スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
琴櫻 傑將(ことざくら まさかつ、1940年11月26日 -… 琴櫻 傑將(ことざくら まさかつ、1940年11月26日 - 2007年8月14日)は、鳥取県東伯郡倉吉町(のちの鳥取県倉吉市)出身で佐渡ヶ嶽部屋に所属した大相撲力士。第53代横綱。本名は鎌谷 紀雄(かまたに のりお)。 1940年11月26日に、鳥取県倉吉町の借家地で警察官の子として誕生する。倉吉町立成徳小学校を卒業後、倉吉町立東中学校時代に実父から柔道を仕込まれ、本来は中学生では取得を認められていない段位を特例で認めてもらうほどの腕前にまで上達する。偶々柔道の全国大会のTV中継を見てその才能を見出し、そうして鳥取にやって来た佐渡ヶ嶽から熱心に勧誘されたが、周囲に反対されるもののどうにか了解を得て佐渡ヶ嶽部屋に入門、1959年1月場所に初土俵を踏んだ。
種部 儀康(たねべ のりやす、1938年1月21日 - )は… 種部 儀康(たねべ のりやす、1938年1月21日 - )は、鳥取県倉吉市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。妻は宮田征典(読売ジャイアンツ同期入団)の姉・鈴子。孫はシンガーソングライター兼グラビアアイドルの宮田みほ。 上灘小から倉吉東中を経て入学した倉吉農業高ではエースとして活躍したが、同年次に米子東高の義原武敏や境高の米田哲也といった好投手がおり、甲子園には出場できなかった。高校卒業後は1957年に米子鉄道管理局へ入社し、改札の切符切りなどの業務に従事。鉄道関係の略号などに詳しくなったほか、レールの上を走る汽車や貨車の車種を当てる特技も身に付けた。1961年にはクラレ岡山の補強選手として都市対抗に出場し、北海道拓殖銀行との1回戦に登板したが、敗戦投手となっている。
徳山 一美(とくやま かずみ、1938年 - 2007年8月… 徳山 一美(とくやま かずみ、1938年 - 2007年8月16日)は、元高校野球指導者で、元倉吉北高等学校野球部監督。 岡山県真庭市蒜山生まれ。鳥取県立倉吉農業高等学校に入学し、野球部では捕手を務めた。高校卒業後に進学した駒澤大学では相撲部で活躍した。大学卒業後、東京都内の会社に就職。1965年、創立5年目の倉吉北高等学校に社会科教諭として赴任。1969年に野球部が創部され、監督に就任する。 当時の鳥取県では、県立鳥取西高校・県立米子東高校の両校が強く、「少ない得点を守り抜いて勝つ」野球が主流だった。徳山は「2強と同じことをしていては勝てない」と考え、打力を前面に押し出したチーム作りを進めた。
牧田 実夫(まきた じつお、別表記 : 牧田 實夫、1919… 牧田 実夫(まきた じつお、別表記 : 牧田 實夫、1919年(大正8年)11月18日 - 2011年(平成23年)7月23日)は、昭和から平成時代の政治家。鳥取県倉吉市長。位階は正五位。 鳥取県久米郡倉吉町(現・倉吉市)出身。1937年、鳥取県立倉吉農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)を卒業。 1951年、倉吉町議会議員に初当選。町議会議員1期、市議会議員5期、鳥取県議会議員3期を務めた。1982年、倉吉市長に当選。1983年、市制施行30周年にあたり第5次総合開発計画、新広域市町村圏計画およびモデル定住圏計画を基本に「中部中核都市づくり」「活力と潤いのあるまちづくり」を目指し、「水と緑と文化のまちづくり」を目標に掲げる。
米谷 雄二(こめたに ゆうじ、1905年〈明治38年〉12月… 米谷 雄二(こめたに ゆうじ、1905年〈明治38年〉12月16日 - 没年不明)は、日本の政治家、地主。鳥取県西伯郡中浜村会議員。中浜農協組合長。鳥取県酪農協組連、鳥取県畜産会各監事。曹洞宗龍泉寺責任役員。 鳥取県西伯郡中浜村(現・境港市)の長山家に生まれ、米谷家の養子となる。倉吉農学校卒業後は祖父の遺業の肥料商を家業とするも、感ずる所あってその経営を断つ。1943年、農業会長。また中浜村学務委員、中浜村会議長、境港市教育委員会委員、境港市農業委員会委員などをつとめる。 趣味は読書。住所は境港市新屋町。 消防施設事業に私有地を提供したため、感謝状を贈呈される。 先考の光造は学務委員、米川水利組合会議員。
佐賀 省三(さが しょうぞう、明治38年(1905年)5月8… 佐賀 省三(さが しょうぞう、明治38年(1905年)5月8日 - 平成2年(1990年)以降)は日本の俳人、政治家。元境港市議会議員。号榎村。佐賀家の12代目。 俳人鹿島平堂は大おじにあたる。 鳥取県西伯郡上道村(現・境港市上道町)の農家に生まれる。 鳥取県立農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)、正則英語学校(現・正則学園高等学校)を経て、大正14年(1925年)3月に東京府立園芸学校(現・東京都立園芸高等学校)卒業。大正15年(1926年)3月、早稲田大学専門部中退。 帰郷して農業に従事する。上道村会議員、境港市会議員などをつとめた。 元農業会理事、村会議員、境港市農業委員等務め農業多角経営の指導、実践に努力、養鶏の大家として三十年の経験と共に県下に有名である。
塩谷 定好(しおたに ていこう、本名:しおたに さだよし、1… 塩谷 定好(しおたに ていこう、本名:しおたに さだよし、1899年10月22日 - 1988年10月28日)は、日本の写真家。 鳥取県東伯郡赤崎村(現・琴浦町)に生まれる。生家は廻船問屋である。 明治初期の商家である生家は塩谷家により寄贈され、「NPO法人塩谷定好フォトプロジェクト」により、作品展示を行う記念館として整備され、塩谷定好写真記念館として2014年4月26日に開館した。
長山 英一(ながやま えいいち、明治30年(1897年)10… 長山 英一(ながやま えいいち、明治30年(1897年)10月14日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手、登山家、政治家。元境港市議会議員。 鳥取県西伯郡中浜村大字佐斐神(現・境港市佐斐神町)出身。長山善完の長男。長山家は大農家だった。鳥取県立農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)卒業。 大正8年(1919年)日本体育会主催の第7回全国オリンピックに出場した英一は、1,500メートル、4分28秒(日本新記録)で第1位、同タイムの早大・麻生武治と優勝を分け合い、優勝カップを夫々受賞した。 大正11年(1922年)松本秀松(渡村出身)と鳥取県で初めて冬山大山登山に挑んだ。 戦後、村会議員、市会議員などをつとめた。
青砥 喜三郎(あおと きさぶろう、明治27年(1894年)5… 青砥 喜三郎(あおと きさぶろう、明治27年(1894年)5月5日 - 昭和61年(1986年)8月13日)は、日本の実業家。元米子商工会議所顧問名誉副会頭。元米子信用金庫会長。 元山陰放送社長青砥昇、元米子信用金庫会長青砥順の父。 吉太郎の長男。鳥取県立農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)卒業。 昭和11年(1936年)米子信用組合主事、専務理事を経て第四代組合長に就任。昭和26年(1951年)から28年間にわたって改組後の米子信用金庫理事長を務め、山陰第一位、中国地方第三位の信用金庫の実績を築いた。 この間、鳥取県信用金庫協会会長、中国地区信用協会会長、全国信用金庫協会理事、米子商工会議所副会頭、米子ロータリークラブ会長、美保大空友の会会長、陸上自衛隊米子駐屯部隊協力会長などを務め、業界や地方経済社会の発展に尽くした。
米原 章三(よねはら しょうぞう、明治16年(1883年)1… 米原 章三(よねはら しょうぞう、明治16年(1883年)11月16日 - 昭和42年(1967年)10月19日)は日本の実業家、政治家。鳥取県多額納税者。鳥取県会議員、貴族院議員。鳥取市名誉市民。旧姓藤縄。 鳥取県八頭郡河原町(現・鳥取市)に生まれた。実父の範七は1885年に県会議員となったが1890年に病没、その後家運は衰退した。国英村の八上高等小学校を終えると鳥取県立簡易農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)に入った。17歳の春に同校を卒業すると、若桜小学校で代用教員として短期間勤務した。 1900年9月、大日本農会附属私立東京農学校(現・東京農業大学)に入学、1903年に卒業。続いて早稲田大学専門部政治経済科に入学。
松本 倭重(まつもと わじゅう、1881年〈明治14年〉10… 松本 倭重(まつもと わじゅう、1881年〈明治14年〉10月9日 - 1943年〈昭和18年〉11月13日)は、日本の会社役員、地主、政治家。鳥取県会議員(政友会)。鳥取県西伯郡県村長。米子共立検番監査役。合資会社米子均一タクシー自動車商会有限責任社員。 鳥取県西伯郡県村(現・米子市)出身。鳥取県立農学校卒業。郡会議員、県村会議員、学務委員、鳥取県会議員、参事会員等を歴任。1923年、県村長に就任。 大日本國粹会鳥取県米子支部長である。住所は鳥取県西伯郡県村大字日下。
本城 藤造(ほんじょう とうぞう、明治13年(1880年) … 本城 藤造(ほんじょう とうぞう、明治13年(1880年) - 昭和7年(1932年))は、日本の政治家。第34代鳥取県会議長。元鳥取県気高郡大和村長。農業。 鳥取県気高郡大和村横枕(現・鳥取市横枕)に生まれる。大和村長を務めた本城竹次郎の長男。 1895年、鳥取県立農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)卒業。 1901年から農業技術員として鳥取・大分・群馬・新潟県下に勤務。 1919年に大和村長、1923年から鳥取県会議員となり、1932年に第34代鳥取県会議長に就任したが、2ヵ月足らずで任期中に死去。 民政党鳥取県支部幹事長、鳥取県一心会評議員も務めた。
林 脩己(はやし のぶみ、1874(明治7)年5月26日-1… 林 脩己(はやし のぶみ、1874(明治7)年5月26日-1945(昭和20)年3月13日)は、日本の園芸家。造園家、園芸・造園教育者。 明治時代に大隈重信や三菱岩崎家のために園芸栽培と邸宅庭園の管理を担当。英国の園芸と庭園を調査、研修のために留学し欧米の園芸を知る当時の最高レベルの園芸家・庭園家。明治前半期から終戦の直前まで日本の園芸と庭園に関わり、貢献した人生を送る。また千葉県立園芸専門学校(現・千葉大学園芸学部)設立時講師として園芸造園教育にも参画し幾多の園芸家・庭園家を育てる。 以下は林脩己 先生のこと (PDF) , 林脩己 先生のこと② (PDF) ,林脩己 先生と花卉園芸 (PDF) を参照している。