(39期)本科卒業目前に教官と衝突し退学となる。その後1928年(昭和3年)、明治大学専門部政治経済科に学び、国家主義運動にかかわる。明大卒業後の1932年(昭和7年)に、杉田省吾、西田税、福井幸、加藤春海等とともに維新同志会を結成した。1933年の救国埼玉青年挺身隊事件では取り調べを受けた。1935年には、渋川の拳銃が襲撃事件に使用された嫌疑で起訴されている。
山本 勝巳(やまもとかつみ、1905年12月9日 - 199… 山本 勝巳(やまもとかつみ、1905年12月9日 - 1991年9月23日)は、日本の建築家。
山本 勝巳(やまもとかつみ、1905年12月9日 - 199… 山本 勝巳(やまもとかつみ、1905年12月9日 - 1991年9月23日)は、日本の建築家。 東京府出身。旧制愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を卒業。1930年に東京美術学校を卒業後、岡田建築事務所(岡田信一郎の事務所)、大林組を経て1940年に独立し、山本建築事務所を開設。1949年、海老原一郎と共同で、信建築設計事務所を設立(海老原は間もなく独立)。 映画監督の山本薩夫は実弟。子息の山本學、山本圭、山本亘はいずれも俳優である。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。
山本 弘(やまもと ひろむ、1905年 <明治38年> 12… 山本 弘(やまもと ひろむ、1905年 <明治38年> 12月6日 - 1986年 <昭和61年> 5月4日)は、日本の経営者。元住友信託銀行社長。位階は従四位。 愛媛県出身。1926年に山口高等商業学校を卒業し、同年に住友信託銀行に入行。1947年5月に取締役に就任、1948年7月に常務、1960年5月に専務、1963年7月に副社長を経て、1969年5月には社長に就任。1972年5月に会長に就任、1976年9月に取締役相談役を経て、1984年1月には相談役名誉顧問に就任。 1982年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1986年5月4日に急性肺炎のために死去。80歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
図司 安正(圖司 安正、ずし やすまさ、1905年(明治38… 図司 安正(圖司 安正、ずし やすまさ、1905年(明治38年)12月4日 - 1990年(平成2年)5月12日)は、日本の政治家。衆議院議員。 1976年(昭和51年)に勲二等瑞宝章を受章している。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
八田 尚之(はった なおゆき、1905年12月2日 - 19… 八田 尚之(はった なおゆき、1905年12月2日 - 1964年8月25日)は、日本の脚本家。生涯100本近い脚本作品のうち第二次世界大戦前に1作だけ自ら監督し映画化した教育映画がある。女優の宝生あやこは妻。 1905年(明治38年)12月2日、北海道小樽市の生まれ。北海道庁立小樽中学校(現北海道小樽潮陵高等学校)卒業後、上京。 1927年(昭和2年)、21歳のときに京都の牧野省三のマキノ・プロダクションと提携する同社所属俳優勝見庸太郎の勝見庸太郎プロダクション(勝見プロ)に入社。翌1928年(昭和3年)3月、オリジナルストーリーが勝見に採用され勝見自身による脚本(「勝見黙笑」名義)・監督・主演作『べらぼう長者』として映画化された。
加古 祐二郎(かこ ゆうじろう、1905年12月2日 - 1… 加古 祐二郎(かこ ゆうじろう、1905年12月2日 - 1937年7月20日)は、日本の法学者(法哲学)。京都府与謝郡宮津町(現:宮津市)波路出身。京都帝国大学法学部講師、立命館大学法経学部教授。旧制甲南高等学校講師。 1905年(明治38年)12月2日、父・加古寅治、母・久子との間に、男3人女4人の七人兄弟の三男として生まれる。代々父方の家系は兵庫県加古郡平岡村一帯を治める郷士であったが、寅治が司法官の道を選んだため、一家が加古郡に定住することはなく、舞鶴、丸亀、堺、宮津、大阪などを転々をして過ごすこととなった。司法官としての寅治は、大阪控訴院部長まで務めている。 1923年(大正12年)、天王寺中学校を卒業した祐二郎は、旧制の甲南高等学校に第一期生として入学。
小野 勝年(おの かつとし、1905年12月1日 - 198… 小野 勝年(おの かつとし、1905年12月1日 - 1988年12月20日)は、日本の歴史家。専門は、東洋史・仏教史。 1905年、長野県上伊那郡小野村(現:辰野町)で生まれた。長野県松本中学校、松本高等学校文科乙類を経て、1927年に京都帝国大学文学部史学科に入学。在学中に2年間病気療養のために休学したが、1933年に卒業論文『両税制度の一考察を提出して卒業。京都帝国大学大学院へ進んだ。 同じく1933年、京都帝国大学文学部副手に採用(-1943年5月)。1937年より外務省在支特別研究員として中華民国北平市(現:北京市)に留学。華中・華北・東北・蒙古等の史蹟の調査を行い、中国美術・考古の研究を進めた。
高橋 成通(たかはし せいつう、米国名: Seytsu Ta… 高橋 成通(たかはし せいつう、米国名: Seytsu Takahashi、1905年(明治38年)12月1日 - 1984年(昭和59年)4月1日)は、日本の高野山真言宗の僧侶。ロサンゼルス高野山別院・第4代主監であり、仏教伝道師でもある。広島県庄原市出身。 1905年(明治38年)、広島県比婆郡東城町(現:庄原市)で出生する。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、後に京都社寺信用組合(現・京都信用金庫)理事長、京都市観光局長を務める小橋確治がいた。1925年(大正14年)3月に同校を卒業。その後、僧侶として修行する傍ら、高野山大学一般仏教学科へ進学し、1931年(昭和6年)同校を卒業する。
斎藤 克郎(さいとう かつろう、1905年12月1日 - 1… 斎藤 克郎(さいとう かつろう、1905年12月1日 - 1990年7月15日 )は、日本の経営者。東北銀行頭取を務めた。 岩手県出身。旧制盛岡中学校を経て、1929年に慶應義塾高等部を卒業し、同年に盛岡銀行に入行。1950年11月に東北銀行取締役に就任し、1958年14月に常務、1968年に専務、1974年5月に副頭取を経て、1976年4月に頭取に就任。1982年6月から取締役相談役を務めた。テレビ岩手監査役なども歴任した。 1979年11月に勲四等瑞宝章を受章。 1990年7月15日膀胱癌のために死去。84歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
杉 豊(すぎ ゆたか、1905年12月1日 - 1981年7… 杉 豊(すぎ ゆたか、1905年12月1日 - 1981年7月19日 )は、日本の経営者。日本光学工業(のちのニコン)社長を務めた。 東京都出身。1929年に東京帝国大学工学部造兵科を卒業し、同年に日本光学工業に入社。1949年7月に取締役に就任し、1961年5月に常務を経て、1969年5月に社長に就任。1973年4月に会長に就任。 1976年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1981年7月19日肝不全により、死去。75歳没。
佐藤 策次(さとう さくじ、1905年〈明治38年〉12月1… 佐藤 策次(さとう さくじ、1905年〈明治38年〉12月1日 - 1997年〈平成9年〉4月15日)は、日本の政治家。新潟県直江津市(現・上越市)長(3期)。 新潟県中頸城郡直江津町(のち直江津市、現・上越市)出身。東京高等師範学校臨時教員養成所卒。1925年(大正14年)北海道立室蘭中学校に赴任した。その後、旧制新潟県立高田中学校(現新潟県立高田高等学校)の教諭と教頭を務める。戦後、新制直江津町立直江津中学校(のち直江津市立直江津中学校、現上越市立直江津中学校)校長となる。1962年(昭和37年)直江津市長に当選。同年7月に就任した。高田市と合併するまで市長を3期務めた。在職中、高田市との合併が起こり、合併の方向で話を進め、1971年(昭和46年)に上越市が発足した。
金子 武雄(かねこ たけお、1905年〈明治38年〉12月 … 金子 武雄(かねこ たけお、1905年〈明治38年〉12月 - 1984年〈昭和59年〉11月22日)は、日本の国文学者。立教大学名誉教授。中世物語文学が専門で、中村本『夜の寝覚』の注釈で知られる。 国文学者の金子元臣の長男として東京に生まれる。 1931年東京帝国大学文学部国文科卒。立教大学教授、1971年定年退任、名誉教授。 1906年生まれの金子武雄とは同姓同名の別人であるが、生没年ともに極めて近く、研究した専攻分野は異なるものの近いため一般書などでは同じ分野のものも多く、国会図書館の書誌データベースの著者の情報では混同されていた、という話が以前よりあり、現在も混同されたままである。
加藤 愛雄(かとう よしお、1905年11月30日 - 19… 加藤 愛雄(かとう よしお、1905年11月30日 - 1992年1月28日)は、日本の地球物理学者。東北大学名誉教授。理学博士。専門は地球電磁気学。 化学者の加藤多喜雄は兄。生物学者の加藤陸奥雄、地質学者の加藤磐雄は弟。大甥(甥の息子)に数学者の加藤文元。 千葉県夷隅郡大多喜町生まれ。旧制宮城県仙台第一中学校、旧制第二高等学校を経て、1930年東北帝国大学理学部物理学科卒業。同年より同大学副手、翌年助手、1938年助教授、1945年地球物理学教室を創設、教授となる。 短周期の地球磁場変動を観測するため、東北大学金属材料研究所で発見された高誘導磁率合金センダストを磁芯に用いた誘導型磁力計(フラックスゲート磁力計)を開発、地磁気3成分の微細変動を長期間広範囲にわたって観測し、正弦波形定常脈動を各周波数ごとにPc1からPc5までの5つに分類した。
圓鍔 勝三(えんつば かつぞう、1905年〈明治38年〉11… 圓鍔 勝三(えんつば かつぞう、1905年〈明治38年〉11月30日 - 2003年〈平成15年〉10月31日)は、広島県出身の彫刻家。文化功労者、文化勲章受章、広島県名誉県民、尾道市名誉市民。位階は従三位。本名は勝二。 1905年(明治38年)11月30日、広島県御調郡河内町(御調町を経て現・尾道市)に生まれる。1921年(大正10年)河内尋常高等小学校高等科を卒業し、彫刻家を志して京都へ赴き、石割秀光の内弟子となって木彫を学ぶ。1926年、京都市立商工専修学校彫刻科・デッサン科に入学。また同年、関西美術院に入り、木彫から近代的造形を学ぶ。1928年(昭和3年)に上京し、日本美術学校彫刻科へ入学。