スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
浮所 飛貴(うきしょ ひだか、2002年〈平成14年〉2月2… 浮所 飛貴(うきしょ ひだか、2002年〈平成14年〉2月27日 - )は、日本の歌手、タレント、俳優。ジュニア内男性アイドルグループ・ACEesのメンバー。立教大学法学部卒業。愛知県出身。STARTO ENTERTAINMENT所属。 母親の影響で、幼い頃から一緒にコンサートに行くなど、嵐やSexy Zoneのファンだった。いつかは自分も入りたいと思っていたが、母親が履歴書を送り、オーディションを受け、2016年4月9日、中学3年生の時に入所。尊敬するジャニーズの先輩に中島健人を挙げている。 2016年11月、ジャニーズJr.内ユニット・東京B少年(のちにSexy美少年、美 少年に改名)のメンバーに選ばれる。
観世 三郎太(かんぜ さぶろうた、1999年5月16日 - … 観世 三郎太(かんぜ さぶろうた、1999年5月16日 - )は、日本の観世流シテ方能楽師。一般社団法人観世会副理事長、一般財団法人観世文庫評議員。 1999年5月16日、東京生まれ。父は室町時代に能楽を大成させた観阿弥、世阿弥の流れをくむ観世流の二十六世宗家の観世清和。 3歳から、宗家である父に師事し、5歳の時に『鞍馬天狗』で初舞台。子方(子役)として多くの舞台で経験を積み、2009年には『合浦(かっぽ)』で主役である初シテを務め、。2015年3月、15歳の時に、初めて面(おもて)を着けて舞う「初面」の祝いの舞台で能『経正(つねまさ)』のシテを務めた。 立教小学校、立教池袋中学校・高等学校を経て、立教大学法学部に入学し、2022年に卒業。
三竿 健斗(みさお けんと、1996年4月16日 - )は、… 三竿 健斗(みさお けんと、1996年4月16日 - )は、東京都武蔵野市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・鹿島アントラーズ所属。ポジションはミッドフィールダー(ボランチ)、ディフェンダー(センターバック)。元日本代表。 兄の三竿雄斗もプロサッカー選手(大分トリニータ所属)。妻は元日本テレビアナウンサーの後藤晴菜。 幼少時代から両親の仕事の都合で、海外で生活し5歳までカナダのトロントで生活していた。帰国後、東京都武蔵野市に移り住み、横河武蔵野FCジュニアユースを経て、東京ヴェルディの下部組織に所属。小4・小5で所属していた、横河武蔵野FCジュニアユースでは、後に鹿島アントラーズでもチームメイトとなる、1学年上の小池龍太と仲が良かったと言う。
鈴木 総史(すずき そうし、1996年 ‐ )は、俳人。本名… 鈴木 総史(すずき そうし、1996年 ‐ )は、俳人。本名は、鈴木啓史。 『群青』、『雪華』同人。俳人協会会員。主な受賞に、第37回北海道新聞俳句賞。第11回星野立子新人賞。 立教池袋高等学校在学中の2014年に文芸部に入部、第17回俳句甲子園では全国大会に出場した。立教池袋高等学校から立教大学へ進み、経済学部経済学科を卒業。 2015年に櫂未知子、佐藤郁良の俳句同人誌『群青』へ入会。就職により、2019年より北海道旭川市へ移住。2021年より橋本喜夫主宰の『雪華』へ入会し、2023年より同人となる。 2014年、たなばたの里 小郡市で開催された第4回七夕俳句選句会にて、小郡市長賞。2022年、作品集「微熱」300句にて、第37回北海道新聞俳句賞を受賞。
藤波 怜於南(ふじなみ れおな、1993年7月7日 - )は… 藤波 怜於南(ふじなみ れおな、1993年7月7日 - )は、日本の男性プロレスラー。ドラディション及びカートプロモーション所属。東京都出身。リングネームはLEONA(レオナ)。 プロレスラー・藤波辰爾の長男。立教小学校、立教池袋中学校・高等学校、立教大学法学部法学科卒業。 2012年4月20日の大会終了直前に父親の辰爾にプロレス入りを直訴したが、直ぐには結論を出せないと承諾を保留にされた。その後承諾され、ランカシャースタイルを習得する為に旧ビリー・ライレージムことアスプルオリンピック・レスリングクラブに武者修行に出て、帰国後はデビューを目指しU.W.F.スネークピットジャパンで修行。その後は2013年5月29日のドラディション後楽園ホール大会のエキシビジョンマッチでプレデビュー戦を行った。
加藤 守(かとう まもる、1990年 - )は、日本の実業家… 加藤 守(かとう まもる、1990年 - )は、日本の実業家、公共政策コンサルタント。野村総合研究所のコンサルタントを経て、有限会社東国原の一員として、父・東国原英夫(第17代宮崎県知事)の政治活動や政策立案を支える実務を担っている。母は俳優・タレントのかとうかず子。 1990年、東京都生まれ。 東京・池袋にある立教小学校を経て、立教池袋中学校・高等学校を卒業。 ビジネスや起業について興味があり、日本だけでなく世界を視野に入れたキャリアを志向していたこともあり、立教大学経営学部へ進学。 2013年3月、立教大学経営学部国際経営学科卒業。米国・ワシントンD.C.のジョージタウン大学公共政策大学院に進学し、2015年に同大学院公共政策修士課程を修了。
神岡 遼(かみおか りょう、1988年4月14日 - )は、… 神岡 遼(かみおか りょう、1988年4月14日 - )は、日本海テレビのアナウンサー、防災士。東京都出身。 立教池袋中学校・高等学校、立教大学経済学部卒業。在学中にテレビ各局のアナウンサー試験ですべて不合格となり、信託銀行に入行。信託銀行に勤務しながら日テレ学院を受講した。その後は一般企業の採用担当へ転職。2019年6月から、平日は一般企業の採用担当をしながら、土曜・日曜は東京六大学野球中継の実況をしていた。2020年、日テレ学院から「日本海テレビが中途採用のアナウンサーの募集をしているので受けてみないか」と誘われて受験し、内定。同年8月、日本海テレビ入社。 趣味は野球・ゴルフ。中学時代は軟式野球部、高校時代は硬式野球部、大学時代は準硬式野球部で、ポジションは捕手。
榎本 真也(えのもと しんや、1984年6月20日 - )は… 榎本 真也(えのもと しんや、1984年6月20日 - )は、四国放送(JRT)の男性アナウンサー。出身地は東京都足立区。 出身地は、2008年の入社当時から2018年まで『江戸の下町のはずれ』とJRTアナウンス部ホームページ「アナウンサーズ」にて記載されていた。 身長173cm、血液型はO型。 立教池袋高等学校卒業。立教大学社会学部産業関係学科卒業後、2008年4月1日、四国放送入社。 高校時代は剣道部に所属していた。大学時代はラクロス部に所属していた。 Category:四国放送のアナウンサーを参照 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。
石丸 志門(いしまる しもん、1967年9月5日 - )は、… 石丸 志門(いしまる しもん、1967年9月5日 - )は、日本の元タレント。 中学校2年生であった1982年1月17日にオーディションで合格してジャニーズ事務所に入所。 少年隊のバックダンサーを行っていた。 ヤンヤン歌うスタジオにレギュラー出演していた。 1984年に放送の年ごろ家族に出演。 2004年に鬱病を発症した。当時は教材会社で営業の激務をしていたことから仕事が原因だと思っていたが、性被害が根底にあったと診断された。2023年8月の雑誌の取材の時点でも、寝るときに電気を消せば今でもつま先から触られている感触があって眠れないと語る。 ジャニーズ性加害問題当事者の会の副代表として活動している。
横尾 弘一(よこお ひろかず、1965年4月4日 - )は、… 横尾 弘一(よこお ひろかず、1965年4月4日 - )は、日本のベースボール・ジャーナリスト。東京都出身。血液型B型。立教中学校(現立教池袋中学校)、立教高等学校(現立教新座高等学校)、立教大学文学部英米文学科卒業。 立教高では硬式野球部に所属。長嶋一茂、筋肉少女帯の橘高文彦は同期生にあたる。立教大学ではラジオパーソナリティの黒田治とクラスメートだった。立教大学卒業後、小学館に入社。学習雑誌や野球関連の本の編集者として10年間勤めた後、1年の充電期間をおいて1999年に独立しフリーランスに。プロ、アマ、メジャーを含め、年間250試合以上の試合を取材する一方、コンビのとんねるずが発足させた軟式野球チームで年間30試合程度プレーしている。
福田 裕昭(ふくだ ひろあき、1961年4月4日 - )は、… 福田 裕昭(ふくだ ひろあき、1961年4月4日 - )は、日本の実業家、教育者。学校法人立教学院理事長。株式会社テレビ東京・元上席執行役員報道局長、同社元執行役員報道局統括プロデューサー、同社元政治部長。立教大学元兼任講師。 1961年4月4日、東京都生まれ。立教中学校(現・立教池袋中学校・高等学校)、立教高等学校(現・立教新座中学校・高等学校)卒業。 1984年3月、立教大学経済学部経済学科卒業。大学ではアメリカンフットボール部ラッシャーズに所属。1984年4月、株式会社テレビ東京入社。 2006年、同社政治部長、2016年、同社執行役員報道局統括プロデューサー、2019年上席執行役員報道局長などを歴任。
佐々木 清隆(ささき きよたか、1961年2月19日 - )… 佐々木 清隆(ささき きよたか、1961年2月19日 - )は、日本の財務官僚。初代金融庁総合政策局長を経て、一橋大学グローバル金融規制研究フォーラム代表、一橋大学大学院経営管理研究科客員教授。 東京都足立区千住出身。立教中学校に入学。佐々木の両親は「そのまま大学まで立教で」という気持ちだったようだが、佐々木は「お坊ちゃん」ばかりの学校にいまひとつ馴染めなかった。立教中学校卒業後は開成高等学校に入学。中学から開成に入学している生徒は一年先に授業が進んでいて、高一の段階で高二の学習内容に取り組んでいる。そのため、「ともかく高一のときは一生で一番勉強した。朝起きて勉強して、学校から帰ってきたらちょっと寝て、また勉強」と、佐々木は勉強漬けの日々を送ることになった。
松本 謙一(まつもと けんいち、1949年 - )は、日本の… 松本 謙一(まつもと けんいち、1949年 - )は、日本の雑誌編集者・鉄道ファン。月刊鉄道模型雑誌「とれいん」の元編集主幹。同誌の発行や鉄道模型の販売を行う株式会社エリエイの元社長。元新しい歴史教科書をつくる会東京支部長。元自由社取締役教科書編集室長。 東京都中央区出身。立教中学校(現立教池袋中学校)、立教高校(現立教新座高校)から1968年に立教大学に入学し、1年で中退。「鉄道ジャーナル」の契約カメラマンを経て、父の松本一郎(俳号・松本芒風、2003年死去)が東京・京橋や日本橋で営んでいた呉服店「ゑり栄」(エリエイの前身)に入社した。 妹はニューヨーク在住の聖公会宣教師で『イエスとともに歩む―十字架の道ゆき』などの訳書もある景山恭子。
大津 由紀雄(おおつ ゆきお、1948年2月1日 - )は、… 大津 由紀雄(おおつ ゆきお、1948年2月1日 - )は、日本の認知科学者。専門分野は、言語の認知科学(文法獲得・統語解析・理論脳科学)・言語教育・科学教育など。学位は、Ph.D.(マサチューセッツ工科大学・1981年)。慶應義塾大学名誉教授。明海大学外国語学部、同大学院応用言語学研究科教授。一般社団法人「ことばの教育」代表理事。アメリカ国立科学財団助成金申請書査読委員。日本学術会議会員。ノーム・チョムスキーの弟子である。 東京都出身。立教中学校(現・立教池袋中学校)、立教高等学校(現・立教新座高等学校)を経て、立教大学経済学部卒業。東京教育大学文学部(現・筑波大学人文・文化学群)に学士入学し、文学科英語学英文学専攻卒業後、東京教育大学大学院文学研究科修士課程を修了。
大須賀 虔(おおすか けん、1944年4月10日 - 200… 大須賀 虔(おおすか けん、1944年4月10日 - 2001年9月27日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。学位は、法学博士(東京大学・1975年)(学位論文「民事上告法の基礎的問題-制度目的との関連に於ける一考察-」)。成城大学名誉教授。民事上告制度と国際民事訴訟法に関する業績が多い。2001年9月27日に逝去。享年57。
中原 洲一(なかはら しゅういち、1944年2月28日 - … 中原 洲一(なかはら しゅういち、1944年2月28日 - 2004年3月)は、東京都出身の画家。 画家中原淳一と女優葦原邦子の長男として東京東伏見に生まれ、1947年から江古田に育つ。立教中学校(現・立教池袋中学校)に入学後まもなく上級生たちから「お前の父親の悪口を復唱しろ」と迫られるいじめを受け、1年で玉川学園中学部に転校。玉川学園高等部を経て桑沢デザイン研究所卒業。デザイン事務所勤務を経て、1969年、イスラエルに渡りキブツで肉体労働しつつヘブライ語を修得。1972年、日本に帰国。日本イスラエル親善協会理事や同事務局長を歴任。1976年から無所属の画家として活動。移住先のイスラエルで死去。
岩崎 福三(いわさき ふくぞう、1925年3月11日 - 2… 岩崎 福三(いわさき ふくぞう、1925年3月11日 - 2012年2月29日)は日本の実業家で、鹿児島県に本拠を置く企業集団・岩崎産業の会長。 鹿児島県出身。旧制立教中学校(現:立教池袋中学校・高等学校)を経て、1948年に立教大学経済学部を卒業。1965年千石運送社長、1968年岩崎産業副社長、1972年鹿児島交通社長。岩崎産業の創業者であった父・與八郎から同社を引き継ぎ、1981年にその社長に就任。 後に息子の芳太郎にその役を譲り、同社の会長に就任した。 鹿児島商工会議所の会頭・名誉会頭、指宿市の岩崎美術館の理事長、鹿児島経済同友会の特別幹事、鹿児島県バス協会の名誉会長、鹿児島日仏協会の会長なども務めるなど、地元鹿児島県の経済界の主導者として活躍。
河原崎 国太郎(かわらさき くにたろう、1909年10月14… 河原崎 国太郎(かわらさき くにたろう、1909年10月14日 - 1990年10月11日)は、前進座の女形で俳優。本名:松山 太郎(まつやま たろう)。屋号は山崎屋。 両親とも広島県の出身。祖父・渡辺又三郎は広島藩主浅野家に仕え、維新後、代言人から政治家になり広島市会議長、第8代広島市長、衆議院議員などを務めた。父・松山省三はその三男で松山家に養子入り。リベラリストだった省三は政治家になることを嫌がり、画家になるべく家族を連れて1909年上京。母・英子は当時妊娠7ヵ月で、上京直後に生まれたのが太郎(国太郎)である。このため東京神田の生まれだが、国太郎自身「私の故郷は広島」と話している。 1928年、旧制立教中学校卒業後、二代目市川猿之助に入門。
三代目 市川 段四郎(いちかわ だんしろう、1908年(明治… 三代目 市川 段四郎(いちかわ だんしろう、1908年(明治41年)10月5日 - 1963年(昭和38年)11月18日)は大正から昭和期の歌舞伎役者。本名は喜熨斗 政則(きのし まさのり)。屋号は澤瀉屋。定紋は三升の中に段の字、替紋は八重澤瀉。東京市浅草区生まれ。 猿之助一座で幹部として活躍したが病に倒れ、長男が三代目市川猿之助を襲名するのを見届けると、父の初代市川猿翁の後を追うようにして死去した。 趣味は音楽。住所は東京市京橋区(現・東京都中央区)明石町。 夫人は女優の高杉早苗で、その間に2男1女。長男が二代目市川猿翁、次男が四代目市川段四郎。長女は市川靖子、その元夫は俳優の川合伸旺。
逗子 八郎(ずし はちろう、本名:井上 司朗、1903年2月… 逗子 八郎(ずし はちろう、本名:井上 司朗、1903年2月23日 - 1991年7月7日)は、日本の歌人、情報局官僚。新短歌運動を推進し、1929年、短歌誌「短歌と方法」を主宰した。 立教中学校から第一高等学校 (旧制)を経て、1924年、東京帝国大学文学部国文科に入学。在学中、逗子開成中学校の英語と国語と漢文の講師を務め、逗子開成学園の校歌を作詞している。弁護士である義兄の切望その他で、1925年、東京帝国大学法学部政治学科に入り直し、1928年に卒業。 朝日新聞社と安田銀行を受験し、第一志望の前者で不採用となったため後者に入る。1939年、内閣情報部情報官に任官、情報局第五部第三課長、第二部文芸課長を歴任するが、1944年5月、中央公論社と改造社に対する情報局からの自発廃業勧告に反対し、内務省系の上司たちから睨まれるようになる。
村岡 四郎(むらおか しろう、1899年 <明治32年> 9… 村岡 四郎(むらおか しろう、1899年 <明治32年> 9月10日 - 1975年 <昭和50年> 5月28日)は日本の実業家。京阪電気鉄道社長、京福電気鉄道会長などを務めた。京阪中興の祖と呼ばれる[要出典]。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 神奈川県橘樹郡城郷村(現在の横浜市港北区小机町)出身。立教中学校(現:立教池袋中学校・高等学校)、第三高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業。近畿日本鉄道(近鉄)社長を務めた佐伯勇は三高・東京帝大の後輩に当たる。1923年、京阪電気鉄道に入社。運輸部門でキャリアを積む。乗客掛長時代(1927年 - 1936年)には「琵琶湖周遊乗車船券」を発売して、琵琶湖鉄道汽船との競争を優位に導く。
吉田 甲子太郎(よしだ きねたろう、1894年〈明治27年〉… 吉田 甲子太郎(よしだ きねたろう、1894年〈明治27年〉3月23日 - 1957年〈昭和32年〉1月8日)は、日本の翻訳家、英文学者、児童文学者。筆名に朝日壮吉、吉田夏村などがある。 群馬県北甘楽郡小野村(現・富岡市)生まれ。東京芝桜田小学校高等科、旧制立教中学校を経て、早稲田大学英文科卒業。 大学卒業後、母校、旧制立教中学校の英語教師となる。大学在学中より山本有三に師事。朝日壮吉などの筆名を用い、中学教師のかたわら、『新青年』などに探偵小説を翻訳するが、1927年ころから児童文学に移行し、少年小説を書く。1932年、新設された明治大学文藝科で、科長となった山本の推薦で教授となる。戦後は明大文学部文学科長を務め、児童雑誌『銀河』の編集にも携わる。
左 卜全(、1894年〈明治27年〉2月20日 - 1971… 左 卜全(、1894年〈明治27年〉2月20日 - 1971年〈昭和46年〉5月26日)は、日本の俳優、オペラ歌手。本名は三ヶ島 一郎()異母姉は三ヶ島葭子。 1894年(明治27年)2月20日(火曜日)、埼玉県入間郡小手指村北野に小学校校長の次男として生まれる。三ヶ島家は代々、埼玉県入間郡三ヶ島村の氷川神社の神官だったが、祖父が分家して一家をなした。 1901年(明治34年)に北野小学校に入学する。1902年(明治35年)、父の転勤のため東京市麻布区(現在の東京都港区)の南山小学校に転校。まもなく東京府南葛飾郡船堀村(現在の江戸川区船堀)に移った。1905年(明治38年)、船堀小学校を卒業。京橋のばら歯磨本舗「東光園」へ小僧奉公に出るが、1907年(明治40年)に船堀に戻り高等小学校3年に編入した。
三島 徳七(みしま とくしち、1893年(明治26年)2月2… 三島 徳七(みしま とくしち、1893年(明治26年)2月24日 - 1975年(昭和50年)11月19日)は、日本の冶金学者。アルニコ磁石を発見し、その一つとしてMK鋼の発明者として知られる。東京大学名誉教授。文化功労者。勲一等旭日大綬章追贈。 1893年(明治26年)、兵庫県津名郡広石村下組(現:洲本市五色町広石下)の農家である喜住甚平の5男として生まれる。1907年(明治40年)に広石尋常高等小学校を卒業した後、独学で学び1911年(明治44年)に立教中学校への編入試験の末、同校に入学した。その後、旧制第一高等学校を経て、1920年(大正9年)、東京帝国大学工学部冶金学科を卒業した。同年に三島通良と養子縁組し娘の三島二三子と結婚して三島姓となっている。
浅沼 誉夫(あさぬま よしお、1891年1月5日 - 194… 浅沼 誉夫(あさぬま よしお、1891年1月5日 - 1944年1月24日)は、日本の元プロ野球監督。 旧制立教中学に在籍し、野球部(立教大学野球部の基礎)を創設。立教大学教授で聖公会の司祭でもあったハーバート・ロイドに技術的指導を受ける。その後早稲田大学商科に進み、二塁手として野球部第9代主将を務める。東京六大学野球連盟の初代首位打者。 その後、東京六大学野球リーグ戦で審判を務める。八十川ボーク事件(1931年(昭和6年)5月18日)で、騒動の発端となるボーク判定を行った試合の球審を務めたのが浅沼であった[リンク切れ][出典無効]。 1922年(大正11年)、第二高等学校(旧制二高)の野球部のコーチをする。
河上 丈太郎(かわかみ じょうたろう、1889年〈明治22年… 河上 丈太郎(かわかみ じょうたろう、1889年〈明治22年〉1月3日 - 1965年〈昭和40年〉12月3日)は、日本の政治家。右派社会党委員長、日本社会党委員長を歴任した。息子は衆議院議員・社会党国際局長をつとめた河上民雄。 東京都港区出身。古材木商河上新太郎の息子として生まれた。丈太郎が幼いときに、父がキリスト教に入信し、父の影響で丈太郎自身も敬虔なクリスチャンとなった。丈太郎は5歳の時から、父に連れられて霊南坂の祈禱会に通った。 ちょうど教会不振の折で、牧師の留岡幸助と本間俊平、河上父子の4人だったが、熱烈な会で2~3時間もかかり、幼い丈太郎は退屈した。しかし熱い祈りの印象が強く残った。
矢部 又吉(やべ またきち、1888年(明治21年)2月 -… 矢部 又吉(やべ またきち、1888年(明治21年)2月 - 1941年(昭和16年)3月24日)は、明治末期から昭和初期にかけて横浜で活躍した建築家。川崎銀行をはじめとした銀行建築を多く手がけたことで知られる。 1888年建築請負人の矢部国太郎の子として横浜市元町に生まれる。立教中学、工手学校(現在の工学院大学)建築科を卒業後、妻木頼黄のもとで設計に携わる。その後、1906年にドイツに渡り、シャルロッテンブルク工科大学(現在のベルリン工科大学)建築科で学びながら、日本でも活躍したドイツ人建築家ゼールに師事した。 1911年(明治44年)に帰国し、父・国太郎の跡を継ぎ、横浜市内に建築設計事務所(日本庭園会社)を開設した。
膳 桂之助(ぜん けいのすけ、1887年〈明治20年〉7月2… 膳 桂之助(ぜん けいのすけ、1887年〈明治20年〉7月21日 - 1951年〈昭和26年〉11月25日)は、日本の農商務官僚、実業家、政治家。位階は従三位。勲等は勲三等。日本工業倶楽部理事、日本団体生命保険社長、経済安定本部総務長官(初代)、物価庁長官(初代)、貴族院議員を歴任した。 1887年(明治20年)、群馬県佐波郡伊勢崎町(現・伊勢崎市)で、薬商・膳浅次郎(好孝)の三男として生まれる。伊勢崎尋常小学校に学んだ。1896年(明治29年)に父が脳溢血で死去。1900年(明治33年)旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学するが、同盟休校(ストアイキ)の首謀者として退学となり、1903年(明治36年)に上京した。
小島 茂雄(小島 茂、こじま しげお、1886年 - 197… 小島 茂雄(小島 茂、こじま しげお、1886年 - 1970年)は、立教大学文学部元学部長、立教中学校(現・立教池袋中学校・高等学校)元校長。日本聖公会の聖職者。元日本陸軍通訳官。 1886年(明治19年)、茨城県生まれ。旧姓高橋。上京して立教中学校三年に入学。1908年(明治41年)、同校卒業。1911年(明治44年)、立教大学文学部を卒業。立教大学第一回の卒業生で、高松孝治(立教大学元教授、大学チャプレン)、久保田正次(立教大学元教授、立教大学野球部元部長、商学部卒)と同級生。 聖公会神学院を卒業して渡米。1912年(大正元年)、米国ニューヨーク市ジェネラル神学校とコロンビア大学に学ぶ。 帰国後、1915年(大正4年)に司祭按手を受け、同年9月から1918年(大正7年)9月まで日本聖公会前橋聖マッテア教会司牧を務めた。
西原 清顕(さいばら きよあき、1884年12月12日 - … 西原 清顕(さいばら きよあき、1884年12月12日 - 1972年10月18日)はアメリカで農場経営者となった人物。 1884年(明治17年)12月12日、高知県高知市新田淵(現在の桜井町)で元同志社社長で衆議院議員の西原清東の長男として生まれた。1902年(明治35年)東京築地立教中学卒業、第七高等学校に合格したが父親に呼ばれ渡米。父と一緒に米作りをする。戦前は東南テキサス日本人会長をしていたため開戦時拘束されたが、「米は武器、その専門家を捕まえて米を腐らせるのか」との名言を残し釈放される。1957年(昭和32年)母方のはとこの婚姻に合わせ一時帰国、日本からの移民に対する後援の功により勲五等瑞宝章を受ける。
前田 多門(まえだ たもん、1884年(明治17年)5月11… 前田 多門(まえだ たもん、1884年(明治17年)5月11日 - 1962年(昭和37年)6月4日)は、日本の政治家・実業家・文筆家。位階は正三位。 大阪府出身。喜兵衛の長男。立教中学、一高、東京帝国大学卒業後、内務省入省。1916年(大正5年)、後藤新平内務大臣の秘書官に起用され、後藤系の有力官僚となり、1920年(大正9年)、池田宏の後を継いで第2代の内務大臣官房都市計画課長となった。後藤新平が東京市長に就任すると第1助役は永田秀次郎、第2助役は池田、第3助役は前田という後藤のいわゆる「畳」であり、後藤自身および電気局長の長尾半平と合わせて「三田二平」と称された。 1925年(大正14年)3月、外務省の守屋栄夫とともに第7回国際労働会議の政府代表に選出。
金山 平三(かなやま へいぞう,1883年〈明治16年〉12… 金山 平三(かなやま へいぞう,1883年〈明治16年〉12月18日 - 1964年〈昭和39年〉7月15日)は、大正・昭和期の洋画家である。 1935年(昭和10年)5月の帝国美術院改組問題より画壇から遠ざかったことに起因して「幻の画家」と評されたほか、雪を描いた名画を多く残したことで「雪の画家」とも呼ばれた。 1883年(明治16年)兵庫県神戸区(現在の神戸市中央区)元町通3丁目に金山春吉、ひさの第四子として生まれる。神戸尋常小学校を経て、立教中学校(現・立教池袋中学校・高等学校)を卒業。1905年(明治38年)9月東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科本科に入学する。主任教授である黒田清輝らに師事し、1909年(明治42年)3月東京美術学校西洋画科を首席で卒業する。
田邊 宗英(たなべ むねひで、1881年12月17日 - 1… 田邊 宗英(たなべ むねひで、1881年12月17日 - 1957年3月18日)は、日本の実業家。帝拳プロモーション会長、株式会社後楽園スタヂアム(現・東京ドーム)第4代社長、日本ボクシングコミッション(JBC)初代コミッショナー。株式会社よみうりランド初代社長。新東宝社長、日本テレビ放送網会長を歴任した人物である。 田邊 宗英(旧名:五四三)の兄の田邊七六とその息子田邊圀男は衆議院議員、第一勧業銀行理事の田邊加多丸は弟、阪急東宝グループの創業者小林一三は異母兄、後に後楽園スタヂアム社長を務めた東京弁護士会真鍋八千代は義従弟である。息子の田邊英蔵は後楽園スタヂアム副社長、熱海後楽園社長、文教大学国際学部教授を務めた。
三辺 金蔵(さんべ きんぞう、1881年3月7日 - 196… 三辺 金蔵(さんべ きんぞう、1881年3月7日 - 1962年4月25日)は、明治時代から昭和時代の経済学者。専門は会計学。立教大学元総長、慶應義塾大学名誉教授、慶應義塾大学元経済学部長、理財科教授として慶應義塾大学部で初めて会計学を講義。生涯にわたってクリスチャンであった。 1881年3月7日、神奈川県足柄下郡にて三辺惣吉の長男として生まれる。生家はかつて裕福であったが凋落したことから、勉学に対しての父の理解は薄い状況であった。一人家を出た金蔵は、肉体労働により学費を稼いだ。 旧制・立教中学校(現・立教池袋中学校・高等学校)を卒業後、1908年に慶應義塾大学部理財科を卒業。その時、28歳という晩学であった。