稲川 英雄(いながわ ひでお、1924年12月31日 - 2… 稲川 英雄(いながわ ひでお、1924年12月31日 - 2004年3月5日)は、日本のアナウンサー。 日本橋生まれ。『テレビ演芸会』『素人うた合戦』等を担当。更に、1953年12月、三原山大爆発リポートを担当。1966年1月にラジオ営業局JRN業務部、1967年2月にラジオ局放送部、1967年7月に第一制作部、1968年9月に第二制作部に所属、ラジオ交通情報の初代ヘリリポーターを務める。1969年3月にはテレビ制作局第二制作部兼テレビ編成局放送部、1970年3月にはテレビ本部編成局放送部、1970年9月には開発室に在籍した後、1972年12月に審議室委員に。1973年11月には調査局審査部、1974年2月には人事室開発センターに在籍した後、1974年3月、福島テレビに出向し、FTVテレポートのキャスターを担当した。
上原 和(うえはら かず、1924年12月30日 - 201… 上原 和(うえはら かず、1924年12月30日 - 2017年2月9日)は、日本の美術史家。成城大学名誉教授。専門は美学美術史。 日本領台湾台中市生まれ。九州大学法文学部哲学科美学美術史専攻卒業、同大学院文学研究科特別研究生、前期課程修了。宮崎大学学芸学部専任講師、成城大学文芸学部専任講師・助教授・教授・文芸学部長・大学院文学研究科長を経て1995年定年退任、名誉教授。 玉虫厨子研究をライフワークとし、この創作を飛鳥時代とし、法隆寺はその基礎の上に建てられたとの説を唱え村田治郎らと論争を行った。また、西域からギリシャまでの建築に関心を寄せ、詩人的な筆致による文章を書く。 1975年『斑鳩の白い道の上に』で亀井勝一郎賞受賞。
溝畑 茂(みぞはた しげる、Sigeru Mizohata、… 溝畑 茂(みぞはた しげる、Sigeru Mizohata、1924年12月30日 - 2002年6月25日)は、日本の数学者。専門は偏微分方程式。京都大学名誉教授。 1924年(大正13年)大阪府で生まれる。1944年(昭和19年)に第三高等学校理科、1947年(昭和22年)に京都帝国大学理学部を卒業。師は岡村博教授。1953年(昭和28年)京都大学理学部助教授に就任。 1954年(昭和29年)から1957年(昭和32年)にかけて、フランス政府給費留学生としてフランス、次いでアメリカ合衆国に留学した。以降、多くの論文をフランス語で執筆するなど、留学時の影響は大きい。1961年(昭和36年)京都大学教授に就任。
賀川 浩(かがわ ひろし、1924年12月29日 - 202… 賀川 浩(かがわ ひろし、1924年12月29日 - 2024年12月5日)は、兵庫県出身のスポーツライター、サッカー選手。賀川太郎(元サッカー日本代表)は実兄。 神戸一中2年にサッカー部にマネージャーとして入部、5年時にはFW選手として全国大会を制覇。その1ヶ月後に第二次世界大戦が始まった。戦争末期には特別攻撃隊に志願し、出撃数日前に終戦を迎えた。朝鮮北部の海州にいた賀川は上官であった川上晃良(社会人登山家で、戦後利尻岳の冬季初登頂を果たす)らと共に部隊の飛行機に乗って南側に脱出することが出来た。 復員後神戸商大、大阪サッカークラブなどの黄金時代に選手として活躍し、優勝、東西対抗出場、天皇杯準優勝などを経験した。
井上 和男(いのうえ かずお、1924年12月27日 - 2… 井上 和男(いのうえ かずお、1924年12月27日 - 2011年6月26日)は、神奈川県小田原市出身の日本の映画監督。 神奈川県小田原市出身。神奈川県立小田原中学校(現・神奈川県立小田原高等学校)をへて早稲田第一高等学院に入る、1944年3月学徒応召し海軍飛行少尉に任官。1945年8月復員、早稲田大学商学部に入る。在学中に小田原で劇団こゆるぎ座を創立し劇作家を目ざす。 1948年に大学を卒業し、松竹大船撮影所脚本部に入る。新藤兼人に師事し、その勧めで助監督試験を受け、12月に助監督となる(松山善三と同期)。渋谷実、川島雄三、小津安二郎『東京物語』で助監督を務める。 1955年、京都映画『父と子と母と』で監督を務め、1958年松竹大船の監督に昇進する。
小口 伯郎(おぐち はくろう、1924年12月27日 - 2… 小口 伯郎(おぐち はくろう、1924年12月27日 - 2005年11月3日)は日本の物理学者。東京大学名誉教授。宇宙科学研究所名誉教授。理学博士(1970年、東京大学)。専門は流体力学、気体力学。 長野県南安曇郡豊科町(現安曇野市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、昭和21年(1946年)東京帝国大学物理工学科卒業。同理工学部研究所助手、同30年(1955年)助教授、同37年(1962年)教授に就任。また昭和35年(1960年)ブラウン大学客員准教授、同36年(1961年)コーネル大学客員研究員、同56年(1981年)宇宙科学研究所宇宙輸送研究系教授を務めた。
原 子朗(はら しろう、1924年12月27日 - 2017… 原 子朗(はら しろう、1924年12月27日 - 2017年7月4日)は、日本の詩人、日本近代文学研究家、早稲田大学名誉教授、元宮沢賢治イーハトーブ館館長、早稲田大学出版部取締役。宮沢賢治、文体論などを研究する。 長崎県出身。早稲田大学文学部卒業、早稲田大学大学院中退。 日夏耿之介、吉田一穂に師事。1950年『詩世紀』創刊に参加。『文藝首都』編集同人として近代詩論などを執筆。立正女子大学、早稲田大学政治経済学部教授を歴任。 1986年『石の賦』で現代詩人賞受賞。 1993年『宮沢賢治語彙辞典』で宮沢賢治賞受賞。 1995年、早稲田大学を定年退職し、名誉教授。昭和女子大学教授に転じる。 2012年、瑞宝小綬章受章。
篠田 義一(しのだ ぎいち、1924年(大正13年)12月2… 篠田 義一(しのだ ぎいち、1924年(大正13年)12月26日 - 2010年(平成22年)1月26日)は、日本の陶芸家。長野県下伊那郡川路村(現在の飯田市大字川路)出身。 家は祖父の代より篆刻家で、表札や旅館の看板、寺社の扁額などを手掛けていた。生地は川路村だったが、父の篠田弼は松本市浅間温泉に移って土産物の陶芸を営み、篠田もその下で育つ。これにより旧制中学校在学中に陶芸家を志望した。 開智尋常小学校、1942年(昭和17年)に松本第二中学を卒業後、京都の陶芸家伊東陶山の門を叩くが断られ、代わりに紹介された近藤悠三に師事した。1944年(昭和19年)、福知山の陸軍に召集され、幹部候補生試験を経て沖縄派遣を控える中で軍曹で終戦を迎えた。
岡本 敦郎(おかもと あつお、1924年〈大正13年〉12月… 岡本 敦郎(おかもと あつお、1924年〈大正13年〉12月25日 - 2012年〈平成24年〉12月28日)は、日本の歌手、音楽教師。武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)声楽科卒業。日本コロムビア所属。 1924年12月25日、北海道小樽市に生まれる。学校の教員を務める父親がクラシック好きで、幼少期から音楽に親しむ環境で育つ。 父親の転勤で神奈川県に転居し、旧制川崎中学校(現・神奈川県立川崎高等学校)に進学する。 川崎中学校在学中の1940年、映画「熱砂の誓い」を鑑賞し、アトラクションで伊藤久男の歌う「建設の歌」に感銘を受け、歌手を志す。 1943年、武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)へ進学。
高島 温厚(こうしま よしあつ、1924年12月25日 - … 高島 温厚(こうしま よしあつ、1924年12月25日 - 2009年6月12日)は、日本の政治家。網走管内留辺蘂町(現北見市)出身。北海道第二師範学校(現北海道教育大学函館校)卒。北海道小清水町長(1985年-1993年)。 小清水町立小学校教頭、北見市立富里小中学校校長、白滝村立白滝中学校校長などを経て、1971年小清水町教育長。同教育長を定年退職後、1985年小清水町長に初当選。以後連続2期務める。 2009年6月12日、急性循環不全のため死去、84歳。死没日をもって旭日双光章追贈、従五位に叙される。 給食時の食事マナーや仲間意識を育てるため、北海道内でいち早く全校食堂方式を採用した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
山下二枝(やました ふたえ、1924年〈大正13年〉12月2… 山下二枝(やました ふたえ、1924年〈大正13年〉12月24日 - 1991年〈平成3年〉11月24日)は、日本の教育者・教育学者・学校経営者。元藤女子大学及び藤女子短期大学学長。専門は数学教育、福祉教育。北海道出身。修道名は「シスター・マリア・レナータ」。 1946年(昭和21年)東京女子高等師範学校理科卒業後、札幌藤高等女学校教諭などを務める。1954年(昭和29年)新墾藤学園中学校を開設と共に同中学校数学教諭。1958年(昭和33年)新墾藤学園中学校教頭に就任。新墾藤学園高等学校を開設と共に、同高等学校数学教諭を兼任。1968年(昭和43年)学校法人新墾藤学園園長に就任。新墾藤学園中学校校長・新墾藤学園高等学校校長・新墾藤学園養護学校校長に就任。
山口 信夫(やまぐち のぶお、1924年12月23日 - 2… 山口 信夫(やまぐち のぶお、1924年12月23日 - 2010年9月14日)は、日本の実業家。第17代日本商工会議所会頭、元旭化成代表取締役会長・代表取締役名誉会長。2007年旭日大綬章。 広島県甲奴郡総領町(現・庄原市)出身。1942年広島高等師範学校附属中学(現広島大学附属高校)卒業、1943年陸軍予科士官学校卒業を経て、1945年6月陸軍士官学校(58期)を首席で卒業し、少尉として平壌へ出征。ソ連タタール共和国での抑留生活を経験した。 復員後の1952年東京商科大学 (旧制)(現・一橋大学)卒業、同年旭化成入社。同社の「中興の祖」宮崎輝元社長の右腕となり、1974年住宅事業部長に就任し赤字部門からグループ内で最も利益を上げる部門に転換させた。
佐藤 晃一(さとう こういち、1924年12月23日 - 2… 佐藤 晃一(さとう こういち、1924年12月23日 - 2022年5月10日) は、日本の中央銀行家、実業家。ホテルオークラ代表取締役社長や、同社代表取締役会長を務めた。佐藤潤象元衆議院議員の孫。 ホテルオークラ創業家の大倉喜八郎らと事業を興した実業家・佐藤潤象元衆議院議員の孫である。府立一中、旧制学習院高等科を経て、1948年に東京大学経済学部卒業後、日本銀行入行。大成観光(のちにホテルオークラに商号を変更)常務取締役や、同社取締役副社長を経て、1992年から代表取締役社長を務めた。1995年から代表取締役会長を務め、1999年に青木寅雄らとともに代表権を返上し、相談役に退いた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
松川 道哉(まつかわ みちや 1924年12月22日 - 2… 松川 道哉(まつかわ みちや 1924年12月22日 - 2000年11月16日)は、福島県出身の元大蔵官僚。元財務官。
守田 比呂也(もりた ひろや、1924年12月21日 - 2… 守田 比呂也(もりた ひろや、1924年12月21日 - 2016年6月16日)は、日本の俳優。本名:森田 寛弥。大阪市出身。最後の所属事務所は夏木プロダクション。妻は元女優の新井麗子。血液型はA型。 大阪府立生野中学校卒業。 神戸高等商業学校(現・兵庫県立大学)在学中に学徒動員。 大日本帝国海軍少尉、映画業界紙記者を経て、1957年にサスペンス映画『三十六人の乗客』でデビュー。 1950年頃には大映京都企画部の入社試験を受けたこともあったという。 『事件記者』で当たり役を得て、ドラマや映画で脇役として活躍した。 2016年6月16日に死去。満91歳没。
勝井 祐輔(かつい ゆうすけ、1924年12月21日 - 2… 勝井 祐輔(かつい ゆうすけ、1924年12月21日 - 2006年4月11日)は、日本の実業家。新潟県出身。 日本大学理工学部建築学科卒。家業の井桁勝井組を手伝い、1950年に勝井組土建株式会社の設立に参画。同社で常務取締役に就任。岩見沢市中心に公共事業・民間工事を施工。1971年に勝井組土建代表取締役社長に就任。この後、1979年岩見沢建設協会会長(~1991年)。1991年岩見沢商工会議所会頭(~1997年)。この他、岩見沢ライオンズクラブ会長や空知信用金庫外部理事などを歴任し、「岩見沢経済界のドン」と呼ばれた。1999年には完成工事高が21億円を超える。2000年に同社の終身会長に就任。
田口 恒夫(たぐち つねお、1924年12月21日-2005… 田口 恒夫(たぐち つねお、1924年12月21日-2005年10月11日)は、日本の医学者。 静岡県富士宮市生まれ。旧制静岡高等学校文科卒。北海道帝国大学医学部入学、即休学。志願して第15期海軍飛行専修予備学生、海軍少尉となる。1950年北海道大学医学部卒。東京大学医学部助手(整形外科)、1960年「脳性小児麻痺児童の言語障害に関する研究」で東京大学より医学博士の学位を取得。肢体不自由児施設整肢療護園医員、国立聴力言語障害センター言語課長、1963年お茶の水女子大学家政学部児童学科助教授、教授、88年定年退官、名誉教授。2003年11月瑞宝中綬章受章。没後従四位受勲。NHK「ことばの治療教室」に出演した。
小倉 学(おぐら まなぶ、1924年12月20日- 1990… 小倉 学(おぐら まなぶ、1924年12月20日- 1990年5月19日)は、日本の医学博士。 研究分野は学校保健、保健教育、養護教諭の専門性、養護教諭養成制度の確立に尽力した。茨城大学名誉教授。 1942年3月、鹿児島県立種子島中学校(現・鹿児島県立種子島高等学校)卒業、1945年6月陸軍経理学校卒業、1950年3月、熊本医科大学卒業し、1951年8月第10回医師国家試験合格、同時に熊本大学医学部助手(衛生学)となった。1953年6月東京大学教育学部助手(健康教育学)及び同年10月東京大学伝染病研究所研究員を併任した。1960年3月医学博士(東京大学)、同年8月東京大学教育学部講師(健康教育学)となった。
小平 祐(こだいら たすく、1924年12月19日 - 20… 小平 祐(こだいら たすく、1924年12月19日 - 2017年11月26日)は、日本の実業家。旭電化工業(現・ADEKA)常務取締役、日本農薬代表取締役社長を務めた。 長野県諏訪市出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東京大学経済学部卒業。旭電化工業(現・ADEKA)常務取締役を経て、1983年日本農薬代表取締役社長。同社代表取締役会長。農薬工業会会長を務めた。
道 志郎(みち しろう、本名:平岡 通博(ひらおか みちひろ… 道 志郎(みち しろう、本名:平岡 通博(ひらおか みちひろ)1924年12月18日 - 2016年11月11日)は日本のオルガン奏者。 兵庫県西宮市生まれ。学習院高等科を卒業し、東京大学に入学。大学卒業後に一時農林省(現・農林水産省)に在勤した。 電子オルガンを中心に、演奏、作編曲、指導面に活躍。 特に日本楽器(現・ヤマハ)製電子オルガン、エレクトーンの開発にあたっては、その初期段階から深く関わり、製品完成後はその普及に牽引役として国内外に活動を行った。 NHK、各民放で多くの番組にレギュラー出演し、ステージ活動では、全国的に多くのコンサート、また、サントリー大・小ホール等でリサイタルを数多く開催している。
坂本 友雄(さかもと ともお、1924年(大正13年)12月… 坂本 友雄(さかもと ともお、1924年(大正13年)12月16日 - 2013年(平成25年)1月20日)は、昭和から平成時代前期の政治家。埼玉県久喜市長。久喜市名誉市民。 埼玉県南埼玉郡久喜町(現久喜市)出身。1942年 (昭和17年) 3月、埼玉県立粕壁中学校(現在の埼玉県立春日部高等学校)を卒業。久喜市助役を経て、1981年(昭和56年)9月、久喜市長に当選。4期16年務めた。久喜駅西口再開発事業、各都市計画道路の整備促進、公共下水道・農業集落排水事業などに尽力した。1998年(平成10年)3月、久喜市名誉市民に推挙された。 2013年(平成25年)1月20日、多臓器不全のため死去した。
菊村 紀彦(きくむら のりひこ、1924年12月15日- 2… 菊村 紀彦(きくむら のりひこ、1924年12月15日- 2010年)は、日本の仏教学者、著述家、翻訳家、作曲家、作詞家、音楽プロデューサー、東京シャンソン協会初代会長。 「菊村紀彦」は書籍を執筆したり、音楽を作曲したりするときの筆名であるが、弟子たちからも「菊村先生」としか呼ばれておらず、事実上の名前にも等しい。戸籍名は、椎名重胤。 東京出身。東洋大学大学院仏教学研究科修士課程修了。浄土教学空性論専攻。日本仏教思想研究所長、日本仏教学院長、寂光山檀林寺管主、日本仏教書道研究会長を務めた。 先祖は高松藩の椎名氏。明治時代に財を成した椎名秀胤の子孫筋に当たり、父の長兄・椎名芳胤は、大正時代の日本鉱業株式会社の営業部長から幹部にのぼりつめた実業家で、のちに久原房之助、鮎川義介らと共に日本鉱業の実権を握っていた人物の一人であった。
伊藤 善市(いとう ぜんいち、1924年12月15日 - 2… 伊藤 善市(いとう ぜんいち、1924年12月15日 - 2007年2月16日)は 日本の経済学者。息子は伊藤真市(宮城大学准教授、デザイン情報学)。キリンHD社長の磯崎功典は次女潤子の夫。 1924年(大正13年)に山形県酒田市に生まれ、1929年(昭和4年)より同県余目町で育つ。余目小学校、酒田商業学校、横浜高等商業学校を経て、1947年(昭和22年)に東京商科大学(現・一橋大学)を卒業する。1950年(昭和25年)に山形大学文理学部助手、1952年(昭和27年)に同学部講師、1955年(昭和30年)に同学部助教授となる。 1956年(昭和31年)に東京女子大学文学部助教授、1965年(昭和40年)に同学部教授、1970年(昭和45年)に経済学博士(慶應義塾大学)、1975年(昭和50年)に文理学部長、1990年(平成2年)に東京女子大学比較文化研究所長となる。
朱里 みさを(しゅり みさお、1924年12月15日 - 1… 朱里 みさを(しゅり みさお、1924年12月15日 - 1999年3月9日)は、日本の舞踊家、振付家。専門ジャンルはジャズダンス。宝塚歌劇団で振付を担当した。本名:田辺藤枝。朱里エイコの母。 島根県簸川郡乙立村大字東村(現・出雲市佐田町東村)生まれ。代々神官の家で、幼い頃から巫女舞いを習っていたが、7歳のとき、父が大きな借金を残して急死し、人生が暗転。人質として債権者の家に預けられ、一日中、牛の世話や草履作りなどをする。その後今市町の叔母宅で子守奉公。女学校の夜学に通いながら東洋レーヨンの今市工場で女工などをし、16歳のとき上京。転がり込んだ叔父宅の前の家がたまたま橘秋子のバレエのレッスン場で、女中として住み込みバレエを習う。
鴻 常夫(おおとり つねお、1924年12月14日 - 20… 鴻 常夫(おおとり つねお、1924年12月14日 - 2016年3月17日)は、日本の法学者。専門は商法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1962年)(学位論文「社債法」)。東京大学名誉教授。弁護士。藍綬褒章・紫綬褒章受章。石井照久門下。弟子に石田満、落合誠一、江頭憲治郎、山下友信、近藤光男など。 東京市赤坂区(現・東京都港区)出身。 研究領域は商法全般だが、特に、社債法の研究で業績をあげ、海事法学も詳しい。
渡辺 金一(わたなべ きんいち、1924年12月14日 - … 渡辺 金一(わたなべ きんいち、1924年12月14日 - 2011年2月6日)は日本の歴史学者、経済学者。主専攻は東ローマ帝国史、古典古代史。一橋大学名誉教授。
小倉 昌男(おぐら まさお、1924年12月13日 - 20… 小倉 昌男(おぐら まさお、1924年12月13日 - 2005年6月30日)は、日本の実業家、ヤマト福祉財団元理事長。ヤマト運輸の『クロネコヤマトの宅急便』の生みの親である。東京都出身。 小倉康臣の次男として代々木に生まれた(長男は早世)。1937年幡代小学校卒業。同年、当時府立一中を上回る最難関の官立東京高等学校尋常科(現・東京大学教育学部附属中等教育学校)に入学。1942年秋、東京高等学校高等科卒業。1943年秋、東京帝国大学経済学部入学。1947年、東京大学経済学部(旧制)卒業。1948年9月1日、父・小倉康臣が経営する大和運輸(現・ヤマトホールディングス)に入社。 入社から半年後の1949年2月2日に肺結核を患い4年間の入院生活を送るが、大和運輸がGHQ関連の輸送業務を担当していた為、日本国内ではほとんど入手困難だったストレプトマイシンを米軍ルートで入手できた事もあり、当時としては奇跡的に回復し、1953年7月9日に退院し復職した。
高橋 康(たかはし やすし、1924年12月12日 - 20… 高橋 康(たかはし やすし、1924年12月12日 - 2013年2月12日)は、日本の物理学者(理論物理学)。専門は量子力学。アルバータ大学(カナダ)名誉教授。名古屋大学で物理学を学び、坂田学派と呼ばれる坂田昌一博士の弟子の一人である。 高橋百千の長男。1951年(昭和26年)、名古屋大学理学部卒業。1954年(昭和29年)、フルブライト留学で渡米。ロチェスター大学へ進む。その後、アイルランド高等科学研究所を経て、1968年(昭和43年)にアルバータ大学教授に就任。 場の量子論において対称性の原理を表現する最も基本的な関係式といわれる「Ward-高橋の恒等式」を導き出したことで知られる(この業績により、2003年日本物理学会・素粒子メダルを受賞)。
大西 正文(おおにし まさふみ、1924年12月11日 - … 大西 正文(おおにし まさふみ、1924年12月11日 - 2014年10月15日)は、実業家。大阪ガス特別顧問・元社長・会長。 大阪府出身。父は元高松高等裁判所長官の大西道太郎。東京府立十中、高知高校を経て、1947年京都帝国大学法学部卒業。同大学院修了後の1948年に大阪ガスに入社し、代表取締役社長(1981年 - )、会長(1991年 - )、相談役(1998年 - )を歴任。 その他には大阪商工会議所会頭(1992年11月~1999年3月)、日本商工会議所副会頭、アジア商工会議所連合会会長、日本ガス協会会長、近畿日本鉄道、朝日放送、リーガロイヤルホテルなどの取締役、大丸監査役をそれぞれ務めた。
辻 一彦(つじ かずひこ、1924年12月10日 - 200… 辻 一彦(つじ かずひこ、1924年12月10日 - 2008年9月5日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)、衆議院議員(5期)を歴任。福井県遠敷郡口名田村(現・福井県小浜市)谷田部出身。長男は、福井県議会議員だった辻一憲。次男は、衆議院議員、元青森大学社会学部教授の辻英之。 1941年千葉農業専門学校(千葉大学園芸学部の前身)を卒業し教師や農業講習所講師を経て1971年の第9回参議院議員通常選挙で日本社会党公認で福井県選挙区で当選。1977年の第11回参議院議員通常選挙で落選。 1983年の第37回衆議院議員総選挙に無所属で出馬、当選を果たすも後に社会党を除名される。 1985年、院内会派「社会党・護憲共同」に参加、1986年第38回衆議院議員総選挙では社会党推薦で再選し、同年12月復党。
松田 達郎(まつだ たつろう、1924年12月10日 - 2… 松田 達郎(まつだ たつろう、1924年12月10日 - 2003年1月27日) は、日本の生態学者。元国立極地研究所所長。元南極地域観測隊隊長。 鹿児島県加世田市(現在の南さつま市)生まれ。旧制鹿児島県立川辺中学校(現:鹿児島県立川辺高等学校)出身。1952年、東北大学理学部生物学科卒業。動物生態学加藤陸奥雄教授のもとで、害虫の研究を行い、東北大学理学部助手を経て、1963年に東北大学理学部助教授。同年、国立科学博物館第二研究部極地課研究員。1965年、東北大学理学博士。1968年、第11次南極地域観測隊隊長。1973年、国立極地研究所教授・資料主幹。1981年、国立極地研究所研究主幹。1984年、国立極地研究所所長。
飯野 陽一郎(いいの よういちろう、1924年(大正13年)… 飯野 陽一郎(いいの よういちろう、1924年(大正13年)12月8日 - 2013年(平成25年)1月30日)は、昭和から平成時代の政治家。福島県喜多方市長。位階は従四位。勲三等瑞宝章。 喜多方市出身。福島県立喜多方中学校卒業。 福島県議会議員を経て、1986年(昭和61年)喜多方市長に当選した。3期務め、1998年(平成10年)引退した。1999年春の叙勲で勲三等瑞宝章を受章。2013年死去。死没日付をもって従四位に叙された。
斎藤 高順(さいとう たかのぶ、英: Takanobu Sa… 斎藤 高順(さいとう たかのぶ、英: Takanobu Saito、1924年12月8日 - 2004年4月11日)は、東京府(現・東京都)生まれの作曲家、指揮者、幹部自衛官。自由作曲家協会会員であり日本吹奏楽指導者協会理事・日本国民音楽振興財団理事も務めた。長男はチェロ奏者の斎藤章一、長女はバイオリニストの内藤景子、長女の夫はホルン奏者の内藤貴司、孫は俳優の内藤光佑。 1924年、東京・深川の酒屋の次男として生まれる。1942年に日本大学第一中学校(旧制、現・日本大学第一高等学校)を卒業。1943年に東京音楽学校(旧制、現・東京芸術大学)に入学し、1947年に卒業。1949年に同校の研究科を修了。
河竹 登志夫(かわたけ としお、1924年12月7日 - 2… 河竹 登志夫(かわたけ としお、1924年12月7日 - 2013年5月6日)は、日本の演劇学者。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1974年)(学位論文「近代日本演劇とハムレット : ハムレット移入史の研究」)。早稲田大学名誉教授。1995年勲三等旭日中綬章受章、2000年恩賜賞・日本芸術院賞受賞、2001年文化功労者。 本名は俊雄。演劇研究家・河竹繁俊の二男として東京に生まれる。歌舞伎作者の河竹黙阿弥の曾孫にあたり、祖母(繁俊の養母)の糸女が河竹黙阿弥の娘である。 旧制成城高等学校、東京帝国大学理学部物理学科卒業、早稲田大学第一文学部演劇学科、同大学院を経てハーバード・エンチン研究所客員研究員として招かれた。
新倉 イワオ(にいくら イワオ、1924年12月7日 - 2… 新倉 イワオ(にいくら イワオ、1924年12月7日 - 2012年5月9日)は、日本の放送作家。日本放送作家協会会員。 本名は新倉 巌(読み同じ)。神奈川県平塚市生まれ。専修大学経済学部中退。 心霊研究家としても知られ、日本心霊科学協会理事を務めた。 1945年、終戦を機に舞台、ラジオを中心にプロデューサー、ディレクターとしてNHK、民放の各種番組に従事する。 1953年、日本テレビ放送網開局準備の業務を担当し、以来テレビ中心のプロデュースを兼ね、1960年に放送作家へ転向する。また、日本テレビ製作スタッフとして、長寿バラエティー番組『笑点』の企画に立ち会った。以降、多くのドラマ、ドキュメント、音楽番組、バラエティーショーなどを手がけた。
鶴田 浩二(、1924年〈大正13年〉12月6日 - 198… 鶴田 浩二(、1924年〈大正13年〉12月6日 - 1987年〈昭和62年〉6月16日)は、日本の俳優、歌手。 昭和を代表する映画俳優の一人として数多くの映画やドラマに主演。戦後派として登場し、甘さと翳りを兼ね備えた天賦の美貌で一躍トップスターに躍り出た。若いころは絶世の美男子としてアイドル的人気を博したが、中年期からは任侠映画や戦争もので見せた渋い魅力で、日本映画界を代表するスターとして長らく君臨した。また、歌手としても独特の哀愁を帯びた声と歌唱法で知られた。 兵庫県西宮市出生。戸籍上の出身地は、静岡県浜松市。本名は小野 榮一()。 西宮時代、父と母が結婚していなかったのは、鶴田の父である大鳥の家が鶴田の母との婚姻を許可しなかったためである。
藤井 佐知(ふじい さち、出生名:山口 幸子(やまぐち さち… 藤井 佐知(ふじい さち、出生名:山口 幸子(やまぐち さちこ)、本名:藤井 幸子(ふじい さちこ)、1924年(大正13年)12月6日 - 2015年(平成27年)10月21日)は、日本の淡路島にあった兵庫県三原郡阿那賀村(現在の南あわじ市)の陶芸家である。 栃木県益子町の益子焼の「中興の祖」である濱田庄司の「唯一の女性の弟子」であり、濱田庄司の教えを受けて、淡路島の土を用いて低火度釉薬であるガレナ釉:鉛釉を用いたスリップウェアを作陶し続け、濱田庄司からは「私にも出来ない、大らかな仕事をする人です」と評されていた。 寡作の陶芸家であったため、藤井が作陶し、世に出た作品の数は決して多く無かったが、その作品は現在もスリップウェア愛好家の中で高く評価されている。
大須賀 二朗(おおすが じろう、1924年12月6日 - 2… 大須賀 二朗(おおすが じろう、1924年12月6日 - 2008年11月4日)は、日本の経営者。ダイハツ工業社長を務めた。大阪府大阪市出身。 1937年に京都帝国大学工学部応用物理科を卒業し、同年にダイハツ工業に入社。 1971年12月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1986年9月に副社長を就任。1988年6月に社長に昇格し、1992年6月には会長に就任。 1989年4月に藍綬褒章を受章し、1995年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2008年11月4日心不全のために死去。83歳没。
外間 守善(ほかま しゅぜん、1924年(大正13年)12月… 外間 守善(ほかま しゅぜん、1924年(大正13年)12月6日 - 2012年(平成24年)11月20日)は、日本の言語学者・沖縄学研究者。沖縄学研究所所長、法政大学名誉教授。伊波普猷の後継者であり、琉球文学・文化研究の第一人者。 1924年(大正13)、沖縄県那覇市に生まれ。 1939年(昭和14)那覇尋常高等小学校高等科卒業後、同年沖縄県立水産学校入学。1940年(昭和15)沖縄県師範学校入学。 1944年(昭和19)8月、妹の静子は学童疎開で対馬丸の犠牲となった。1945年(昭和20)1月、守善は19歳の沖縄師範学校在学中に、沖縄戦で現地入隊となり、第24師団歩兵第32連隊第2大隊(志村大隊)に配属される。
柴田 喜代子(しばた きよこ、1924年12月6日 - 20… 柴田 喜代子(しばた きよこ、1924年12月6日 - 2005年9月9日)は、日本の声楽家。ソプラノ歌手。 1924年(大正13年)に大阪府で生まれる。1947年(昭和22年)に東京音楽学校 (旧制)声楽科を卒業。1952年(昭和27年)に結成された二期会に所属。同会の第1回オペラ公演、プッチーニの「ラ・ボエーム」でヒロインのミミ役を演じた。この際、ロドルフォ役を務めた柴田睦陸と後に結婚。その後も音楽活動を続け、1968年(昭和43年)に発売された音楽誌『音楽の友 26』の記事「現代日本の声楽家102人」の中でも取り上げられる存在であった。 後年、聖徳大学短期大学部教授を務めたほか、活水女子短期大学で後進指導にも当たった。
石本 泰雄(いしもと やすお、1924年(大正13年)12月… 石本 泰雄(いしもと やすお、1924年(大正13年)12月5日 - 2015年(平成27年)12月8日)は、日本の法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1962年)。大阪市立大学名誉教授。日本学士院会員。 和歌山県西牟婁郡(のちの田辺市)出身の法学者である。専門は国際法であり、特に戦争法の研究に従事した。近代国際法から現代国際法への構造転換の実証に取り組んだことで知られている。また、中立の地位の研究や、国際法学に社会経済史の視点を導入したことでも知られている。1962年に東京大学より法学博士の学位を取得した。東京大学、大阪市立大学、上智大学、神奈川大学短期大学部などで教鞭を執った。
鈴木 哲夫(すずき てつお、1924年12月5日 - 201… 鈴木 哲夫(すずき てつお、1924年12月5日 - 2015年6月15日)は、日本の技術者、実業家。HOYA中興の祖・元名誉会長。 愛知県瀬戸市生まれ。1943年東京工業大学(のちの東京科学大学)付属高等工業教員養成所卒業。 1944年東洋工学硝子製造所(現HOYA)技術長。1949年同社取締役工場長に昇格。1957年に岳父であり同社創業者の山中茂が病で倒れたため、その跡を受けて代表取締役社長に就任、5年間で売り上げを10倍の20億円に拡大し、社名を保谷硝子に変更、1961年に東証2部に株式上場を果たしたが、昭和40年不況により赤字・無配となり、1967年相談役に降格。 1970年代表取締役社長に復帰。
青江 忠一(あおえ ちゅういち、1924年(大正13年)12… 青江 忠一(あおえ ちゅういち、1924年(大正13年)12月5日- 没年不明)は、日本の飲食店の経営者。ゲイバー「青江」の経営者、通称・青江のママ。 東京府神田東松下町の呉服屋に生まれる。千桜小学校、大成中学校を卒業し、1942年(昭和17年)に法政大学予科に入学する。戦中は学徒出陣し、千葉県習志野の騎兵部隊に配属される。その後、戦車部隊に配属され、終戦時に少尉に任官する。1949年(昭和24年)に法政大学経済学部を卒業し、貿易会社に入社する、在学中は馬術部や応援団で活動する。1952年(昭和27年)頃に島田正雄に誘われ、島田の経営する「やなぎ」に勤めはじめる。1956年(昭和31年)に銀座二丁目の並木通りにゲイバー「青江」を開店し、1957年(昭和32年)に鎌倉に支店を出す。
相場 均(あいば ひとし、1924年12月5日 - 1976… 相場 均(あいば ひとし、1924年12月5日 - 1976年9月3日)は、日本の心理学者。専門は、臨床心理学・精神病理学。学位は、医学博士(慶應義塾大学・1960年)。早稲田大学教授・コロンビア大学教授を歴任。妻は女優の高田敏江。妹は宗教哲学者の川中なほ子。 東京生まれ。1950年早稲田大学文学部心理学科卒。桜ヶ丘保養院神経科勤務、慶應義塾大学医学部神経科助手を経て、1951年米国テキサス大学オースティン校、1954年西ドイツテュービンゲン大学客員研究員。1956年早稲田大学文学部助教授。1960年医学博士(慶應義塾大学)。後にコロンビア大学客員教授、早稲田大学文学部心理学科教授。1976年急性心不全により長野県松本市で死去。
井上 喜久子(いのうえ きくこ、1924年12月3日 - 2… 井上 喜久子(いのうえ きくこ、1924年12月3日 - 2018年2月16日)は、日本の馬場馬術選手。 東京都出身。旧姓・馬杉。オリンピックに3回参加。 1972年(昭和47年)、ミュンヘンオリンピックの馬場馬術競技に出場し、携行馬ドン・カルロスに騎乗して32位だった。このドン・カルロスは同大会で金メダルを獲得したリンゼンホッフ夫人の所有だった馬で、日本馬術連盟(日馬連)の購入馬であった。 1988年ソウルオリンピックでは当時の日本選手として最高齢 (63) での出場を果たした。女性最高齢の記録は2012年現在も破られていない。母方の祖父は浅野財閥を築き上げた実業家の淺野總一郎。父・馬杉秀、母・馬杉慶子共に馬術を経験している。
福田 幸弘(ふくだ ゆきひろ、1924年12月3日 - 19… 福田 幸弘(ふくだ ゆきひろ、1924年12月3日 - 1988年12月23日)は、日本の政治家。大蔵官僚。参議院議員(1期)。位階は正四位。勲等は勲二等。 著書に『カナダ経済の旅』、『連合艦隊 - サイパン・レイテ海戦記』があり、後者は秦郁彦から「第一級の史書」という評価を受けた。 映画ファンで、大蔵省の広報誌『ファイナンス』で映画評を連載したり、日本文藝家協会会員でもあった。
多田 道太郎(ただ みちたろう、1924年12月2日 - 2… 多田 道太郎(ただ みちたろう、1924年12月2日 - 2007年12月2日)は、日本のフランス文学者・評論家。京都大学名誉教授。 1924年、京都府京都市で生まれた。京都大学文学部文学科に入学し、フランス語学フランス文学専攻で学び、1949年3月に卒業。 同1949年12月、京都大学人文科学研究所助手に採用された。1957年に同研究所講師、1965年8月に同研究所助教授に昇進。1976年6月には同研究所教授となり、西洋思想研究部門に所属した。1976年には、桑原武夫、鶴見俊輔、井上俊、津金沢聡広らと「現代風俗研究会」を創設し、のちに第2代会長を務めた(初代会長は桑原)。1988年3月に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。
小渕 正義(小淵 正義、こぶち まさよし、1924年12月2… 小渕 正義(小淵 正義、こぶち まさよし、1924年12月2日 - 2009年10月20日)は、日本の政治家。民社党衆議院議員(4期)。 長崎県長崎市出身。1942年三菱工業青年学校卒。三菱重工業長崎造船所で働く。同所の労組委員長になり、長崎県同盟会長、県地方労働委員会委員、同年金福祉協会理事長を経て、1979年の第35回衆議院議員総選挙で長崎1区から民社党公認で立候補して初当選。連続4期務めた。党内では長崎県連委員長や中央委員などを務めた。1990年の第39回衆議院議員総選挙には立候補しなかった(後継者は高木義明)。 1995年勲二等瑞宝章受章。 2009年10月20日、死去。84歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
辰巳 芳子(たつみ よしこ、1924年12月1日 - )は、… 辰巳 芳子(たつみ よしこ、1924年12月1日 - )は、日本の料理研究家、随筆家。 料理研究家の草分け的存在である母・辰巳浜子の志を継ぎ、家庭料理、西洋料理の研究を行う。 父への介護経験から生まれた「いのちのスープ」が注目され、鎌倉市の自宅で20年以上にわたりスープ教室を開催している。 NPO「大豆100粒運動を支える会」会長、NPO「良い食材を伝える会」代表理事、「確かな味を造る会」最高顧問。 母から家庭料理を学び、宮内庁大膳寮で修行を積んだ加藤正之にフランス料理の指導を受け、イタリア、スペインなどで西洋料理の研鑚も重ねる。病苦に苦しむ父への介護食「いのちのスープ」に代表される家庭料理の大切さを雑誌、著作、テレビなどで伝えている。
田辺 哲夫(たなべ てつお、1924年12月1日 - 200… 田辺 哲夫(たなべ てつお、1924年12月1日 - 2000年10月9日)は、日本の考古学者、教育者。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校、1942年卒業)を経て、広島高等師範学校を卒業した。 教員となり、京都師範学校、母校である熊本県立玉名高等学校で勤務の後、熊本県立小国高等学校で教頭・指導主事・主幹を、玉名高等学校、熊本県立第一高等学校、熊本高等学校で校長を務めた。熊本県庁で初代の文化課長を務めたこともある。 教員業の傍ら考古学者としての活動をおこない、九州各地の古墳などを調査した。県文化課長時代は遺跡の保護に力を尽くした。 1996年には、長年にわたる考古学への功績を評価されて熊本日日新聞社の熊日賞を受賞した。