スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
増渕 祐香(ますぶち ゆうか、2001年12月21日 - )… 増渕 祐香(ますぶち ゆうか、2001年12月21日 - )は、日本の陸上競技選手。専門は中距離走、長距離走。 東京都出身。目黒区立第十中学校、私立錦城学園高等学校で中・長距離に取り組む。高校卒業後、名城大学法学部法学科に進学し、女子駅伝部に所属。 目黒第十中学時代から全国大会に出場するほど活躍したが、高校時代にはさらに記録を伸ばして全国レベルで活躍するようになる。2017年、錦城学園高校に入学。同級生に保坂晴子らがいた。2018年の高2時・2019年の高3時に全国高校女子駅伝に出場し、2年連続で「花の1区(6㎞)」を担当してともに区間19位となった。また、3年次のインターハイ1500mでは8位入賞を果たした。
保坂 晴子(ほさか はるこ、2001年4月23日 - )は、… 保坂 晴子(ほさか はるこ、2001年4月23日 - )は、日本の陸上競技選手である。専門は中距離走、長距離走。 東京都出身。私立錦城学園高等学校を卒業し、日本体育大学体育学部体育学科に進学。陸上競技部に所属。 錦城学園高時代、同期の増渕祐香(名城大学進学)と競いながら力を伸ばしてきた。高2、高3で全国高校駅伝女子、高2で全国女子駅伝に出場した。また、3年次のインターハイ1500mでは決勝に進出、惜しくも入賞を逃したが増渕に次いで9位となった。 日体大では女子駅伝チームの主力となり、1年次から大学女子の2大駅伝(杜の都駅伝・2区、富士山女子駅伝・3区)に出場し、いずれも区間賞を獲得した。ライバルの増渕も2つの駅伝で同じく区間賞を獲得しており今後の2人の活躍が注目される。
立野 在(たての ある、英語: Aru Tateno、199… 立野 在(たての ある、英語: Aru Tateno、1997年8月29日 - )は、日本のフィギュアスケート選手(アイスダンス)。パートナーは平山姫里有。神奈川県横浜市出身。血液型はAB型。全日本ジュニア選手権2連覇(2014年・2015年)。 神奈川県横浜市出身。8歳でスケートに本格的に取り組むようになり、小学6年でアイスダンスに転向した。錦城学園高等学校中退、日出高等学校卒業。法政大学卒業。 2013-14シーズン、前田久美子とカップルを組み全日本ジュニア選手権で2位入賞。 2014-15シーズン、深瀬理香子と新たにカップルを組み、同年の全日本ジュニア選手権で優勝する。2015-16シーズン、日本スケート連盟の強化指定選手に選ばれる。
杉 卓弥(すぎ たくや、1974年8月4日 - )は、秋田テ… 杉 卓弥(すぎ たくや、1974年8月4日 - )は、秋田テレビの社員で元アナウンサー。
西村 修(にしむら おさむ、1971年9月23日 - 202… 西村 修(にしむら おさむ、1971年9月23日 - 2025年2月28日)は、日本の政治家、プロレスラー。血液型A型。東京都文京区出身、文京区議会議員。 錦城学園高校在学中に新日本プロレス学校に入り、卒業後の1990年4月、新日本プロレスに入門。 4月21日、沖縄県糸満市西崎総合体育館の飯塚孝之戦でデビュー。7月17日、留萌市スポーツセンター大会でデビュー2戦目の小島聡と対戦。6分、逆エビ固めで勝利。初勝利を挙げる。 3月の第4回ヤングライオン杯で準優勝後、同年8月に米国武者修行に出発。渡米後、フロリダに移動しヒロ・マツダのもとでトレーニングを受ける。ブライアン・ブレアーのゴールドジムでウェイトトレーニングを行う。
田辺 南北(たなべ なんぼく、1949年7月9日 - )は、… 田辺 南北(たなべ なんぼく、1949年7月9日 - )は、講談協会に所属する講談師。本名∶石井 光夫。 2012年に癌の手術をし現在も闘病中。
堀 光一路(ほり こういちろ、1947年1月22日 - )は… 堀 光一路(ほり こういちろ、1947年1月22日 - )は、日本の元歌手・カスタムペインター。東京都新宿区百人町出身。 錦城学園高等学校卒業後は印刷関連の写真修正を行う会社に就職。この時に得たエアブラシの技術が後にカスタムペインターになるきっかけの一つとなる。同時期に歌手活動を開始。20代の頃は主にディスコや米軍キャンプでのバンド活動やヤマハポピュラーソングコンテストへの参加、そして全日本トライアル選手権などのモータースポーツにも参加する。また、歌手活動としては自身の音楽のジャンルとは違うが、CMソングや『無敵超人ザンボット3』の主題歌や『機動戦士ガンダム』の挿入歌などのアニメソングも歌っていた。
白木 秀雄(しらき ひでお、本名:柏倉 秀康、1933年1月… 白木 秀雄(しらき ひでお、本名:柏倉 秀康、1933年1月1日 - 1972年8月22日頃)は、日本のジャズ・ドラマー。 東京府東京市神田区(現・東京都千代田区)の酒屋に生まれる。錦城高校ではハーモニカ・バンドに所属してドラムを担当し、ハーモニカを川口章吾、ドラムを奥田宗宏に師事した。やがてプロのジャズミュージシャンを志すようになり、1951年に東京芸術大学音楽学部打楽器科に進学した(のちに中退)。この年の東京芸大打楽器科の新入生は2名だけで、もう1人は後に指揮者となる岩城宏之であった。 東京芸大在学中からプロのジャズ・ドラマーとして活動を始めた。大学側が学生の学外演奏活動を表向きは禁じていたため芸名で活動することとし、本名の「柏倉」の「柏」の字を分けて「白木」とした。
渡辺 護(わたなべ まもる、1931年3月19日 - 201… 渡辺 護(わたなべ まもる、1931年3月19日 - 2013年12月24日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。新劇の俳優から演出家に転向し、いわゆるピンク映画の黎明期からその隆盛を支え、美保純、可愛かずみのデビュー作を手がけたことで知られる。生涯を通じて多作であり、監督作だけでも210作を超えるといわれる。門前 忍(もんぜん しのぶ)という筆名を山本晋也と共有した。 1931年(昭和6年)3月19日、東京府北豊島郡滝野川町(現在の東京都北区滝野川)に生まれる。父は恭三郎、母はナカ、姉・兄・弟・妹をもつ5人兄弟の次男(第3子)、生家は映画館であったため、映画はふんだんにみられる環境にあった。
福岡 正剛(ふくおか せいごう、1929年5月16日 - 1… 福岡 正剛(ふくおか せいごう、1929年5月16日 - 1996年2月4日)は、日本の俳優。本名は福岡 正剛(ふくおか まさたけ)。 東京市下谷区(現:東京都台東区)出身。旧制錦城中学校(現:錦城学園高等学校)、鎌倉アカデミア映画科卒業。東映、松竹を経て、清野事務所、さとう事務所に所属していた。 母は女優の福岡君子。妻は福岡幸子(ゆきこ)。 太泉映画、東映、松竹に所属後、クラブを経営。 1996年2月4日、急性心不全のため死去。66歳没。
三笑亭 夢楽(さんしょうてい むらく、1925年1月5日 -… 三笑亭 夢楽(さんしょうてい むらく、1925年1月5日 - 2005年10月28日)は、岐阜県岐阜市出身の落語家。生前は落語芸術協会に所属。本名∶渋谷 滉。出囃子は『筑摩祭』。 錦城商業学校卒業。映画カメラマンの成島東一郎は中学時代の同級生。 幼少時代に馬賊に憧れていたことから、1942年より単身中国北京へ移住。敗戦後帰国し、農林省開拓局に入局。 永井荷風を通じて正岡容を知り、その紹介で、1949年3月に五代目古今亭今輔に入門する。前座名は「今夫」。しかし、当の本人は新作落語、古典落語の概念をあまり知らずとりあえず今輔から提供を受けた新作の台本をやっていたが、ある日柳家金語楼から渡された新作の台本を「八っつぁん」「熊さん」に書き換えたことで今輔から叱責され古典路線に転向する。
田中 角栄(たなか かくえい、旧字体: 田中 角榮、1918… 田中 角栄(たなか かくえい、旧字体: 田中 角榮、1918年〈大正7年〉5月4日 - 1993年〈平成5年〉12月16日)は、日本の政治家、実業家、建築士。号は越山。 衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第31代)、自由民主党総裁(第6代)、内閣総理大臣(第64・65代)を歴任した。 自民党内最大派閥である田中派を率い、日本列島改造論を計画・実行し、他にも様々な政策を成し遂げたことでも有名であり、今太閤や影の総理などと呼ばれ、多大な影響力をもった政治家として知られる。 自民党最大派閥の田中派(木曜クラブ)を率い、巧みな官僚操縦術を見せる田中は、党人政治家でありながら官僚政治家の特長も併せ持った稀な存在だった。
名取 芳夫(なとり よしお、1914年4月30日 - 197… 名取 芳夫(なとり よしお、1914年4月30日 - 1975年4月2日)は、日本の元プロボクサー。山梨県北巨摩郡保坂村出身。戦前における日本および東洋ウェルター級チャンピオン。東京拳闘協会所属。日本ボクシング草創期の強豪。 北巨摩郡保坂村に生まれる。上京して錦城中学から正則高校へ進学、東京拳闘協会に入門する。1932年1月11日、英国の強豪エス・ハリーを3回TKOに破ってデビュー。頭脳派のテクニシャンで、原靖、平川末男、熊谷二郎ら日本の強豪のほか、ジョー・サクラメント、ファイティング・アボルトら比国の名選手も破る。 1934年12月25日、日本拳闘連盟主催の選手権大会で強打者佐藤利一に7回反則勝ち、日本ウェルター級王者となる。
原 茂(はら しげる、1913年1月26日 - 1997年1… 原 茂(はら しげる、1913年1月26日 - 1997年12月1日)は、日本の政治家。位階は従三位。日本社会党衆議院議員(10期)。 なお、元日本炭鉱労働組合(炭労)委員長の同名人物は別人である。 長野県諏訪郡玉川村(現茅野市)出身。旧制錦城中学(錦城学園高等学校)卒業、東京外国語学校特別研修講座修了。1946年に社会党に入党。1952年の総選挙で旧長野3区から左派社会党公認で立候補して当選。以来連続10回当選、1962年から社会党長野県本部委員長、1966年社会党本部中央執行委員、財務委員長、1976年代議士会長などを務めた。1967年には日ソ文化交流調印式に社会党代表として調印した。1979年の総選挙では同じ選挙区から元長野県議の串原義直も立候補したため両者で票を食う形になりともに落選した。
柴野 民三(しばの たみぞう、1909年11月4日 - 19… 柴野 民三(しばの たみぞう、1909年11月4日 - 1992年4月11日)は、日本の児童文学作家・詩人。 東京府東京市京橋区(現・東京都中央区)生まれ。日比谷小学校(現千代田区立麹町小学校)、錦城商業学校卒業。 1929年(昭和4年)、大橋図書館にに勤務し、児童図書室を担当する。『赤い鳥』などに投稿し北原白秋に師事。童謡誌「チチノキ」同人として詩作する。1932年(昭和7年)、有賀連らと「チクタク」を創刊。1935年(昭和10年)、私立大橋図書館を退職し、小川未明主宰『お話の木』創刊に際して編集に当たる。のち絵雑誌『コドモノヒカリ』などを編集、1942年から文筆業。 1992年4月11日、呼吸不全のため死去。
久保 伊津男(くぼ いつお、1909年3月16日 - 196… 久保 伊津男(くぼ いつお、1909年3月16日 - 1968年4月10日)は、日本の動物学者、海洋生物学者。東京水産大学教授。水産動物資源学を研究し、クルマエビの権威だった。 鹿児島県日置郡東市来村(現・日置市)出身。1928年錦城中学校卒業。1934年水産講習所本科養殖科を卒業、翌月講習所助手となる。1945年5月22日、理学博士の学位を修得(北海道帝国大学審査)。論文は「本邦およびその近海産車蝦科蝦類の研究」。 1952年東京水産大学教授に就任。1955年日本水産学会賞を受賞。1968年4月10日、教授会の最中に心筋梗塞のため死去。
宮沢 縦一(みやざわ じゅういち、1908年9月22日 - … 宮沢 縦一(みやざわ じゅういち、1908年9月22日 - 2000年7月8日)は、音楽評論家。東京都出身。京都帝国大学法学部を卒業した。在学中にエマヌエル・メッテルの指導を受ける。オペラ中心に解説、評論を行い、武蔵野音楽大学教授を務めた。1968年にNHK放送文化賞、1972年に紫綬褒章を受賞した。1987年に脳梗塞で倒れ、第一線を退いたが、以後も妻の秋子の口述筆記による「オペラシリーズ」などを出版した。
鷲尾 洋三(わしお ようぞう、1908年 (明治41年)9月… 鷲尾 洋三(わしお ようぞう、1908年 (明治41年)9月18日 - 1977年(昭和52年)4月26日)は、日本の編集者、実業家。文藝春秋副社長を務めた。東京生まれ。 慶應義塾大学文学部卒業後、1932年(昭和7年)文藝春秋社入社。36年谷崎潤一郎の二番目の妻だった古川丁未子と結婚。戦時中、三たび応召されるが生き延びる。 戦後、菊池寛が文藝春秋を解散すると、車谷弘らと佐佐木茂索を社長に迎えて文藝春秋新社を創立。池島信平を『文藝春秋』編集長とし、のち自身も編集長を担い、谷崎の「幼少時代」を連載した。その後、取締役出版局長、専務、副社長を歴任した。 1969年(昭和44年)丁未子の死後、千代と再婚した。
伊東 光一(いとう こういち、1907年7月8日 - 没年不… 伊東 光一(いとう こういち、1907年7月8日 - 没年不詳)は、日本の俳優。本名は前島 昌彦(まえじま まさひこ)。大映の名脇役の一人である。 1907年7月8日、静岡県伊東市に生まれる。実家は医院を経営していた。 1925年、錦城商業学校(現在の錦城学園高等学校)を卒業。1932年、松竹蒲田撮影所に入社。後に松竹大船撮影所に移り、大部屋俳優として多数の作品に脇役として出演する。 1946年2月に上原謙の一座に入り、共に実演の舞台にも立っていたが、その後は大映に移籍し、1971年の大映倒産まで脇役として長く活躍する。その後は東京俳優生活協同組合に所属し、出演を続けたが、1976年10月7日にフジテレビが放映したテレビドラマ『同心部屋御用帳 江戸の旋風II』第28話「十手の重み」に出演して以降の出演作品が見当たらず、以後の消息は不明である。
椿 三四郎(つばき さんしろう、1907年1月3日 - 没年… 椿 三四郎(つばき さんしろう、1907年1月3日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名間瀬 松太郎(ませ まつたろう)、別芸名津島 慶一郎(つしま けいいちろう)。 1907年(明治40年)1月3日、東京府東京市日本橋区のうち、のちの江戸橋地域(現在の東京都中央区日本橋)に生まれる。 1924年(大正13年)3月、東京・神田錦町の旧制・錦城商業学校(現在の錦城学園高等学校)を卒業し、西巣鴨町の国際活映(国活)に入社する。しかしながら当時の国活は経営が悪く、減産体制となっており、翌1925年(大正14年)には同社は倒産、椿は同年12月、兵庫県西宮市甲陽園にある東亜キネマ甲陽撮影所に移籍する。
沼田 嘉穂(ぬまた よしほ、1905年8月30日 - 198… 沼田 嘉穂(ぬまた よしほ、1905年8月30日 - 1989年5月23日)は、日本の会計学者。会計学、特に簿記学の研究・教育への啓蒙についても精力的に活動、著作も多い。横浜国立大学教授・駒澤大学教授を歴任。 明治38年、文京区本郷弓町にて出生。幼少時小石川小日向台町に移り、大正2年黒田小学校に入学。3年父の奉職先の大手町会計検査院官舎に移り、日比谷小学校(現麹町小学校)に転学、7年卒業。同年一ツ橋高等小学校に入学。8年錦城中学校に入学。12年夏に関東大震災により家屋壊滅。小石川林町に移転。13年錦城中学校卒業。同年東京商科大学(現一橋大学)専門部に入学、昭和2年同校卒業、就職に失敗し、同年本科に進学。
田淵 行男(たぶち ゆきお、1905年6月4日 - 1989… 田淵 行男(たぶち ゆきお、1905年6月4日 - 1989年5月30日)は、山岳写真家。高山蝶研究家。 「すべての昆虫少年にとってのヒーロー」。 鳥取県日野郡黒坂村(現日野町)に父吉弥、母阿又の次男(第四子)として誕生。 1909年 9月2日、母阿又、死去。1911年 3月、父吉弥、溝口町分署長になる。4月、行男、日野郡溝口尋常小学校入学。5月31日、父吉弥、足立よしと再婚。 1918年 3月、岩美郡岩美尋常小学校卒業。4月、境高等小学校入学。5月21日、父吉弥死去。その後、継母よしが実家に帰り、6月、台湾の台北市に住む実母の親戚一家に預けられる。 1919年 継母よし死去。叔母スイらと共に台湾から帰国し、東京滝野川に居住。
木村 義雄(きむら よしお、1905年(明治38年)2月21… 木村 義雄(きむら よしお、1905年(明治38年)2月21日 - 1986年(昭和61年)11月17日)は、将棋棋士。十四世名人。棋士番号は2。東京府東京市本所区本所表町(現:東京都墨田区)出身。日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 最初の実力制による名人、かつ最初の永世名人である。 江戸っ子である下駄屋の職人の子として育ち、幼い頃から囲碁と将棋が強く、大人にも負けなかったという。父は弁護士か外交官になることを望んでいたが、知人の説得に負けて義雄に囲碁の道場に通うことを許した。しかし生家の職業上糊として使うことから白米を常食としていた義雄は、囲碁の師匠の家である日出された麦飯を二口と食べられなかった。
渡瀬 凌雲(わたせ りょううん、1904年7月9日 - 19… 渡瀬 凌雲(わたせ りょううん、1904年7月9日 - 1980年5月17日)は日本画家。南画の大家。本名は渡瀬幸成。 長野県下伊那郡根羽村に生まれる。幼いころから大平小洲、山本梅荘に師事。尋常小学校高等科を卒業後は上京して福田浩湖塾に入門。一方で、旧制錦城中学校、正則英語学校に通いながら那智左典に漢学を学んだ。1925年(大正14年)には京都へ移り、福田静処に和漢文学・詩書を学ぶ。以後、京都に定住する。 1933年(昭和8年)第14回帝展に「河口」が初入選、以後は帝展、文展、日展、日本南画院を中心に出品する。1937年(昭和12年)京都市美術展「南紀佐野村」で京都市長賞を受賞。 戦後は同志と南画院を結成して活動を続け、水墨を基調に山水花鳥に新生面を開いた。
稲山 嘉寛(いなやま よしひろ、1904年(明治37年)1月… 稲山 嘉寛(いなやま よしひろ、1904年(明治37年)1月2日 - 1987年(昭和62年)10月9日)は、日本の実業家、財界人。第5代経済団体連合会(経団連)会長(1980年 - 1986年)。 東京市京橋区銀座(現:東京都中央区銀座)に、「稲山銀行」頭取・稲山伝太郎の二男として生まれる。銀行を始めたのは祖父稲山久仙で千葉県の農家の二男として生まれ幕末、11歳の時江戸へ出て働くうちに見込まれ、稲山家の養子になり勤倹貯蓄のすえ、小なりとはいえ銀行をつくった。 入学試験・入社試験には苦労し続け、泰明小を経て、中学受験では東京府立一中、府立四中、開成中、麻布中に落ち、神田の錦城中に入学する。その後も府立一中の転入試験を二度受け、二度目の受験時には制服制帽も買い揃えていたが失敗。
庄司 浅水(しょうじ せんすい、1903年11月10日 - … 庄司 浅水(しょうじ せんすい、1903年11月10日 - 1991年9月7日)は、日本の書誌学研究家、ノンフィクション作家。ミズノプリンティングミュージアム名誉館長。日本出版学会、日本ペンクラブ、グロリアクラブ、各会員である。 元京都外国語大学専任講師。書物研究の傍ら、世界の奇談を紹介した。 宮城県仙台市出身。本名は喜蔵。三田英学校(現在の錦城学園高等学校)卒業。1925年、南葵音楽文庫に勤務。 1929年に「ぐろりあそさえて」から実質的な処女作『書籍装釘の歴史と実際』を刊行。1930年に装釘同好会を結成。1931年に佐々木幸四郎、斎藤昌三らと雑誌「書物展望」を創刊。また、書誌出版を志してブックドム社を設立。
大河原 一次(おおかわら いちじ、1903年(明治36年)9… 大河原 一次(おおかわら いちじ、1903年(明治36年)9月20日 - 1988年(昭和63年)3月7日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 福島県岩瀬郡長沼町(現須賀川市)で生まれる。1921年(大正10年)錦城中学校(現錦城学園高等学校)卒を経て、早稲田大学高等師範英文科を修了した。 1927年(昭和2年)古河鉱業(現古河機械金属)に入社し好間鉱業所に配属された。1930年(昭和5年)に退社し労働運動、農民運動に加わる。1945年(昭和20年)の終戦を迎えて常磐地方で日本社会党の支部と労働組合の結成に尽力し、日本炭鉱労働組合常磐地方本部執行委員長に就任し8期在任した。その他、福島県労働対策審議会委員などを務めた。
吉田 富三(よしだ とみぞう、1903年(明治36年)2月1… 吉田 富三(よしだ とみぞう、1903年(明治36年)2月10日 - 1973年(昭和48年)4月27日)は、日本の医師、病理学者。学位は医学博士(東京大学・1936年)。長崎医科大学教授、東京大学医学部長などを歴任。文化勲章・勲一等旭日大綬章受章。 福島県石川郡浅川村(現・浅川町)生まれ。ラットの腹水癌である吉田肉腫と腹水肝癌の発見で実験腫瘍学に新たな扉を開いた。財団法人癌研究会癌研究所長、財団法人佐々木研究所研究所長、日本学術会議会員・副会長(第6期)、国語審議会委員(第1-6期)などを務めた。テレビディレクターの吉田直哉は長男である。動物学者の田子勝彌は叔父である。
砂間 一良(すなま いちろう、1903年2月8日 - 199… 砂間 一良(すなま いちろう、1903年2月8日 - 1992年12月12日)は、日本のジャーナリスト、政治家。元日本共産党衆議院議員。民医連運動発祥の地とされる、大崎無産者診療所で看護師を務めていた、社会運動家の秋子は配偶者。 静岡県田方郡土肥村(土肥町を経て現在は伊豆市)出身。錦城中学校、第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学経済学部を卒業。一高在学中の1923年9月1日に発生した関東大震災では、新人会のメンバーと「一高震災防護団」を立ち上げ、被災者救援活動を行った。また、帝大入学後は新人会へ加入、1927年には無産者新聞へ無給社員として入る。翌年の三・一五事件以後責任者に就くと共に、日本共産党へ入党する。
栃ノ花 善治郎(とちのはな ぜんじろう、1902年5月4日 … 栃ノ花 善治郎(とちのはな ぜんじろう、1902年5月4日 - 1992年4月23日)は昭和時代の大相撲力士。春日野部屋所属。本名は原→秋山善治郎。最高位は十両2枚目。 現在の東京都渋谷区出身。旧制錦城中学に入り、相撲部で主将をつとめ、1919年の全国大会で活躍した。翌1920年卒業後に春日野部屋に入門し、5月に初土俵を踏む。1927年1月十両昇進。十両を4場所連続在位したが、幕下に落ちた。1928年3月再十両を果たしたが、全休してそのまま25歳で廃業した。1992年に満89歳で死去した。
谷 幹一(たに かんいち、1901年7月18日 - 1939… 谷 幹一(たに かんいち、1901年7月18日 - 1939年9月12日)は、日本の俳優である。愛称は「タニカン」、本名は岡村 文雄(おかむら ふみお)である。第二次世界大戦後、同姓同名のコメディアン・俳優の谷幹一が登場したころにはすでに他界していた。 1901年(明治34年)7月18日、東京市京橋区(現在の東京都中央区)に「岡村文雄」として生まれる。 神田区錦町(現在の千代田区神田錦町)にあった錦城学校尋常中学校(現在の錦城学園高等学校)を卒業し、美術学校に入学、日本画を専攻する。19歳になる1920年(大正9年)10月に設立された松竹キネマ研究所に入所、小山内薫に師事した。翌1921年(大正10年)8月には同研究所は解散した。
浦野理一(うらの りいち、1901年4月22日-1991年)… 浦野理一(うらの りいち、1901年4月22日-1991年)は、日本の染織研究家、染織プロデューサー。飛鳥時代から江戸末期までの染織物数万点を収集して研究し、作品づくりや著作に反映させた。そのコレクションは日本で唯一ともいわれた。雑誌『ミセス』誌上で長期にわたって連載を持ち、小津安二郎の映画では衣装を担当した。 1901年4月22日、群馬県高崎市にて、父・彦三郎、母・たきの長男として生まれる。美に敏感で、小学生の頃からきものに興味を持ちはじめた。東京・神田の錦城商業学校を卒業し、1918年(大正7年)、日本橋白木屋(元東急百貨店日本橋店)に入社し、呉服部に勤めた。染織研究のためのきものやボロきれ集めに熱中し、古着屋や骨董屋を巡って月給の大半を注ぎ込んだ。
赤堀 四郎(あかほり しろう、1900年10月20日 - 1… 赤堀 四郎(あかほり しろう、1900年10月20日 - 1992年11月3日)は、日本の生化学者(生物有機学)。勲等は勲一等。学位は理学博士(東北帝国大学・1931年)。大阪大学名誉教授。日本学士院会員、大阪大学総長、理化学研究所理事長などを歴任した。 苦学しながら醤油の香り成分の研究などで業績を残した。日本学士院会員、大阪大学総長、理化学研究所理事長を歴任し、勲一等を贈られた。日本学士院、ドイツ自然科学アカデミー・レオポルディーナ、ソビエト連邦科学アカデミーなどの会員に選ばれている。また、アメリカ生化学会名誉会員、静岡県小笠郡大東町名誉市民などの称号を贈られている。 1900年(明治33年)、静岡県小笠郡千浜村(現・掛川市千浜)で小学校教師の赤堀秀雄と妻・しのの息子として生まれた。
竹内 俊吉(たけうち しゅんきち、1900年2月5日 - 1… 竹内 俊吉(たけうち しゅんきち、1900年2月5日 - 1986年11月8日)は日本の政治家、文人。青森県知事、青森放送会長などを務めた。長男の竹内黎一も政治家で、科学技術庁長官などを務めた。 1900年、青森県西津軽郡出精村(後の木造町、現在のつがる市)の農家に生まれる。尋常小学校卒業後、三田英学校を中退し、1925年に東奥日報に入社。『サンデー東奥』編集責任者、社会部長、整理部長、取締役を歴任。1940年に退社(後に顧問)。青森県議会議員を経て、1942年の第21回衆議院議員総選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け、初当選。 第二次世界大戦後は公職追放されたが、追放解除後に民主党公認で立候補した1955年より衆議院青森県第2区で3期連続で当選。
友田 恭助(ともだ きょうすけ、1899年(明治32年)10… 友田 恭助(ともだ きょうすけ、1899年(明治32年)10月30日 - 1937年(昭和12年)10月6日)は、日本の新劇俳優。本名は伴田五郎。 1899年(明治32年)、東京市日本橋区(現 : 東京都中央区)に実業家の伴田六之助の子として生まれる。幼い頃から芝居を好んで過ごし、錦城中学校へと進んだ。中学生の頃に土方与志と知り合い、伯母の住む神奈川県茅ヶ崎の家に南湖座と名付けられた芝居小屋を作ってもらい、土方らと素人劇団を作りそこで演劇をしていた。1917年(大正6年)に早稲田大学独文科へと進み、在学中に新劇協会の畑中蓼坡の指導を受けて、1919年(大正8年)に『ワーニャ伯父さん』で本格的な舞台初出演を果たした。
山本 豊市(やまもと とよいち、1899年10月19日 - … 山本 豊市(やまもと とよいち、1899年10月19日 - 1987年2月2日)は、彫刻家。東京新宿生まれ。本名は豊。 戸張孤雁に師事。1918年から三年間、太平洋洋画会研究所においてデッサンを学ぶ。1923年~28年フランスに留学。パリのグランド・シュミエールで学んだ後、アリスティド・マイヨールの日本人では唯一の直弟子となり四年間学ぶ。フランスから帰国後、乾漆技法を現代彫刻に生かし独自の作風を展開。 1953年第五回毎日美術賞受賞、同年東京芸術大学教授に就任。1957年芸術選奨文部大臣賞受賞。1983年文化功労者。叙正四位、勲二等瑞宝章追贈。
藤島 亥治郎(ふじしま がいじろう、1899年5月1日 - … 藤島 亥治郎(ふじしま がいじろう、1899年5月1日 - 2002年7月15日)は、日本の建築史家。息子の藤島幸彦も建築史学者で、早稲田大学や大東文化大学講師。 1899年、岩手県盛岡市で生まれた。生後すぐに一家は東京に転居したことから東京で育った。根津小学校、錦城中学校を経て、第六高等学校に入学。1920年に卒業した。 同年、東京帝国大学工学部建築学科に進学し、伊東忠太、関野貞、塚本靖の指導を受けた。特に関野貞の影響を受けて、建築史や考古学の遺構を通した建築学に関心を持つようになり、また卒業論文では日朝建築の交渉史をテーマとした。1923年3月、同大学を卒業。 卒業後は、1923年5月に日本統治下の朝鮮の京城工業学校助教授となり、京城に赴任。
岩田 欣三(いわた きんぞう、1898年2月5日 - 198… 岩田 欣三(いわた きんぞう、1898年2月5日 - 1986年6月5日)は、翻訳家、医師。本名・良吉。東京生まれ。1925年東京帝国大学英文科卒。45年日本医科大学卒。法政大学教授。 W・H・ハドソン、ロバート・ルイス・スティーヴンソン、ジャック・ロンドン、アーサー・ランサムなど、少年向けの英国小説を訳した。岩田良吉、欣三双方の名を用いた。
椎名 悦三郎(しいな えつさぶろう、1898年〈明治31年〉… 椎名 悦三郎(しいな えつさぶろう、1898年〈明治31年〉1月16日 - 1979年〈昭和54年〉9月30日)は、日本の官僚、政治家。岸信介の腹心 として満洲国の運営に関わり、また商工次官として統制経済を推進、軍需次官も務めた。戦後は政界入りし、内閣官房長官(岸内閣)、通商産業大臣(19代・28代)、外務大臣(94-95代)、自由民主党において政調会長、総務会長、副総裁を歴任した。田中角栄の後継の総裁として三木武夫を指名した「椎名裁定」を下した人物として知られている。椎名素夫は次男、血縁のない叔父に後藤新平がいる。 1898年(明治31年)に岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て、現在の奥州市)に生まれる。
上原 正吉(うえはら しょうきち、1897年(明治30年)1… 上原 正吉(うえはら しょうきち、1897年(明治30年)12月26日 - 1983年(昭和58年)3月12日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。参議院議員(5期、自由民主党)。科学技術庁長官(第16代)。 若き頃、大正製薬創業者の石井絹治郎に見出され、以後、懐刀として活動、後に第3代目社長に就任した。また高額納税者番付の常連としても知られ、1964年-1966年、1976年、1977年、1979年の計6回トップを占めた。甥は参議院議長、埼玉県知事を務めた土屋義彦。 埼玉県北葛飾郡田宮村(現在の杉戸町)に、中学校教師の六男として生まれる。幼くして両親と死別し、高等小学校卒業後兄を頼って上京。
河村 黎吉(かわむら れいきち、1897年9月1日 (一説に… 河村 黎吉(かわむら れいきち、1897年9月1日 (一説に6月16日) - 1952年12月22日)は、日本の俳優。本名は河村石五郎(かわむら いしごろう)。 松竹で活躍した脇役俳優の一人であり、300本近い作品に出演した。島津保次郎監督作品に常連出演し、江戸っ子役や三枚目役で知られた。戦後に社長シリーズの前身である『三等重役』に社長役で出演したことでも有名。 1897年(明治30年)9月1日、東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)に生まれる。神田の錦城商業学校予科を卒業後、13歳で中洲の真砂座で初舞台を踏む。新派劇の無名劇団に参加して地方巡業で各地を転々とし、自ら小劇団を組織したこともあった。
山口 俊雄(やまぐち としお、1897年4月10日 - 19… 山口 俊雄(やまぐち としお、1897年4月10日 - 1945年1月27日)は、日本の俳優である。新派劇俳優であるが、牧野省三のマキノ・プロダクションとの提携で映画に主演、1928年(昭和2年)の片岡千恵蔵、嵐寛寿郎らのマキノからの独立時に歩調を揃えて、自らのスタープロダクションを立ち上げた。 1897年(明治30年)4月10日、熊本県に生まれる。東京に出て、旧制・錦城中学校(現在の錦城学園高等学校)を経て、18歳のときの1915年(大正4年)ころ、東京「有楽座」の文士劇で初舞台を踏む。のちに井上正夫の一座に入門、大阪の福井茂兵衛、都築文男らの新派劇団、高田実の門下を経て、1918年(大正7年)の暮れに松竹傘下の「新声劇」に参加し、活躍した。
石野 芳男(いしの よしお、1896年(明治29年)3月10… 石野 芳男(いしの よしお、1896年(明治29年)3月10日 - 1950年(昭和25年)1月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 千葉県出身。東京私立錦城中学校(現錦城学園高等学校)卒業を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第33連隊付となる。1926年(大正15年)12月7日、陸軍大学校(38期)を卒業し歩兵第75連隊中隊長に発令された。 1928年(昭和3年)8月、支那駐屯軍司令部付となる。参謀本部員、参謀本部付(支那研究員・南京在勤)を経て、1932年(昭和7年)2月から同年5月まで上海派遣軍参謀として第一次上海事変に出動した。
大久保 正二(おおくぼ しょうじ、1895年(明治28年)3… 大久保 正二(おおくぼ しょうじ、1895年(明治28年)3月6日 – 1965年(昭和40年)1月21日)は、東京都出身の実業家。 14年半に亘って日野自動車のトップを務め、積極政策、研究重視政策により、現在の同社の基礎を築いたとされる。販売の神様と称されたトヨタ自動車の神谷正太郎などと共に、自動車業界を代表する人物のひとりと言われた。
千葉 三郎(ちば さぶろう、1894年(明治27年)1月25… 千葉 三郎(ちば さぶろう、1894年(明治27年)1月25日 - 1979年(昭和54年)11月29日)は、大正-昭和期の政治家。位階は正三位。 宮城県知事、労働大臣のほか、東京農業大学学長も務めた。 1894年(明治27年)、千葉県茂原市に生まれた。錦城中学、一高を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学仏法科を卒業後、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)に入社するも、ほどなくして退職し、米国プリンストン大学に留学、石油業を学んだ。同大大学院を修了し、1922年(大正11年)に帰国。 帰国後は当時の鐘紡社長・武藤山治の片腕となり、大日本実業組合連合会理事に就任した。1925年(大正14年)、旧千葉2区における衆議院補欠選挙に、武藤が会長を務める実業同志会から立候補、初当選した。
西山 弥太郎(にしやま やたろう、1893年8月5日 - 1… 西山 弥太郎(にしやま やたろう、1893年8月5日 - 1966年8月10日)は、日本の経営者。川崎製鉄社長、会長を務めた。陸軍中将・西山福太郎は実兄。 神奈川県淘綾郡吾妻村(令和現在の中郡二宮町)の出身。実家は井筒屋の屋号で宝永年間より街道沿いの旅宿を営んでいたが、明治維新後は交通機関の発達などもあり父の代で廃業。以後は養蚕業及び網元を生業とした。弥太郎は父・豊八、母・ヒロのもと十二人兄弟の十男として1893年(明治26年)8月に生まれる。兄弟が多かった為、弥太郎を含む4人以外は他家に養子入りし、実家は後に二男(長男は夭折)の斧三郎が継いだ。1908年(明治41年)春に満14歳で高等小学校を卒業すると、母方の親戚がやっていた横浜の金物店に手伝いとして入る。
中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年〈明治26年〉2月… 中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年〈明治26年〉2月14日 - 1991年〈平成3年〉2月5日)は、日本の洋画家、美術家、歌人、随筆家。東京府生まれ。 洋画、水墨画、版画、陶芸、詩、和歌、随筆、書と多彩な作品を制作した。作品のすべてが独学であり、自ら「在野派」と称した。洒脱な文章でも知られた。
松本 真一(眞一、まつもと しんいち、1892年(明治25年… 松本 真一(眞一、まつもと しんいち、1892年(明治25年)11月20日 – 1977年(昭和52年)8月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 静岡県で松本鋭市郎の長男として生まれる。4歳となり父の郷里和歌山県日高郡龍神村(現田辺市)に転居した。苦学し錦城中学校(現錦城学園高等学校)、第七高等学校造士館を経て、1920年(大正9年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 1920年7月、台湾銀行に入行した。1926年(大正15年)7月、和歌山商工会議所書記長に転じ、1931年(昭和6年)5月まで在任した。その後、紀南新聞社長、熊野太陽社長に就任した。 1932年(昭和7年)8月、補欠選挙で和歌山県会議員に当選し、1935年(昭和10年)10月に再選され1939年(昭和14年)10月に任期満了となった。
金 性洙(キム・ソンス、朝鮮語: 김성수、 光緒17年9月9… 金 性洙(キム・ソンス、朝鮮語: 김성수、 光緒17年9月9日(1891年10月11日) - 1955年2月18日)は、日本統治時代の朝鮮の実業家、独立運動家。大韓民国の政治家、教育者、言論人。本貫は蔚山金氏(朝鮮語版)。『東亜日報』や高麗大学校、韓国民主党などの設立者としても知られる。朝鮮独立のためには実力の養成が必要だとして、朝鮮人の立場を代弁するメディアとして『東亜日報』を、人材の育成を目的に中央高等学校と高麗大学校を設立した。実業家としても、京城紡織を中心に綿紡績・ナイロン生産に従事し、朝鮮内のみならず満州にまで事業範囲を伸ばしたが、このことにより、韓国では、2002年に発表された親日派708人名簿に登録され、2005年には民族問題研究所による親日派リストに含まれた。
古市 春彦(ふるいち はるひこ、1891年3月15日 - 1… 古市 春彦(ふるいち はるひこ、1891年3月15日 - 1943年1月9日)は、日本の学者・労働運動家。 鹿児島県熊毛郡南種子村(現・南種子町) 出身。農業に従事していたが、20歳で志をたてて上京し錦城中学に入る。在学中友愛会の賛助会員となる。第五高等学校を経て京都帝国大学に入るが友愛会運動を続ける。京大では1918年9月に結成された河上肇を顧問とする労学会に所属し、同年10月には同年12月に赤松克麿らが東大で新人会をつくるきっかけにもなる東西両大学連合演説会(岡崎公会堂で東京帝国大学と京都帝国大学の学生が行った)で東京帝大の赤松らと論戦する。卒業後の大正10年に上京し出版社隆文館に勤務するが、13年福岡の西南学院商科長となる。