永田 稠(ながた しげし、1881年12月30日 - 197… 永田 稠(ながた しげし、1881年12月30日 - 1973年1月2日)は、日本の移民事業家。 長野県諏訪郡豊平村(現・茅野市)出身。諏訪郡立実科中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)卒業。玉川尋常高等小学校(現・茅野市立玉川小学校)の代用教員を務める。当時の校長は島木赤彦が務めていた。東京専門学校(現・早稲田大学)予科政治科中退。1906年北海道へ移住。1907年渡米青年を援助する日本力行会に入会。1908年渡米し1913年帰国後、日本力行会第2代会長に就任。1922年信濃海外協会設立に参画し理事、日本力行会海外学校設立。1924年ブラジルアリアンサ移住地建設に尽力。1933年関東軍移民部の嘱託として満州の現地視察を行い、ブラジル経験者ならではの批判を込めた報告を関東軍に提出。
小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年(明治14年)12月… 小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年(明治14年)12月30日 - 1964年(昭和39年)4月16日)は、明治・大正・昭和時代の洋画家・日本画家・歌人・随筆家。本名は国太郎、別号に未醒、放菴。 長男は東洋美術研究者の小杉一雄で、放庵の著作を多数編纂している。二男はインダストリアルデザイナーの小杉二郎。俳優の小杉義男は甥。 栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)に二荒山神社の神官・富三郎の子として生まれる。父は国学者でもあり、1893年(明治26年)から1897年(明治30年)にかけては日光町長も務めていた。 1896年(明治29年)から日光在住の洋画家・五百城文哉の内弟子となるが、五百城に無断で出奔、上京して白馬会洋画研究所に入る。
久慈 直太郎(くじ なおたろう、1881年〈明治14年〉12… 久慈 直太郎(くじ なおたろう、1881年〈明治14年〉12月29日 - 1968年〈昭和43年〉6月26日)は、日本の産婦人科学者である。 神奈川県横浜市金沢区に生まれ、岩手県盛岡市にて育つ。盛岡中学卒業。東京帝国大学医科大学に入学し、1906年(明治39年)に同大学を卒業した。卒業後は留学のため渡米し、帰国後は母校の東大医科大学の副手や盛岡市に所在する岩手病院(現在の岩手県立中央病院)の産婦人科の科長として活動する。その後は朝鮮総督府に渡り同府が運営する医院の副医官や、1916年(大正5年)には京城医学専門学校にて教鞭を執った。 1921年(大正10年)には医学博士を取得し、翌々年の1923年(大正12年)より旧制の金沢医科大学(現在の金沢大学医学部)の教授として活動する。
青木 雷三郎(あおき らいさぶろう、1881年(明治14年)… 青木 雷三郎(あおき らいさぶろう、1881年(明治14年)12月26日 - 1960年(昭和35年)7月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、明石市長。弁護士。 岡山県浅口郡富田村(現在の倉敷市)に尾藤廉平の三男として生まれ、青木与八郎の養子となった。1912年(大正元年)、弁護士試験に合格。翌年に中央大学法科を卒業し、弁護士を開業。後に神戸弁護士会会長に選ばれた。1920年(大正9年)、明石市会議員に選出され、議長に当選した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第18回、第19回でも再選された。1937年(昭和12年)、明石市長に就任した。1946年(昭和21年)、明石市長を辞任した。
倉田白羊(くらた はくよう、1881年〈明治14年〉12月2… 倉田白羊(くらた はくよう、1881年〈明治14年〉12月25日 - 1938年〈昭和13年〉11月29日)は、日本の洋画家。浦和画家を代表する人物でもある。 自然をモデルにした作品を多く発表し、初期文展に入選を重ねた。山本鼎の提唱した農民美術運動の協力者でもある。本名は重吉(しげよし)。 埼玉県浦和町(現・さいたま市浦和区)出身。父の倉田幽谷は佐倉藩士の漢学者で、安井息軒の高弟であった。 1894年(明治27年)、洋画家・浅井忠の門下生となる。これは、浅井に師事し将来を嘱望されていたが23歳で早世した兄・倉田弟次郎の遺志を継ぐためであった。この頃、同じく浅井の門下生だった石井柏亭と親しくなる。
真鍋 勝(まなべ かつ、1881年〈明治14年〉12月24日… 真鍋 勝(まなべ かつ、1881年〈明治14年〉12月24日 - 1963年〈昭和38年〉6月7日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→民主自由党→自由党)、司法参与官。弁護士。 徳島県美馬郡貞光村(現在のつるぎ町)に武田嘉六の子として生まれ、真鍋儀平の養子となった。第三高等学校を経て、1915年(大正4年)に東京帝国大学文科大学英文科を卒業。1923年(大正11年)、京都帝国大学法学部を卒業し、弁護士を開業した。大倉喜八郎の顧問弁護士も務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に立候補し、当選。第20回まで4回当選を果たした。その間、阿部内閣で司法参与官を務めた。 戦後は第24回衆議院議員総選挙に当選した。
田中 貢一(たなか こういち、1881年12月24日 - 1… 田中 貢一(たなか こういち、1881年12月24日 - 1965年2月25日)は、日本の植物学者。 長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市)出身。明治35年(1902年)長野県師範学校在学中のに信濃博物学会創設に参画し、編集主任として「信濃博物雑誌」の発行にあたった。また東宮(のちの大正天皇)の巡幸により同校を訪れた際には、予め採集したトガクシショウマ(トガクシソウ)を献上した。同36年(1903年)卒業、上水内郡古牧小学校訓導となる。同37年(1904年)牧野富太郎の斡旋により東京帝国大学農学部実科の池野成一郎の助手となった。大正2年(1913年)帝国駒場農園が設立されると、技術長として農産物種子検査や苗木の育成、全国の小学校の学校植物園の普及事業に従事した。
高橋 小十郎(たかはし こじゅうろう、1881年〈明治14年… 高橋 小十郎(たかはし こじゅうろう、1881年〈明治14年〉12月24日 - 1943年〈昭和18年〉4月3日)は、実業家、2代豊橋市長。 1881年(明治14年)12月24日、愛知県八名郡賀茂村の竹尾準の次男、竹尾茂彦として生を受ける。札幌農学校卒。 1907年(明治40年)、豊橋市船町の問屋業高橋小十郎(久助)の養子となる。 1912年(明治45年)、初代豊橋市長大口喜六の後を継ぎ2代市長に就任する。 1913年(大正2年)、飯村溜池不正事件の責を負い辞任。先代の大口市長も疑獄事件に関連して辞任したが、結局2代続けて市政の不正事件に関連して市長が辞任する事態となった。 1918年(大正7年)、実父である竹尾準の後任として三遠銀行頭取に就任し、同年豊橋商業会議所会頭にもなる。
池田 宏平(いけだ こうへい、1881年〈明治14年〉12月… 池田 宏平(いけだ こうへい、1881年〈明治14年〉12月22日 - 1905年〈明治38年〉5月30日)は、日本の海軍軍人。日本海海戦で戦死した海軍中尉である。大蔵大臣などを歴任した池田成彬は兄。従七位勲六等功四級。 海軍兵学校30期。山形県米沢市出身。父は米沢藩士・池田成章。同期生に百武源吾、松山茂などがおり、米沢からは今村信次郎、下村忠助など7名が入校している。兵学校卒業後の遠洋航海から帰国した1903年(明治36年)12月、海軍少尉に任官し、ほどなく日露戦争開戦を迎えた。 池田は新造駆逐艦の配置を希望し、第二駆逐隊所属の「雷」へ配属となる。日本海海戦の初日である1905年(明治38年)5月27日、日本海軍の駆逐隊、水雷艇隊はバルチック艦隊に対し夜間攻撃を実施した。
斎藤 五百枝(さいとう いおえ、1881年12月21日 - … 斎藤 五百枝(さいとう いおえ、1881年12月21日 - 1966年11月6日)は、日本の映画美術の美術デザイナー、背景画家、出版における挿絵画家である。日本映画の黎明期に、吉沢商店、日活向島撮影所、国際活映角筈撮影所で、クレジットされることもなくセットの背景を描いた人物であり、後に『少年倶楽部』の表紙画で人気を博した。岡田三郎助門下。 1881年(明治14年)12月21日、千葉県長柄郡一宮本郷村(現在の長生郡一宮町)に、旧一宮藩(加納氏)家老堀内家の三男、俊郎の第七子として産まれる。のち、父の俊郎が旧大和田原本藩(平野氏)家老斎藤家の養子となったため、斎藤姓となる。 一宮尋常高等小学校(現在の一宮町立一宮小学校)、私立京華中学校を卒業。
橋口 五葉(はしぐち ごよう、1881年〈明治14年〉12月… 橋口 五葉(はしぐち ごよう、1881年〈明治14年〉12月21日 - 1921年〈大正10年〉2月24日)は、明治末から大正期にかけて文学書の装幀作家、浮世絵研究者として活躍したが、最晩年、新版画作家として新境地を開こうとした矢先に急死した。アール・ヌーヴォー調の装幀本、「大正の歌麿」と形容された美人画を残している。 かつて薩摩藩藩医で漢方医を勤めていた士族橋口兼満の三男として、鹿児島県鹿児島市樋之口町(現在の鹿児島市立甲東中学校に辺り、正門脇には石碑が立っている)に生まれた。本名・清。画号の五葉は、鹿児島の自宅にあり地域のランドマークになっていた、樹齢300年の五葉松にちなんだもの。鹿児島県尋常中学校の在籍を経て、鹿児島県中学造士館を卒業。
梅野 猶太朗(うめの なおたろう、旧姓:高松、1881年(明… 梅野 猶太朗(うめの なおたろう、旧姓:高松、1881年(明治14年)12月20日 - 1940年(昭和15年)4月10日)は、日本の実業家である。岡山県高梁市出身。 1881年(明治14年)に岡山県上房郡松山村(現:高梁市)の備中松山藩士である高松元貞の五男として生れる。父の元貞は、父の母親の実家である高松家を相続し高松姓となっていた。猶太郎は祖父方の梅野家を相続し、再び名字を梅野へ戻した。梅野はその後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学。 同期には、早稲田大学教授になる横山有策、大日本帝国海軍中将の杉政人、海軍大学校教頭を務めた中島権吉、衆議院議員になる則井万寿雄がいた。
田邊 宗英(たなべ むねひで、1881年12月17日 - 1… 田邊 宗英(たなべ むねひで、1881年12月17日 - 1957年3月18日)は、日本の実業家。帝拳プロモーション会長、株式会社後楽園スタヂアム(現・東京ドーム)第4代社長、日本ボクシングコミッション(JBC)初代コミッショナー。株式会社よみうりランド初代社長。新東宝社長、日本テレビ放送網会長を歴任した人物である。 田邊 宗英(旧名:五四三)の兄の田邊七六とその息子田邊圀男は衆議院議員、第一勧業銀行理事の田邊加多丸は弟、阪急東宝グループの創業者小林一三は異母兄、後に後楽園スタヂアム社長を務めた東京弁護士会真鍋八千代は義従弟である。息子の田邊英蔵は後楽園スタヂアム副社長、熱海後楽園社長、文教大学国際学部教授を務めた。
乃木 保典(のぎ やすすけ、1881年(明治14年)12月1… 乃木 保典(のぎ やすすけ、1881年(明治14年)12月16日 - 1904年(明治37年)11月30日)は、明治期の日本の陸軍軍人で陸軍大将・乃木希典、静子夫妻の次男。
木檜 恕一(こぐれ じょいち、1881年〈明治14年〉12月… 木檜 恕一(こぐれ じょいち、1881年〈明治14年〉12月14日 - 1943年〈昭和18年〉10月20日)は、日本の工芸家、家具デザイナーである。高等官二等正四位勲四等。 群馬県吾妻郡久賀村須川(現・利根郡みなかみ町須川)の生まれ。父は新治村初代村長を務めた木檜仙太郎。 1902年(明治35年)群馬師範学校(現・群馬大学教育学部)を卒業し、多野郡吉井尋常高等小学校訓導として勤務する。東京高等工業学校(現・東京工業大学)に入学し、教員養成所建築科に所属する。1908年(明治41年)卒業。 卒業後は同校の助教授として活動し、後大学時代に木檜が所属した室内装飾科の研究会である「樫葉会」(後の木材工芸学会)の創設に携わり同時に会長を務めた。
奥村 鶴吉(おくむら つるきち、1881年(明治14年)12… 奥村 鶴吉(おくむら つるきち、1881年(明治14年)12月10日 - 1959年(昭和34年)2月4日)は、日本の医学者。専門は細菌学。神奈川県中郡秦野町(現・秦野市)出身。 血脇守之助に師事する。東京歯科医学専門学校校長、東京歯科大学学長・東京歯科大学理事長などの要職を歴任した。 妻は澤田半之助の娘。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
井阪 豊光(いさか とよみつ、1881年(明治14年)12月… 井阪 豊光(いさか とよみつ、1881年(明治14年)12月9日 – 1966年(昭和41年)2月26日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党→立憲政友会→昭和会)、外務政務次官。大阪府岸和田市長。弁護士。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 大阪府泉南郡八木村(春木町を経て現在の岸和田市)に衆議院議員井阪光暉の長男として生まれる。1910年(明治43年)、京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、弁護士を開業した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第15回、第16回と当選を重ねた。その後、岸和田市長に選出された。 1932年(昭和7年)には第18回衆議院議員総選挙で返り咲きを果たした。
常盤 盛衛(ときわ もりえ、1881年〈明治14年〉12月8… 常盤 盛衛(ときわ もりえ、1881年〈明治14年〉12月8日 - 1971年〈昭和46年〉8月8日)は、日本の海軍軍人。軍令部、艦隊、鎮守府、要港部などの参謀職を歴任した海軍少将である。 福島県出身。父は旧会津藩士・常盤盛敦。会津中学5回生で外務省顧問・斎藤良衛、樺太庁長官・岸本正雄は同級生である。1899年(明治32年)海軍兵学校入校(30期)。二年次に学術優等章を授与される。1902年(明治35年)卒業。席次は187名中5番。 「初瀬」乗組みとして日露戦争を迎えたが、同艦は1904年(明治37年)5月15日に旅順港外において触雷し沈没。その際常盤は初瀬の艦載水雷艇を指揮し、哨戒のため裏長山列島に赴いていた。
新井 章治(あらい しょうじ、1881年(明治14年)12月… 新井 章治(あらい しょうじ、1881年(明治14年)12月8日 - 1952年(昭和27年)9月1日)は、日本の実業家。元・東京電力会長。元・日本発送電総裁。 埼玉県大里郡大麻生村(現熊谷市)に篤農家だった新井健吉の長男として出生。1905年に早稲田大学大学部政治経済学科を卒業。秩父鉄道勤務を経て日本鉄道に入社するも病気で退社し、加療の後に義父の葉住利蔵が経営していた利根発電へ1913年に入社して取締役支配人となる。1921年に利根発電が東京電燈に吸収合併されてからは前橋支店長から本社で営業部次長となり1933年に取締役営業部長に就任してから常務取締役(1936年)・副社長(1937年)を歴任した。
小島 祐馬(おじま すけま、1881年〈明治14年〉12月3… 小島 祐馬(おじま すけま、1881年〈明治14年〉12月3日 - 1966年〈昭和41年〉11月18日)は、東洋史学者・東洋思想史研究者(中国社会思想史)。京都帝国大学名誉教授。号は「抱甕」(ほうおう)。財団法人板垣会顧問。 1881年、高知県吾川郡弘岡上ノ村(現・高知市)で生まれた。弘岡上ノ村の小学校を卒業して高知県立第一中学校に進学し、漢文の授業では『日本外史』『十八史略』『孟子』などを学び、荻生徂徠の立場から孟子を非難する教師に反論して孟子を弁護したりしたという。また、後年の小島は、これまで読んできたなかで最も有益で興味深い中国の書物として、中学時代から読んできた『孟子』『荘子』『史記』を挙げると述べている。
馬場 一衛(ばば かずえ、1881年(明治14年)12月2日… 馬場 一衛(ばば かずえ、1881年(明治14年)12月2日 - 1944年(昭和19年)3月30日)は、日本の内務・警察官僚。官選青森県知事、門司市長。 現在の熊本市出身。第五高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1909年、内務省に入省し広島県属となる。 以後、広島県事務官補、警視庁方面監察官、福井県理事官、群馬県警察部長、群馬県内務部長、警視庁刑事部長、同警務部長などを歴任。 1923年10月、青森県知事に就任。農水産業の振興に尽力。1924年6月、休職となる。同年に退官した。その後、門司市長、侯爵細川護立家家扶を務めた。
岡本 一巳(おかもと かずみ、1881年(明治14年)12月… 岡本 一巳(おかもと かずみ、1881年(明治14年)12月2日 - 1947年(昭和22年)11月19日)は、日本の政治家、実業家。 岩手県盛岡市出身。明治法律学校と専修学校で学ぶ。実業界に進み、盛岡新聞社を創設した他、岩手銀行支配人、扶桑新聞社政治経済部長、大阪新報社政治部長兼外交部長などを歴任した。 1932年2月の第18回衆議院議員総選挙に栃木県第二区で立憲政友会から出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。1934年2月に立憲政友会から第一控室に移る。1935年3月には尾崎行雄、床次竹二郎らと院内会派「無所属室」を結成し、加入する。1936年の第19回衆議院議員総選挙では栃木県第一区から中立(無所属)で出馬したが、最下位で落選した。
岩崎 彦雄(いわさき ひこお、1881年(明治14年)12月… 岩崎 彦雄(いわさき ひこお、1881年(明治14年)12月1日 - 1956年(昭和31年)6月29日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 素封家・岩崎彦左衛門の長男として、のちの静岡県安倍郡麻機村(現静岡市葵区)に生まれる。26歳にして麻機村農会長に選ばれ、安倍郡農会幹事を経て、30歳の時、麻機村長に就任する。さらに翌年、安倍郡農会長を経て、静岡県会議員に当選。ついで33歳の時、静岡県柑橘組合連合会長に推された。ほか、日本農具、静岡賤機焼陶業、日本山羊各社長を歴任した。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
海原 清平(かいはら せいへい、1881年〈明治14年〉12… 海原 清平(かいはら せいへい、1881年〈明治14年〉12月1日 - 1962年〈昭和37年〉7月6日)は、日本の政治家、政治活動家。衆議院議員(2期、政友会→政友本党)。 1881年(明治14年)、兵庫県神戸市に生まれる。和仏法律学校(現法政大学)を卒業し、徳島県庁に入る。その後、神戸新聞の記者を経て、徳島県の属官時代に同県知事であった床次竹二郎の知遇を得ていたことで、床次が鉄道院総裁に就くと、その秘書に抜擢される。 内務大臣秘書官に就任した後、第14回衆議院議員総選挙(1920年(大正9年))、第15回衆議院議員総選挙(1924年(大正13年))に徳島1区から出馬し、当選する。 農商務省山林払い下げにおける詐欺事件で1926年(昭和元年)12月28日、東京控訴院から懲役8月執行猶予1年の有罪判決、1927年(昭和2年)4月19日、大審院で上告棄却され、確定となり議員失職。
長谷川 太一郎(はせがわ たいちろう、明治14年(1881年… 長谷川 太一郎(はせがわ たいちろう、明治14年(1881年)12月1日 - 昭和43年(1968年)11月25日)は最高裁判所判事。弁護士。第一東京弁護士会会長。
時野谷 常三郎(ときのや つねさぶろう、1881年12月 -… 時野谷 常三郎(ときのや つねさぶろう、1881年12月 - 1942年12月21日)は、日本の歴史学者。ヨーロッパ政治外交史専攻。
小林 愛雄(こばやし あいゆう、1881年11月30日 - … 小林 愛雄(こばやし あいゆう、1881年11月30日 - 1945年10月1日)は、日本の詩人、作詞家、翻訳家。元早稲田実業学校校長。家族・友人間の親称は ちかお。 日本で初めてオペラの創立に尽力したことで知られる。 1881年11月30日、東京市に生まれる。父親は旧幕臣、後に東京府府会議員、大蔵省局長、万世生命保険会社社長となった小林好愛。 1892年に東京高等師範学校附属小学校尋常科(現・筑波大学附属小学校)、1899年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第六高等学校(現・岡山大学)を経て東京帝国大学英文科にて夏目漱石、佐佐木信綱に師事。父親の小林好愛と共に樋口一葉とは家族ぐるみの付き合いがあり、慈雲寺 (甲州市)にある樋口一葉女史文学碑には田山花袋、森鷗外、与謝野晶子と共に愛雄の名も刻まれている。
石井 英橘(いしい えいきつ、1881年(明治14年)11月… 石井 英橘(いしい えいきつ、1881年(明治14年)11月30日 – 1945年(昭和20年)9月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1881年(明治14年)11月、和歌山県に石井武次郎の二男として生まれた。1901年(明治34年)11月22日に陸軍士官学校(13期)を卒業し、1902年(明治35年)6月23日に工兵少尉に任ぜられ、同日付で鉄道大隊付に補される。1904年(明治37年)8月2日に工兵中尉に昇進し、1907年(明治40年)12月18日に陸軍砲工学校(13期)高等科を卒業後、同月21日に工兵大尉に昇進し鉄道連隊付に補せられた後、1912年(明治45年)7月10日には東京帝国大学理科大学実験物理学科を卒業した。
吉田 白甲(よしだ はっこう、1881年〈明治14年〉11月… 吉田 白甲(よしだ はっこう、1881年〈明治14年〉11月28日 - 1961年〈昭和36年〉11月3日)は、日本のドイツ文学者。元陸軍大学校勅任教授・教頭。本名は吉田 豊吉(よしだ とよきち)。 新潟県北蒲原郡新発田町(現 新発田市)出身。1899年(明治32年)3月に新潟県尋常中学校を卒業、1902年(明治35年)7月に第一高等学校を卒業、9月に東京帝国大学文科大学独逸文学科に入学。 1903年(明治36年)7月23日の夜に東京音楽学校奏楽堂で日本人が初めて上演した歌劇、グルック作曲のオペラ『オルフォイス』の歌詞の和訳を石倉小三郎、乙骨三郎、近藤逸五郎たちと4人で担当した。 1904年(明治37年)11月に第一高等学校の1年生の時からの友人の小山内薫、川田順、武林無想庵、上村清延、太田善男、高瀬精太たちと7人で同人雑誌『七人』を創刊、夏目漱石に短編小説『琴のそら音』を寄稿してもらった。
一瀬 一二(いちのせ いちじ、1881年(明治14年)11月… 一瀬 一二(いちのせ いちじ、1881年(明治14年)11月25日 – 1935年(昭和10年)8月5日)は、衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 熊本県玉名郡小田村(現在の玉名市)に一瀬彦四郎の長男として生まれる。明治大学に学ぶ。国民新聞社社長徳富蘇峰の門下にあり、後に独立して大日本新聞社を経営した。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第18回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他、財団法人青山会館常任理事を務めた。
藤井 種太郎(ふじい たねたろう、1881年(明治14年)1… 藤井 種太郎(ふじい たねたろう、1881年(明治14年)11月22日 - 1968年(昭和43年)6月22日)は、日本の教育者。宮中顧問官。文学博士。 兵庫県出身。1903年(明治36年)、陸軍歩兵少尉となり、日露戦争では歩兵第40連隊に属して出征し、中尉に昇進した。1908年(明治41年)、広島高等師範学校英語部を卒業し、さらに1911年(明治44年)に京都帝国大学文科大学哲学科を卒業。明治専門学校(現在の九州工業大学)生徒監・教授を務め、1918年(大正7年)に学習院教授に就任。さらに広島高等師範学校教授、広島文理科大学教授を歴任した。1932年(昭和7年)からは宮内省に入り、皇后宮職、皇子御養育掛長を務め、1937年(昭和12年)に宮中顧問官に任命された。
時実 秋穂(ときざね あきほ、1881年(明治14年)11月… 時実 秋穂(ときざね あきほ、1881年(明治14年)11月22日 - 1962年(昭和37年)1月21日)は、内務官僚、福岡市長、岡山市長、玉野市長。 岡山県邑久郡長浜村(現在の瀬戸内市)に時実惣次郎の長男として生まれた。1907年(明治40年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年に高等文官試験に合格し、翌年に岩手県事務官に任じられた。その後、徳島県事務官・警察部長、愛媛県警察部長、島根県警察部長、茨城県内務部長を歴任した。1919年(大正8年)、朝鮮総督府忠清南道知事に転じ、朝鮮総督府監察官を経て、1923年(大正12年)に京畿道知事に任じられた。 1926年(大正15年)に福岡市長に選出され、5年間在任した。
国友 末蔵(くにとも すえぞう、1881年〈明治14年〉11… 国友 末蔵(くにとも すえぞう、1881年〈明治14年〉11月17日 - 1960年〈昭和35年〉10月17日)は、明治後期から昭和時代にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。新潟県上越市(旧・高田市)の電力会社中央電気にて技師長および専務取締役を務め、同社の電源開発に携わった。京都市出身。 1881年(明治14年)11月17日、京都の三条通白川橋にて国友藤九郎の四男として生まれた。国友家は戦国時代から近江国坂田郡国友村(現・滋賀県長浜市)で鉄砲を生産していた鉄砲鍛冶の家だが、父・藤九郎は明治維新後京都へ移り活版印刷機の生産にあたっていた。国友は京都府立第一中学校を経て京都の第三高等学校へ進学し、1903年(明治36年)7月に卒業。
吉田 秀弥(よしだ しゅうや、吉田秀彌、1881年(明治14… 吉田 秀弥(よしだ しゅうや、吉田秀彌、1881年(明治14年)11月15日 - 1955年(昭和30年)11月19日)は、日本の実業家。京成電鉄第3代取締役社長。 福島県西白河郡滑津村(現中島村)の吉田精一郎の長男として生まれる。 1907年、早稲田大学政治学科を卒業し、二六新報に入社。もっぱら政治畑を歩く。 1916年5月、当時の京成電気軌道に庶務課長兼電燈課長として入社し、1931年取締役総務部長、1937年常務取締役。 1946年1月、今日の京成の基礎を築いた後藤圀彦が前年死去したため、第3代社長に就任。戦後混乱期の会社を牽引した。また、同年に鉄道連隊演習線の払い下げを受け、新京成電鉄を発足させる。
正宗 敦夫(まさむね あつお、明治14年(1881年)11月… 正宗 敦夫(まさむね あつお、明治14年(1881年)11月15日(戸籍上は11月30日) - 昭和33年(1958年)11月12日)は、日本の国文学者、歌人。 岡山県和気郡穂浪村(現・備前市穂浪)生まれ。兄に小説家で文学評論家の正宗白鳥がいる。東京を活動の拠点とした兄とは違い郷里で家業を営み、その傍ら作歌をし、国文学の研究を行った。1897年(明治30年)から井上通泰に師事し、島木赤彦、斎藤茂吉などとも親交を持った。1909年(明治42年)、歌文珍書保存会を主宰し、古書・稀少本を収集・刊行を行った。1925年(大正14年)与謝野寛・与謝野晶子夫妻と「日本古典全集」シリーズを刊行する。1927年(昭和2年)、株式会社日本古典全集刊行会を設立するが倒産する。
田子 一民(たご いちみん、1881年〈明治14年〉11月1… 田子 一民(たご いちみん、1881年〈明治14年〉11月14日 - 1963年〈昭和38年〉8月15日)は、日本の官僚、政治家。位階は正三位。 衆議院議長(第34代)、衆議院副議長(第27代)、官選三重県知事、農林大臣(第4次吉田内閣)、衆議院議員(通算9期)などを務めた。岩手県盛岡市出身。東京帝国大学法科大学卒業。 岩手県士族の田子勘治の次男として生まれる。現在の盛岡市立城南小学校、盛岡中学、旧制二高を経て、1908年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、内務省に入省。山口県警部、山口県都濃郡長、山口県警察部長、内務省社会局第一課長兼第二課長、社会局長、官選三重県知事などを歴任し、その後政界に転じる。
渋谷 伊之彦(しぶや いのひこ、1881年11月14日 - … 渋谷 伊之彦(しぶや いのひこ、1881年11月14日 - 1935年12月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
小沢 碧童(おざわ へきどう、1881年(明治14年)11月… 小沢 碧童(おざわ へきどう、1881年(明治14年)11月14日 - 1941年(昭和16年)11月17日)は、日本の俳人。本名は清太郎、のちに西徳。忠兵衛とも。東京都出身。 1881年(明治14年)に日本橋区(現在の中央区)本船町で生まれる。生家は魚問屋を営んでいたが、8歳で祖父の元に養子に出された。祖父は「西徳めぐすり」という目薬を作って生計を立てていた。当初は正岡子規門下の松下紫人から定形俳句を学んでいたが、やがて河東碧梧桐の新傾向俳句に傾倒し、前述の目薬を碧梧桐が買いに来た縁で、碧梧桐の主宰する『海紅』に参加、自由律俳句を詠むようになる。明治37年、上根岸町(現在の台東区根岸)の自宅を骨立舎と命名して俳道場も開いた。
松平 濱子(まつだいら はまこ、1881年11月13日 - … 松平 濱子(まつだいら はまこ、1881年11月13日 - 1967年3月16日)は、日本の教育者、歌人。学校法人関東学園の創設者である。旧姓は細谷。 群馬県佐波郡伊与久村(佐波郡境町を経て現伊勢崎市)に生まれる。日本女子大学校(当時は専門学校)に進学し、その最初の卒業生となった。東京帝国大学が聴講生として女性の受講者を認めた際に、その最初のひとり(国文学専攻)ともなっている。 1924年、現在の東京都新宿区西新宿(当時は淀橋町)に「関東高等女学校」(のちの関東国際高等学校)を開設し、これが関東学園の始まりとなる。太平洋戦争の空襲で校舎を失ったため、1946年に館林市で「関東女子専門学校」(関東短期大学の前身)を開校した。
磯部 愉一郎(いそべ ゆいちろう、1881年11月11日 -… 磯部 愉一郎(いそべ ゆいちろう、1881年11月11日 - 1970年5月20日)は、日本の経営者。関東電化工業株式会社の創業発起人及び代表取締役専務、旭電化工業株式会社の専務取締役及び代表取締役、花王油脂株式会社の取締役社長及び会長を務めた人物。 また、早稲田大学の「早稲田大学百年史」の歴代箇所長一覧に代表取締役と早稲田大学の「早稲田二十日会」の副会長を務めていた。「早稲田二十日会」は、二十日会の第3代会長の佐々木省三によると、実業界で活躍していた日本化薬の原安三郎と日本工業倶楽部常任理事の中村元督らが話し合った結果、早稲田の卒業生で実業界に籍をおく者たちに呼びかけ「二十日会」をつくり、毎月二十日に日本工業倶楽部で会合を開き、勉強会を開くとともに大いに親睦を旨とすることにしたとの記述がある。
安国 幸左衛門(安國 幸左衛門、やすくに こうざえもん、18… 安国 幸左衛門(安國 幸左衛門、やすくに こうざえもん、1881年〈明治14年〉11月8日 - 1949年〈昭和24年〉5月12日)は、日本の政治家、地主・家主。神戸市会議員。 兵庫県武庫郡西灘村(現・神戸市)出身。安国幸右衛門の長男。早稲田大学政治経済科卒業。一年志願兵として軍務に服し、三等主計に進む。除隊後父業に従事する。在郷軍人分会長に推される。 1929年、西灘村が神戸市に編入されるにあたって推されて市会議員に当選する。岩屋青年会会長、灘信用組合理事、神戸商業大学柔道師範、兵庫県柔道有段者会会長等の名誉職を兼ねる。1948年、公安委員に任命される。 趣味は柔道、銃猟、釣魚、乗馬。住所は兵庫県神戸市灘区岩屋町。
山田 乙三(やまだ おとぞう、1881年(明治14年)11月… 山田 乙三(やまだ おとぞう、1881年(明治14年)11月6日 - 1965年(昭和40年)7月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
吉原 正隆(よしはら まさたか、1881年(明治14年)11… 吉原 正隆(よしはら まさたか、1881年(明治14年)11月5日 - 1926年(大正15年)6月24日)は、明治末から大正期の政治家。衆議院議員(立憲政友会)、貴族院多額納税者議員。位階は正五位。勲等は勲三等。 福岡県三潴郡大川町(現在の大川市)出身。1906年(明治39年)京都帝国大学法科大学経済科を卒業し、さらに大学院で植民政策学を専攻した。 1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第14回総選挙に至るまで4回連続当選を果たした。その間、野田卯太郎逓信大臣の秘書官を務めた。 1925年(大正14年)福岡県多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選され、同年9月29日に就任し、研究会に所属し死去するまで在任した。
貝島 太市(かいじま たいち、1881年11月3日 - 19… 貝島 太市(かいじま たいち、1881年11月3日 - 1966年8月28日)は、日本の実業家。貝島炭礦社長。 貝島炭礦の創始者である貝島太助の四男として、福岡県遠賀郡に生まれる。1895年、福岡県立尋常中学修猷館に入学、在学中の1898年、貝島鉱業合名会社を、社長・貝島太助、社員・貝島六太郎(太助の次弟)、貝島嘉蔵(太助の三弟)、貝島太市の4名で設立する。1901年、東京高等商業学校(現・一橋大学)を目指すため、修猷館を退学して東京商工中学校へ入学し、1902年、東京高等商業学校に進学する。在学中の1904年、旧長州藩士鮎川弥八の三女で鮎川義介(日産コンツェルン創始者)の妹であるフジと結婚する。
桑山 鉄男(くわやま てつお、1881年(明治14年)11月… 桑山 鉄男(くわやま てつお、1881年(明治14年)11月1日 - 1936年(昭和11年)2月20日)は、日本の逓信官僚。貴族院勅選議員。従三位、勲二等。 愛媛県出身。桑山吉輝(大津事件の犯人津田三蔵巡査の上司(大津警察署長))の長男として生まれる。旧制第三高等学校を経て、1906年に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、高等文官試験に合格。逓信省に入省し、通信事務官、京都郵便局管理課長、長野逓信管理局長、逓信省参事官、逓信官吏練習所教官、逓信監察官、逓信大臣秘書官などを歴任した。1920年、初代簡易保険局長に就任。1924年6月、逓信次官に就任し、1929年7月まで在任した。次官在任中、新設の逓信省航空局長を兼任し、大礼使参与官を務めた。
藤井 實(ふじい みのる、1881年11月または1880年1… 藤井 實(ふじい みのる、1881年11月または1880年11月6日 - 1963年)は、日本の外交官。また、東京帝国大学在学中の1902年に、特殊な電気計時装置を使った測定で100メートル競走に10秒24という記録を残したとされる人物としても知られる。名前は藤井実と表記されることもある。 東京・本郷に、昌平黌の漢学教師を父として生まれる。旧制郁文館中学校から第一高等学校を経て、1902年に東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)に進学する。体格に恵まれていた(帝大1年当時、身長179cm、体重71kg)藤井は中学時代から各種のスポーツに親しみ、一高時代には陸上競技で並ぶもののない成績を収めていた。
鶴見 一之(つるみ かずゆき 1881年(明治14年)11月… 鶴見 一之(つるみ かずゆき 1881年(明治14年)11月 - 1959年(昭和34年)10月12日)は、日本の土木工学者。仙台高等工業学校(東北大学工学部の前身)と東北帝国大学で教授、仙台高等工業学校・仙台工業専門学校では校長を務めた。 東北土木学会の設立等に尽力し、仙台工専の後継となる東北大学工学部土木工学科の礎を築いた。 新潟県士族、鶴見保四郞の長男として生まれ、1900年(明治33年)3月古志郡立長岡中学校(現在の新潟県立長岡高等学校を卒業した。1906年(明治39年)東京帝国大学工科大学土木科を卒業し、仙台高等工業学校教授となる[要出典]。 長岡市の下水道整備事業や、仙台市の上下水道事業[要出典]に携わった。
西尾 寿造(にしお としぞう、明治14年(1881年)10月… 西尾 寿造(にしお としぞう、明治14年(1881年)10月31日 − 昭和35年(1960年)10月26日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功一級。初代支那派遣軍総司令官。
遠藤 為春(えんどう いしゅん、明治14年(1881年)10… 遠藤 為春(えんどう いしゅん、明治14年(1881年)10月26日 - 昭和44年(1969年)2月6日)は、日本の歌舞伎研究家。 東京市日本橋馬喰町出身。東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。1908年三菱銀行入行。1911年歌舞伎座入社。 1914年には自宅の庭にあった演舞館を三渓園の入口に移築し、横浜演舞館とした。 家業の柏木運送店専務を務めた他、1915年松竹理事。1937年松竹取締役。 第二次世界大戦後は、松竹演劇部相談役や新橋演舞場常務などを務めた。また、評論、随筆などを執筆した。 1964年藍綬褒章受章。1968年勲四等瑞宝章受章。1969年死去。一乗寺で葬儀が行われた。本名は弥市。
兒玉 友雄(こだま ともお、1881年10月23日 - 19… 兒玉 友雄(こだま ともお、1881年10月23日 - 1961年5月9日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍山口県。児玉源太郎の三男として生れる。学習院中等科を経て、1902年11月、陸軍士官学校(14期)を卒業、翌年6月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第2連隊付となり、1904年2月、日露戦争に出征。1910年11月、陸軍大学校(22期)を卒業した。 参謀本部員兼軍務局課員、近衛師団参謀、参謀本部員などを経て、1914年5月、イギリスに私費留学し、翌年、イギリス軍に従軍した。帰国後、参謀本部員、陸軍省軍務局課員、兼航空部事務官、兵器局課員、軍務局課員(軍事課)、近衛歩兵第3連隊付、歩兵第34連隊長、参謀本部課長などを歴任し、1929年8月、陸軍少将に進級。