大西 猪之介(おおにし いのすけ、1888年(明治21年)1… 大西 猪之介(おおにし いのすけ、1888年(明治21年)12月28日 - 1922年(大正11年)2月8日)は日本の経済学者。専攻は経済哲学・経済思想史。 京都市上京区に生まれる。1905年、京都市立商業学校を卒業し神戸高等商業学校(現・神戸大学)に入学。津村秀松に師事し、1909年、500頁に及ぶ卒業論文「帝国主義論」を提出(のち刊行)して卒業し東京高等商業学校専攻科(現・一橋大学)に入学。關一の指導を受け、關の退官後は福田徳三の指導を受けた。1911年には卒論「社会主義に関する研究」を提出し卒業し、同年小樽高等商業学校(小樽商科大学の前身)講師、小樽高等商業学校図書館主幹に就任。 1913年、同校の教授に昇任し、同年1月から1917年8月まで「経済学及商業学研究」のためヨーロッパに留学した。
菊池 寛(きくち かん、旧字体: 菊池 寬、1888年〈明治… 菊池 寛(きくち かん、旧字体: 菊池 寬、1888年〈明治21年〉12月26日 - 1948年〈昭和23年〉3月6日)は、日本の小説家、劇作家、ジャーナリスト。本名の読みは「きくち ひろし」。実業家としても文藝春秋社を興し、芥川賞、直木賞、菊池寛賞の創設に携わった。帝国芸術院会員。 生家は高松藩の儒学者の家柄。幼少期より旺盛な読書家であった。京大英文科卒。芥川龍之介などの『新思潮』に参加。 著作に『屋上の狂人』(1916年)、『父帰る』(1917年)などの戯曲のほか、『忠直卿行状記』(1918年)、『藤十郎の恋』(1919年)(のち脚色)などの小説がある。人生観や思想を基盤とした明快な主題を打ち出した、いわゆるテーマ小説が特徴である。
斎藤 源八(さいとう げんぱち、1888年12月26日 - … 斎藤 源八(さいとう げんぱち、1888年12月26日 - 1970年5月6日)は戦前の日本ホーリネス教会(戦後の日本ホーリネス教団)の牧師である。 1888年(明治21年)に長野県小県郡西内村(現上田市)に生まれる。1906年(明治39年)に日本聖公会上田教会に出席し、同教会で1907年(明治40年)に聖公会の洗礼を受ける。 1909年(明治42年)に上京し単立教会・本郷浅嘉町教会に出席する。そこで、初めて救いの確信を得る。その後、牧師になるため直接献身する。聖書学院に入学し、神学を学ぶ。 1916年(大正5年)に聖書学院を卒業し仙台福音伝道館の牧師に任命される。 その後、兵庫県武庫郡住吉村で開拓伝道をする。
尾山 三郎(おやま さぶろう、1888年(明治21年)12月… 尾山 三郎(おやま さぶろう、1888年(明治21年)12月25日 - 1951年(昭和26年)10月3日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(1期)、富山市長。旧姓は大野。 富山県婦負郡富山手伝町(現富山市)で大野清兵衛の三男として生まれ、1899年、富山市千石町の尾山定次郎の養子となる。1905年3月、富山市立富山商業学校(現富山県立富山商業高等学校)を卒業した。 富山市蛯町の (株) 青物市場に入社。同支配人、同社長、帝国館社長、富山鉄道監査役、富山県食糧営団理事、富山県水産業会副会長、富山消防組組頭、富山警防団長、大日本警防協会理事などを務めた。 政界では、富山市会議員(6期)、富山県会議員(4期)に選出され、市会副議長、同議長も務めた。
藤林 広超(ふじばやし こうちょう、1888年(明治21年)… 藤林 広超(ふじばやし こうちょう、1888年(明治21年)12月25日 - 1984年(昭和59年)3月12日)は、日本の中国文学者、真宗大谷派僧侶。 1911年、第三高等学校を卒業。1914年、京都帝国大学中国文学科を卒業。同志社大学教授、同志社女専講師を歴任。僧侶としては西宗寺(京都府京都市下京区)の住職を務めていた。 大正のおわりごろ現地で購入して以来、長年親しんできた中国の李汝珍の小説『鏡花縁』の翻訳を、大学を退官した70歳のとき(1968年)に決意、以後20年以上の歳月を掛けてこれを翻訳し、92歳のとき(1980年)これを出版した。
洲崎 義郎(すのさき よしろう、1888年(明治21年)12… 洲崎 義郎(すのさき よしろう、1888年(明治21年)12月25日 - 1974年(昭和49年)4月1日)は、日本の政治家、教育家である。柏崎市長を務めた。 新潟県にて大地主の家系だった洲崎伝吾の長男として生まれる。早稲田大学卒業後の1918年(大正7年)に同県比角村の村長を務め、その傍らで比角小学校(現在の柏崎市立比角小学校)の青年教師として自由教育の奨励に携わった。また洋画家の中村彝や苦学生の援助にも携わり、新潟県の青年団副団長や柏崎体育連盟の会長、新潟県体育協会の副会長を歴任する。第二次世界大戦直後には戦時中の青年団活動を反省したことで世界平和運動に参加し、1951年(昭和26年)には柏崎市長に就任した。
江本 茂夫 (えもと しげお、1888年(明治21年)12月… 江本 茂夫 (えもと しげお、1888年(明治21年)12月25日 - 1966年(昭和41年)1月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中佐。 ※ 吉村和嘉著 『かかる師ありき 恩師・江本茂夫傳』、暮らしの手帖社、2008年(注:国立国会図書館の蔵書本) ※ 江利川春雄著 『英語と日本軍 知られざる外国語教育史』、NHKBOOKS1238 第2刷2016年 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
森戸 辰男(もりと たつお、1888年(明治21年)12月2… 森戸 辰男(もりと たつお、1888年(明治21年)12月23日 - 1984年(昭和59年)5月28日)は、日本の学者、社会思想家、教育者(初代広島大学学長・名誉教授)、政治家(衆議院議員、文部大臣)。広島県広島市、福山市名誉市民。文化功労者(1971年)、勲一等旭日大綬章(1974年)。位階は従二位。 広島県深津郡福山東堀端(現在の福山市)に旧福山藩士・森戸鸞蔵、チカの二男として生まれる。広島県立福山中学校(現在の広島県立福山誠之館高等学校)から1907年、第一高等学校に進学した。前年校長に就任した新渡戸稲造の倫理の講義に感銘を受ける。弁論部で活動し、一高を卒業する1911年2月、弁論部の後輩・河上丈太郎に頼まれ大逆事件を主題とした徳冨蘆花の講演会「謀叛論」を開催した。
野口 尚一(のぐち ひさかず、1888年(明治21年)12月… 野口 尚一(のぐち ひさかず、1888年(明治21年)12月23日 - 1986年(昭和61年)9月27日)は、日本の機構学者。東京帝国大学教授、工学院大学初代学長。日本機械学会、日本クレーン協会の各会長。『穀粒層を通過する気流に関する研究』で工学博士(東京帝大)。
宮部 一郎(みやべ いちろう、1888年〈明治21年〉12月… 宮部 一郎(みやべ いちろう、1888年〈明治21年〉12月22日 - 1990年〈平成2年〉10月3日)は、日本の実業家。 埼玉県羽生市出身。東京帝国大学経済学部卒業。昭和期における産業組合(農業協同組合の前身)の指導者として活動した。協同組合短期大学(1973年廃止)の2代目学長も務めた。植物学者・宮部金吾の女婿。 宮部一郎 | 打越顕太郎 | 美土路達雄 | 湯河元威 | 江上繁一
小林 弥七(こばやし やしち、1888年12月22日 - 1… 小林 弥七(こばやし やしち、1888年12月22日 - 1967年6月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 群馬県高崎市出身、早稲田実業学校卒業。高崎佐藤商組合頭取、群馬県糖業連合会会長、上州銀行、利根産業、群馬製菓、信永運輸各(株)取締役、利根木材、森永製品開発、利根産業各(株)取締役社長、高崎商業会議所議員、高崎市農会評議員、群馬県選挙管理委員となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において群馬2区から実業同志会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1967年死去。
吉田 鞆明(よしだ ともあき、1888年(明治21年)12月… 吉田 鞆明(よしだ ともあき、1888年(明治21年)12月20日 – 1955年(昭和30年)9月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。ジャーナリスト。
後藤 隆之助(ごとう りゅうのすけ、1888年12月20日 … 後藤 隆之助(ごとう りゅうのすけ、1888年12月20日 - 1984年8月21日)は、日本の政治活動家。近衛文麿のブレーンとして彼を支え、大政翼賛会の組織局長を務めた。 茨城県出身。千葉県佐原出身ともされる。第一高等学校入学。在籍中、野球害毒論に関連し、新渡戸稲造校長を押川春浪が批判した際、単身押川の自宅を訪れ、謝罪文を書かせたとされる。一高には、6年通い、新渡戸稲造校長の「これ以上留年させても仕方がない。卒業させた方が社会のためになるだろう」との言により卒業したというエピソードがある。豪傑肌の反面、求道的なところがあり、いきなり徳富蘆花を訪れ「人生とはなんだ、教えてくれ」と迫って蘆花を困らせたり、人生の意義が判るまで帰らないと言って、関東一円をぐるぐると彷徨したりした。
柳沢 保承(やなぎさわ やすつぐ、旧字体: 柳澤 保承、18… 柳沢 保承(やなぎさわ やすつぐ、旧字体: 柳澤 保承、1888年〈明治21年〉12月20日 - 1960年〈昭和35年〉10月25日)は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。 伯爵・柳沢保申の長男として生まれ、義兄柳沢保恵の養子となる。養父・保恵の死去に伴い1936年(昭和11年)6月15日、伯爵を襲爵した。 1914年(大正3年)京都帝国大学法科大学を卒業。1921年(大正10年)私立大阪信愛高等女学校講師となる。以後、柳沢統計研究所総裁、日本錫工業取締役会長、太平洋海上火災保険取締役などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院伯爵議員に選出され、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
庄野 理一(しょうの りいち、1888年12月20日 - 1… 庄野 理一(しょうの りいち、1888年12月20日 - 1954年5月23日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。香川県出身。 1913年(大正2年)に東京帝国大学独法科を卒業し、すぐに弁護士になった。民事が専門。弁護士をしながら、東邦商事など数社の役員や顧問をし、実業界でも活動した。東京弁護士会会長も務め、戦後は公職資格審査委員会委員長に選出されたりもした。 裁判官任命諮問委員会による諮問の結果、1947年(昭和22年)8月に最高裁判所判事となる。1948年(昭和23年)2月10日、東京帝大出身の弁護士を中心として開かれた会合で、平野事件に関して「牧野英一公職適否審査委員長が西尾末広から50万円を貰い、委員に10万ずつ渡した」旨の発言をした。
早坂 久兵衛(はやさか きゅうべい、Irenaeus Kyū… 早坂 久兵衛(はやさか きゅうべい、Irenaeus Kyūbei Hayasaka、1888年12月16日 - 1946年1月6日)は、日本および朝鮮のカトリック聖職者で、洗礼名は「イレネウス」。カトリック仙台教区の教会の主任司祭を務め、1942年に朝鮮の第3代大邱使徒座代理区長の座に着き、戦後に代理区長を辞任して大邱に留まっている間に亡くなった。日本人初の司教となった早坂久之助の実弟である。 1888年12月16日に宮城県仙台市で生まれ、1898年3月仙台市元寺小路尋常小学校に通い、1902年3月に仙台市東二番町高等小学校を卒業し、1907年3月に東北中学校を卒業。1907年9月、第二高等学校に入学。
藪田 貞治郎(やぶた ていじろう、1888年(明治21年)1… 藪田 貞治郎(やぶた ていじろう、1888年(明治21年)12月16日 - 1977年(昭和52年)7月20日)は、日本の農芸化学者。東京帝国大学農学部教授、理化学研究所会長等を歴任する。1926年に黒沢英一が発見した植物ホルモン「ジベレリン」の構造化、単離結晶化の成功者。命名者。滋賀県出身者として最初の農学博士(博士登録番号42番)。 1888年(明治21年)12月16日、大津市に生まれる。1905年(明治38年)、滋賀県立第二中学校(現在の膳所高等学校)を卒業した。 第三高等学校を経て東京帝国大学農科大学農芸化学科に入学する。1911年(明治44年)7月同大学を卒業し、直ちに大学院に入る。農芸化学の研究に従事し、コウジ酸の化学構造を決定し1917年(大正6年)7月コウジ酸発見に係わる論文「麹菌ニヨリ生産セラルル一新有機酸(麹酸)ニ就イテ」提出により農学博士学位を授与され、直後に東京帝国大学講師となる。
鈴木 貞一(すずき ていいち、1888年(明治21年)12月… 鈴木 貞一(すずき ていいち、1888年(明治21年)12月16日 - 1989年(平成元年)7月15日)は、日本の軍人、陸軍中将。千葉県出身。通称「背広を着た軍人」。「三奸四愚」と呼ばれた東條英機側近三奸の一人とされる。
坂田 武雄(さかた たけお、1888年12月15日 - 19… 坂田 武雄(さかた たけお、1888年12月15日 - 1984年1月12日)は、日本の経営者。サカタのタネの創業者。 東京都出身。1909年に東京帝国大学農学部実科を卒業。農商務省海外実業練習生として、アメリカやヨーロッパの苗木商で経験を積み、アメリカでは簿記を学んだ。1913年に横浜で坂田商会を創業し、植物種子の生産輸出を始めた。1942年12月に坂田種苗と改称し、社長に就任。1974年に会長に就任。 1958年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲四等瑞宝章を受章した。 1984年1月12日心不全のために死去。95歳没。 サカタのタネが成功するきっかけとなったのは、坂田が完成させた必ず咲く八重咲きペチュニアだった(それまでは、種を撒いても八重咲きとなるのは50%程度だった)。
福田 耕(ふくだ たがやす、1888年(明治21年)12月1… 福田 耕(ふくだ たがやす、1888年(明治21年)12月15日 - 1970年(昭和45年)2月7日)は、大正から昭和期の官僚、実業家、政治家。衆議院議員。 福井県今立郡吉谷村(片上村を経て現鯖江市)で福田助右衛門の長男として生まれる。1921年(大正10年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 東京市主事に就任し電気局、道路局で勤務。日本無線電信 (株) に転じ、対欧建設事務所副長、建設課長、工務課長を歴任。1934年(昭和9年)岡田内閣の内閣総理大臣秘書官に就任。1936年(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙で福井県全県区から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。その後、華中電気通信社長、日本タイプライター社長、大和紙業社長を務めた。
上坂 酉蔵(酉三、こうさか とりぞう、1888年(明治21年… 上坂 酉蔵(酉三、こうさか とりぞう、1888年(明治21年)12月15日 - 1976年(昭和51年)4月4日)は、日本の商学者。早稲田大学名誉教授。商学博士。宮城県生まれ。 宮城県気仙沼市魚町出身。1914年(大正3年)に早稲田大学高等予科に入学し、翌年 大学部商科に進学。1918年(大正7年)早稲田大学商科卒業。 水産加工の実務に従事しながら苦学し、29歳で大学卒業。1918年4月増田貿易株式会社に入った後、1925年(大正14年)早稲田大学講師となり、翌年 早大留学生としてイギリス、ドイツに各1年滞在。ヨーロッパ留学後、1928年4月帰国し助教授に就任。翌1929年(昭和4年)教授となり日本の貿易と商学についての研究を重ねる。
滝脇 宏光(瀧脇、たきわき ひろみつ、1888年〈明治21年… 滝脇 宏光(瀧脇、たきわき ひろみつ、1888年〈明治21年〉12月13日 - 1964年〈昭和39年〉2月22日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・古市、旧名・強哉。 帝国大学工科大学学長・古市公威の四男強哉として生まれ、子爵・滝脇信鑰の養子となる。養父の隠居に伴い、1923年(大正12年)4月30日、子爵を襲爵。宏光と改名した。 第七高等学校造士館を経て、1915年(大正4年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年、鉄道院に入り経理局属となる。1916年(大正5年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。以後、鉄道院書記、同副参事兼同総裁秘書、鉄道省事務官兼同大臣秘書官、鉄道省参事官、内閣総理大臣秘書官などを歴任。
大内 竹之助(おおうち たけのすけ、1888年12月12日 … 大内 竹之助(おおうち たけのすけ、1888年12月12日 - 1965年11月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 茨城県多賀郡、のちの高鈴村(助川町を経て現日立市)出身。1907年茨城県立水戸農学校(現・茨城県立水戸農業高等学校)卒。高鈴村議、助川町議、茨城県会議員、同農会議員、助川町長となる。 1937年の第20回衆議院議員総選挙において茨城2区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選。衆議院議員を1期務めた。1942年の第21回衆議院議員総選挙には立候補せずに引退。終戦後、公職追放となった。 このほか常陸セメント(株)常務取締役、同社長、茨城いすゞ自動車(株)取締役、茨城相互銀行(現・筑波銀行)取締役会長を務めた。
田島 義士(たじま よしお、1888年(明治21年)12月1… 田島 義士(たじま よしお、1888年(明治21年)12月12日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 山口県出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。福岡県属、同警視、同理事官、千葉県理事官、静岡県事務官、埼玉県書記官・学務部長、新潟県書記官・学務部長、兵庫県書記官・学務部長、神奈川県書記官・学務部長、富山県書記官・内務部長、岐阜県書記官・総務部長を歴任。1936年(昭和11年)、鹿児島県書記官・総務部長となり、翌年に退官した。 1941年(昭和16年)から横浜市助役を務めた。
渡辺 修二(渡邊 修二、わたなべ しゅうじ、1888年(明治… 渡辺 修二(渡邊 修二、わたなべ しゅうじ、1888年(明治21年)12月12日 - 1977年(昭和52年)12月30日)は、大正から昭和期の検察官、政治家、華族。貴族院男爵議員。 本籍・愛知県。旧尾張藩家老・渡辺半蔵家13代当主、渡辺綱聡の二男として生まれた。1917年(大正6年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年、司法官試補に任官。以後、千葉地方裁判所兼区裁判所検事、東京地方裁判所兼区裁判所検事を務めた。 父の隠居に伴い、1922年(大正11年)1月30日、男爵を襲爵した。1925年(大正14年)7月10月、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで3期在任した。
小松 茂藤治(こまつ もとうじ、1888年12月12日 - … 小松 茂藤治(こまつ もとうじ、1888年12月12日 - 1981年3月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福島県安達郡本宮町(現・本宮市)出身。生家は本宮町の大地主である。1910年(明治43年)に早稲田大学専門部法律科を卒業した。1914年(大正3年)には小松が建設の中心となり、本宮町に芝居小屋兼公民館の本宮座(後の本宮映画劇場)が建設された。 本宮町会議員、本宮町農会長、福島県会議員、福島県会議長、本宮町長などを経て、1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では翼賛政治体制協議会の推薦を得て福島1区(当時)から立候補して当選した。戦後、推薦議員のため公職追放となった。
後藤 亮一(ごとう りょういち、1888年〈明治21年〉12… 後藤 亮一(ごとう りょういち、1888年〈明治21年〉12月10日 - 1949年〈昭和24年〉3月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 岐阜県葉栗郡、のちの羽島郡小熊村(現羽島市)出身。1917年(大正6年)、京都帝国大学哲学科卒。私立花園中学校教諭、羽島郡仏教会副会長、岐阜県嘱託講師、妙心寺派宗会副議長、同議長、同派宗務総長、同派教学財団理事長、仏教連合会幹事、雑誌「正法論」主筆、同「表現」主幹、日本ビルマ協会常任理事となる。 1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙において岐阜2区(当時)から立憲民政党公認で立候補して当選した。1932年(昭和7年)の第18回総選挙で再選。
加納 治雄(かのう はるお、1888年(明治21年)12月1… 加納 治雄(かのう はるお、1888年(明治21年)12月10日 - 1937年(昭和12年)10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・三橋。 東京府東京市小石川区新諏訪町(現・東京都文京区後楽)出身。陸軍文官・三橋淳の二男として生まれ、6歳で加納家の養子となる。開成中学校(現開成中学校・高等学校)、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第34連隊付となる。 1914年(大正3年)8月、名古屋陸軍地方幼年学校生徒監に就任。中央幼年学校生徒隊付、同校副官、歩兵第34連隊付、同連隊大隊副官、同連隊中隊長、陸士副官、関東軍副官を務め、1926年(大正15年)3月、歩兵少佐に進級し歩兵第18連隊付となる。
藤井 厚二(ふじい こうじ、1888年〈明治21年〉12月8… 藤井 厚二(ふじい こうじ、1888年〈明治21年〉12月8日 - 1938年〈昭和13年〉7月17日)は、日本の建築家・建築学者。広島県出身。建築環境工学の先駆者の一人。東京帝国大学工科大学建築学科卒業。 広島県福山市の酒造家・金融業の「くろがねや」の次男として生まれる。経済的にも文化的にも恵まれた環境で育ち、福山中学校(現・福山誠之館高校)、第六高等学校を経て、1913年(大正2年)に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業した後、竹中工務店に就職。大阪朝日新聞社などの設計を手がけ、1919年(大正8年)まで勤務。同社退職後から約9ヶ月間、欧米諸国を巡遊し、環境工学への関心を高めた。 欧米から帰国した後の1920年(大正9年)、同郷の武田五一が創設した京都帝国大学工学部建築学科に招かれ、1926年(大正15年)に教授となった。
草鹿 任一(くさか じんいち、1888年(明治21年)12月… 草鹿 任一(くさか じんいち、1888年(明治21年)12月7日 - 1972年(昭和47年)8月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。勲等は勲一等。 石川県にて誕生。父は弁護士草鹿甲子太郎。草鹿家は大聖寺藩(加賀前田家の分家)に仕えた一族であった。叔父である実業家草鹿丁卯次郎の長男が草鹿龍之介(海軍中将、海兵41期)、三男が草鹿浅之介(最高裁判所判事、弁護士)である。 金沢第一中学校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)に通学していた頃は、叔父宅(龍之介の家)に下宿をしていた。金沢一中(第13回)を経て、四高に進んだが退学し、海軍兵学校(37期)に入校。志望者3,7000名余りの中で3番で合格した。
奈良 晃(なら あきら、1888年(明治21年)12月6日 … 奈良 晃(なら あきら、1888年(明治21年)12月6日 - 1964年(昭和39年)1月5日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 長崎県出身。奈良正英の長男として生まれる。大村中学校(現長崎県立大村高等学校)を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。士官学校では岡田資陸軍中将と同期であった。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる。参謀本部付勤務などを経て、1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業した。 1921年(大正10年)4月、参謀本部付勤務となり、歩兵第46連隊中隊長、参謀本部付(上海駐在)、参謀本部員を務め、1925年(大正14年)9月アメリカ駐在となり米陸軍歩兵学校で学んだ。
野畑 新兵衛(のばた しんべえ、1888年12月5日 - 1… 野畑 新兵衛(のばた しんべえ、1888年12月5日 - 1990年3月14日)は日本の牧師、東京キリスト教短期大学(現、東京基督教大学)の発足のために尽力した。 B・F・バックストン・P・ウィルクス 米田豊・大江邦治・竹田俊造・三谷種吉・堀内文一・武本喜代蔵 笹尾鉄三郎・河辺貞吉・松野菊太郎・御牧碩太郎・秋山由五郎・土肥修平 沢村五郎・柘植不知人・舟喜麟一・佐藤邦之助・鋤柄熊太郎・野畑新兵衛 赤山講話・日本伝道隊・都田恒太郎・有馬聖会 横浜バンド(1872) · 熊本バンド(1876) · 札幌バンド(1876) 静岡バンド(1876) · 弘前バンド(1876) · 阪神バンド(1870) · 松江バンド(1891) ピューリタン - シュペーナー - 敬虔主義 - フレンド派 - ジョン・ウェスレー - D・L・ムーディー - ジョージ・ホウィットフィールド - ジョナサン・エドワーズ - チャールズ・フィニー - A・B・シンプソン バックストン - ウィルクス - 竹田俊造 - 堀内文一 - 笹尾鉄三郎 - 松野菊太郎 - 秋山由五郎 - 御牧碩太郎 - 柘植不知人 - 土肥修平 中田重治 - 中田かつ子 - 中田あやめ - チャールズ・カウマン - レテー・カウマン - アーネスト・キルボルン - 三谷種吉 - 山崎亭治 - 米田豊 - 車田秋次 - 小原十三司 - 小原鈴子 - 一宮政吉 - 菅野鋭 - 野辺地天馬 - 金森通倫 - 小出朋治 - 小出忍 - 森五郎 - 江賀寅三 - 小林和夫 - 尾花晃 - 村上宣道 - 松木祐三 - 千代崎秀雄 - 峯野龍弘 - 安倍豊造 - 辻啓蔵 - 辻宣道 - 蔦田二雄 - 蔦田公義 - 藤本栄造 - 藤本満 メリマン・ハリス - 本多庸一 - 赤澤元造 - 釘宮辰生 - 阿部義宗 - 結城無二三 - 都田恒太郎 - 渡辺善太
恒藤 恭(つねとう きょう、1888年〈明治21年〉12月3… 恒藤 恭(つねとう きょう、1888年〈明治21年〉12月3日 - 1967年〈昭和42年〉11月2日)は、日本の法哲学者。大阪市立大学名誉教授。法学博士。従三位勲二等旭日重光章。学士院会員。 芥川龍之介の親友、戦前における日本の代表的法哲学者として著名。また、京都帝国大学法学部教授時代に滝川事件で辞任した教官の一人としても知られる。旧姓は井川。息子の恒藤敏彦は京都大学名誉教授(物理学)、恒藤武二(1919年8月31日 - 1998年4月29日)は同志社大学法学部教授(法哲学と労働法担当)。 島根県松江市に兄弟姉妹8人の第5子、次男として生まれる。父・井川精一は漢詩、兄・亮は英語を好み漢文、英語の書物が身近にある環境で育った。
水野 仙子(みずの せんこ、1888年(明治21年)12月3… 水野 仙子(みずの せんこ、1888年(明治21年)12月3日 - 1919年(大正8年)5月31日)は、日本の小説家。本名、服部テイ。筆名、服部水仙、服部貞子、服部水仙子、水野仙など。 服部直太郎とセイとの二男三女の末子として、福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)に生まれた。燃料などを商う旧家だった。 1903年(明治36年)(15歳)、須賀川尋常高等小学校(現・須賀川市立第一小学校)を最優秀の成績で卒業し、須賀川裁縫専修学校に入った頃から、『少女界』誌に投稿した。長兄の歌人躬治(もとはる)が選者でいた。卒業後裁縫女塾へ通い、1905年から、河井酔茗の『女子文壇』誌に投稿し入選した。投稿仲間の愛称は『お貞さん』だった。
堀 正平(ほり しょうへい、1888年(明治21年)12月2… 堀 正平(ほり しょうへい、1888年(明治21年)12月2日 - 1963年(昭和38年)12月27日)は、日本の剣道家。段位は範士九段。 大日本武徳会武術教員養成所卒業。著書『大日本剣道史』は剣道史研究の名著として知られる。また、吉川英治の小説で宮本武蔵が注目される以前に『宮本吉岡決闘之地』の石碑を私費で建立した。 大分県別府に生まれる。父・堀政太郎は江戸時代には楊心流柔術の師範であったが、維新後は駄菓子屋を営んでいた。1894年(明治27年)、熊本県阿蘇郡小国村に移住し、12歳から父より剣術を学ぶ。1903年(明治36年)、旧中津藩士・丸山伝八より神一刀流剣術を学ぶ。 1905年(明治38年)、父と死別。
末弘 厳太郎(すえひろ いずたろう、1888年(明治21年)… 末弘 厳太郎(すえひろ いずたろう、1888年(明治21年)11月30日 - 1951年(昭和26年)9月11日)は、大正・昭和期の日本の法学者。専門は民法・労働法・法社会学。学位は法学博士(1920年)。東京大学名誉教授。正三位勲一等瑞宝章。川名兼四郎門下。弟子に吾妻光俊、石川吉右衛門、戒能通孝、小林巳智次、安田幹太など。 1888年(明治21年)、大審院判事であった末弘厳石(すえひろ いずし(げんせき))の長男として山口県に生まれる。東京開成中学、正則英語学校、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月に東京帝国大学法科大学独法科を優等で卒業し銀時計を授与される。同大大学院に進み、1914年(大正3年)7月、東京帝国大学法科大学助教授となる。
勝田 永吉(かつた えいきち、1888年(明治21年)11月… 勝田 永吉(かつた えいきち、1888年(明治21年)11月30日 - 1946年(昭和21年)4月13日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(大阪府第五区選出、当選6回)。 大阪府三島郡富田町(現高槻市)出身。勝田悌三郎の二男。1913年、東京帝国大学法科大学独法科卒業。弁護士の業務に従事する。 衆議院議員に6回当選する。立憲民政党、日本進歩党に所属する。1946年4月13日、死去。
橋浦 泰雄(はしうら やすお、1888年(明治21年)11月… 橋浦 泰雄(はしうら やすお、1888年(明治21年)11月30日 - 1979年(昭和54年)11月21日)は、日本の社会運動家、民俗学者、画家である。 鳥取県岩美郡大岩村(現在の岩美町)に生まれる。鳥取高等小学校(現在の鳥取市立久松小学校)卒業後、実家で経営していた養蚕業蚕や雑貨商売に携わった。後に実弟である橋浦時雄と共に片山潜らと親交を持ち、社会運動活動を始める。これによって1918年(大正9年)には弟と共に日本社会主義同盟の創設に携わるが、翌1919年(大正10年)に発生した第2回メーデーに関与したとして、約2か月間拘留される処分を受けた。 1923年(大正14年)には日本プロレタリア文芸連盟の結成にも携わり、その1928年(昭和3年)には日本プロレタリア美術家同盟となりその画家や委員長としての活動も始める。
菅原 道大(すがわら みちおお、1888年(明治21年)11… 菅原 道大(すがわら みちおお、1888年(明治21年)11月28日 - 1983年(昭和58年)12月29日)は、日本の陸軍軍人。陸士21期。最終階級は陸軍中将。 1888年(明治21年)11月28日、長崎県南高来郡湯江村甲百九十四番地(現島原市)で小学校教員の父・菅原道胤の息子として生まれる。父の転勤に伴い5歳で上京し、やがて電力会社を興した叔父を頼り福島県に移住した。高等小学校、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1907年12月、陸軍士官学校に21期生として入校。1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校歩兵科を9番の成績で卒業。同年12月25日、歩兵少尉に任官、歩兵第4連隊付。1910年に行われた徳川好敏による日本では初となる動力飛行を目撃したことがきっかけで航空に関心を持つようになった。
飯沼 守(いいぬま まもる、1888年(明治21年)11月2… 飯沼 守(いいぬま まもる、1888年(明治21年)11月25日 - 1978年(昭和53年)3月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 尾張藩士・飯沼端の長男として生まれる。名古屋明倫中学(現・愛知県立明和高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第51連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業し歩兵第51連隊中隊長となる。 1920年(大正9年)8月、陸軍運輸部員となり、第20師団参謀、参謀本部部員を歴任。1925年(大正14年)5月、陸軍歩兵少佐に進級。
田中 修(たなか おさむ、1888年(明治21年)11月25… 田中 修(たなか おさむ、1888年(明治21年)11月25日 - 1965年(昭和40年)3月9日)は、日本の内務官僚。福岡県大牟田市長。 福岡県御井郡、後の三井郡北野町(現久留米市北野町)で永利伝次郎の二男として生まれ、田中政の養子となった。福岡県立中学明善校、第五高等学校を経て、1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、1917年(大正6年)10月に文官高等試験行政科試験に合格した。内務省に入省し、愛知県属、同南設楽郡長、北海道庁空知支庁長、京都府理事官、奈良県書記官・学務部長、佐賀県書記官・警察部長、鳥取県書記官・警察部長、群馬県書記官・警察部長、広島県書記官・警察部長、佐賀県書記官・内務部長、愛媛県内務部長、鹿児島県総務部長、長野県総務部長などを歴任した。
友田 一郎(ともだ いちろう、1888年〈明治21年〉11月… 友田 一郎(ともだ いちろう、1888年〈明治21年〉11月24日 - 1966年〈昭和41年〉7月13日)は、日本の政治家、実業家、友田酒造工場主。第46代兵庫県会議長。外交官の弟・友田二郎の孫に憲仁親王妃久子がいる。 兵庫県城崎郡日高町江原(現・豊岡市)出身。友田俊蔵の長男。1920年、家督を相続した。但馬銀行、甲子銀行各監査役などをつとめた。兵庫県参事会員であった。 兵庫県会議員に推され、1943年12月から1944年12月まで兵庫県会議長を務める。住所は兵庫県城崎郡日高町江原(現・豊岡市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
河瀬 虎三郎(かわせ とらさぶろう、1888年〈明治21年〉… 河瀬 虎三郎(かわせ とらさぶろう、1888年〈明治21年〉11月23日 - 1971年〈昭和46年〉1月4日)は、日本の茶人。号は無窮亭。ほかに偉風堂、春陽軒の号があった。 現在の徳島県徳島市駕篭屋町に生まれる。 1910年(明治43年)、大阪市東区瓦町(現在は中央区内)の繊維商家河瀬氏に婿入りし、家業を盛んにするかたわら古美術に興趣を寄せ、刀剣、刀装具、具足を蒐集し、刀剣の目利きとなる。所蔵刀の中には、のちに国宝・重要文化財指定および重要美術品認定を受けたものが多数ある。 1943年(昭和18年)、兵庫県本山村(現・神戸市東灘区)から奈良市多聞山に移る。奈良では仏教美術や茶道具を蒐集し、その見立てが賞された。
西沢 義徴(にしざわ ぎちょう、1888年(明治21年)11… 西沢 義徴(にしざわ ぎちょう、1888年(明治21年)11月21日 - 1967年〈昭和42年〉7月28日)は、日本の外交官。台湾総督府官僚。台北市尹、高雄州知事。 高知県、のちの安芸市出身。1913年(大正2年)、京都帝国大学法科大学法律科を卒業し、高等文官試験に合格。神奈川県属、同理事官、外務事務官、大使館三等書記官、同二等書記官、安東領事・関東庁事務官・朝鮮総督府事務官、福州総領事・台湾総督府事務官を歴任した。1929年(昭和4年)、台湾総督府税関長に転じ、台北市尹、高雄州知事を務めた。 1935年(昭和10年)に退官した後は、台湾合同鳳梨株式会社常任監査役を務めた。戦後は、安芸高等学校東京同窓会長を務めた。
白倉 司馬太(しろくら しばた、1888年(明治21年)11… 白倉 司馬太(しろくら しばた、1888年(明治21年)11月20日 - 1972年(昭和47年)8月14日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1888年(明治21年)に広島県で生まれた。陸軍士官学校第22期、東京帝国大学機械工学科卒業。1934年(昭和9年)3月に関東軍野戦兵器廠長に就任し、8月に陸軍砲兵大佐に進級した。1936年(昭和11年)に陸軍兵器廠附を経て、1937年(昭和12年)に第1野戦化学実験部長に就任した。 1938年(昭和13年)3月に陸軍少将に進級し、陸軍砲工学校砲兵科長に就任。7月には陸軍造兵廠小倉工廠長に転じ、1940年(昭和15年)4月に名古屋陸軍造兵廠長となり、12月に陸軍中将に進級。
深尾 須磨子(ふかお すまこ、1888年〈明治21年〉11月… 深尾 須磨子(ふかお すまこ、1888年〈明治21年〉11月18日 - 1974年〈昭和49年〉3月31日)は、日本の詩人、作家、翻訳家。本名は荻野志げの(おぎの しげの)。 兵庫県氷上郡大路村(現・丹波市)の旧家の生まれ。京都師範学校中退、1907年京都菊花高等女学校卒。与謝野晶子に師事する。大正元年(1912年)詩人で技師の深尾贇之焏と結婚するが、大正9年(1920年)に死別。夫の遺稿集『天の鍵』を出版、その附録に深尾須磨子作として掲載した詩54篇と散文「最終の旅」が処女作となる。 大正14年(1925年)詩集『斑猫』を上梓すると神戸港から箱根丸で初めてフランスに渡り、シドニー=ガブリエル・コレットの知遇を得ている。
月野木 正雄(つきのき まさお、1888年(明治21年)11… 月野木 正雄(つきのき まさお、1888年(明治21年)11月17日 - 1972年(昭和47年)4月15日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級 鹿児島県出水郡、のちの出水市で生まれた。陸軍士官学校第22期卒業。1936年(昭和11年)8月に独立山砲兵第3連隊長に就任し、1937年(昭和12年)8月2日に陸軍砲兵大佐に進級した。盧溝橋事件発生後に戦線が拡大する中、日中戦争に出動。1938年(昭和13年)7月に近衛野砲兵連隊長に転じ、8月に南寧に出動した。 1941年(昭和16年)3月に陸軍少将に進級と同時に第13軍兵器部長に就任し、1942年(昭和17年)10月に長崎要塞司令官に転じた。
石田 退三(いしだ たいぞう、1888年11月16日 - 1… 石田 退三(いしだ たいぞう、1888年11月16日 - 1979年9月18日)は、日本の実業家。位階は従三位。勲等は勲一等。旧姓は澤田(さわだ)。 豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)及びトヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の社長・会長・相談役。戦後のトヨタ自動車の建て直しをし、「トヨタの大番頭」と呼ばれる。また、豊田英二と共に「トヨタ中興の祖」とも呼ばれる。 愛知県知多郡小鈴谷村字大谷(現常滑市)に生まれた。澤田徳三郎の五男。家は農家で男の兄弟が五人あった。 父親を早くになくし、進学できず丁稚奉公に出されるところに遠戚に当たる児玉一造(豊田佐吉と親交があり、弟は佐吉の婿養子となる豊田利三郎)の支援で滋賀県立第一中学校(現滋賀県立彦根東高等学校)を卒業し、しばらくは代用教員として働く。
小崎 道雄(こざき みちお、1888年11月16日 - 19… 小崎 道雄(こざき みちお、1888年11月16日 - 1973年6月18日)は、日本基督教団牧師、神学者。エキュメニカル運動の指導者。
児玉 九十(こだま くじゅう、1888年(明治21年)11月… 児玉 九十(こだま くじゅう、1888年(明治21年)11月15日 - 1989年(平成元年)12月15日)は、日本の教育者。学校法人明星学苑創立者。 静岡県田方郡中郷村(現・三島市)出身。1911年第四高等学校卒業。1914年東京帝国大学文科大学卒業。1915年同大学大学院修了。 その後、名教中学校教諭 成蹊実務学校教諭、1917年同主事となる。1920年から1925年まで成蹊中学校校長を務める傍ら、1922年に明星実務学校創立に参画し、1923年同理事に就任する。1924年から翌年まで成蹊小学校校長も兼任した。1925年欧米教育視察のため学校法人成蹊学園を退職し、1926年明星実務学校校長となる。