村山 定男(むらやま さだお、1924年〈大正13年〉4月9… 村山 定男(むらやま さだお、1924年〈大正13年〉4月9日 - 2013年〈平成25年〉8月13日)は、日本の天文学者。国立科学博物館に長く奉職し、生涯を通じて天文普及活動に尽力した。 東京府東京市本郷区(現:東京都文京区本郷)で出生。父は村山達三(医師、東京都立駒込病院院長)、母方の祖父は宮入慶之助(寄生虫学者、九州帝国大学医学部名誉教授)。 幼少時から天文学に親しみ、5歳の時に望遠鏡で観望した火星をスケッチした。小尾信彌(天文学者)は、誠之小学校(現:文京区立誠之小学校)の同級生であった。 武蔵高等学校(旧制)を経て東京帝国大学理学部化学科を卒業した。村山自身は東京帝大天文学科への進学を希望していたものの、父の「天文学では食って行けない」という意見に従って化学科に進んだ。
もっと読む
勘米良 亀齢(かんめら かめとし、1923年(大正12年)1… 勘米良 亀齢(かんめら かめとし、1923年(大正12年)11月1日 - 2009年(平成21年)4月6日)は、昭和から平成時代の地質学者、古生物学者。 熊本県球磨郡湯前町で生まれる。旧制人吉中学校(現・熊本県立人吉高等学校)を卒業後、熊本県立工業高等学校(現・熊本県立熊本工業高等学校)を経て、1943年(昭和18年)10月九州帝国大学理学部地質学科に入学する。戦時中の当時、資源調査要員として新潟・長野県境の富倉(現・長野県飯山市富倉)へ学徒動員される。終戦後の1946年(昭和21年)9月、同校卒業後、同年10月に同校理学部助手となり、のち教授となった。球磨川下流域の調査を中心とした中生界の層序および火成岩・変成岩に付随する古生層の関係の研究に端を発した紡錘虫の化石帯区分に関する研究は日本地質学会研究奨励賞を受賞した。
もっと読む
高橋 良平(たかはし りょうへい、1923年8月10日-19… 高橋 良平(たかはし りょうへい、1923年8月10日-1997年6月15日)は、日本の地球科学者。専門は石炭地質学。福岡県太宰府市生まれ。 旧制福岡県立福岡中学校をへて、1946年に九州帝国大学理学部地質学科を卒業。同年、麻生鉱業株式会社に入社。1952年に九州大学理学部地質学教室石炭地質学講座の講師になり、翌年同助教授に昇任し、松下久道教授を補佐して石炭地質学の教育と研究の発展につくした。1960年九州大学より理学博士の学位を取得。論文の表題は「Die Beziehung zwischen der Inkohlung und der geologischen Struktur in Nord-Kyushu Kohlenbecken.」。
もっと読む
多田 公煕(ただ こうき、1923年〈大正12年〉3月18日… 多田 公煕(ただ こうき、1923年〈大正12年〉3月18日 - 2019年〈平成31年〉3月13日)は、日本の実業家。元中国電力代表取締役社長、元中国経済連合会会長。位階は従三位。 山口県生まれ。旧制山口中学、旧制山口高等学校を経て、1947年(昭和22年)九州帝国大学法文学部卒業、同年中国配電入社。 1977年(昭和52年)中国電力株式会社取締役総合企画室第一企画室長、1979年(昭和54年)中国電力株式会社常務取締役、1981年(昭和56年)中国電力株式会社取締役副社長、1989年(平成元年)中国電力株式会社代表取締役社長、1995年(平成7年)中国電力株式会社代表取締役会長、同年中国経済連合会会長、2001年(平成13年)中国電力株式会社相談役。
もっと読む
小林 信雄(こばやし のぶお、1922年(大正11年)10月… 小林 信雄(こばやし のぶお、1922年(大正11年)10月 - 2014年(平成26年)3月)は、日本の新約聖書学者。 牧師・竹林拙三の子に生まれる。 関西学院高等部卒、九州帝国大学卒、1947年関西学院文学専門部専任講師、1950年関西学院大学文学部専任講師、1952年神学部専任講師、トロント大学大学院神学修士課程修了、イマヌエル神学校卒。関西学院大学神学部助教授、教授。1991年定年退任、名誉教授。
もっと読む
山内 敕靖(やまうち ただやす、1918年〈大正7年〉 - … 山内 敕靖(やまうち ただやす、1918年〈大正7年〉 - 1983年〈昭和58年〉8月28日)は、日本の実業家。元広島ガス社長、元広島商工会議所会頭。 広島市出身。広島県立広島第一中学校を経て旧制広島高等学校に入学。旧制高校では松谷健一郎元中国電力社長、山本朗元中国新聞社社長、永野厳雄元広島県知事らと同期で、友人だった。旧制高校では寮委員を務め留年したが、非常に人望があった。 旧制高校を卒業後は九州帝国大学工学部に進学、卒業後は住友金属工業に入社するも間もなく海軍に応召。終戦により復員するも、財閥解体により復職できず、四国ガスに勤務した後、1947年(昭和22年)、実父が重役をしていた広島ガスに入社。
もっと読む
田村 圓澄(たむら えんちょう、1917年1月2日 - 20… 田村 圓澄(たむら えんちょう、1917年1月2日 - 2013年7月10日)は、日本史学者、仏教史学者、九州大学名誉教授。
もっと読む
横内 寿八郎(よこうち じゅはちろう、1917年 - 200… 横内 寿八郎(よこうち じゅはちろう、1917年 - 2002年8月1日)は、日本の医師。国立病院機構東名古屋病院元院長。長野県生まれ。 1933年(昭和8年)旧制松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)卒業。旧制松本高等学校理科を経て、1941年(昭和16年)九州帝国大学医学部を卒業。1971年(昭和46年)、国立療養所中部病院を経て、国立病院機構東名古屋病院院長を務めた。 1986年、勲二等瑞宝章を受章。2002年8月1日、多臓器不全のため死去。 当時、寿八郎のもとで医師を務めた加古健は、名古屋大学第二外科同門会誌「素友」に起稿した「横内寿八郎先生を偲んで」の中で寿八郎の人柄を偲んでいる。
もっと読む
大西 巨人(おおにし きょじん、1916年(大正5年)8月2… 大西 巨人(おおにし きょじん、1916年(大正5年)8月20日 - 2014年(平成26年)3月12日)日本の小説家・評論家。本名は同じく「巨人」と書いて「のりと」。マルクス主義の立場を堅持し、唯物論的観点から個人の尊厳を創作で追究した。小説・批評のいずれにおいても、常に主体を明確にした、論理性を重んじる文体を用いた。 戦後、「近代文学」などに小説・評論を発表。戦後文学・思想の方向性を巡る論争で積極的に発言する。1955年から25年間書き継いだ『神聖喜劇』のほか、『五里霧』(1997年)、『迷宮』(2004年)など。 福岡県福岡市出身。旧制福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)、旧制福岡高等学校卒業、九州帝国大学法文学部中退。
もっと読む
梶川 静雄(かじかわ しずお、1914年(大正3年)8月1日… 梶川 静雄(かじかわ しずお、1914年(大正3年)8月1日 - 1978年(昭和53年)2月9日)は、昭和期の労働運動家、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 鳥取県気高郡鹿野町(現鳥取市鹿野町)で、梶川俊造の四男として生まれる。鳥取第二中学校(現鳥取県立鳥取東高等学校)、第六高等学校を経て、1924年(大正13年)九州帝国大学法文学部法律科を卒業。 その後、満洲国の大同学院を卒業し、満洲国国務院官吏となった。その後、徴兵されて終戦を迎え、日本に帰国した。鳥取県労働組合会議顧問、日本農民組合鳥取県支部連合会顧問、日本社会党鳥取支部書記長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙に鳥取県全県区から日本社会党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
もっと読む
鍋島 直紹(なべしま なおつぐ、1912年(明治45年)5月… 鍋島 直紹(なべしま なおつぐ、1912年(明治45年)5月19日 - 1981年(昭和56年)11月16日)は、日本の政治家。佐賀県知事・科学技術庁長官。旧肥前鹿島藩鍋島家の第15代当主にあたり、地元では親しみを込めて「トンさん」(=殿様)と呼ばれた。 1912年(明治45年)5月19日、旧鹿島藩鍋島家第14代当主で、内務政務次官を務めた鍋島直縄子爵の長男として佐賀県藤津郡(現・鹿島市)で生まれる。旧制学習院中等科・高等科を経て、1936年(昭和11年)九州帝国大学農学部農学科を卒業、農林省嘱託技師となる。1944年(昭和19年)同省を退職し、「鍋島農園」の経営に当たる。1947年(昭和22年)2月3日に爵位(子爵)を返上した。
もっと読む
田中 茂穂(たなか しげほ、1911年(明治44年)9月15… 田中 茂穂(たなか しげほ、1911年(明治44年)9月15日 - 1982年(昭和57年)10月11日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)、国務大臣行政管理庁長官(第28代)、鹿児島県議会議長等を歴任。 鹿児島県の現垂水市出身。大阪府土木課長の父が1920年(大正9年)に亡くなり、母の兄である小林俊次郎九州帝国大学工学部教授を頼って一家で福岡県福岡市に転居。旧制福岡県立福岡中学(現福岡県立福岡高等学校)に入学するが、けんかにより退学処分を受ける。小林のはからいで旧制鹿児島一中(現鹿児島県立鶴丸高等学校)に転入するも、3年次に再びけんかにより退学処分を受ける。私立福山中学(現鹿児島県立福山高等学校)に転入するが、配属将校排斥運動のリーダーとなってストライキを起こしたことにより退校処分。
もっと読む
北原 経太(きたはら けいだ、1910年10月31日 - 没… 北原 経太(きたはら けいだ、1910年10月31日 - 没年月日不詳)は、日本の医学者。専門は公衆衛生学。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(1927年卒業)、旧制静岡高等学校を経て、九州帝国大学医学部を卒業した。九大卒業後、当時の旧制鹿児島県立医科大学の教授(公衆衛生学)となる。 1946年に九州帝国大学から医学博士号を取得した。その後、鹿児島大学医学部の教授となる。1974年に開催された日本人類遺伝学会の大会会長を務めた。多くの衛生学に関する論文を残し、1983年には日本人類遺伝学会の名誉会員となる。鹿児島大学を退官後は名誉教授となった。
もっと読む
田中 文雄(たなか ふみお、1910年7月29日 - 199… 田中 文雄(たなか ふみお、1910年7月29日 - 1998年1月6日)は、日本の経営者。王子製紙社長、会長を務めた。 長野県南佐久郡平賀村(現佐久市)出身。旧制野沢中学を経て、1935年に九州帝国大学農学部林学科を卒業し、同年に王子製紙に入社した。1956年に取締役に就任し、常務、副社長を経て、1968年に社長に就任。社長在任中は、北日本製紙、日本パルプ工業との合併を実現させ、紙パルプ業界の国際化に尽力した。1981年に会長に就任し、1989年から取締役相談役を務めた。1982年には病気療養中の市村修平社長に代わり、社長を一時代行した。 1979年から1987年までに日本経営者団体連盟副会長を務め、1981年には日本製紙連合会会長に就任した。
もっと読む
麻生 徹男(あそう てつお、1910年(明治43年)1月7日… 麻生 徹男(あそう てつお、1910年(明治43年)1月7日 - 1989年(平成元年)7月11日)は、昭和期の医師、医学博士。大日本帝国陸軍軍医として日中戦争、太平洋戦争に従軍した。 福岡県で産婦人科医・麻生貞の長男として生まれる。福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)、福岡高等学校を経て、1935年(昭和10年)3月、九州帝国大学医学部卒業。産婦人科を専攻。同年4月、医籍登録を行い同大医学部副手となる。 1937年(昭和12年)11月応召。大日本帝国陸軍衛生部見習士官として14号兵站病院に勤務。中国の上海や南京を転勤。1939年(昭和14年)、報告書「花柳病ノ積極的予防法」を作成。この報告書は、戦後、慰安婦問題に関して千田夏光らの著作で度々引用されることになる(後述)。
もっと読む
西 亦次郎(にし またじろう、1909年5月28日 - 19… 西 亦次郎(にし またじろう、1909年5月28日 - 1974年11月13日)は、福岡県出身の実業家。元西鉄ライオンズオーナー・社長。日本プロ野球(日本野球機構)におけるドラフト制度の生みの親と言われる。 旧制福岡中学校(現:福岡県立福岡高等学校)、福岡高等学校 (旧制)を経て、1930年九州帝国大学法文学部卒業。西日本鉄道の前身会社の九州電気軌道に入社。小倉営業所長、東京出張所長、西鉄本社運輸局次長、小倉支社副支配人となり、戦前のプロ野球チーム・西鉄軍においてはチームと本社間のパイプ役を務めた。戦後の1950年、前年暮れに創立したばかりの西鉄クリッパース(翌1951年、西日本パイレーツを吸収し西鉄ライオンズに改称)オーナーに就任。
もっと読む
赤木 健介(あかぎ けんすけ、1907年3月2日 - 198… 赤木 健介(あかぎ けんすけ、1907年3月2日 - 1989年11月7日)は、日本の詩人、歌人、編集者、歴史家。本名・赤羽 寿(あかばね ひさし)、別名・伊豆 公夫(いず きみお)。 青森市生まれ。九州帝国大学法文学部中退。姫路高等学校時代から『アララギ』に投稿、1928年の三・一五事件以来、左翼運動に挺身。1933年、検挙投獄。1935年、出獄ののち、渡辺順三らの『短歌評論』に参加。1932年、唯物論研究会に属し、日本共産党に入党するが、1938年、一斉検挙にあい、1944年に判決が下って下獄。この間、1940年に「在りし日の東洋詩人たち」で第4回透谷文学賞を受賞した。敗戦後、1945年10月に連合軍により解放される。
もっと読む
五嶋 孝吉(ごとう こうきち、1906年3月18日 - 19… 五嶋 孝吉(ごとう こうきち、1906年3月18日 - 1978年3月29日)は日本の理学者。 熊本県玉名市生まれ。熊本県立玉名中学校、九州帝国大学臨時教員養成所、大阪帝国大学理学部卒業。 宮崎県立延岡高等女学校、熊本県立八代高等女学校教諭などを経て、奈良女子高等師範学校教諭となる。 1949年(昭和24年)、私立暁女子短期大学学長、奈良女子大学教授となり、1953年(昭和28年)に理学部長となる。 1960年(昭和35年)に3度目の理学部長に就任した。1965年(昭和40年)に奈良女子大学長に就任した。 また、大阪帝国大学から理学博士号を授与されている。
もっと読む
山室 三良(やまむろ さぶろう、1905年1月23日 - 1… 山室 三良(やまむろ さぶろう、1905年1月23日 - 1997年1月15日)は、日本の中国哲学者。兄に山室次郎(中部日本新聞社社長)、弟に作家の山室静がいる。 長野県北佐久郡志賀村(現在の佐久市志賀)生まれ。旧制野沢中学(長野県野沢北高等学校)を経て、九州帝国大学法文学部選科支那哲学科修了。1933年九州帝大副手を経て、1934年外務省留学生として北京に赴き、1936年北京近代科学図書館初代館長、銭稲孫に委嘱して日本文学の中国語訳をさせる。帰国し、1947年九州帝大法文学部助教授、1960年九州大学文学部教授、1968年定年退官、名誉教授、1970年から1977年まで福岡大学教授、福岡県文化財専門委員、九州管区警察学校講師を務め、1980年から1983年まで東海大学教授。
もっと読む
石橋 英樹(いしばし ひでき、1904年10月13日 - 没… 石橋 英樹(いしばし ひでき、1904年10月13日 - 没年不詳)は、日本の実業家、電気技術者。 石橋茂樹の長男として、福岡県に生まれる。1922年福岡県立中学修猷館、1925年3月旧制福岡高等学校理科甲類を経て、1928年九州帝国大学工学部電気工学科を卒業。 1928年三菱電機神戸製作所に入社。同年から1930年まで米国ウェスティングハウス社に留学。1954年技術部長、1958年神戸製作所長を経て、1960年11月取締役となる。1963年11月電子事業部長を委嘱される。1966年11月退任。 1967年5月三菱プレシジョン副社長を経て、1969年5月社長に就任。
もっと読む
都築 賴助(つづき よりすけ、1903年8月3日 - 197… 都築 賴助(つづき よりすけ、1903年8月3日 - 1972年10月28日)は、日本の教育者、都築学園グループの創始者。妻は都築貞枝、次男は都築泰壽。 徳島県美馬郡美馬町(現・美馬市)生まれ。九州帝国大学(法文学部文科)卒業、同大学院修了、福岡学芸大学、福岡教育大学教授歴任。産業教育振興に寄与した功績により紺綬褒章を受く。 学校法人都築学園、都築育英学園を創設し、第一薬科大学・第一経済大学(現 日本経済大学)・福岡第一高等学校・福岡第一商業高等学校(現 第一薬科大学付属高等学校)・みやこ幼稚園・だいいち幼稚園・むろずみ幼稚園の学園総長。 正四位勲三等に叙せられ旭日中綬章を受章。
もっと読む
甲斐 政治(かい まさはる、1902年(明治35年)2月28… 甲斐 政治(かい まさはる、1902年(明治35年)2月28日‐ 1979年(昭和54年)9月13日) は、昭和期の満洲国官僚、放送関係者、政治家。衆議院議員(3期)。 宮崎県東臼杵郡北方村(北方町を経て現延岡市)で生まれた。城小学校、延岡中学校(現宮崎県立延岡高等学校)、第五高等学校を経て、1929年(昭和4年)3月、九州帝国大学法文学部法律科を卒業した。 同年3月、満洲に渡り鉄嶺自治指導委員長を経て、満洲国国務院民政部事務官、総務庁人事科長、遼陽県参事官兼地籍整理局事務官、瀋陽県支局弁事、遼陽副県長、瀋陽副県長、総務庁参事官、黒河省開拓庁長、拝泉県副県長、総務庁参事官・官房弁事、中華民国山西省顧問などを務めた。
もっと読む
古賀 良彦(こが よしひこ、1901年7月24日 - 196… 古賀 良彦(こが よしひこ、1901年7月24日 - 1967年6月29日)は、日本の医学者、教育者。 1901年(明治34年)、福岡県朝倉郡大福村(現・朝倉市)に生まれる。福岡県立朝倉中学校には、実家(乳業家)の手伝いとして牛乳配達を続けながら通い、熊本市にあった第五高等学校、さらに九州帝国大学に進学した。1927年(昭和2年)に同大医学部を卒業。内科教室に入局後に医療分野における放射線研究を始め、博士号を取得。東北大学に異動した。 東北大学でも放射線研究を続け、1936年(昭和11年)には同大電気工学科教授の抜山平一と共同で、心臓の鼓動に合わせてX線撮影(単純X線撮影)を行う技術を開発。さらに1943年(昭和18年)には胸部X線間接撮影法を開発(同年ブラジルのde Abreuも独立して開発)、第1回技術院賞を受賞した。
もっと読む
王丸 勇(おうまる いさむ、1901年3月28日 - 199… 王丸 勇(おうまる いさむ、1901年3月28日 - 1995年8月19日)は、日本の精神医学者。 福岡県議会議長、福岡市議会議長などを歴任した牛乳商・王丸代吉の長男として、福岡県久留米市に生まれる。福岡県立中学修猷館、旧制第六高等学校を経て、1926年、九州帝国大学医学部を卒業し下田光造教授の精神科に入局する。 1929年10月、九州医学専門学校(現・久留米大学医学部)神経精神医学講座開設に際して初代教授に就任し、1946年3月久留米医科大学教授、1950年4月久留米大学医学部教授となり、後に久留米大学医学部長を2期務めている。日本精神神経学会会長、日本精神分析学会会長、九州精神神経学会会長を歴任する。
もっと読む
町野 碩夫(まちの せきお、1899年10月15日 - 19… 町野 碩夫(まちの せきお、1899年10月15日 - 1971年2月6日)は、日本の産婦人科学者、鹿児島大学長。 山口県下関市豊田町大河内百合野出身。三豊小学校、旧制豊浦中学校、山口高等学校を経て九州帝国大学医学部卒業。1934年九州大学医学博士。論文の題は「子宮筋腫に対する硬レ線作用の臨床的並に組織化学的研究」 九州帝国大学助教授、鹿児島県立病院産婦人科部長を経て、1943年鹿児島医専教授。県立鹿児島医科大学創立と同大の国立移管につくした。1951年-55年県立鹿児島医科大学学長・医学部長。1968年-1969年鹿児島大学長。正心女子短期大学学長も務めた。
もっと読む
高良 武久(こうら たけひさ、1899年1月18日 - 19… 高良 武久(こうら たけひさ、1899年1月18日 - 1996年5月20日)は、日本の医学者、精神科医。専門は、性格学、森田療法。鹿児島県出身。 鹿児島県南九州市旧川辺町出身。旧制鹿児島県立川辺中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1924年、九州帝国大学医学部卒業。同大学精神神経科講師を経て、1929年、東京慈恵会医科大学に転任する。同年より東京根岸病院に勤務し、森田正馬に師事して森田療法を継承する。1937年、森田の後を継いで東京慈恵会医科大学教授となる。1940年、入院森田療法の施設である高良興生院を設立し、森田療法による神経(質)症の治療を行う。1964年、東京慈恵会医科大学名誉教授。
もっと読む
秋吉 三郎(あきよし さぶろう、1898年6月21日 - 1… 秋吉 三郎(あきよし さぶろう、1898年6月21日 - 1982年12月4日)は、日本の高分子化学者。 福岡県出身。1917年福岡県立中学修猷館を経て、1923年九州帝国大学工学部応用化学科を卒業。 商工省大阪工業試験所に入り、技手を経て技師となり、1935年学位を受け、同所の第四部長、第二部長を歴任。第二次世界大戦時には、陸軍兵器行政本部からの委嘱により、「重合「エチレン」蝋状物ノ合成ノ研究」を行っている。 1945年九州帝国大学工学部教授に就任。1951年大阪工業試験所および熊本大学教授も兼務。1956年3月九州大学評議員に選ばれ、1959年7月九州大学工学部長も併任する。 1961年帝人の常務取締役に転じ、開発本部長兼中央研究所所長を務め、1965年1月研究管理室長を委嘱され、1966年11月退任する。
もっと読む
藤井 立志(ふじい たつし、1898年〈明治31年〉2月15… 藤井 立志(ふじい たつし、1898年〈明治31年〉2月15日 - 1983年〈昭和58年〉)は、日本の実業家。日本電力を経て富山軽銀社長となる。その後、自身の会社が武蔵野化学研究所へ買収され同社の取締役となり、協和発酵(現:協和キリン)の設立時従業員となり、後に同社の専務取締役となった。岡山県矢掛町出身。 1898年(明治31年)岡山県小田郡小田村(現:矢掛町)の河上寅三郎の次男として生れる。幼くして、岡山県上房郡川面村の藤井浅之助の養子となる。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。1916年(大正5年)同校を卒業し、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。 1919年(大正8年)六校を卒業し、九州帝国大学工学部へ進学する。
もっと読む
遠藤 永次郎(えんどう えいじろう、1895年8月8日 - … 遠藤 永次郎(えんどう えいじろう、1895年8月8日 - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人。陸軍技術少将。工学博士。専門は燃料学、造兵学。 福岡県出身。1915年福岡県立中学修猷館、1918年7月第五高等学校工科を経て、1921年3月九州帝国大学工学部応用化学科を卒業。 1921年6月、陸軍工兵中尉任官。1935年1月、論文「発動機燃料ノ「ノツキング」性及防止ニ関スル研究」により工学博士の学位を得る。1939年8月陸軍航空兵大佐に累進。1940年12月陸軍航技大佐に転科し、1941年7月陸軍燃料廠廠員となる。1944年3月陸軍航技少将に累進し、同月、陸軍燃料廠が改組された陸軍燃料本部の陸軍燃料技術研究所所長に就任。
もっと読む
森 耕二郎(もり こうじろう、1895年(明治28年)2月2… 森 耕二郎(もり こうじろう、1895年(明治28年)2月23日 - 1962年(昭和37年)1月28日は、日本の大正から昭和期における経済学者、九州帝国大学教授。滋賀県出身者として最初の経済学博士(博士登録番号64番)。 1895年(明治28年)2月23日、滋賀県甲賀郡(現甲賀市)の井村家に生まれる。 京都帝国大学経済学部に1921年(大正10年)入学、1922年(大正11年)3月同大学を卒業し、大学院に進み経済原論を専攻する。1923年(大正12年)森家の養子となる。 1922年(大正13年)京都帝国大学講師となり、1925年(大正15年)2月経済学博士学位を得る。1928年(昭和3年)九州帝国大学法文学部助教授となり経済学第六講座を分担する。
もっと読む
矢毛石 栄造(やけいし えいぞう、1895年1月7日 - 没… 矢毛石 栄造(やけいし えいぞう、1895年1月7日 - 没年不明)は、日本の技術者。 熊本県立玉名中学校、第五高等学校を経て、九州帝国大学工学部を卒業した。その後、八幡製鉄所に入所し、1933年化工課長となる。 1946年には自らタール製品工業会を立ち上げ、その後、日本タール協会と改組し専務理事を務めた。
もっと読む
鷹部屋 福平(たかべや ふくへい、1893年(明治26年)3… 鷹部屋 福平(たかべや ふくへい、1893年(明治26年)3月9日 - 1975年(昭和50年)4月24日)は、日本の工学者、アイヌ文化研究者。著書には橋梁や構造力学など力学関係のものが多い。北海道帝国大学、九州大学、防衛大学校などで教授を務めた。 愛知県額田郡岡崎町大字康生(現・岡崎市)に生まれる。父は岡崎藩士で画家の鷹部屋荘一郎。1899年(明治32年)4月4日、岡崎町立連尺尋常小学校(現・岡崎市立連尺小学校)に入学。1903年(明治36年)、額田郡岡崎高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)に入学。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に入学すると、毎日のように暗くなるまでテニスの練習を行ったという。
もっと読む
金子 廉次郎(かねこ れんじろう、旧姓:山口、1886年〈明… 金子 廉次郎(かねこ れんじろう、旧姓:山口、1886年〈明治19年〉3月31日 - 1945年〈昭和20年〉7月23日)は、日本の内科学者、内科医。医学博士。九州帝国大学名誉教授。「日本脳炎」という名称の元になった症例を学会に報告した。 新潟県南蒲原郡猪子場新田(現 三条市猪子場新田)の素封家・山口新次郎の長男に生まれた。 1904年(明治37年)3月に新潟中学校を卒業、1907年(明治40年)7月に第三高等学校を卒業、新潟県南蒲原郡大面村大字蔵内(現 三条市蔵内)の大面村初代村長の金子正次の婿養子になった。 1907年(明治40年)9月に京都帝国大学福岡医科大学医学科に入学、1911年(明治44年)11月に九州帝国大学医科大学を優等で卒業、恩賜の銀時計を下賜された。
もっと読む
河村 幹雄(かわむら みきお、明治19年(1886年) - … 河村 幹雄(かわむら みきお、明治19年(1886年) - 昭和6年(1931年))は、日本の大正、昭和期を代表する地質学者・教育者・哲学者・宗教家である。九州帝国大学名誉教授であり、理学博士。
もっと読む
斎藤 干城(さいとう かんじょう、明治18年(1885年)1… 斎藤 干城(さいとう かんじょう、明治18年(1885年)12月13日 - 昭和23年(1948年)5月18日)は、日本の医師、陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍軍医中将。鳥取県米子市長。正四位勲一等瑞宝章。 鳥取県米子市尾高町に生まれた。開業医斎藤勇夫の長男。 米子中学(現在の米子東高校)を経て大正元年(1912年)九州帝国大学医学部卒業後、熊本歩兵第13連隊軍医に任官。昭和3年(1928年)、浜田陸軍病院長に就任。昭和5年(1930年)3月、一等軍医正(大佐相当官)に昇進し豊橋陸軍病院長となる。昭和6年(1931年)8月、名古屋陸軍病院長に異動。昭和7年(1932年)12月、第12師団軍医部長となり、第3師団軍医部長に転じた。
もっと読む
百武 源吾(ひゃくたけ げんご、1882年(明治15年)1月… 百武 源吾(ひゃくたけ げんご、1882年(明治15年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。第7代九州帝国大学総長。佐賀県出身。兄・三郎と源吾は海軍兵学校を首席卒業し、ともに海軍大将となった日本海軍史上唯一の兄弟である(陸軍大将兄弟は皇族軍人などで数例が、陸海軍を跨いだ大将兄弟は、西郷隆盛・従道兄弟、鈴木貫太郎・孝雄兄弟の2例がある)。 佐賀藩の足軽・百武庭蔵の五男として生まれた。百武三郎は三男、陸軍中将の弟・晴吉は六男である。少年時代の源吾は農学を志していたが、海軍兵学校を目指していた兄(四男)幸治が志半ばで病死したことを機に、幸治の遺志を継いで海軍を目指すことにした。
もっと読む
吉町 太郎一(よしまち たろういち、1873年-1961年)… 吉町 太郎一(よしまち たろういち、1873年-1961年)は、日本の橋梁工学者。材料工学者・研究者。代表作に旭橋など。 九州帝国大学工学部長、北海道帝国大学工学部長、室蘭工業専門学校(現・室蘭工業大学)学長を歴任した。 青森県に生まれ、弘前市新寺町出身、藩士吉町官助の子。幼にして父に随い上京。苦学力行して第一高等学校から東京帝国大学工学部に入学。金属学を専攻して、1898年に卒業。同時に同学部助教授になり、1901年に欧州へ留学。1904年に帰朝して、名古屋高等工業学校教授、転じて九州帝国大学工学部教授となった。1924年に北海道帝国大学に工学部設立のさい迎えられて同学部教授。ついで同学部長となり、1936年退官して北海道大学名誉教授の称号をうけた。
もっと読む
大工原 銀太郎(だいくはら ぎんたろう、1868年1月27日… 大工原 銀太郎(だいくはら ぎんたろう、1868年1月27日〈慶応4年1月3日〉 - 1934年〈昭和9年〉3月9日)は、日本の農学者(農芸化学)。勲等は勲二等。学位は農学博士(1911年)。旧姓は鈴木(すずき)。 農事試験場や特許局で技師として勤務し、農芸化学に関する研究に従事したのち、九州帝国大学農学部で教鞭を執った。土壌酸性がアルミニウムに因ること(大工原酸度, Daikuhara acidity)を世界で初めて発見した。九州帝国大学や同志社大学で総長を務めた。 信濃国伊那郡南向村(現長野県上伊那郡中川村)の鈴木家に生まれ、のちに飯田の大工原孝吉の養子となる。松本中学校、東京農林学校を経て1894年、帝国大学農科大学農芸化学科を卒業。
もっと読む
山本 清人(やまもと きよひと、生没年不明)は、日本の医師、… 山本 清人(やまもと きよひと、生没年不明)は、日本の医師、医学者。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校、1927年卒業)、旧制第五高等学校を経て、九州帝国大学医学部を卒業した。 卒業後は母校である九州帝国大学の研究員となる。他の教授や研究員が太平洋戦争に次々と応召されたため、1942年に講師の身分ながら外科部門の責任者となる。終戦後の1948年に、国立別府病院(現・国立病院機構別府医療センター)に移り、外科部長を経て、[要出典]院長に就任した。退職後は名誉院長に推された。
もっと読む
吉永 萌(よしなが すげる)は日本の医学者、医師。 熊本県出… 吉永 萌(よしなが すげる)は日本の医学者、医師。 熊本県出身。熊本県立玉名中学校(1910年卒業)[要出典]、第五高等学校を経て、九州帝国大学医学部を大正6年に卒業した。 専門は内科学、公衆衛生学で、大学卒業後、直ちに九州帝国大学医学部第三内科教室に入局し、助手となった。 大正13年には九州帝国大学から医学博士号を受けている。 公衆衛生学の第一人者として、昭和の初期には欧米に出張し、欧米の工場衛生や医事衛生などを視察した[要出典]。 その際の、初見を昭和12年に「吾が輩の出張報告欧米の工場衛生と医事衛生」と題して出版し、今現在でもその本は、産業医学・環境衛生学分野の初期資料となっている[要出典]。
もっと読む
山岡 憲二 は、日本の医学者。専門分野は内科学。福岡県出身。… 山岡 憲二 は、日本の医学者。専門分野は内科学。福岡県出身。1928年九州帝国大学医学部卒業。1944年九州帝国大学助教授、1945年岡山大学教授、1956年九州大学医学部第一内科教授。「血色素並びに胆汁色素の研究」で、1965年学士院賞受賞。1966年名誉教授。1973年日本学士院会員。1987年に死去。84歳。
もっと読む