スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
霜出 勘平(しもいで かんぺい、1941年(昭和16年)2月… 霜出 勘平(しもいで かんぺい、1941年(昭和16年)2月16日 - )は、日本の政治家。元鹿児島県南九州市長(2期)、元知覧町長(2期)、元知覧町議会議員(5期)。旭日小綬章。 1959年(昭和34年)、鹿児島県立川辺高等学校卒業。1963年(昭和38年)3月、神奈川大学法経学部卒業。1983年(昭和58年)、知覧町議会議員に就任。計5回当選。2001年(平成13年)、知覧町長に就任。2005年(平成17年)、再選。 2007年(平成19年)12月1日、川辺町・知覧町・頴娃町が合併して南九州市が発足。これに伴って行われた南九州市長選挙(12月16日公示、12月23日投票)に出馬し無投票で初当選。
小澤 啓一(おざわ けいいち、1933年1月5日 - )は日… 小澤 啓一(おざわ けいいち、1933年1月5日 - )は日本の映画監督。鹿児島県川辺郡川辺町平山(現・南九州市)出身。本籍は山口県萩市であった。 三歳で父の転任により台湾へ移住、大戦後に日本へ引き上げた。鹿児島県立川辺高等学校を経て早稲田大学第一文学部在学中、遠縁の田中龍夫の伝手で小國英雄のシナリオ工房に通う。卒業後の1956年に日活に入社、川島雄三、井上梅次らの助監督を務めた後は、主に舛田利雄に師事、舛田の映画製作に大きく影響されたという。 1968年、『大幹部 無頼』で監督デビュー。以降「無頼」シリーズとしてヒットさせ、渡哲也主演作品を最も多く(計10作品)メガホンを取り、長谷部安春・澤田幸弘らとともに「日活ニュー・アクション路線」の旗手として活躍。
野母 得見(のも とくみ、1930年12月13日 - 198… 野母 得見(のも とくみ、1930年12月13日 - 1989年12月17日)は、鹿児島県出身のプロ野球選手(投手)。 川辺高校から鹿児島市電(鹿児島市交通局)を経て、1954年に南海ホークスへ入団。主な同期入団選手に宅和本司、皆川睦男、野村克也、前川忠男などがいる。直球とゆるいカーブが武器。1年目に6勝を挙げ翌年も5勝する。1956年には初の2桁勝利となる14勝を挙げた。1957年と1958年にも8勝を挙げるが1959年はわずか1勝、翌年は1勝も出来ずにこの年限りで現役を引退した。 その後大阪有機化学工業に入社。松任工場に勤務していた1989年12月17日に汚水処理用タンクの配管の溶接の仕事をしていた時に爆発事故に巻き込まれ死亡した。
下野 敏見(しもの としみ、1929年(昭和4年)4月4日 … 下野 敏見(しもの としみ、1929年(昭和4年)4月4日 - 2022年3月10日)は、日本の民俗学者、文学博士。鹿児島大学教授、鹿児島純心女子大学教授を歴任。南日本地方の民俗研究の第一人者であり、日本民俗学会の権威ともいわれる。 鹿児島県川辺郡知覧町(現在の南九州市)出身。鹿児島県立川辺高等学校、鹿児島大学文理学部社会学科卒業。大学卒業後は県内各地の高等学校の教諭を経て、鹿児島大学法文学部教授、鹿児島純心女子大学教授を務める。高校教員時代から夏休みのたびに屋久島を訪ね、古老の話者を探して昔話を聞き続けた。その後もフィールドワークを信条に県内外を歩き続け、民俗学の研究に情熱を注いでおり、南九州から沖縄県に至る地域で、長年にわたって民俗調査を行なっている。
川口 幹夫(かわぐち みきお、1926年〈大正15年〉9月2… 川口 幹夫(かわぐち みきお、1926年〈大正15年〉9月25日 - 2014年〈平成26年〉11月5日)は、日本のテレビプロデューサー、テレビディレクター。日本放送協会(NHK)の第16代会長。 東京で出生、鹿児島県川辺郡川辺町(現・南九州市)育ち(関東在住の南薩出身者で構成される興南会会長も歴任)。 生後間もなく父が死去したため、1929年に母と別れて鹿児島県川辺郡川辺町に移住し祖母らに育てられる。 旧制県立四中(現・県立川辺高校)、旧制七高を経て、東京大学文学部卒業後、1950年NHKに入局。俳優天本英世は旧制七高・東大の同窓生。 初任地は福岡放送局。その後、演芸畑を歩む。入局直後の1951年に放送された『第1回NHK紅白歌合戦』をラジオで聞いた川口は、『NHK紅白歌合戦』が将来大きくなることを予想したという(この時、紅白が長寿番組化することを予想していたスタッフはいなかった)。
松田 達郎(まつだ たつろう、1924年12月10日 - 2… 松田 達郎(まつだ たつろう、1924年12月10日 - 2003年1月27日) は、日本の生態学者。元国立極地研究所所長。元南極地域観測隊隊長。 鹿児島県加世田市(現在の南さつま市)生まれ。旧制鹿児島県立川辺中学校(現:鹿児島県立川辺高等学校)出身。1952年、東北大学理学部生物学科卒業。動物生態学加藤陸奥雄教授のもとで、害虫の研究を行い、東北大学理学部助手を経て、1963年に東北大学理学部助教授。同年、国立科学博物館第二研究部極地課研究員。1965年、東北大学理学博士。1968年、第11次南極地域観測隊隊長。1973年、国立極地研究所教授・資料主幹。1981年、国立極地研究所研究主幹。1984年、国立極地研究所所長。
牧角 三郎(まきずみ さぶろう、1921年(大正10年)1月… 牧角 三郎(まきずみ さぶろう、1921年(大正10年)1月1日 - 2002年(平成14年)3月10日)は、日本の法医学者。医学博士、九州大学名誉教授、元日本法医学会会長。 九州大学医学部法医学教室に長く在籍し、薬毒物の分析法や血痕の簡易検査法の研究で成果を上げた。また、免田事件、島田事件、別府3億円保険金殺人事件などで法医学鑑定を手掛け、鳥取県科学捜査研究会顧問、福岡県科学捜査研究会常任理事、日本法医学会会長などを歴任した。 1921年(大正10年)1月1日、鹿児島県川辺郡知覧町に生まれた。 旧制鹿児島県立川辺中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1945年(昭和20年)9月に九州帝国大学医学部を卒業し、第2外科・温泉治療学研究所を経て、1948年(昭和23年)6月に法医学教室に入局した。
川野 重任(かわの しげとう、1911年7月22日 - 20… 川野 重任(かわの しげとう、1911年7月22日 - 2010年7月22日)は、日本の農業経済学者。学位は、農学博士(京都大学・論文博士・1962年)(学位論文「土地改革の理論的性格」)。東京大学名誉教授。 鹿児島県南さつま市(旧加世田市域)出身。鹿児島県立川辺中学校 (旧制)を経て、第七高等学校造士館 (旧制)理科を1932年に卒業。1936年に東京帝国大学農学部農業経済卒業後、副手、1939年に助手、1942年に東京大学東洋文化研究所助教授、1951年に同研究所教授、1962年、「土地改革の理論的性格」で京都大学より農学博士の学位を取得。1966年、同研究所長に就任。1970年に所長退任。
泊 宝徳(とまり ほうとく、1908年7月18日 - 198… 泊 宝徳(とまり ほうとく、1908年7月18日 - 1986年2月10日)は日本の政治家。鹿児島県加世田市長(6期)。 鹿児島県生まれ、加世田市(現南さつま市)出身。1926年鹿児島県立川辺中学校(旧制、現鹿児島県立川辺高等学校)四年修了。1933年から加世田町役場に勤務し、書記を務め、1945年より税務主任。1947年8月加世田町助役に就任し、1954年7月に加世田町と万世町が合併して加世田市となるまでに2期務める。合併後の新市長就任までの間、市長職務執行の代理者を務める。1954年9月から1962年7月まで加世田市収入役(初代、2期)。1962年8月の市長選挙に立候補をして松山賢太郎初代市長と争って当選し、1962年8月10日、第2代加世田市長に就任。
川畑 愛義(かわばた あいよし、1905年5月8日 - 20… 川畑 愛義(かわばた あいよし、1905年5月8日 - 2005年1月23日)は、日本の公衆衛生学・健康学者。 鹿児島県南九州市旧川辺町出身。旧制鹿児島県立川辺中学校、旧制第七高等学校造士館理科乙類を経て、1931年京都帝国大学医学部卒業。1935年「晝光照明学の根本命題」で京大医学博士。京都市立衛生試験所、京都大学教養部助教授、教授、1970年定年退官、名誉教授。京都府衛生研究所長。京都栄養学院長。日本水質保健研究所所長。日本生活医学研究所所長。1977年勲三等旭日中綬章受章。長命を保ち多くの一般啓蒙書を著した。体育生理学の研究の一環として「どうすれば身長は伸ばせるか」を研究し、発育開発協会より通信教育講座「川畑式背伸び法」を開講した。
小園 安名(こぞの やすな、1902年〈明治35年〉11月1… 小園 安名(こぞの やすな、1902年〈明治35年〉11月1日 - 1960年〈昭和35年〉11月25日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校第51期卒業。最終階級は海軍大佐剥奪。 1902年(明治35年)11月1日、鹿児島県川辺郡万世町(現・南さつま市)に生まれる。旧制鹿児島県立川辺中学校を経て1920年8月26日に海軍兵学校第51期に入学。同期に樋端久利雄、山本祐二、三代一就、大井篤らがいる。1923年7月14日、同校を卒業し、少尉候補生。練習艦「磐手」乗組み。 1926年3月、霞ヶ浦海軍航空隊第14期飛行学生、11月、卒業。空母「赤城」分隊長着任。霞ヶ浦航空隊教官着任。小園に思想的影響を受けた飛行学生の中尉らが五・一五事件を起こし、小園も「皇道革新」を主張し五・一五事件を支持したことから転勤させられる。
谷口 慶吉(たにぐち けいきち、1901年(明治34年)11… 谷口 慶吉(たにぐち けいきち、1901年(明治34年)11月10日 - 1971年(昭和46年)11月14日)は、昭和期の農業協同組合指導者、政治家。参議院議員(2期)。 鹿児島県鹿児島郡吉田村大字東佐多浦(現鹿児島市東佐多町)出身。1918年(大正7年)鹿児島県立川辺中学校(現鹿児島県立川辺高等学校)を卒業した。 鹿児島県鹿児島郡吉田村会議員、同村農会長、同村煙草耕作組合長などを務めた。1932年(昭和7年)上京して運輸事業に従事した。 戦後、鹿児島県食糧調整委員、吉田村北農業協同組合長、鹿児島県経済農業協同組合連合会長、全国販売農業協同組合連合会理事、全国運輸農業協同組合連合会長、鹿児島県農業会議議員、同県茶業振興会長、同県鹿児島茶輸出協会長、同県農業協同組合中央会理事、同県トラック協会監事、鉄道貨物協会監事などを務めた。
高良 武久(こうら たけひさ、1899年1月18日 - 19… 高良 武久(こうら たけひさ、1899年1月18日 - 1996年5月20日)は、日本の医学者、精神科医。専門は、性格学、森田療法。鹿児島県出身。 鹿児島県南九州市旧川辺町出身。旧制鹿児島県立川辺中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1924年、九州帝国大学医学部卒業。同大学精神神経科講師を経て、1929年、東京慈恵会医科大学に転任する。同年より東京根岸病院に勤務し、森田正馬に師事して森田療法を継承する。1937年、森田の後を継いで東京慈恵会医科大学教授となる。1940年、入院森田療法の施設である高良興生院を設立し、森田療法による神経(質)症の治療を行う。1964年、東京慈恵会医科大学名誉教授。
川上 清志(かわかみ きよし、1897年(明治30年)4月2… 川上 清志(かわかみ きよし、1897年(明治30年)4月21日 - 1944年(昭和19年)12月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県日置郡田布施村(金峰町を経て現南さつま市)で生まれた。川辺中学校(現鹿児島県立川辺高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)7月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第44連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を優等で卒業した。 1929年(昭和4年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(作戦班)、ドイツ駐在、ルーマニア駐在、歩兵第23連隊大隊長、参謀本部員(戦史課)などを務め、1937年(昭和12年)8月、兵科を航空兵に転科し航空兵中佐に進んだ。
西 春彦(にし はるひこ、1893年〈明治26年〉4月29日… 西 春彦(にし はるひこ、1893年〈明治26年〉4月29日 - 1986年〈昭和61年〉9月20日)は、大正・昭和期の外交官。太平洋戦争開戦時の外務次官である。 鹿児島県川辺郡加世田町津貫(後の加世田市津貫、南さつま市加世田津貫)生まれ。1911年3月旧制鹿児島県立川辺中学校(現鹿児島県立川辺高等学校)卒業。旧制第一高等学校一部丙類(独法・政・独文)に1911年9月入学、1914年7月卒業。東京帝国大学法学部独法科に1914年9月入学、1918年7月卒業。高等文官試験外交科に合格し、1918年10月外務省に入る。1920年結婚。外交官として長春在勤領事(1923年1月)、ソヴィエト連邦在勤大使館三等書記官(1925年8月)、外交書記官ならびに通商局第一課長(1928年2月)、欧米局第一課長(1933年3月)、欧亜局第一課長(1934年6月)、青島在勤総領事(1935年12月)、ソヴィエト連邦在勤大使館参事官(1936年12月)、欧亜局長(1939年6月)、ソヴィエト連邦出張特命全権公使(1940年9月)を歴任し、1941年5月に離任帰国。
中薗 盛孝(なかその もりたか、1890年〈明治23年〉11… 中薗 盛孝(なかその もりたか、1890年〈明治23年〉11月22日 - 1943年〈昭和18年〉9月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県川辺郡、のちの川辺町(現南九州市)で、役場書記・中薗平左衛門の三男として生まれる。川辺中学を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第6連隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。大阪砲兵工廠員、陸士生徒隊付などを経て、1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。翌月、野砲兵第6連隊中隊長に就任。 1923年(大正12年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第15師団参謀、第3師団参謀、陸軍野戦砲兵学校教官を歴任し、1927年(昭和2年)7月、砲兵少佐に昇進。
昌谷 忠(さかや ただし、1887年(明治20年)9月 - … 昌谷 忠(さかや ただし、1887年(明治20年)9月 - 1972年(昭和47年)5月28日)は、日本の外交官。駐フィンランド公使。 奄美大島の管鈍(後に鹿児島県大島郡西方村を経て、大島郡瀬戸内町の管鈍)出身。旧名:昌(さかり) 忠二。管鈍小学校、古仁屋高等小学校、鹿児島県立大島農学校(現鹿児島県立大島高等学校)予科を経て、鹿児島県立川辺中学校(現鹿児島県立川辺高等学校)を卒業。1906年(明治39年)東京・神田の東京外国語学校(現東京外国語大学)独語科に入学して、ドイツ語を修め1909年(明治42年)に卒業。京都帝国大学法科大学(現京都大学法学部)に入学した後、東京帝国大学法科大学(現東京大学法学部)に転入。
東 昇 は、日本のウイルス学者、京都大学名誉教授。日本で第一… 東 昇 は、日本のウイルス学者、京都大学名誉教授。日本で第一号の電子顕微鏡製作者。京都大学ウイルス研究所所長。医学博士。