秋山 門造(あきやま もんぞう、1891年(明治24年)12… 秋山 門造(あきやま もんぞう、1891年(明治24年)12月30日 - 1944年(昭和19年)2月2日)は、日本の海軍軍人。海兵42期。太平洋戦争におけるクェゼリンの戦いで司令官として戦死した。死後特進により最終階級は海軍中将。 香川県豊田郡柞田村(現 観音寺市柞田町)出身。農家の秋山清五郎、イセの五男として生まれる。 中農だったが、厳しい家庭で、当時は機械化されておらず秋山も小さい頃から農業を手伝い、海兵時代も休暇の度に帰宅して農作業をしていた。 旧制香川県立三豊中学校(第7回)を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第26期)を受験し、双方に合格している。1911年(明治44年)9月11日海軍兵学校(第42期)に入校。
杵村 久蔵(きねむら ひさぞう、1891年(明治24年)12… 杵村 久蔵(きねむら ひさぞう、1891年(明治24年)12月28日 - 1938年(昭和13年)8月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鳥取県米子市立町の農家に生まれた。父梅蔵は糺山のあたりで百姓をしていたという。 米子中学(現在の米子東高校)を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官。さらに中尉のとき、陸軍大学校(32期)に入校。同校を優等で卒業、恩賜の軍刀組であった。アメリカ駐在を経験している。 少壮気鋭の尉官時代、皇族李王家の御付武官をつとめた。1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進し、朝鮮軍隷下第20師団参謀長に任命される。
石田 幹之助(いしだ みきのすけ、1891年12月28日 -… 石田 幹之助(いしだ みきのすけ、1891年12月28日 - 1974年5月25日)は、日本の歴史学者、東洋学者。國學院大學や大正大学、日本大学などで教授をつとめた。芥川龍之介とは、一高同級生の友人だった。
小林 壬(こばやし おおい、1891年12月28日 - 19… 小林 壬(こばやし おおい、1891年12月28日 - 1985年12月31日)は、日本の経営者。広島県出身。 1913年に東北帝国大学専門部機械工学科を卒業し、同年4月に高田商会に入社。1920年9月に高砂熱学工業に転じ、1937年12月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1955年7月には社長に就任。1968年6月から会長を務めた。 1958年11月に黄綬褒章を受章し、1966年4月に勲五等瑞宝章を受章。
堂本 印象(どうもと いんしょう、1891年〈明治24年〉1… 堂本 印象(どうもと いんしょう、1891年〈明治24年〉12月25日 - 1975年〈昭和50年〉9月5日)は、日本画家。帝室技芸員。日本芸術院会員。本名:堂本三之助。 1891年(明治24年)12月25日、京都府京都市出身。 1910年(明治43年)、旧制京都市立美術工芸学校(現:京都市立美術工芸高等学校)を卒業。西陣織の図案描きの仕事をしていたが、日本画家を志して京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学。 1924年(大正13年)京都市立絵画専門学校研究科修了。 1919年(大正8年)、帝展初出展作「深草」が入選した。帝展第3回展では「調鞠図」で特選、第6回展に出展した「華厳」は帝国美術院賞を受賞するなど第一級の日本画家として認められた。
水谷 秀雄(みずたに ひでお、1891年(明治24年)12月… 水谷 秀雄(みずたに ひでお、1891年(明治24年)12月24日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。関東州官僚。 愛知県出身。1915年(大正4年)、広島高等師範学校英語科を卒業。1921年(大正10年)、高等試験行政科に合格し、翌年に京都帝国大学法学部法律科を卒業した。内務属、山形県置賜郡長、同産業課長、同庶務課長、長野県蚕糸課長、関東庁事務官、内務局地方課長、長官官房調査課長、同文書課長代理、警務局高等警察課長、同文書課長、関東局専売局長・大連民政署長を歴任。1935年(昭和10年)、群馬県書記官・学務部長となり、宮城県学務部長、福岡県学務部長、長野県総務部長を歴任した。 1941年(昭和16年)に退官した後、住宅営団参事・名古屋支所長を務めた。
清家 正(せいけ ただし、1891年12月23日 - 197… 清家 正(せいけ ただし、1891年12月23日 - 1974年11月19日)は、日本の教育者および機械設計製図の研究で知られる機械工学者である。愛媛県出身。 建築家で東京工業大学教授兼東京藝術大学教授を務めた清家清の父。労働経済学者で慶應義塾塾長や日本私立大学連盟会長を歴任した清家篤は孫。 1914年 東京高等工業学校(現東京工業大学)機械科を卒業後、芝浦製作所(現東芝)に入社。その後、自ら起業したり、他の企業に勤めたりした後、1923年、神戸高等工業学校(現神戸大学工学部)教授となる。1935年、東京府立電機工業学校校長となり、後に府立工業専門学校校長を併任し、1951年まで歴任。1949年、東京都立大学工学部長。
三木 宗策(みき そうさく、1891年〈明治24年〉12月2… 三木 宗策(みき そうさく、1891年〈明治24年〉12月22日 - 1945年〈昭和20年〉11月28日)は、日本の彫刻家。高村光雲の高弟である山本瑞雲の内弟子となる。第十回文展入選以来十二回まで続けて入選、第六回帝展で「不動」が特選となり以後無鑑査を経て1932年〈昭和7年〉帝展審査員となる。新しい造形精神に立脚した伝統木彫の確立に努めた。 三木宗策は福島県郡山市で、表装を生業とする三木宗次郎、ハルの二男として生まれた。明治29年(1896年)金透尋常小学校に入学、成績優秀で毎年のように級長を務め中学校進学を希望したが、父の同意が得られなかった。三木家の菩提寺である善導寺には阿弥陀如来像が座しており、幕末の戊辰戦争と明治期の火災で本堂が焼けた際に、本尊も損傷を受けておりその修復のために、山本瑞雲がおとずれていた。
上野 敬三(うわの けいぞう、1891年12月20日 - 1… 上野 敬三(うわの けいぞう、1891年12月20日 - 1985年9月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 岩手県雫石町出身。県議・上野広成の三男として生まれる。盛岡中学校を経て、1913年12月、海軍兵学校(41期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。航空術学生として学び、横須賀航空隊付、同教官、「三笠」乗組、佐世保航空隊分隊長、霞ヶ浦航空隊分隊長、同飛行隊長心得、大村航空隊飛行隊長、「鳳翔」航空長、霞ヶ浦航空隊飛行隊長、欧米出張、霞ヶ浦航空隊・「赤城」・「加賀」の各飛行長などを歴任。 さらに、海軍航空本部教育部員、「能登呂」艦長、霞ヶ浦航空隊副長、「蒼龍」艦長、大分航空隊・横須賀航空隊の各司令などを歴任し、1941年10月、海軍少将に進級し太平洋戦争を迎えた。
松岡 一衛(まつおか かずえ、1891年(明治24年)12月… 松岡 一衛(まつおか かずえ、1891年(明治24年)12月20日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。嘉義市尹、台北市尹、台中州知事。 広島県出身。1916年(大正5年)、中央大学経済科を卒業し、拓殖局雇、同属となった。1919年(大正8年)、高等試験に合格。台中州地方課長・水利課長、台湾総督府中央研究所庶務課長、嘉義市尹、殖産局特産課長・附属茶検査所長・茶業伝習所長等を歴任。1933年(昭和8年)、台北市尹となり、1936年(昭和11年)には台中州知事となった。1939年(昭和14年)には殖産局長に就任し、営林署長、天然瓦斯研究所長を兼ねた。1941年(昭和16年)に退官した。退官後は台湾石炭社長に就く。
小島 洋々(こじま ようよう、1891年12月16日 - 没… 小島 洋々(こじま ようよう、1891年12月16日 - 没年不詳)は、日本の元俳優、元男性声優、元オペラ歌手である。本名は小島 正次(こじま まさじ)。浅草オペラ、新派を経て映画俳優に転向、戦前・戦中の新興キネマ、東宝映画東京撮影所、戦後の新東宝、東映東京撮影所で長く活躍したバイプレーヤーとして知られ、映画出演数は200本を超える。 1891年(明治24年)12月16日、東京府東京市下谷区御徒町(現在の東京都台東区)に生まれる。『日本歌劇俳優写真名鑑』(歌舞雑誌社)では、出生地は上記の通りだが、生年は「明治廿一年十二月十六日」(1888年12月16日)である旨が記されている。旧制埼玉県浦和中学校(現在の埼玉県立浦和高等学校)を経て旧制東京音楽学校(1952年廃止)に進学する。
長坂 貞一(ながさか ていいち、1891年(明治24年)12… 長坂 貞一(ながさか ていいち、1891年(明治24年)12月15日 - 1969年(昭和44年)1月5日)は、日本の政治家。愛知県豊田市(挙母市)の市長を2期務めた。 愛知県碧海郡西端村(現・碧南市)出身。呉服屋を営む杉浦喜六の四男として生まれた。1909年(明治42年)、愛知県立農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)卒業。小学校教員になったのち、1912年(大正元年)12月に農林省森林主事に任官。営林署技手として千葉、茨城、岐阜の各県に勤務し、1929年(昭和4年)に退職。 額田銀行勤務を経て、1933年(昭和8年)に挙母町役場の書記となる。トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)の誘致に参画し、庶務課長、振興課長などを務めた。
三井 道男(みい みちお、1891年〈明治24年〉12月13… 三井 道男(みい みちお、1891年〈明治24年〉12月13日 - 1970年5月11日)は主に昭和期に活動した建築家。江戸東京たてもの園の「田園調布の家」や滋賀武徳殿などの作品がある。 東京市生まれ。父はニコライ堂の司祭として知られる三井道郎である。1915年(大正4年)、早稲田大学理工学部建築学科を卒業後、斎藤久孝建築事務所に入所。翌年、司法省に入るが1年ほどで辞め、再び斎藤事務所に入所。 1921年(大正10年)11月、早稲田大学の恩師である岡田信一郎の事務所に入所する。当時はちょうど火災で焼失した歌舞伎座再建工事の設計が進んでいる時期であった。岡田事務所では歌舞伎座のほか、青山会館、東京府美術館、浅野図書館、府立化学工業学校、府立第一高等女学校、府立第一中学校、ニコライ堂修復、信濃町教会、虎屋、明治生命館(現存)、国民会館などの設計に関与した。
井野 碩哉(いの ひろや、1891年(明治24年)12月12… 井野 碩哉(いの ひろや、1891年(明治24年)12月12日 - 1980年(昭和55年)5月19日)は、日本の政治家、官僚。農林大臣(第20代)、拓務大臣、弾劾裁判所裁判長(第30代)、衆議院議員(1期)。戦後の公職追放解除後、参議院議員(3期)、法務大臣などを務めた。兄は満州国最高法院長の井野英一。
増山 正興(ましやま / ますやま まさおき、1891年〈明… 増山 正興(ましやま / ますやま まさおき、1891年〈明治24年〉12月12日 - 1939年〈昭和14年〉2月21日)は、明治から昭和期の宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・中川、旧名・興功。 男爵・中川興長の七男として生まれ、子爵・増山正治の養子となる。養父の隠居に伴い、1924年(大正13年)11月15日に子爵を襲爵した。 1919年(大正8年)7月、京都帝国大学法学部政治学科を卒業。 1901年(明治34年)侍従職出仕となる。以後、臨時帝室編修局書記、高松宮御用掛兼宮内省御用掛などを務めた。 1936年(昭和11年)1月18日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し死去するまで在任した。
槇 智雄(まき ともお、1891年(明治24年)12月12日… 槇 智雄(まき ともお、1891年(明治24年)12月12日 - 1968年(昭和43年)10月3日)は、日本の政治学者。専門は、イギリス憲法史・政治制度史。防衛大学校名誉教授。保安大学校長・初代防衛大学校長、白梅学園短期大学学長を歴任。登山家の槇有恒は実弟。 宮城県仙台市出身。父は新潟県士族・槇武。父の仙台赴任中に生まれた。 1965年叙勲二等授瑞宝章。1968年賜銀盃一個、叙従三位。
佐藤 幸吉(さとう こうきち、1891年(明治24年)12月… 佐藤 幸吉(さとう こうきち、1891年(明治24年)12月12日 - 1978年(昭和53年)4月3日)は、日本の実業家。佐藤製薬創業者。孫は藤田雄山(広島県知事)の妻。 静岡県・清左衛門の四男。1910年、東京薬学校卒業。1915年、 東京市本郷区千駄木町(現在の東京都文京区弥生町一丁目)で佐藤製薬所を創業。1920年、分家した。1930年、社長に就任する。 1978年4月3日、老衰のため東京都神田神保町の神保院で死去、86歳。 趣味は旅行。宗教は真言宗。住所は東京市品川区大井関ヶ原町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
金 尚徳(キム・サンドク、김상덕、1891年12月10日また… 金 尚徳(キム・サンドク、김상덕、1891年12月10日または1892年12月10日 - 1956年4月28日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家である。号は令洲。 慶尚北道高霊郡苧田洞で小農の5男に生まれた。5歳の時に父の勧誘で書堂に入って、郷里で19歳の時まで漢学を学んだと言う。1912年4月慶尚北道高靈公立普通学校に入学したが翌年やめた。1915年京城府で儆新中学校に入学した。1917年には、16歳時に許嫁となった陜川郡出身の姜泰貞と結婚した。儆新中学校に通いながら、昼には大工で学費を稼ぎ、夜に勉強しながら、20代初盤の青年期を儆新中学校で過ごした。そしてキリスト教に接して新学問を学び、民族意識と抗日意識を培って、日本に渡り、近代的な新学問を学んで独立運動をすることを決心した。
堀内 利器(ほりうち りき、1891年12月10日 - 19… 堀内 利器(ほりうち りき、1891年12月10日 - 1942年5月8日)は、日本の発明家。 千葉県一宮町で一宮藩士であった堀内家に生まれる。第一高等学校時代には芥川龍之介の1年先輩であり、芥川は1914年と1916年の2度、堀内に誘われ一宮に滞在している。1918年に京都帝国大学理学部を卒業した。東京ミツワ化学研究所や大学の副手を経て、1920年に高砂香料株式会社創立に当たり懇望されて同社の研究部に入り、研究を行った。ここでは社長の甲斐荘楠香と協力し香料の発明製造を行った。 1928年に理学博士の学位を取得した。1937年時点では高砂香料の取締役兼技師長、早稲田大学の講師を務めていた。 高砂香料の専務を務めていた1942年5月に九州西南沖(南シナ海)で殉職した。
大幸 喜三郎(おおさち きさぶろう、1891年(明治24年)… 大幸 喜三郎(おおさち きさぶろう、1891年(明治24年)12月10日 - 1978年(昭和53年)12月9日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1891年(明治24年)に福井県で生まれた。陸軍士官学校第28期卒業。陸軍派遣学生として1921年(大正10年)4月に東京帝国大学工学部造兵学科を卒業した。1937年(昭和12年)に陸軍砲兵大佐に進級し、陸軍造兵廠大阪工廠検査課長に就任した。 1940年(昭和15年)4月に大阪陸軍造兵廠枚方製造所長を経て、同年12月に中将に進級し、仁川陸軍造兵廠長となった。1943年(昭和18年)に小倉陸軍造兵廠長に就任し、1944年(昭和19年)に陸軍中将に進級した。
加藤 六蔵(かとう ろくぞう、1891年〈明治24年〉12月… 加藤 六蔵(かとう ろくぞう、1891年〈明治24年〉12月10日 - 1969年〈昭和44年〉8月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。幼名・正雄。 愛知県宝飯郡前芝村(現豊橋市前芝町)で、先代加藤六蔵の長男として生まれた。農業を営み、前芝村長、愛知県議、同県山林会議員となり、前芝漁業協同組合長、豊橋市議、同議長、(株)三河海苔販売取締役社長を務める。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において愛知12区から憲政会公認で立候補して初当選。1928年の第17回衆議院議員総選挙において愛知5区から立憲民政党公認で立候補したが落選。1930年の第17回衆議院議員総選挙で再選し、1932年の第18回衆議院議員総選挙では次点で落選した。
長谷川 潔(はせがわ きよし、1891年(明治24年)12月… 長谷川 潔(はせがわ きよし、1891年(明治24年)12月9日 - 1980年(昭和55年)12月13日)は大正・昭和期に活躍した日本の版画家。
小浜 八弥(おばま はちや、1891年(明治24年)12月8… 小浜 八弥(おばま はちや、1891年(明治24年)12月8日 - 1973年(昭和48年)4月6日)は、日本の農林官僚。官選静岡県知事、農林次官。旧姓・稲富。 佐賀県出身。稲富正六の二男として生まれ、小浜又吉の養子となる。第一高等学校を卒業。1917年3月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年4月、農商務省に入省し農商務属となり農務局に配属。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1918年7月、臨時産業調査局事務官・第一部勤務となる。以後、農務局事務官、農商務事務官、農林事務官、兼農林書記官・農務局副業課長、水産局漁政課長、農務局農政課長、大臣官房文書課長、農林省農務局長、内閣調査局調査官などを歴任し、1937年5月、農林省農務局長に再任された。
西宮 藤朝(にしのみや とうちょう、1891年12月7日 -… 西宮 藤朝(にしのみや とうちょう、1891年12月7日 - 1970年5月19日)は、文芸評論家・翻訳家・フランス哲学研究者、教育家。 秋田県生まれ。16歳の時一家で東京に移り、大成中学校をへて早稲田大学文学部英文科卒。1918年『早稲田文学』の編集に従事、評論、翻訳を行う。1924年、早大講師、立正大学教授、1942年豊南学園を設立し校長・理事長を務めた。トルストイ、ジャン=マリー・ギュイヨーの影響を受けた。
木村 昌福(きむら まさとみ、1891年〈明治24年〉12月… 木村 昌福(きむら まさとみ、1891年〈明治24年〉12月6日 - 1960年〈昭和35年〉2月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。静岡県生まれ。 現場叩き上げの指揮官として太平洋戦争の海上戦闘で数々の武勲を立てたが、特に「奇跡の作戦」といわれた『キスカ島撤退作戦』を指揮し、5千名あまりの日本将兵の無血撤退を成功させた事績で名高い。 静岡県静岡市紺屋町で代言人(現在の弁護士に相当)の父・近藤壮吉と母・すずの次男として生まれる。生後すぐに木村家(母の実家、元鳥取藩士)の養子となり、木村家の籍に入ったが(このため本籍は鳥取県鳥取市)、引き続き静岡の近藤家で養育された。 父の壮吉は立憲改進党の党員で政治好きであり、1910年(明治43年)に選挙に失敗して財産を失い、各地を流浪して1916年(大正5年)に下関で客死した。
相川 勝六(あいかわ かつろく、1891年(明治24年)12… 相川 勝六(あいかわ かつろく、1891年(明治24年)12月6日 - 1973年(昭和48年)10月3日)は、日本の内務及び厚生官僚、政治家、弁護士。宮崎・広島・愛知・愛媛各県官選知事。大政翼賛会実践局長、小磯内閣厚生大臣(第10代)、衆議院議員(8期)。 佐賀県藤津郡嬉野村(現嬉野市)出身。農業・相川定蔵の二男として生まれた。1911年、佐賀県立鹿島中学校卒業。1912年、第二高等学校入学。1915年、第二高等学校卒業。1919年7月、東京帝国大学法学部法律学科(独)卒業。 同年、内務省入省。千葉県属1926年、徳島県労務課長から警視庁刑事部長に就任。神奈川県警察部長などを歴任。1934年、内務省警保局保安課長となり第二次大本教弾圧などを指導。
奥中喜代一(おくなか きよいち、1891年(明治24年)12… 奥中喜代一(おくなか きよいち、1891年(明治24年)12月6日 - 1986年(昭和61年)4月5日)は、日本の都市計画家。 大阪府泉北郡西百舌村生まれ、1916(大正5)年、東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、南満州鉄道勤務の後、1920(大正9)年に神戸市に土木技師として奉職したが、神戸市に勤務を始めた頃は大正8年の旧都市計画法の制定に伴って大正11年に初めて神戸市の都市計画区域が決定された他にこの頃から都市計画予算が初めて単独で計上され、神戸市の組織として都市計画部が新たに設けられる等、神戸市の都市計画の始まりであった。 神戸市では都市計画部調査課長、工務課長、土木部都市計画課長、山地課長等を歴任、神戸市理事を最後に昭和18年に退職したが、退職した1943(昭和18)年頃は戦時体制への移行が進み、都市計画の基本的な役割を果たす地域制度が停止される等、町づくりを目的とした本来の都市計画は事実上終わった時期、奥中の神戸市での在職期間は戦前の神戸市の都市計画の蒙明から終需迄の歴史そのもので、その間24年に亘って神戸市の都市計画や土木行政に大きな役割を果たし、現在の神戸の町の骨格形成と都市計画の基礎をつくり、また、都市計画課長時代の大正12年から一年有余外遊し諸外国の都市計画に関する資料の収集と知識の吸収に努め、神戸の都市計画に大きな影響を与えたという。
早坂 一郎(はやさか いちろう、1891年〈明治24年〉12… 早坂 一郎(はやさか いちろう、1891年〈明治24年〉12月6日 - 1977年〈昭和52年〉8月19日)は、日本の古生物学者・地質学者。島根大学学長、日本地質学会会長、日本学術会議会員。 宮城県仙台市に生まれる。東北帝国大学理科大学地質学教室の第一期生で、1915年に卒業、同大学講師となる。1918年に理学博士、助教授。1928年、新設の台北帝国大学理農学部教授に就任する。1940年、同大学理農学部部長に就任。戦後は金沢大学教授、北海道大学教授を経て、1958年島根大学学長に就任。 古生代の化石の研究で知られ、朝鮮、中国、台湾等の第3系化石を調査。1952年から1953年に日本地質学会会長を務めた。 1926年に『地学雑誌』444号に発表した論文「岩手県花巻町産化石胡桃について」には、「化石収集に便宜を与えて下さった」という謝辞の対象として「花巻の宮澤賢治氏」という記述がある。
広津 和郎(廣津 和郎、ひろつ かずお、1891年(明治24… 広津 和郎(廣津 和郎、ひろつ かずお、1891年(明治24年)12月5日 - 1968年(昭和43年)9月21日)は、日本の小説家、文芸評論家、翻訳家である。明治期に活動した硯友社の小説家・広津柳浪の子。
10代 佐藤 喜八郎(さとう きはちろう、1891年(明治2… 10代 佐藤 喜八郎(さとう きはちろう、1891年(明治24年)12月5日 - 1969年(昭和44年)2月28日)は、日本の洋画家、実業家、政治家。衆議院議員、佐藤喜八郎家10代当主、幼名・恭次郎。 島根県松江市で9代・佐藤喜八郎の長男として生まれる。1920年、東京美術学校西洋画科を卒業。1923年、絵画研究のため英米仏に留学。一年後に帰国し、家督を継承し喜八郎を襲名した。 1927年以降、片倉製糸監査役、勝浦川電力社長、大連株式取引所理事などを務めた。また、父が創立した克堂会の会長、立憲民政党島根支部長、折づる幼稚園主なども務めた。 1930年2月、第17回衆議院議員総選挙で島根県第二区から立憲民政党所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務め、その間、商工大臣秘書官となった。
荒川 伸也(あらかわ しんや、1891年(明治24年)12月… 荒川 伸也(あらかわ しんや、1891年(明治24年)12月4日 - 没年不明)は、日本の医師(内科医)、実業家、政治家。旭土地、耕地整理組合各顧問。愛知中央鉄道取締役。医学博士。名古屋市会議員。 愛知県人・荒川徳右衛門の三男。後に前名松次郎を改め、1922年に兄徳次郎方より分かれて一家を創立する。第八高等学校を経て1918年に東京帝国大学医科大学医学科を卒業し、杏雲堂医院に勤務し後に郷里に帰り医を開業する。傍ら会社の重役である。 名古屋市会議員、同市参事会員に選ばれる。趣味は観劇、謡曲、芝居。宗教は真宗大谷派。住所は愛知県名古屋市中区長良町、西日置町廻間口、中村区日置通。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
舟橋 清賢(ふなばし / ふなはし きよかた、1891年(明… 舟橋 清賢(ふなばし / ふなはし きよかた、1891年(明治24年)12月2日 - 1967年(昭和42年)11月26日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・舟橋遂賢の長男として生まれる。父の死去に伴い、1924年(大正13年)2月15日に子爵を襲爵した。 1917年(大正6年)7月、京都帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年、日本銀行に入行した。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、1946年(昭和21年)5月9日に辞職するまで三期在任した。その他、岡田内閣・司法参与官、米内内閣・文部政務次官、戦時金融金庫監事、司法制度調査委員会委員、育英制度創設準備協議会委員などを務めた。
岡 栄一郎(おか えいいちろう、1891年12月2日 - 1… 岡 栄一郎(おか えいいちろう、1891年12月2日 - 1966年12月18日)は、日本の劇作家、評論家。 金沢市上新町に生まれ、15歳のとき、大阪市に移住する。1912年(明治45年)第三高等学校を卒業し、東京帝国大学の英文科に入学する。徳田秋声と遠縁にあたり、栄一郎は上京後、秩声の家の裏の下宿に住んで、徳田家に親しく出入りした。また、大学在学中から夏目漱石の木曜会に参加して漱石に師事し、1915年(大正4年)、漱石が秋声に東京朝日新聞の長編(「奔流」)連載を依頼したときは、栄一郎が両者の間の取次役をつとめた。木曜会を通じて芥川龍之介や久米正雄との交友も始まり、1916年、漱石が死去したときは、芥川らとともに葬儀の受付を担当している 。
耕三寺 耕三(こうさんじ こうぞう、1891年〈明治24年〉… 耕三寺 耕三(こうさんじ こうぞう、1891年〈明治24年〉12月2日 - 1970年〈昭和45年〉10月25日)は、日本の実業家、発明家、僧侶。日本溶接界の先駆けとして数々の鉄工所を興し、後半生を耕三寺の建立に捧げた。広島県尾道市名誉市民。出生名、金本 福松(かねもと ふくまつ)。1935年に得度し金本 耕三(かねもと こうぞう)と改名、1956年には耕三寺 耕三と改姓。 耕三は1891年(明治24年)、金本福松として兵庫県神戸市に生まれた。 父親はもと鉄道建設業をしていたが、1893年(明治26年)に福岡県鞍手郡直方町(現・直方市)に鉄工所を起業する。このとき福松は直方には行かず、母の実家のあった瀬戸内海の生口島(現・尾道市瀬戸田町御寺)に移り住んだ。
筒井 茂也(つつい しげや、1891年(明治24年)12月1… 筒井 茂也(つつい しげや、1891年(明治24年)12月1日 - 没年不明)は、大正から昭和時代の公吏。東京市芝区長、浅草区長、京橋区長、神田区長。 筒井濱十郎の三男として長野県に生まれる。旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)、旧制第三高等学校を経て、1917年(大正6年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、住友銀行を経て、東京市に奉職する。同市主事、社会局職業課長、同庶務課長を経て、1935年(昭和10年)芝区長に就任。1937年(昭和12年)浅草区長に転じ、1939年(昭和14年)6月、京橋区長となった。1943年(昭和18年)7月、神田区長に就任した。 1944年(昭和19年)に退官。
古川 竹二(ふるかわ たけじ、1891年12月1日 - 19… 古川 竹二(ふるかわ たけじ、1891年12月1日 - 1940年2月12日)は、日本の教育学者・心理学者。東京女子高等師範学校教授。 長崎県出身。第五高等学校卒、1916年東京帝国大学文科大学教育学科卒。東京女子高等師範学校 (現お茶の水女子大学) 附属中学校教諭、東京女高師教授。49歳で死去。 1927年の「血液型による氣質の研究」(『心理學研究』) 以下一連の論文や著作で、血液型と性格の関係を本格的に論じた人として知られる。
大塚 武三郎(おおつか ぶさぶろう、1891年(明治24年)… 大塚 武三郎(おおつか ぶさぶろう、1891年(明治24年)12月1日 - 1970年(昭和45年)9月30日)は、日本の実業家。大塚グループの発祥企業である大塚製薬工業部(現:大塚製薬工場)の創業者。徳島県鳴門市出身。勲五等双光旭日章、従五位勲四等瑞宝章、藍綬褒章などを受賞。 1921年に29歳で徳島県鳴門市に大塚製薬工業部(現:大塚製薬工場)を創立した。 1947年に長男の大塚正士が社長を引き継ぎグループの総帥になる。 1970年9月30日、78歳で死去。 息子は大塚正士(長男)、大塚芳満(三男)、大塚公(四男)、大塚正富(五男)である。孫は大塚ホールディングス初代会長の大塚明彦と大塚化学元社長の大塚雄二郎である。
渡部 生一(わたなべ しょういち、1891年〈明治24年〉1… 渡部 生一(わたなべ しょういち、1891年〈明治24年〉12月 - 没年不明)は、昭和時代の実業家。政治家。小野田市会議長。 山口県出身。渡部秀之丞の長男。1910年(明治43年)家督を相続する。1917年(大正6年)東京帝国大学政治科を卒業後、三井物産に入り、1930年(昭和5年)小野田セメントに転じ、取締役兼営業部長となった。 その後、大阪通船運輸代表、小野田市会議長を歴任した。
星 光(ほし ひかる、明治24年(1891年)12月) - … 星 光(ほし ひかる、明治24年(1891年)12月) - 昭和38年(1963年)8月14日))は、日本の実業家。小田原急行鉄道監査役・鬼怒川水電理事[3]を務めた。
森下 重格(もりした しげのり、1891年〈明治24年〉12… 森下 重格(もりした しげのり、1891年〈明治24年〉12月 - 1956年〈昭和31年〉12月21日)は、日本の地方公務員、内務官僚、検察官。原爆投下時の広島市助役。 徳島県出身。1917年(大正6年)に法政大学専門部政治科を卒業し、1921年(大正10年)に東京外国語学校(現在の東京外国語大学)英語専修科を卒業した。大阪府泉南郡長、大阪府事務官、長崎県事務官、沖縄県書記官・経済部長、同総務部長、山口県経済部長を歴任した。1941年(昭和16年)に退官した後、横須賀市助役に就任。1943年(昭和18年)9月から広島市助役を務めた。 1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下では千田町の下宿2階で被爆。
陣内 利夫(じんのうち としお、1891年(明治24年)12… 陣内 利夫(じんのうち としお、1891年(明治24年)12月 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 佐賀県神埼郡蓮池村(現在の佐賀市)出身。1921年(大正10年)に朝鮮に渡り、1923年(大正12年)に高等試験行政科に合格した。京畿道警視、理事官・江原道学務課長、慶尚南道学務課長、忠清北道地方課長、事務官・平安北道財務部長を経て、1931年(昭和6年)、馬山府尹に就任した。 その後、全州専売支局長、京城地方専売局長、咸鏡南道産業部長、張家口朝鮮総督府出張所長、朝鮮総督府鉄道局理事を歴任した。 退官後、華北煙草株式会社取締役を務めた。
城戸 豊吉(きど とよきち、1891年(明治24年)11月3… 城戸 豊吉(きど とよきち、1891年(明治24年)11月30日 - 1965年(昭和40年)7月14日)は、日本の実業家、政治家。城戸商店(現ヤマキ)創業者で、同社社長や、初代伊予市長、全国削節工業組合連合会理事長を務めた。 愛媛県伊予郡北山崎村(現伊予市)出身。弓削商船学校(現弓削商船高等専門学校)中退。1908年城戸豊吉商店を創業し、削り節の製造・販売で成功した。1931年東京支店を設立し、長男城戸稔を支店長に任命。1940年全国削節工業組合連合会理事長。1950年城戸商店(現ヤマキ)設立。 郡中町長を経て、1955年初代伊予市長。1958年黄綬褒章受章。1965年に死去し市葬が行われた。
9代 森 六郎(もり ろくろう、1891年(明治24年)11… 9代 森 六郎(もり ろくろう、1891年(明治24年)11月29日 - 1974年(昭和49年)3月2日)は、日本の政治家。実業家。元徳島市長。徳島県小松島市出身。 勝浦郡芝生村(現在の小松島市芝生町)の仙石鹿太郎の次男として生まれる。幼名は茂之。 1913年(大正2年)に農商務省水産講習所製造科(現在の東京海洋大学)を卒業し、1914年(大正3年)に森家へ養子に入り、8代目森六郎の長女・純と結婚。1931年(昭和6年)に森六郎を襲名し家督を相続して9代目となった。 1932年(昭和7年)に日本人造藍販売株式会社の社長に就任。1942年(昭和17年)、第二次世界大戦中に徳島市長に就任。終戦直前の1945年(昭和20年)4月まで市長を務めた。
宮城 文(みやぎ ふみ、1891年〈明治24年〉11月28日… 宮城 文(みやぎ ふみ、1891年〈明治24年〉11月28日 - 1990年〈平成2年〉2月4日)は、日本の教育者、民俗研究家、郷土史家。南西諸島西部の八重山列島の文化を集大成した書籍『八重山生活誌』の著者として知られる。 沖縄県の石垣島登野城で誕生した。沖縄県立第一高等女学校を卒業後、教員として登野城尋常小学校を始めとし、20年間にわたって初等教育に従事した。女子青年団長や婦人会長も務めた。 終戦後の1948年(昭和23年)、八重山で初めて女性に参政権が与えられ、第1回石垣市議で、婦人議員として初当選した。長年の教員生活や婦人会長などの経験で、市民の生活に通じていたことから、税査定の訂正のために貢献した。
平野 繁太郎(ひらの しげたろう、1891年 <明治24年>… 平野 繁太郎(ひらの しげたろう、1891年 <明治24年> 11月27日 - 1993年 <平成5年> 2月23日 )は、日本の経営者。静岡銀行頭取を務めた。位階は正四位。 静岡県出身。1915年に慶應義塾理財科を卒業し、1917年6月に西遠銀行に入行し、1920年1月には遠江銀行常務に就任。1943年3月には静岡銀行専務に就任し、1949年6月には頭取に昇格した。1970年4月から1975年5月までには会長を務めた。1958年7月から1969年5月までに全国地方銀行協会会長を務めた。1957年に黄綬褒章と紺綬褒章を受章し、1972年11月には勲二等瑞宝章を受章。 1993年2月23日、肺炎のために死去。
古賀 行義(こが ゆきよし、1891年(明治24年)11月2… 古賀 行義(こが ゆきよし、1891年(明治24年)11月26日 - 1979年(昭和54年)3月28日)は、日本の心理学者である。別名に壺井 潔(つぼい きよし)がある。 熊本県熊本市に生まれる。東京帝国大学(現在の東京大学)にて哲学科に所属し、後に同じく心理学者となる浜中浜太郎、黒田亮らと共に心理学を学ぶ。1915年(大正4年)に卒業を迎えたが、その後も同大学に残留し経済学科に所属した。1920年(大正9年)に卒業後は、旧制の名古屋高等商業学校(現在の名古屋大学大学院経済学研究科・経済学部)にて教鞭を執った。 1921年(大正10年)より留学のため渡米し、その後はイギリスにてロンドン大学に入学する。
大錦 卯一郎(おおにしき ういちろう、1891年(明治24年… 大錦 卯一郎(おおにしき ういちろう、1891年(明治24年)11月25日 - 1941年(昭和16年)5月13日)は、大阪府大阪市南区鍛冶屋町(現:大阪府大阪市中央区)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。第26代横綱。本名は細川 卯一郎(ほそかわ ういちろう)。 1891年(明治24年)11月25日に大阪府大阪市南区鍛冶屋町(現:大阪府大阪市中央区)で宮師の長男として生まれる。当時の力士としては珍しく旧制天王寺中学校卒業で、非常に頭が良かった。さらに運動神経抜群だったことから陸軍幼年学校を受験したが、体重超過で不合格となってしまった。ある日、常陸山谷右エ門に対して入門を願う手紙をローマ字で書いたところ、その返事もローマ字で書かれていたことに感激し、出羽海部屋へ入門、1910年(明治43年)1月場所で初土俵を踏む。
米川 正夫(よねかわ まさお、1891年11月25日 - 1… 米川 正夫(よねかわ まさお、1891年11月25日 - 1965年12月29日)は、日本のロシア文学者、翻訳家。 1891年、岡山県高梁町の質屋を営む家庭に四男として生まれ育つ。旧制高梁中学校(現:岡山県立高梁高校)時代にツルゲーネフ『片恋』(訳:二葉亭四迷)を愛読、ロシア語の道を志して、1909年、東京外国語学校(通称・外語/現・東京外国語大学)ロシヤ語本科に入学。翌年、級友の中村白葉などと共に雑誌『露西亜文学』を創刊し、この雑誌で翻訳を始める。1912年、東京外国語学校を首席で卒業。 卒業後、鉄道省の採用試験を受験するも失敗。しばらくフリーランスの翻訳や来日ロシア人の通訳で生計を立てた。1912年8月、三菱に入社し、長崎支店に勤務。
羽仁 路之(はに みちゆき、1891年11月25日 - 19… 羽仁 路之(はに みちゆき、1891年11月25日 - 1980年7月12日)は、日本の経営者。太平鉱業社長。位階は正四位。 山口県萩市出身。1917年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年4月に三菱合資会社鉱山部に入社。1918年4月に三菱鉱業に転じ、1946年11月に取締役に就任し、1950年4月に太平鉱業(のちの三菱金属鉱業)社長に就任。1956年5月には相談役に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1966年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1980年7月12日肺炎のために死去。88歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
竹内 良三郎(たけうち りょうざぶろう、1891年(明治24… 竹内 良三郎(たけうち りょうざぶろう、1891年(明治24年)11月24日 - 1984年(昭和59年)11月1日)は、松商学園短期大学第3代学長。 法学者、経済学者として長く大学教員の職にあったが、「学究というよりは行政官として活躍」したと評されている。 長野県松本市生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、第四高等学校を経て、東京帝国大学法科大学政治学科に進み、1917年に卒業、宝田石油に入社し、1919年に日本製粉に転職した。 1920年に第五高等学校教授となり、教員として法制・経済を講じるとともに、生徒監兼舎監となった。当時は、校友会誌『龍南』に小説などを寄稿したこともあった。 1927年に東京帝国大学農学部助教授となり、1928年には学生主事、1929年の学生課新設に際して初代の学生課長となって、滝川事件前後の左翼学生の処分などに対処した。