スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
今江 勇人(いまえ ゆうと、1998年〈平成10年〉1月26… 今江 勇人(いまえ ゆうと、1998年〈平成10年〉1月26日 - )は、日本の陸上競技選手。宮城県石巻市出身。専門は長距離走。仙台第三高等学校、千葉大学工学部、千葉大学大学院工学研究院卒業。GMOインターネットグループ陸上競技部所属。 高校は宮城県内の進学校である仙台三高に進学。高校時代のベストは15分12秒27で、5000mで15分台を切ることができなかった。 大学は千葉大学工学部に進学。1、2年次には箱根駅伝予選会にも出走したが、3年次以降は出走することはなかった。大学では今江個人で力をつけ、4年次には5000mで14分11秒07、10000mで29分50秒96をマークした。大学4年次の6月に行われた日本学生陸上競技個人選手権大会(平塚市・Shonan BMW スタジアム平塚)男子3000mSC、9月に行われた第88回日本学生陸上競技対校選手権大会(岐阜市・岐阜メモリアルセンター長良川競技場)男子3000mSCではどちらも2位に入る好走を見せた。
後藤 航(ごとう こう、1996年4月12日 - )は、神奈… 後藤 航(ごとう こう、1996年4月12日 - )は、神奈川県出身のサッカー選手。ポジションはフォワード(FW)。現在はアルゼンチンプリメーラBメトロポリターナ(3部)アルミランテブラウン(英語: Club Almirante Brown)に所属。 小学三年生時に横浜F・マリノスのセレクションを受け入団、その後15歳までマリノスでプレイする。高校は帝京第三高等学校に進学し、寮生活を経験した。卒業後に単身アルゼンチンへ。アルヘンティノス・ジュニアーズ(アルゼンチン4部)で10ヶ月間練習参加したものの惜しくも公式戦に出場できず、その後デポルティーボ・リエストラ(アルゼンチン4部)リエストラ(英語: Deportivo Riestra)に移籍。
翁長 聖(おなが ひじり、1995年2月23日 - )は、兵… 翁長 聖(おなが ひじり、1995年2月23日 - )は、兵庫県加古川市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・V・ファーレン長崎所属。ポジションはディフェンダー、ミッドフィールダー、フォワード。 高校は帝京第三高等学校に入学。1年生時からレギュラーであった。2年生時には第66回国民体育大会に山梨県代表として出場。個人としては、2-0で勝利した福島県代表戦でMOMに選出されている。チームとしては2回戦で千葉県代表に3-0で負けて敗退している。3年次に全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会に自身初出場。背番号10を背負い臨んだ。チームは当時世代別日本代表の植田直通が主将であった熊本県立大津高等学校を1回戦で破り、3回戦まで進むも、立正大学淞南高等学校に3-1で敗退した。
小口 隼也(おぐち じゅんや、1994年5月9日 - )は日… 小口 隼也(おぐち じゅんや、1994年5月9日 - )は日本の俳優。長野県上伊那郡箕輪町出身。Breath所属。 長野県上伊那郡箕輪町出身。兄妹は姉が一人。東海大学付属第三高等学校、東海大学文学部広報メディア学科卒業。小学3年から高校卒業まで野球をしていた。中学時代は主将を務め、秋季長野県大会で準優勝を果たす。 幼少期よりテレビ業界へ憧れを抱き、高校、大学時代はアナウンサーを目指しアナウンススクールへ通った経験がある。大学時代に観た映画がきっかけとなり俳優を志す。 2020年には、松尾祥磨、ToMunchと共に「手の届く距離の日常を描く」をモットーに映像制作ユニット「六畳一間」を結成、YouTubeにて短編作品を公開。
宮崎 隆光(みやざき たかみつ、1948年12月 -2024… 宮崎 隆光(みやざき たかみつ、1948年12月 -2024年9月14日20:00 )は、日本の建設技術者。清水建設専務を務めた。 1948年東京都文京区にて生を受ける 1962年東京都文京区立文林中学校を卒業 1965年日本大学付属第三高等学校へ入学し野球部のキャプテンを務める 1971年に日本大学理工学部建築学科を卒業して、清水建設に入社した。 1995年10月、建築本部統合生産推進部長となる[要出典]。以後、東京支店建築第一部長(1997年8月)、九州支店副支店長(2001年11月)[要出典]、九州支店支店長(2001年12月)を経て、2002年6月に執行役員九州支店長に就任した。[要出典] 2003年に建築事業本部長となる。
山岡 永知(やまおか ながとも、1938年6月14日 - )… 山岡 永知(やまおか ながとも、1938年6月14日 - )は、日本の法学者。専攻は英米法、国際取引法。日本大学法学部名誉教授・元非常勤講師。 東京都生まれ。日本大学付属第三高等学校を経て、1962年日本大学工学部建築学科卒業。1965年同大学大学院理工学研究科建築工学専攻修士課程修了、同大学生産工学部副手。1969年生産工学部専任講師、日本大学法学部法学専攻科修了、1972年同大学大学院法学研究科公法専攻修士課程修了。1974年生産工学部専任講師を退職。1975年ジョージ・ワシントン大学ロースクール修了、1977年テュレーン大学ロースクール修了。1985年秋田経済法科大学法学部専任講師、1986年日本大学法学部専任講師、1995年同教授。
狩野 直禎(かの なおさだ、1929年〈昭和4年〉11月8日… 狩野 直禎(かの なおさだ、1929年〈昭和4年〉11月8日 - 2017年〈平成29年〉2月7日)は、日本の東洋史学者。京都女子大学名誉教授。 東京府生まれ。1950年旧制第三高等学校を経て、1953年京都大学文学部史学科卒業(東洋史専攻で、古代中国史を専門)。1961年聖心女子大学助教授、1971年京都女子大学文学部教授。1993年から1997年まで学長。1998年定年退任となり名誉教授の称号を授与。 1994年、「後漢政治史の研究」で京大文学博士。『三国志』などについて一般向けの著書が多く、「三国志学会」会長でもあった。また第三高等学校の校史の編纂にあたった。 狩野直喜の嫡孫で、弟子らの講義ノートを基に著作の編さん解説を行った。
薗田 香融(そのだ こうゆう、1929年〈昭和4年〉1月18… 薗田 香融(そのだ こうゆう、1929年〈昭和4年〉1月18日 - 2016年〈平成28年〉8月4日)は、日本史・仏教学者。関西大学名誉教授。 和歌山県和歌山市に、薗田香勲の長男として生まれる。祖父は薗田宗恵。母方祖父は芦津実全。弟に薗田宗人、薗田坦、芦津家を継いだ芦津丈夫がいる。 第三高等学校を経て、1951年京都大学文学部史学科卒業。1953年関西大学文学部助手、専任講師、助教授を経て、1965年教授。1980年「古代財政史の研究」で関西大学文学博士。1999年定年退職、名誉教授。浄土真宗本願寺派妙慶寺第14世住職。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
松村 禎三(まつむら ていぞう、1929年 <昭和4年> 1… 松村 禎三(まつむら ていぞう、1929年 <昭和4年> 1月15日 - 2007年 <平成19年> 8月6日)は、日本の作曲家、俳人。東京芸術大学名誉教授。 京都市(下京区仏光寺通室町西入ル)で生まれる。両親は京都の町人の出身であり、父は代々呉服屋の家系であった。父は尺八を、母は箏を嗜んでいた。禎三は、幼い頃から音楽に興味を示し、小学生で簡単な作曲は始めていた。京都時代は1945年から1949年まで高橋恒治にピアノを、1947年から1949年まで和声を長廣敏雄に師事。10歳の頃には父をがんで失い、1949年には母を結核で失う。1945年に旧制第三高等学校理科に入学。寮生活を通じて、音楽だけでなく様々な出会いと経験を積む。
石田 慶和(いしだ よしかず、1928年11月 - )は、日… 石田 慶和(いしだ よしかず、1928年11月 - )は、日本の哲学者、宗教学者。龍谷大学名誉教授。初代仁愛大学学長。親鸞思想の宗教哲学的解明を研究した。 1928年、京都府で生まれた。1949年に旧制第三高等学校を卒業し、京都大学文学部に進学。哲学科宗教学専攻で学び、1953年に卒業。京都大学大学院哲学学科に進み、1959年に修了。 1959年、京都女子大学教授に就いた。後に龍谷大学教授となり、在任中には龍谷大学文学部長、龍谷大学大学院文学研究科長を務めた。1976年、学位論文『信楽の論理』を京都大学に提出して 文学博士号を取得。1997年に龍谷大学を退任。同1997年、浄土真宗本願寺派教学研究所所長に就いた。
石田 喜久夫(いしだ きくお、1928年7月11日 - 20… 石田 喜久夫(いしだ きくお、1928年7月11日 - 2001年6月30日)は、日本の法学者。専門は民法。学位は、法学博士(神戸大学・論文博士・1980年)。神戸大学名誉教授、京都学園大学名誉教授。京都市出身。 1948年第三高等学校文科乙類卒業。1951年大阪大学法経学部卒業。同法経学部助手。1956年大阪大学法学部専任講師。1961年大阪市立大学経済学部助教授。1968年大阪市立大学経済学部教授。1969年神戸大学法学部教授。1975年神戸大学評議員。1980年神戸大学より法学博士の学位を取得。 1990年経済企画庁消費者保護功労者表彰。1991年3月31日神戸大学定年退官。同名誉教授。京都学園大学法学部教授。
山口 三夫(やまぐち みつお、1928年 - 1997年11… 山口 三夫(やまぐち みつお、1928年 - 1997年11月)は、フランス文学者。 奈良県生まれ。海軍兵学校に入学し(76期)、江田島で敗戦を迎える。1948年第三高等学校入学、1949年東京大学文学部美学科に編入、ロマン・ロランに傾倒、卒業後詩作などをし、1966年多摩美術大学助教授、反アパルトヘイト運動に関わり、小宮山量平の知遇を得て理論社から著作を刊行、大学を辞職ののち、1975年静岡大学教養部助教授、教授、1990年定年退官。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
樋口 敬二(ひぐち けいじ、1927年11月26日 - 20… 樋口 敬二(ひぐち けいじ、1927年11月26日 - 2018年10月19日)は、日本の雪氷物理学者、名古屋大学名誉教授。 朝鮮半島(現在の韓国)の木浦で生まれ、京都で育つ。第三高等学校時代に氷の実験を試み、1949年、中谷宇吉郎に師事するために北海道大学に入学、1952年北海道大学理学部卒、1955年同大学院研究奨学生前期修了。1960年理学博士。1961年北大理学部助教授。航空機を使って石狩平野の降雪雲を観測し「紙の雪」の撒布実験などを行う。1966年名古屋大学理学部教授。現地調査・航空機によって雪渓・氷河・永久凍土などを観測し、地球温暖化の影響に関する先駆的研究を進めた。1973年『地球からの発想』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。
村上 信吾(むらかみ しんご、1927年 <昭和2年> 10… 村上 信吾(むらかみ しんご、1927年 <昭和2年> 10月21日 - 1999年<平成11年> 12月3日)は、日本の数学者。専攻は、代数学・幾何学。学位は、理学博士。大阪大学名誉教授。位階は正四位。勲三等旭日中綬章。 京都市出身。第三高等学校を経て、大阪大学理学部卒。 大阪大学理学部教授、プリンストン高等研究所員、シカゴ大学、グルノーブル大学、タタ基礎科学研究所、南開大学客員教授、大阪産業大学教養部教授を歴任。 フランスパルムアカデミーク勲章受章。 1999年死去。死没日付をもって正四位に叙され、勲三等旭日中綬章を追贈された。
橋本 四郎(はしもと しろう、1927年7月13日 - 19… 橋本 四郎(はしもと しろう、1927年7月13日 - 1985年7月22日)は、日本の国文学者、国語学者。 京都市下京区梅小路生まれ。1950年第三高等学校卒業、1953年旧制京都大学文学部国文科卒業。1956年京都女子大学助教授、1957年、旧制京都大学大学院退学。1963年大阪女子大学助教授、1969年同教授。1985年7月22日急逝。没後、正四位勲三等瑞宝章。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
井上幸夫(いのうえ ゆきお、1927年3月1日 - 1981… 井上幸夫(いのうえ ゆきお、1927年3月1日 - 1981年3月8日)は日本の大蔵官僚。沖縄開発庁振興局長、沖縄開発事務次官などを務めた。 大阪府出身。第三高等学校から東京帝国大学法学部政治学科に入学。東大法学部政治学科在学中の1947年12月 高等試験行政科を合格。東大法学部政治学科を卒業し、1948年3月 大蔵省入省。理財局属。1951年8月1日 伊予西条税務署長。1952年9月16日 前橋税務署長。その後は管財局総務課長補佐、主計局総務課長補佐、主計局主計官補佐(公共事業係)、広島国税局総務部長などを務める。1965年7月8日 主計局主計官(防衛担当)。1967年8月4日 主計局主計官(建設、公共事業担当)。
田辺 員人(たなべ かずと、1927年 - 2025年)は、… 田辺 員人(たなべ かずと、1927年 - 2025年)は、日本の建築評論家。都市プランナー。観光コンサルタント。建築ジャーナリスト。大阪府生まれ。 旧制第三高校を経て、1945 年、東京帝国大学工学部航空学科機体専攻入学。1946年、東京帝国大学第一工学部建築学科に転科。帝国大学新聞編集員。1949年卒業。 1950年、小山正和主宰の《国際建築》編集員。1960年 世界デザイン会議事務局次長。 1962年 前野淳一郎とスペースコンサルタンツ設立。観光地コンサルティングを開始。1964年 日本造園設計事務所連合(現・ランドスケープコンサルタンツ協会)設立に参加。 1969 年 九州芸術工科大学教授。
鈴木 通夫(すずき みちお、1926年10月2日 - 199… 鈴木 通夫(すずき みちお、1926年10月2日 - 1998年5月31日)は、日本の数学者。イリノイ大学教授。専門は群論。鈴木群(英語版)で知られる。 1926年10月2日 千葉県千葉市生まれ。1942年 旧制第三高等学校入学、1945年 東京大学数学科に進学。1948年から1951年まで国の特別奨学金を受け、東京大学大学院で研究。指導教員は彌永昌吉であったが、岩澤健吉からも影響を受ける。1951年4月東京教育大学講師。1952年 イリノイ大学の奨学金を得て渡米。渡米後に東京大学から博士号を受ける。1952年夏、ミシガン大学のブラウアーの下に2月間滞在、1952年9月イリノイ大学ポスドク研究員。
木幡順三(こばた じゅんぞう、1926年6月29日-1984… 木幡順三(こばた じゅんぞう、1926年6月29日-1984年9月20日)は、日本の美学研究者。 大阪府出身。第三高等学校卒、1952年東京大学文学部美学美術史学科卒、同大学院をへて、東洋大学助教授、教授、1976年慶應義塾大学文学部教授。妻は木幡瑞枝。
太壽堂 鼎(たいじゅどう かなえ、1926年5月14日 - … 太壽堂 鼎(たいじゅどう かなえ、1926年5月14日 - 1996年8月28日)は、日本の法学者。専門は国際法。京都大学名誉教授。元姫路獨協大学教授。 1926年5月14日、京都市に生まれる。1939年から3年間、宗教家の大谷光瑞の門下生として京都、台湾にて修業を積み、1943年10月、専門学校入学者検定試験に合格。同年12月より1945年10月まで、徴用工および現役兵として勤務した。 旧制第三高等学校を経て1953年に京都大学法学部を卒業し、同大学法学部助手として国際法の研究を開始した。最初に取り組んだのは領域法の理論であり、1955年の助手論文「国際法上の先占について――その歴史的研究」においては思想史や経済史を参照しつつ、縦断的に国際先占原則の成立と展開の跡を研究した(領域法の社会学的研究)。
植野 修司(うえの しゅうじ、1926年3月1日 - 200… 植野 修司(うえの しゅうじ、1926年3月1日 - 2008年5月13日)は、日本のロシア文学者。京都大学名誉教授。文学博士。 滋賀県出身。1949年3月京都大学文学部言語学科卒。同年8月、同大学院博士課程満期退学、同月京都大学第三高等学校講師。1950年3月京都大学講師(吉田分校,兼ねて宇治分校勤務)、1956年4月同教養部助教授、1967年「ロシア諸年代記に於ける「過ぎし年月の物語」研究」で京大文学博士。1968年4月同教授。1989年定年退官、名誉教授。 日本ロシア文学会の創設に参画し、理事や関西支部長を歴任した。日本におけるロシア文学研究と、ロシア語教育をリードした功績により、2006年11月、瑞宝中綬章を受賞。
仲 晃(なか あきら、1926年- )は、日本のジャーナリス… 仲 晃(なか あきら、1926年- )は、日本のジャーナリスト、国際政治学者。桜美林大学名誉教授。 京都府舞鶴市生まれ。第三高等学校 (旧制)を経て、1951年東京大学法学部卒業、共同通信社入社。ワシントン特派員、ジュネーヴ支局長、ワシントン支局長を経て、1983年論説副委員長。1962年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞。1989年から桜美林大学国際学部教授。1997年に定年退職後、桜美林大学名誉教授。
末包 良太(すえかね りょうた、1925年(大正14年)2月… 末包 良太(すえかね りょうた、1925年(大正14年)2月8日 - 1987年(昭和62年)10月24日)は、昭和時代の計算機科学者。 京都市に生まれる。第三高等学校、東京帝国大学工学部航空学科を経て1948年(昭和23年)同大学応用数学科を卒業。同大助手を経て1951年(昭和26年)電気試験所材料部数学研究室に勤務し、駒宮安男とともに1952年(昭和27年)継電器式自動計算機のパイロットモデルETL Mark Iを完成させた。これは日本初の逐次式自動計算機であった。のち駒宮と共に大型継電器式自動計算機ETL Mark IIの開発に着手し、1955年(昭和30年)高木正英や桑原繁らとともにこれを完成させた。
古田 光(ふるた ひかる、1925年2月8日 - 2007年… 古田 光(ふるた ひかる、1925年2月8日 - 2007年3月17日)は、日本の哲学研究者。横浜国立大学名誉教授。 中国・撫順市生まれ。1944年第三高等学校卒業。1947年東京文理科大学卒業。1954年横浜国立大学講師、1969年助教授、1970年教授。1990年定年退官、名誉教授、唯物論研究協会委員長、富山国際大学教授。 2004年4月瑞宝中綬章受章。2007年3月17日、胃癌のため死去。
溝畑 茂(みぞはた しげる、Sigeru Mizohata、… 溝畑 茂(みぞはた しげる、Sigeru Mizohata、1924年12月30日 - 2002年6月25日)は、日本の数学者。専門は偏微分方程式。京都大学名誉教授。 1924年(大正13年)大阪府で生まれる。1944年(昭和19年)に第三高等学校理科、1947年(昭和22年)に京都帝国大学理学部を卒業。師は岡村博教授。1953年(昭和28年)京都大学理学部助教授に就任。 1954年(昭和29年)から1957年(昭和32年)にかけて、フランス政府給費留学生としてフランス、次いでアメリカ合衆国に留学した。以降、多くの論文をフランス語で執筆するなど、留学時の影響は大きい。1961年(昭和36年)京都大学教授に就任。
野水 克己(のみず かつみ、1924年12月1日 - 200… 野水 克己(のみず かつみ、1924年12月1日 - 2008年11月5日)は、日本の数学者。 大阪府出身。旧制第三高等学校卒、大阪大学理学部卒、シカゴ大学でPh.D.を取得。名古屋大学、ブラウン大学教授。パリ大学、ボン大学、ブラジルの純粋応用数学研究所(ポルトガル語版)(IMPA)、大阪大学客員教授。専門は多様体上の接続論。
青村 真明(あおむら しんめい、1924年3月2日 - 19… 青村 真明(あおむら しんめい、1924年3月2日 - 1953年5月13日)は、日本の歴史学者。専攻は近代日本思想史。 東京生まれ。甲子郎と名付けられる。1937年に父親の奨めにより僧籍に入り、真明と改名する。旧制麻布中学校卒業後、1941年に第三高等学校文科甲類に入学し、1943年に卒業。1943年10月に東京帝国大学文学部国史学科に入学するも、1944年8月から1945年4月まで土浦海軍航空隊入隊、ついで同年6月まで横須賀海軍通信学校を経て、松山海軍基地で終戦を迎える。同年10月に復学し、国史研究室の民主改革に努め「青村時代」と称された。卒業論文「所謂『明治四十年代』の一考察」をまとめ、1948年9月卒業。
中村 尚夫(なかむら ひさお、1923年12月17日 - 2… 中村 尚夫(なかむら ひさお、1923年12月17日 - 2008年6月25日)は、日本の経営者。クラレ社長を務めた。京都府京都市出身。 第三高等学校を経て、1948年に京都大学経済学部を卒業し、1950年に同大学院を修了し、同年にクラレに入社した。 1972年11月に取締役に就任し、1976年6月には常務に就任し、1981年6月には副社長に就任した。 1985年6月には社長に昇格し、1993年6月には会長に就任した。2000年6月から相談役に就任した。 1990年11月に藍綬褒章を受章し、1996年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 2008年6月25日急性冠症候群のために兵庫県宝塚市の病院で死去。
越智 武臣(おち たけおみ、1923年(大正12年)11月2… 越智 武臣(おち たけおみ、1923年(大正12年)11月20日 - 2006年(平成18年)1月10日)は、日本の西洋史学者。京都大学名誉教授。専門は近代イギリス史。 1923年、愛媛県で生まれた。第三高等学校を卒業後、兵役についた。戦後京都大学文学部に進学し、1948年に卒業。英国ハル大学に留学して学んだ。 1952年、京大文学部助教授に就任。1969年、学位論文『近代英国の起源』を京都大学に提出して文学博士号を取得。1970年に教授昇格。1987年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は京都橘女子大学教授として教鞭をとり、1989年に同大学学長に就いた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
尾藤 正英(びとう まさひで、1923年9月1日 - 201… 尾藤 正英(びとう まさひで、1923年9月1日 - 2013年5月4日)は、日本の歴史学者。文学博士(名古屋大学・論文博士・1962年)(学位論文「幕藩体制の政治的原理と朱子学との関係に関する研究」)。東京大学名誉教授。 大阪府大阪市生まれ。幼少期は旧満州(中国東北部)に移住。第三高等学校を経て1943年東京帝国大学文学部国史学科入学するも同年12月に学徒出陣。1945年8月の終戦は第二航空軍(満州)教官。翌年に復員。 1949年、東京大学文学部国史学科卒業。1958年、名古屋大学文学部講師、1962年1月、名古屋大学文学部助教授。同年4月、東京大学文学部助教授を経て、1970年、東京大学文学部教授。
山辺 英彦(やまべ ひでひこ、1923年8月22日 - 19… 山辺 英彦(やまべ ひでひこ、1923年8月22日 - 1960年11月20日)は、日本の数学者である。 位相群、リー群の構造を研究しヒルベルトの第5問題の解決に貢献したことで知られる。その後、偏微分方程式、力学系、微分幾何学の研究に移る。微分幾何学では共形幾何学における変分問題である「山辺の問題」が有名である。また山辺不変量、山辺フロー、山辺定数などに名を残す。 山辺は1923年8月22日に兵庫県芦屋市で山辺武彦、レイの六男として生まれた。芦屋市立山手小学校、神戸第一中学校を経て、1944年9月に第三高等学校を卒業後、東京帝国大学数学科に入学した。1947年9月に東京大学を卒業して理学士の学位を得た。
富塚 良三(とみづか りょうぞう、1923年5月15日 - … 富塚 良三(とみづか りょうぞう、1923年5月15日 - 2017年1月12日[要出典])は、日本のマルクス経済学者、中央大学名誉教授。千葉県生まれ。 千葉県生まれ。旧制第三高等学校を卒業し、京都大学文学部西洋史学科に入学。その後1949年東京大学経済学部卒業、指導教授は大河内一男。利潤率の傾向的低下の法則を証明したことでも有名。また、著書である「恐慌論研究」において均衡蓄積軌道論を提示し、再生産論および恐慌論の発展に寄与した。 東京大学在学中に山田盛太郎の再生産論を、大原社会問題研究所では久留間鮫造から資本論を学ぶ。福島大学に所属していたときに熊谷尚夫との間で繰り広げられた、「相対的過剰人口」での討論は、近代経済学、マルクス経済学の有意義な論争の一つである。
大川 美雄(おおかわ よしお、1922年12月3日 - 20… 大川 美雄(おおかわ よしお、1922年12月3日 - 2008年12月9日)は、日本の外交官。外務省国際連合局長や、駐フィリピン特命全権大使、駐カナダ特命全権大使などを歴任した。 大阪府出身。旧制灘中学校、第三高等学校文科丙類を経て、1946年東京帝国大学法学部卒業。在連合王国日本国大使館一等書記官を経て、1964年外務省経済局スターリング地域課長。1965年外務公務員採用上級試験委員(英語)。 1967年外務省国際連合局政治課長。1969年在フィリピン日本国大使館参事官。1970年在ジュネーヴ日本国総領事館総領事、在ジュネーヴ国際機関日本政府代表部参事官。 1975年外務省国際連合局長。1979年軍縮委員会日本政府代表部特命全権大使。
川副武胤(かわぞえ たけたね、1922年4月15日 - 19… 川副武胤(かわぞえ たけたね、1922年4月15日 - 1993年6月29日)は、日本の日本史学者。山形大学名誉教授。 日本史学者・川副博の子として東京に生まれる。第三高等学校卒、1951年東京大学文学部国史学科卒。同大学院、1954年鎌倉市史編纂員、1960年正倉院事務所技官、1967年山形大学人文学部講師、1968年助教授、1974年教授。1985年定年退官、名誉教授、就実女子大学教授、就実学園理事。 1969年「古事記の研究」で名古屋大学文学博士。
前川 嘉一(まえかわ かいち、1922年2月9日 - 199… 前川 嘉一(まえかわ かいち、1922年2月9日 - 1990年1月29日)は、日本の経済学者。 京都市生まれ。第三高等学校、兵役をへて1947年京都帝国大学経済学部卒。1968年「イギリス労働組合主義の発展」で京都大学より経済学博士の学位を取得。1949年京都大学経済学部助手、1950年講師、1954年助教授、1969年教授、1976-1977年経済学部長、1985年定年退官、名誉教授。
梅本 堯夫(うめもと たかお、1921年10月10日 - 2… 梅本 堯夫(うめもと たかお、1921年10月10日 - 2002年9月13日)は、日本の教育心理学者、京都大学名誉教授。 旧制第三高等学校文科乙類を経て、1948年に京都帝国大学文学部哲学科を卒業。1966年、「音楽心理学の体系的研究」で京都大学より教育学博士の学位を取得。京都大学助教授、教授、1985年、定年退官、名誉教授、甲南女子大学教授。 1996年、勲三等旭日中綬章を受章。2002年9月13日、心筋梗塞のため死去。
溜池 良夫(ためいけ よしお、1921年8月30日 - 20… 溜池 良夫(ためいけ よしお、1921年8月30日 - 2014年10月16日)は、日本の法学者。専門は国際私法。学位は、法学博士(京都大学・論文博士・1987年)(学位論文「国際婚姻法の基礎的研究」)。京都大学名誉教授。 滋賀県大津市出身。1942年、第三高等学校 (旧制)卒業。1946年、京都帝国大学法学部卒業。1946年、京都帝国大学法学部助手(指導教授:齋藤武夫)。1952年、京都大学法学部助教授。1961年、京都大学法学部教授。1966年、京都大学評議員。1987年、法学博士(京都大学)(学位論文「国際婚姻法の基礎的研究」)。1985年、京都大学停年退官、同名誉教授。1985年龍谷大学法学部教授を歴任。
田淵 安一(たぶち やすかず、1921年5月20日 - 20… 田淵 安一(たぶち やすかず、1921年5月20日 - 2009年11月24日)は、福岡県小倉市(現・北九州市)出身の抽象画家。 1921年に福岡県小倉市(現・北九州市)に生まれ、母親の影響で幼少時からオーブリー・ビアズリーやラファエル前派などに親しんだ。1941年に第三高等学校(現・京都大学)文科丙類に入学。中学時代から絵画制作を行っており、三高在学中の1942年と1943年には京都市美術展に入選している。1943年には学徒動員で日本国海軍に入隊し、米子海軍航空基地で太平洋戦争終戦を迎えた。 終戦直後の1945年には東京大学文学部美術史学科に入学して猪熊弦一郎に師事し、1948年には東京大学大学院に進学した。
大崎 順彦(おおさき よりひこ、1921年〈大正10年〉5月… 大崎 順彦(おおさき よりひこ、1921年〈大正10年〉5月10日 - 1999年〈平成11年〉8月25日)(享年78才) は、日本の耐震工学者。地震自体と地盤、構造物を一体で捉える研究手法で地震工学に大きな業績を残し、後進も多数育てた。建設省建築研究所と東京大学などで研究した後に民間へ転じ、清水建設副社長などを務めた。 京都府出身。第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)、東京帝国大学第一工学部航空学科を卒業。航空用エンジンの振動を研究した。 太平洋戦争後の1949年(昭和24年)、建設省建築研究所に勤務。アメリカ合衆国に留学して1953年(昭和28年)にノースウェスタン大学大学院を修了した。
田村 芳朗(たむら よしろう、1921年4月11日 - 19… 田村 芳朗(たむら よしろう、1921年4月11日 - 1989年3月20日)は、日本の仏教学者・法華宗僧侶。東京大学名誉教授。千葉県長生郡長生村の浄教寺住職を務めた。東京大学文学部インド哲学仏教学研究室「日本仏教思想講座」を設けた。 1921年、大阪府大阪市に生まれた。1943年に第三高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部梵文学印度哲学科に入学。同年12月に学徒出陣で応召入隊。 1946年に復学。1949年、東京大学文学部印度哲学科を卒業した。同大学大学院(旧制)に進み、1954年に修了。 1956年、東洋大学文学部助教授に就いた。1962年、学位論文『鎌倉新仏教の研究:日蓮思想の周辺』を東洋大学に提出して文学博士号を取得。
平井 啓之(ひらい ひろゆき、1921年4月10日 - 19… 平井 啓之(ひらい ひろゆき、1921年4月10日 - 1992年12月27日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 1921年、京都府で生まれた。第三高等学校を経て、東京帝国大学フランス文学科に入学。在学中の1943年に学徒出陣で応召。戦後復員し、1948年に東京大学を卒業した。 卒業後は、東京大学教養学部仏文科助手に採用された。1952年、新制東京大学教養学部専任講師となり、1954年に助教授、のち教授昇格。しかし、1969年に大学紛争が起こると辞職。その後は、立教大学教授、桃山学院大学教授を務めた。 戦争と天皇制を批判し続け、左翼的な姿勢を鮮明にした学者であった。わだつみ会発足当時からの会員で、のち常任理事をつとめた。
服部 栄三(はっとり えいぞう、1920年11月1日 - 2… 服部 栄三(はっとり えいぞう、1920年11月1日 - 2008年1月27日)は、日本の法学者。 京都市出身。第三高等学校卒、1943年東京帝国大学法学部政治学科卒、1962年「団体法の研究 株式会社法を中心として」で東北大学・法学博士。 1945年10月東大法学部助手、1947年北海道大学法文学部助教授、1950年同志社大学法学部助教授、52年教授、1957年東北大学法学部教授、72年法学部長、84年定年退官、名誉教授。没後正四位。
和崎 洋一(わざき よういち、1920年9月16日 - 19… 和崎 洋一(わざき よういち、1920年9月16日 - 1992年6月29日)は、日本の人類学者。京都大学名誉教授。 京都府京都市出身。第三高等学校を経て、1945年京都大学理学部卒業。京大教授時代には京都大学アフリカ学術調査隊に参加。梅棹忠夫とは三高の同級生で京都大学アフリカ学術調査隊に参加した良き友人だった。その後は富山大学人文学部教授、中部大学国際関係学部教授を歴任した。 実の息子にWOWOW代表取締役社長の和崎信哉、文化人類学者で中部大学国際関係学部教授の和崎春日がいる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
坪野 米男(つぼの よねお、1920年(大正9年)7月4日 … 坪野 米男(つぼの よねお、1920年(大正9年)7月4日 – 2008年(平成20年)8月16日)は、昭和から平成期の弁護士、政治家。衆議院議員。 大阪府大阪市出身。第三高等学校を経て、1943年(昭和18年)東京帝国大学法学部を卒業。厚生省に入省し大臣官房属となる。同年7月、高等試験行政科試験に合格。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、同年9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。1945年(昭和20年)3月、海軍主計大尉に昇進して終戦を迎えた。 1948年(昭和23)に退官して、弁護士、税理士を開業。京都市人権擁護委員、国民救援会京都府連副会長を務めた。
杉原 四郎(すぎはら しろう、1920年(大正9年)3月30… 杉原 四郎(すぎはら しろう、1920年(大正9年)3月30日 - 2009年(平成21年)7月24日)は、日本の経済学者・思想史家。専攻は経済学史・社会思想史・経済思想史。甲南大学・関西大学名誉教授。 京都市で生まれる。1929年第三高等学校を卒業し、京都帝国大学経済学部に進学。柴田敬のゼミナールで学んだ。1941年に学士試験に合格し、翌年卒業。 1942年から京都帝国大学経済学部助手を務めた。1950年に退官し、関西大学経済学部教授に転じた。在任中は同学部長も務めた。1956年、学位論文『ミルとマルクス:現代経済思想の二大源流に関する比較研究』を関西大学に提出して経済学博士号を取得。1970年に関西大学を退職し、名誉教授となった。
前川 誠郎(まえかわ せいろう、1920年〈大正9年〉2月2… 前川 誠郎(まえかわ せいろう、1920年〈大正9年〉2月23日 - 2010年〈平成22年〉1月15日)は、日本の美術史家。東京大学名誉教授。 京都府京都市生まれ。 1944年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒。 旧制第三高等学校教授、京都帝国大学、九州大学助教授を勤め、1970年東京大学文学部助教授、1971年教授、1980年定年退官、名誉教授、国立西洋美術館長。1990年新潟県立近代美術館長。1991年春、勲二等瑞宝章受勲。 ミュンヘンの中央美術史研究所において研究し、デューラーおよびネーデルラント等の北方ルネサンスの美術に業績があり、1975年以来ライヘナウの修道院聖堂の実地調査を行った。
原子 公平(はらこ こうへい、1919年9月14日 - 20… 原子 公平(はらこ こうへい、1919年9月14日 - 2004年7月18日)は、俳人。 北海道小樽市に生れる。北朝鮮元山中学校、旧制第三高等学校を経て東京大学文学部を卒業。その後岩波書店、小学館などに勤務した。 俳句は三高時代に「馬酔木」に投句、その後加藤楸邨に師事し「寒雷」同人。1946年、澤木欣一、細見綾子らとともに「風」を創刊、同誌に俳句および評論を発表し社会性俳句を推進、特に1955年に発表した「山本健吉の時評」は社会性俳句の論争のきっかけとなった。1952年より現代俳句協会幹事。1953年「萬緑」同人。1962年「萬緑」を退会し「海程」同人。また「秋」にも同人として参加した。1973年「風涛」を創刊、主宰。
富家宏泰(とみいえ ひろやす、1919年〈大正8年〉7月1日… 富家宏泰(とみいえ ひろやす、1919年〈大正8年〉7月1日 - 2007年〈平成19年〉12月21日)は、戦後日本を代表する建築家。香川県生まれ。 1919年7月、香川県に生まれて間もなく、一家は朝鮮半島へと移住した。しかし、富家の幼少時、外地でまん延したチフスが原因で一家は子供を除いて全滅してしまった。引き揚げた富家は京都下鴨にある親族の家庭に引き取られて育った。その後、京都府立第一中学校を1937年(昭和12年)に卒業、第三高等学校(理科甲類、1942年卒業)を経て京都帝国大学建築学部(現・京都大学工学部建築学科)へ進学した。入学後ほどなく徴兵され北満州への従軍を余儀なくされたものの、終戦後は復学して建築学科を卒業。
山根 有三(やまね ゆうぞう、1919年2月27日 - 20… 山根 有三(やまね ゆうぞう、1919年2月27日 - 2001年5月22日)は、日本の美術史学者。東京大学名誉教授、群馬県立女子大学名誉教授。近世初期の長谷川等伯、俵屋宗達、尾形光琳など琳派の研究が専門。紫綬褒章受章、叙正四位、叙勲二等授瑞宝章。 大阪府出身。父は花道家の山根廣治(号翠道)。1940年第三高等学校卒業、1942年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業、同大学大学院進学。1944年恩賜京都博物館館員、1951年神戸大学文理学部助教授を経て、1969年1955年東京大学文学部助教授、1969年同大学教授。1979年定年退官、名誉教授。1980年群馬県立女子大学教授。 画家の伝記的研究に努め、1990年から1999年まで美術誌「國華」の主幹を務めた(後に名誉主幹)。
後藤 基夫(ごとう もとお、1918年10月20日 - 19… 後藤 基夫(ごとう もとお、1918年10月20日 - 1983年4月5日)は日本のジャーナリスト、朝日新聞社常務取締役。 大分県北海部郡佐賀関町生まれ。第三高等学校を経て1941年12月東京帝国大学法学部政治学科卒業、1942年1月朝日新聞社入社、翌2月陸軍東部第62部隊入営。主計少尉として中国湖北省で終戦を迎える(ポツダム宣言受諾後に主計中尉)。1946年2月に朝日新聞社に復職。同年6月東京本社政経部員、1950年1月政治部員、1956年10月アメリカ総局員、1958年2月再び政治部、1960年1月政治部次長、1963年2月ロンドン支局長、1966年6月論説委員、1967年1月論説副主幹、1969年12月東京本社編集局長、1973年9月取締役・大阪本社代表、1974年6月常務取締役、1978年12月総合企画室担当(東京本社)、1981年4月東京本社代表となり、在職中に脳出血のため死去。