スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
堀田 昇吾(ほった しょうご、1998年3月5日 - ) は… 堀田 昇吾(ほった しょうご、1998年3月5日 - ) は、東京都福生市出身のサッカー選手。ポジションはミッドフィルダー。 正則学園高等学校サッカー部を経て、2017年にFCガンジュ岩手に入団。 2018年3月にオーストラリア・ブリスベンプレミアリーグのザ・ギャップFC(英語版)に入団。渡豪3日で公式戦デビューを飾る。 2019年9月にチェコ・ディビジョン4のSKフラニツェ参加時にメディア出演。 2020年2月にニュージーランド・サザンリーグのワナカAFC(英語版)と契約。コロナ禍によりリーグ戦が全て中止となった。 2020年9月にチェコ・リージョナルチャンピオンシップのFKスロヴァン・リサナドラベムと契約。
佐藤 恵一(さとう けいいち、1993年1月18日 - )は… 佐藤 恵一(さとう けいいち、1993年1月18日 - )は、日本の男性プロレスラー。東京都江東区出身。愛称は「サトケイ」。 小学校1生から14年間野球を続け、正則学園高等学校時代は野球部で4番センターを務める。1年時には東海大相模との練習試合で一二三慎太外野手(当時は投手)と対戦経験もある(1打席で結果は三振)。 二松學舍大学を卒業すると、2015年3月31日に全日本プロレスに入門。以後、7ヶ月の練習生期間を経て、10月23日にプロレスラーとして金丸義信を相手にデビュー。 2016年1月10日、全日本プロレスを家庭の事情で退団。デビューからわずか3ヶ月のことだった。ただし引退ではなく、プロレス自体は続ける意向をツイッターで表明。
中村 健人 (なかむら けんと、英語: Kento Naka… 中村 健人 (なかむら けんと、英語: Kento Nakamura, 1991年10月16日 - ) は、千葉県松戸市出身の男性元・フィギュアスケート選手(男子シングル)。正則学園高等学校、立教大学経営学部卒業。 2010年四大陸フィギュアスケート選手権日本代表。2009/2010 ISUジュニアグランプリファイナリスト。 1998年 7歳からフィギュアスケートを始める。重松直樹コーチに師事し、後に樋口豊コーチに師事。2010年の全日本Jr.選手権では木原龍一、日野龍樹らを抑えて初優勝、2011-12シーズンからシニアに転向。シニアに転向してからはNHK杯などのISUグランプリシリーズに出場することを目標にしていた。
石田 政博(、1988年11月1日 - )は、日本の俳優・Y… 石田 政博(、1988年11月1日 - )は、日本の俳優・YouTuber・アパレルデザイナー・飲食店プロデューサーである。所属事務所はルートプロモーション。ステーキレストラン「BALCONIWA」千駄ヶ谷や、ホームパーティーレストラン「10th story」渋谷・西麻布をプロデュース。兵庫県姫路市出身、正則学園高等学校卒業、玉川大学卒業。特技はトランプマジック、野球、ダンス、ピアノ、パソコン等。趣味はオートバイのカスタマイズとツーリング。(愛車はDUCATI:MONSTER、YAMAHA:SR400)。
石渡 伸太郎(いしわたり しんたろう、1985年2月21日 … 石渡 伸太郎(いしわたり しんたろう、1985年2月21日 - )は、日本の元総合格闘家。大阪府大阪市出身。CAVE所属。元バンタム級キング・オブ・パンクラシスト。 正則高等学園高校時代は柔道部に所属。高校の先輩が柔道部の監督をしていた横浜商科大学に進学し、柔道部に所属しながら総合格闘技を始めた。 2005年9月18日、全日本アマチュア修斗選手権のライト級(-65kg)に出場。決勝で上田将勝に敗れ、準優勝となり、プロ昇格を決めた。大学を卒業し、就職してサラリーマンとなるも、2か月で退職した。 2006年3月3日、修斗ライト級(-65kg)新人王決定トーナメントでプロ修斗デビューを果たすも、石澤大介に敗れた。
五十嵐 利治(いがらし としはる、1981年 - )は、東京… 五十嵐 利治(いがらし としはる、1981年 - )は、東京都出身の陸上競技指導者。正則学園高等学校、亜細亜大学卒業。現在は拓殖大学監督。 正則学園高等学校、亜細亜大学卒業。 大学時代には箱根駅伝に2度出場している。 大学卒業後は母校の正則学園高校、九電工、佐倉アスリート倶楽部でコーチを務め、2016年からは拓殖大学陸上競技部の女子コーチに就任。2019年からは監督に就任。
上江 隼人(かみえ はやと、1979年8月13日 - )は、… 上江 隼人(かみえ はやと、1979年8月13日 - )は、日本のオペラ歌手(バリトン)。日本声楽アカデミー会員。藤原歌劇団団員。 千葉県市川市出身。正則学園高等学校、東京芸術大学音楽学部声楽科を卒業。父親はバリトンオペラ歌手の上江法明(2015年に死去)。 2011年、ヴェルディフェスティバル(イタリア、パルマ王立歌劇場主催)の『イル・トロヴァトーレ』(ブッセート劇場)のルーナ伯爵を演じる。 ヴェルディ作曲『スティッフェリオ(イタリア語版)』では、パルマ王立歌劇場(2012年4月)や、シチリア(カターニア)のマッシモ・ベッリーニ劇場(2013年10月)で、同じ役(スタンカー)を演じる。 2014年5月には、マッシモ・ベッリーニ劇場で『カヴァレリア・ルスティカーナ』アルフィオ役、『道化師』にてトニオ役を演じた。
須藤 公一(すどう こういち、1977年7月5日 - )は、… 須藤 公一(すどう こういち、1977年7月5日 - )は、日本の俳優、元子役。東京都足立区出身。太田プロダクション所属。
村井 一俊(むらい かずとし、1971年7月9日 - )は、… 村井 一俊(むらい かずとし、1971年7月9日 - )は、東京都出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 東京都の正則学園高等学校から、日本サッカーリーグに所属する東邦チタニウムに入部。その後は指導者として、長く柏レイソルの若手育成に当たった。2012年、サンフレッチェ広島F.Cのジュニア監督に就任した。2015年1月15日、ロアッソ熊本のジュニアユース コーチに就任した。
小栗 一也(おぐり かずや、1923年〈大正12年〉4月2日… 小栗 一也(おぐり かずや、1923年〈大正12年〉4月2日 - 2001年〈平成13年〉12月13日)は、日本の俳優。本名は中村 俊男(なかむら としお)。 東京市荏原郡世田ヶ谷町(現・東京都世田谷区)出身。正則英語学校(現・正則学園高等学校)中退。たむらプロ、岩崎事務所に所属していた。 1946年に文芸劇場に入団。1955年に劇団葦の結成に参加。その後はフリーとなり、味のある名脇役として数多くの映画、テレビドラマに出演した。 2001年12月13日、肺炎のため死去、78歳没。
清水 基吉(しみず もとよし、1918年(大正7年)8月31… 清水 基吉(しみず もとよし、1918年(大正7年)8月31日 - 2008年3月30日)は、俳人、小説家。本名、清水基嘉(読み同じ)。 現在の東京都渋谷区の宇田川町・道玄坂、港区の青山かいわいに、生まれ育った。1925年(大正14年)、東京府青山師範学校附属小学校(現:東京学芸大学附属世田谷小学校)へ入った。1931年(昭和6年)東京市立第一中学校(現:九段高校)に進むが胸を病んで中退し、1934年16歳、正則英語学校(現:正則学園高等学校)へ転じた。 1938年(昭和13年)から4年近く、各地に転地療養し、その間の1940年横光利一を知り、翌年、句誌『鶴』の主宰者、石田波郷の門に入った。同人誌に参加し、北條誠、巖谷大四、村松定孝らを知った。
島村 利正(しまむら としまさ、1912年3月25日 - 1… 島村 利正(しまむら としまさ、1912年3月25日 - 1981年11月25日)は、日本の小説家。 長野県上伊那郡高遠町(現伊那市)に商家の長男として生まれる。家業を継ぐのを嫌がり、1926年、高遠実業補習学校(現・長野県高遠高等学校)を中退。家出して奈良の古美術写真出版社飛鳥園へ行き、小川晴暘の薫陶を受け、志賀直哉、武者小路実篤、瀧井孝作の知遇を得る。1931年、正則英語学校卒業。 1941年に『高麗人』で、1943年に『暁雲』で芥川賞候補となる。戦時中から撚糸工業会社に勤務し、1955年、会社を設立し代表取締役となるが、1962年、倒産し、以後、作家業に専念。若い頃から釣りを好む。1975年刊行の『青い沼』で平林たい子文学賞、1979年刊行の『妙高の秋』で、翌年に読売文学賞受賞。
清水 亘(しみず わたる、1909年〈明治42年〉5月14日… 清水 亘(しみず わたる、1909年〈明治42年〉5月14日 - 1974年〈昭和49年〉1月26日)は、三重県熊野市出身の政治活動家。 正則英語学校英文科卒業後、橋本欣五郎の『大日本青年党』(後の大日本赤誠会)に加わり、上海交響楽団の運営にも関与していたと自称。 敗戦数年後より右翼活動を本格化し、1948年4月26日『大日本独立青年党』を結党、同年中に内山昌宣(別名:富士宮瓊光)率いる『真正日本建設協議会』に加わり、次いで1949年10月3日『祖国防衛自衛団』を結成した。 また『全日本愛国者団体協議会』(後代の全日本愛国者団体会議と直接の関係は無い)も立ち上げ、孫文の『五民主義』(民族・民生・民治・民享・民友)を掲げて、徒党にナチスの物を摸した制服を着せ、主要駅頭でアジ演説を打つなどしていたが、この段階で勢力は弱小だった。
小尾 十三(おび じゅうぞう、1908年10月26日 - 1… 小尾 十三(おび じゅうぞう、1908年10月26日 - 1979年3月8日)は、日本の小説家、教師。 山梨県北巨摩郡穂足村大豆生田(現・北杜市須玉町)生まれ。1903年(明治36年)に江草村の本家から分家した家で、四男として生まれる。母は津金村の漢方医飯島家の娘。小尾家は農家で、父は国定教科書販売を営んでいたが1912年(大正元年)に破産したため一家で甲府市へ移り碁会所をはじめるが、母は幼い十三らを連れて善光寺町へ別居し、小作業や養蚕で生計を立てる。 1923年(大正12年)に甲府商業学校に入学するが、翌年には退学して長野鉄道局教習所電信科へ入所する。その後、職を転々とし農民組合運動にも関わり、日本共産党の影響下にあった全農支部青年部書記にもなっている。
川島 奈美子(かわしま なみこ、1908年10月22日 - … 川島 奈美子(かわしま なみこ、1908年10月22日 - 没年不詳)は、日本の女優である。川島 なみ子(かわしま なみこ)とも。本名高野 千代(たかの ちよ)。 1908年(明治41年)10月22日、東京市神田区(現在の東京都千代田区神田)に生まれる。 神田錦町の正則英語学校中等科(現在の正則学園高等学校)を4年次で修了し、1925年(大正14年)、東亜キネマ甲陽撮影所に入社する。満18歳となる1926年(大正15年)、西本武二監督の『漁村の唄』で映画界にデビュー、同作で注目される。1927年(昭和2年)、同社が甲陽撮影所を閉鎖、等持院の「東亜キネマ京都撮影所」に製作拠点の一元化にともない、京都に異動する。
河津 清三郎(かわづ せいざぶろう、1908年〈明治41年〉… 河津 清三郎(かわづ せいざぶろう、1908年〈明治41年〉8月30日 - 1983年〈昭和58年〉2月20日)は、日本の俳優である。本名中島 誠一(なかじま せいいち)、旧芸名河津 精一(かわづ せいいち)、河津 史郎(かわづ しろう)。 阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画で映画デビューし、マキノ・プロダクション移籍後は沢村國太郎に次ぐ若手時代劇スターとなった。その後、新興キネマに入社して男優の看板スターとして多くの作品に主演し、戦後は個性派の脇役として活躍した。主な出演作品に『首の座』『次郎長三国志』シリーズ、『用心棒』など。妻は女優の高津慶子。 1908年(明治41年)8月31日、東京府東京市日本橋区蠣殻町に生まれる。
伴 淳三郎(ばん じゅんざぶろう、1908年〈明治41年〉1… 伴 淳三郎(ばん じゅんざぶろう、1908年〈明治41年〉1月10日 - 1981年〈昭和56年〉10月26日)は、昭和期のコメディアン、俳優。本名は鈴木 寛定(すずき ひろさだ)、愛称は「バンジュン」。息子はスタイリストの山本康一郎(1961年生まれ)。 山形県米沢市に南画家の鈴木蘭涯と、妻フクの息子として生まれる。父について山形と東京を行ったり来たりするが、5歳のときから山形市小姓町で育つ。 山形市立第一尋常小学校卒業後、熊谷市の兄の家に寄宿して高等小学校に通っていたが、兄との折り合いが悪く家出し、東京に出る。そこで、母方の叔父で新派劇の河合武雄の番頭をしていた斎藤好三郎を頼り、「文芸協会」出身の新劇俳優、東儀鉄笛の付き人となり、彼が主演した映画に出演する。
金 銕洙(キム・チョルス、朝鮮語: 김철수、1906年12月… 金 銕洙(キム・チョルス、朝鮮語: 김철수、1906年12月2日 - 1973年7月3日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。制憲国会議員。 忠清南道扶余郡出身。京城徽文高等普通学校中退。東京正則英語学校、早稲田大学専門部政経科卒。ジャーナリストとして中国の華中地域で歴遊した後、京城評論社社長、忠南興業株式会社専務取締役を経て、朝鮮建国準備委員会扶余郡副委員長、大韓独立促成国民会扶余郡支部副委員長を歴任した。 1973年7月3日、ソウル市城北区の自宅で死去。享年67。
高沖 陽造(たかおき ようぞう、1906年4月25日 - 1… 高沖 陽造(たかおき ようぞう、1906年4月25日 - 1999年10月15日)は、日本の文芸評論家、翻訳家。 広島県生まれ。正則英語学校卒業。1933年から西洋の文芸思想の紹介を始める。戦後は民主主義科学者協会に所属、マルクス主義芸術理論を研究、紹介した。
伊藤 真乗(いとう しんじょう、本名:伊藤 文明、1906年… 伊藤 真乗(いとう しんじょう、本名:伊藤 文明、1906年(明治39年)3月28日 - 1989年(平成元年)7月19日)は、日本の宗教家。真如苑開祖。 山梨県北巨摩郡秋田村(現:北杜市長坂町)出身。妻は真如苑初代苑主の伊藤友司。娘は真如苑2代苑主の伊藤真聰。 山梨県北巨摩郡秋田村(現:北杜市長坂町)で伊藤文二郎と母・よしえの次男として生まれる。少年期は天理教信者であった母の影響で天理教に親しみ、曹洞宗の禅寺の檀家総代であった父からは、禅と家伝の易学「甲陽流病筮鈔(びょうぜいしょう)」を学んだ。 1923年(大正12年)、父の死去に際し、上京。東京中央電信局(現・NTT)購買部に勤務するかたわら夜学に励む。
桂 鎔黙(けいようもく、ケ・ヨンムク、1904年9月8日 -… 桂 鎔黙(けいようもく、ケ・ヨンムク、1904年9月8日 - 1961年8月9日)は、朝鮮の小説家。本貫は遂安桂氏。短篇小説を多く執筆した。なかでも「白痴アダダ (백치 아다다)」は桂の代表作となっている。 1904年9月8日、平安北道宣川郡南面三省洞群賢里706番地に生まれる。父は桂恒教、母は竹山朴氏、1男3女の長男。祖父の桂昌琠は参奉(官職従九位)を勤め、詩文にも優れた人であった。桂の教育は祖父により行われ、幼い頃より漢文を学んだ。10歳になると、新教育を受ける許しを得て、三峰公立普通学校に入学する。また、この頃、順興安氏の安静鈺と結婚する。 厳しい祖父の古い教育としきたりに反発するように、1921年、桂は祖父に無断で上京する。
山本 周五郎(やまもと しゅうごろう、1903年(明治36年… 山本 周五郎(やまもと しゅうごろう、1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)は、日本の小説家。本名:清水 三十六(しみず さとむ)。質店の徒弟、雑誌記者などを経て文壇に登場。庶民の立場から武士の苦衷や市井人の哀感を描いた時代小説、歴史小説を書いた。 1903年(明治36年)6月22日、山梨県北都留郡初狩村(現:大月市初狩町下初狩)に生まれる。父は清水逸太郎、母は「とく」(旧姓・坂本)。周五郎は長男(弟の潔、義妹の末子がある)。本籍地は北巨摩郡大草村(現:韮崎市大草町)で、周五郎は後に自らの出生地を同地と語っている。実家は武田の遺臣で、北巨摩の大草村若尾(現:韮崎市大草町若尾)に帰農した御蔵奉行・清水大隅守政秀の後裔であろうとの言い伝えもある。
小松崎 軍次(こまつざき ぐんじ、1903年〈明治36年〉2… 小松崎 軍次(こまつざき ぐんじ、1903年〈明治36年〉2月25日 - 1995年〈平成7年〉4月30日)は日本の政治家。東京都江東区長(6期)を務めた。 茨城県稲敷郡古渡村堀之内(現:稲敷市堀之内)に生まれる。1909年4月、古渡尋常高等小学校(現:稲敷市立古渡小学校)に入学する。学業優秀で、卒業時に当時の稲敷郡長だった安井誠一郎から郡長賞として硯箱を授与されている。その後、高等科に進学しそこでも再び郡長賞を授与されている。1918年4月、江戸崎農学校2年次に編入学した。しかし、同年7月末に義兄を頼って東京府東京市小石川区小石川掃除町(現:東京都文京区小石川1・3丁目と白山1丁目)に飛び出して、正則英語学校(現:正則学園高等学校)に入ったが、半年後に病気と父の諫言によって帰省した。
金子 文子(かねこ ふみこ、1903年1月25日 - 192… 金子 文子(かねこ ふみこ、1903年1月25日 - 1926年7月23日)は、大正期日本のアナキスト、ニヒリスト。 関東大震災の2日後に、治安警察法に基づく予防検束の名目で、愛人(内縁の夫)である朝鮮人朴烈と共に検挙され、予審中に朴が大正天皇と皇太子の殺害を計画していたとほのめかし、文子も天皇制否定を論じたために、大逆罪で起訴され、有罪となった(朴烈事件)。後に天皇の慈悲として無期懲役に減刑されたが、宇都宮刑務所栃木支所に送られてそこで獄死した。 現代の韓国においては「良心的日本人」とされており、2018年11月17日、国家報勲処より日本人としては2人目になる大韓民国建国勲章(愛国章)が追叙され、2022年、布施辰治とともに2023年5月の今月の独立運動家に選定された。
高村 坂彦(こうむら さかひこ、1902年(明治35年)12… 高村 坂彦(こうむら さかひこ、1902年(明治35年)12月18日 - 1989年(平成元年)10月7日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員(自民党)、山口県徳山市長、徳山大学(現周南公立大学)初代理事長。 次男は数学者でお茶の水女子大学名誉教授の高村幸男(こうむら ゆきお、1931年8月13日 - 2009年3月21日)、四男は衆議院議員・元外務大臣の高村正彦。 山口県熊毛郡三井村(現光市三井)の農家に生まれる。農業・高村宇佐吉、キチの四男。父・宇佐吉は大工の棟梁でもあり、村会議員もしていた。 1917年(大正6年)、三井尋常高等小学校高等科卒業。「おまえは商人になれ」という父親の言いつけに従って厚狭郡船木町にある酒、醤油の醸造と呉服店を営む蔵重商店の別家に見習い奉公人として住み込む。
竹内 道之助(たけうち みちのすけ、1902年1月25日 -… 竹内 道之助(たけうち みちのすけ、1902年1月25日 - 1981年4月20日)は、日本の翻訳家、実業家、三笠書房創立者。東京府東京市深川区(現・東京都江東区)出身。 本所高等小学校卒業。正則英語学校、アテネフランセに通い英語、ドイツ語、フランス語を習得。 藤澤衛彦の主宰の雑誌『伝説』の編集に携わる。のち、梅原北明が企画し福山福太郎が創設した「文藝資料研究会」に参加し、雑誌『奇書』や「変態文献叢書」の編集を手がける。1930年には酒井潔らの協力をうけ「風俗資料刊行会」を設立し、雑誌『風俗資料』『デカメロン』らを編集刊行した。 そののち、哲学者三木清らのグループや、唯物論研究会との親交を重ね、1933年に妻富子と共に、社会科学書、ヨーロッパ・アメリカ文学の翻訳書の刊行を主とする、三笠書房を創立。
鳥取 春陽(とっとり しゅんよう、1900年12月16日 -… 鳥取 春陽(とっとり しゅんよう、1900年12月16日 - 1932年1月16日)は大正時代の街頭演歌師。街頭演歌師の立場から洋楽の手法をもって民衆歌謡を創作した。 岩手県新里村(現在の宮古市)出身。本名:鳥取 貫一(とっとり かんいち)。 「籠の鳥」を作曲し、演歌師・作曲家として一世を風靡した。また、ヒコーキ印の帝国蓄音器商会で吹込んだ「船頭小唄」は鳥取春陽の街頭演歌師としての声価を高めた。 1923年、関東大震災後、活動拠点を大阪に移し、歌手兼作曲家として活躍。大正後期、鳥取春陽は絶頂期を迎えた。「すたれもの」「赤いばら」などが街頭やカフェーで流れた。1926年、日本蓄音器商会傘下のオリエントレコード専属となる。
上田 茂樹(うえだ しげき、1900年7月27日 - 193… 上田 茂樹(うえだ しげき、1900年7月27日 - 1932年4月?)は、日本の社会運動家。日本共産党結成に参加、中央委員を務めたが、地下活動中検挙され、その後の消息は不明。大分県中津市出身。北海道生まれ。 中津藩出身で自由民権運動の闘士だった上田長次郎(のちに戴憲と改名)の八男として北海道で生まれた。官吏となった父の転任によって朝鮮に渡ったが、まもなく大分県中津町(現:中津市)の親戚に預けられ、大分県立中津中学校(現:大分県立中津南高等学校)に進む。 父の事業失敗のため中学を2年で中退し、1917年に上京。昼は横浜のローヤル火災保険会社に働き、夜は正則英語学校で勉強する生活であった。このころから社会主義文献を読み始め、日本社会主義同盟に加盟し、山川均、堺利彦らのML研究会に参加。
曺 奉岩(チョ・ボンアム、そう ほうがん、朝鮮語: 조봉암、… 曺 奉岩(チョ・ボンアム、そう ほうがん、朝鮮語: 조봉암、1899年9月25日または1898年9月 - 1959年7月31日)は、朝鮮の独立運動家、のちに韓国の政治家。本貫は昌寧曺氏(朝鮮語版)、号は竹山(チュクサン、죽산)。社会民主主義者で、第一共和国時代における革新政党である進歩党の委員長を務めた。 妻は活動家の金祚伊。姓の「チョ」は真ん中の部分が曲の「曹」ではなく由の「曺」。 京畿道江華郡(現在の仁川広域市)出身。農業補習学校を卒業し江華郡庁の職員として働くが、三・一独立運動に参加して投獄される。釈放後の1921年に日本へ留学し、正則英語学校を経て中央大学で一年間政治学を学び、朴烈らと共に在日朝鮮人による社会主義団体「黒濤会」を結成した。
安 駿相(アン・ジュンサン、朝鮮語: 안준상、1898年1月… 安 駿相(アン・ジュンサン、朝鮮語: 안준상、1898年1月9日 - 1994年12月27日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、実業家、政治家、独立運動家。制憲韓国国会議員。 初代文教部長官の安浩相は従弟。 慶尚南道宜寧郡富林面立山里の耽津安氏(朝鮮語版)の世居地である立山村出身。東萊高等普通学校、正則英語学校(現・正則学園高等学校)卒。早稲田大学政経科2年修了。三・一運動のときは宜寧郡内の万歳運動を主導し、その後も族叔の安熙済の独立闘争活動を手伝った。また、立山学院長、古今社経営者、宜寧協同組合創立・経営者、馬山ゴム工業社経営者、薬草栽培園経営者を歴任した。光復後は慶尚南道ハングル文化普及会長、釜山東亜大学(現・東亜大学校)理事、独立促成国民会釜山支部副会長、朝鮮民族青年団慶尚南道団部理事、釜山一五倶楽部幹事、宜寧郡選出の国会議員、制憲同志会会長などを務めた。
金 鍾善(キム・ジョンソン、朝鮮語: 김종선、1898年また… 金 鍾善(キム・ジョンソン、朝鮮語: 김종선、1898年または1900年10月12日 - 1950年)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 漢字表記は金鍾先とも。日本名は金田 国本(かねだ くにもと)。 現在のソウル特別市鐘路区または全羅南道求礼郡出身。求礼公立普通学校、東京正則英語学校中等科、日本大学政経科卒。1926年に新設の朝鮮殖産信託会社副社長となり、1930年代には現金80万ウォン以上を持つ資産家かつ全羅道の大地主であり、咸鏡南道の安辺郡に鉱山も所有していた。教育にも積極的に関与し、1927年から京城の往十里に旺新青年会で経営する旺新学院を支援し、1929年に私立旺新学院の院長を務め、大金を寄付して校舎を新築した。
尹 潽善(ユン・ボソン、日本語読み:いん ふぜん、1897年… 尹 潽善(ユン・ボソン、日本語読み:いん ふぜん、1897年8月26日 - 1990年7月18日)は、大韓民国第4代大統領。本貫は、海平尹氏(朝鮮語版)。号は海葦(해위、ヘウィ)。尹致昭(朝鮮語版)(尹致暎の異母兄)の長男。 忠清道牙山郡(現在の忠清南道牙山市)生まれ。独立後初代のソウル市長として政界入りし、商工相・大韓赤十字社総裁を経て民主党最高委員に。四月革命 (韓国)で李承晩が失脚・亡命すると、民主党旧派の代表格として8月12日に大統領に選出された。しかし、新派の代表格で政治的実権を握っていた張勉首相との確執が絶えず、自ら民主党を離党して新民党を結成。5・16軍事クーデターの遠因を作った。
島津 保次郎(しまづ やすじろう、1897年〈明治30年〉6… 島津 保次郎(しまづ やすじろう、1897年〈明治30年〉6月3日 - 1945年〈昭和20年〉9月18日)は、大正・昭和期の映画監督。松竹蒲田撮影所で蒲田調と呼ばれる小市民映画を多数製作し、松竹の代表的監督となった。 東京市日本橋区(現・東京都中央区日本橋)三越日本橋本店の真正面に老舗の海苔商「甲州屋」を営む父・音次郎の次男として生まれる。 正則英語学校(現・正則学園高等学校)に入学するが、幼いころから極度の映画好きであった島津は学校をさぼって近くにあった映画館・錦輝館へ行って映画を見ていた。当時から映画監督への道を志しており、逓信省の宣伝映画のシナリオ公募に入選した経験もある。卒業後、実家の手伝いで、福島で下駄用桐材の切り出しに携わる。
里見 岸雄(さとみ きしお、1897年3月17日 - 197… 里見 岸雄(さとみ きしお、1897年3月17日 - 1974年4月18日)は、日本の思想家、人文学者、国体学者、法学者。国柱会を創設した田中智学の三男として東京で生まれ、のちに里見家へ養子に入る。日本国体学の創始者として知られ、戦前の言論に大きな影響を与えた。 1920年旧制早稲田大学哲学科卒業。1922年から1924年にかけて英独仏などに遊学し、帰朝後に里見日本文化学研究所を創立。1936年、日本国体学会を創立。後に立命館大学法学部教授に就任、法学博士号を同大より授与され、国体学科を創設。主任教授となる。 近年、戦前期の国家主義に関する研究が進む中、大谷栄一による近代日蓮主義運動史研究、大塚桂・昆野伸幸による政治思想史研究、林尚之による憲法学史研究などにおいて、その独自性が評価されつつある。
朱 基瑢(チュ・ギヨン、朝鮮語: 주기용、1897年3月12… 朱 基瑢(チュ・ギヨン、朝鮮語: 주기용、1897年3月12日 - 1966年5月8日)は、日本統治時代の朝鮮および韓国の独立運動家、教育者、政治家。制憲国会議員。氏名の漢字表記は朱基容、朱基溶、朱基鎔などもある。 本貫は新安朱氏。牧師の朱基徹は従弟、独立運動家・教育者の李昇薫は岳父。 慶尚南道昌原郡(現・昌原市鎮海区)出身。1916年に平安北道定州郡の五山中学校を卒業した後に故郷に戻り、熊東面にあった啓光学校で教鞭を取った。学校に在職中に三・一運動が起こると、熊川・熊東の万歳デモを主導したため馬山の刑務所に投獄された。出獄後は創立者で岳父の李昇薫の助けを借りて日本内地に渡り、正則英語学校を経て東京高等師範学校数学科を卒業した。
文 時煥(ムン・シファン、朝鮮語: 문시환、1897年または… 文 時煥(ムン・シファン、朝鮮語: 문시환、1897年または1899年 - 1973年11月11日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、ジャーナリスト、官僚、政治家。東萊郡郡守、制憲韓国国会議員、慶尚南道知事。本貫は南平文氏(朝鮮語版)。 釜山蓮山洞(現・釜山広域市蓮堤区蓮山洞)または福泉洞出身。私立東萊東明学校、東京正則英語学校、モスクワ東方共産大学卒。満洲の安東で中国人貿易商会の書記を務めながら、秘密政治結社の花郎徒に参加した後、1920年に朝鮮共産党に入党した。1922年10月、ベルフネウジンスクで開催された高麗共産党連合大会に出席し、党中央委員会第3書記部(国内)委員となった。
李箕永(りきえい、1896年5月 – 1984年8月9日)は… 李箕永(りきえい、1896年5月 – 1984年8月9日)は朝鮮の小説家。本貫は徳水。号は民村。筆名に民村生、聖居山人、聖居、陽心谷人、陽心学人、箕永生がある。日本統治時代はプロレタリア主義作家としてKAPFの中心メンバーとして活動、解放後は左翼陣営に加わり文壇の重鎮の座に座り続けた。貧困を極めて精巧に描き出す李の筆は南北を通じて高く評価されている。 李箕永は1896年5月に忠清南道牙山に生まれる。父は李敏彰、母は密陽朴氏の間の長男である。生まれてすぐに天安に引っ越し、そこで育った。李の家庭は貧しく母は李が数え年で11歳のときに死んだ。学費の支払いにも苦労するほどの貧しさのなか、古代小説を読んで少年期を過ごす。
田中 菊雄(たなか きくお、1893年11月19日 - 19… 田中 菊雄(たなか きくお、1893年11月19日 - 1975年3月29日)は、日本の英語学者、英和辞典編纂者である。 北海道小樽市生まれ。父の事業の失敗が元で、貧窮に耐えて暮らした。旭川市の高等小学校に通学したのち、旭川駅所属の列車ボーイとなる。文学青年だった車掌から小説を借りては、乱読していたという。 列車ボーイを辞め、18歳のときに上川郡鷹栖村近文第一高等尋常小学校の代用教員に採用され、翌年、検定試験に合格し正教員となった。このころ英文学研究を志し、独学に没頭するかたわら、遠距離に住んでいたアメリカ人教師に学ぶ。田中の学習法は「睡眠時間節約のために、一切室に火をおかず、床をとらず、端然として机に向って、いよいよ眠くなってたまらなくなると、そのまま外套をかぶってゴロリと畳の上にねる」「やや眠りが浅くなってだんだんと寒くなって目をさますと、すぐまた机に向うという極端な手段」といったような壮絶なものであった。
清藤 唯七(せいとう ただしち、1893年(明治26年)4月… 清藤 唯七(せいとう ただしち、1893年(明治26年)4月10日 - 1952年(昭和27年)7月15日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。リンゴ移出業界の発展に尽力し「リンゴの清藤」として知られた。 青森県南津軽郡、のちの尾上町(現平川市)で生まれた。1917年(大正6年)3月、正則英語学校(現正則学園高等学校)を卒業した。 家業のリンゴ移出業に従事し、満州など海外への販路拡大に尽力した。青森県食品工業 (有) 社長、日本林檎輸出取締役社長、日本農産加工取締役社長、弘前製氷取締役社長、(有) 弘前製材所代表取締役、弘前倉庫代表取締役、青森県林檎移出商業協同組合連合会理事長、青森県果実ジャム工場組合理事長、青森商工協会理事長、青森県りんご協会副会長、弘前市商工会議所会頭などを務めた。
金 尚徳(キム・サンドク、김상덕、1891年12月10日また… 金 尚徳(キム・サンドク、김상덕、1891年12月10日または1892年12月10日 - 1956年4月28日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家である。号は令洲。 慶尚北道高霊郡苧田洞で小農の5男に生まれた。5歳の時に父の勧誘で書堂に入って、郷里で19歳の時まで漢学を学んだと言う。1912年4月慶尚北道高靈公立普通学校に入学したが翌年やめた。1915年京城府で儆新中学校に入学した。1917年には、16歳時に許嫁となった陜川郡出身の姜泰貞と結婚した。儆新中学校に通いながら、昼には大工で学費を稼ぎ、夜に勉強しながら、20代初盤の青年期を儆新中学校で過ごした。そしてキリスト教に接して新学問を学び、民族意識と抗日意識を培って、日本に渡り、近代的な新学問を学んで独立運動をすることを決心した。
金 道泰(キム・ドテ、김도태、きん どうたい、1891年9月… 金 道泰(キム・ドテ、김도태、きん どうたい、1891年9月11日 - 1956年12月26日)は、大韓民国の教育者。 朝鮮の日本統治時代初期において三・一運動に関わるなど独立運動に一定の功績があったが、末期には親日的な論説の寄稿や行動も行なった。本貫は慶州。 平安北道定州郡(後の定州市)生まれ。 定州の五山学校(朝鮮語版)(後の五山高等学校)を経て、日本に留学し、正則英語学校(後の正則学園高等学校)を卒業した。 その後、地理と歴史を教える教師となり、1912年に満州の新興武官学校(朝鮮語版)、その後は載寧郡にあったキリスト教系の明神女学校に勤めた。 1919年の三・一運動には、民族代表48人のひとりとして参加した。
鳥海 剛(とりうみ たけし、1891年(明治24年)1月11… 鳥海 剛(とりうみ たけし、1891年(明治24年)1月11日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、拓務官僚。 東京市中野区大和町に生まれる。岩手県立一関中学校を中途退学し、私立横浜英語学校へ入学。ついで正則英語学校分校を経て、1917年(大正6年)7月、中央大学法科専門部を卒業する。 卒業後、明治神宮造営局属外苑課経理課次、社会局属を経て、1929年(昭和4年)6月、拓務省へ転じ、1931年(昭和6年)4月、拓務理事官に進んだ。南米課勤務を経て台湾総督府属理事官に任ぜられ、1936年(昭和11年)4月に嘉義市助役、1937年(昭和12年)11月に台北州七星郡守に就任した。ついで宜蘭市長を経て、1942年(昭和17年)4月、花蓮港市長に就任した。
高村 正次(たかむら まさつぐ、1891年(明治24年) -… 高村 正次(たかむら まさつぐ、1891年(明治24年) - 1967年(昭和42年)9月)は、日本の映画プロデューサー、実業家。 1950年代の一時期、高村 將嗣(新字体表記高村 将嗣)と名乗った。読みはいずれも「たかむら しょうじ」とも。ユナイテッド・アーティスツの日本支社支配人から東亜キネマ取締役、のちに撮影所長へと転身して辣腕を揮い、戦後は宝プロダクションを設立して剣戟映画を手がけ、加藤泰、萩原章を映画監督として本格的にデビューさせた。 1891年(明治24年)、長野県更級郡稲荷山町仲町(現在の同県千曲市稲荷山中町)に生まれる。弟は高橋家の養子となった元長野県議会議員の高橋楙(たかはし しげる)である。
川島 正次郎(かわしま しょうじろう、1890年〈明治23年… 川島 正次郎(かわしま しょうじろう、1890年〈明治23年〉7月10日 - 1970年〈昭和45年〉11月9日)は日本の政治家。旧姓柳原。栄典は従二位勲一等旭日桐花大綬章。衆議院議員当選14回、自治庁長官、行政管理庁長官等を歴任した。 自治庁長官、行政管理庁長官、北海道開発庁長官、第18回オリンピック東京大会担当国務大臣、自民党幹事長、自民党副総裁を歴任。 閣僚としては軽量級ポストしか経験しなかったが、党の幹部としては重職を得た。川島派(交友クラブ)領袖であり、長く自由民主党副総裁として、自民党のナンバー2に君臨した。当選14回。 専修大学総長、千葉工業大学理事長・会長、成田山奉賛会初代会長を歴任。
小汀 利得(おばま としえ、1889年(明治22年)12月3… 小汀 利得(おばま としえ、1889年(明治22年)12月3日 - 1972年(昭和47年)5月28日)は、日本のジャーナリスト、時事評論家。 第二次世界大戦前は中外商業新報(後の日本経済新聞)の記者で、経済部長、編集局長、社長を歴任、戦後はTBSテレビの座談会番組「時事放談」のレギュラー出演者として有名だった。なお名前はしばしば音読みで「りとく」と呼ばれた。 島根県(旧)神門郡に8人兄弟の三男として生まれる。父は同郡川跡村役場に勤めるも、呑む打つ買うの道楽が過ぎて退職、一方母は素封家の娘で近在でも評判の働き者であったという。 早くから新聞記者を目指していた小汀は、酒屋などで小僧奉公の後、1906年に上京、当時は人気がなかった青山方面で真っ暗闇のなか新聞配達で学資を稼ぎつつ、国民英学会に一時籍を置いたりしながら正則英語学校、研数学館など複数校に通ったが、これらの学校では当時中学校卒業資格を得られなかったため、やがて早稲田大学の独特の資格試験に臨み、同大学予科入学。
石川 栄一(榮一、いしかわ えいいち、1889年(明治22年… 石川 栄一(榮一、いしかわ えいいち、1889年(明治22年)5月10日 - 1976年(昭和51年)5月30日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員。 埼玉県榛沢郡新会村(大里郡豊里村を経て現深谷市)で、石川浅次郎の息子として生まれる。1905年(明治38年)群馬県立伊勢崎染織学校(現群馬県立伊勢崎工業高等学校)を卒業した。さらに神田正則英語学校(現正則学園高等学校)で学んだ。 1918年(大正7年)新会村会議員に選出され5期在任。1938年(昭和13年)埼玉県会議員に当選し3期在任して、同副議長も務めた。その他、民主党埼玉県支部幹事長、自由党埼玉県支部副支部長などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で全国区から自由党公認で立候補して当選し、参議院議員に1期在任した。
白 寛洙(ペク・クァンス、朝鮮語: 백관수/白寬洙、1889… 白 寛洙(ペク・クァンス、朝鮮語: 백관수/白寬洙、1889年1月28日 - 1961年)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、教員、独立運動家、政治家。二・八独立宣言を主導したほか、第7代東亜日報社社長、制憲韓国国会議員を歴任した。 本貫は水原白氏、号は芹村(クンチョン、근촌)。白仁傑(朝鮮語版)の10代孫で、父は白道鎮、独立運動家の白麟洙は従兄。実業家・漢陽大学校創設者の金連俊(朝鮮語版)は娘婿、元漢陽大学校総長の金鍾亮(朝鮮語版)は外孫。 朝鮮国全羅北道(現・大韓民国全北特別自治道)高敞郡星内面(朝鮮語版)出身。5歳の時に田愚(朝鮮語版)の下で漢学を学んだ後、同郷で友人である金性洙・宋鎮禹とともに白羊寺清流庵(朝鮮語版)で修業をし、韓承履の下でも学んだ。
東 健而(ひがし けんじ、あずま けんじ、とう けんじ、18… 東 健而(ひがし けんじ、あずま けんじ、とう けんじ、1889年(明治22年) - 1933年(昭和8年)3月20日)は、日本のユーモア作家、翻訳家、映画評論家。筆名は愚教師のほか、森田三祢子、森田みね子などを用いた。 東京都出身、正則英語学校卒。大正から昭和にかけて、ユーモア小説、雑文、シャーロック・ホームズ等の初期の翻訳家として活躍した。実父は「坂の上の雲」の秋山好古と陸軍士官学校同期の陸軍騎兵第二連隊長騎兵大佐東常久である。妻、静江は外務省参事官(広東総領事)森田寛蔵の息女。家族は長女冨士子(神奈川県三浦郡葉山町在住)の三人。 松竹キネマ俳優学校で映画劇史を教え、徳川夢声と知り合う。東の没後、夫人は友人の徳川夢声(徳川も妻に先立たれていた)と再婚した。
末弘 厳太郎(すえひろ いずたろう、1888年(明治21年)… 末弘 厳太郎(すえひろ いずたろう、1888年(明治21年)11月30日 - 1951年(昭和26年)9月11日)は、大正・昭和期の日本の法学者。専門は民法・労働法・法社会学。学位は法学博士(1920年)。東京大学名誉教授。正三位勲一等瑞宝章。川名兼四郎門下。弟子に吾妻光俊、石川吉右衛門、戒能通孝、小林巳智次、安田幹太など。 1888年(明治21年)、大審院判事であった末弘厳石(すえひろ いずし(げんせき))の長男として山口県に生まれる。東京開成中学、正則英語学校、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月に東京帝国大学法科大学独法科を優等で卒業し銀時計を授与される。同大大学院に進み、1914年(大正3年)7月、東京帝国大学法科大学助教授となる。
金原 省吾(きんばら せいご、1888年〈明治21年〉9月1… 金原 省吾(きんばら せいご、1888年〈明治21年〉9月1日 - 1958年〈昭和33年〉8月2日)は、長野県茅野市出身の美学者、美術史学者。昭和期の歌人。帝国美術学校教授。旧姓は河西。 長野県諏訪郡湖東村(現茅野市湖東区)の河西家に生まれ、北安曇郡大町の金原家の養子となる。1910年長野師範学校卒業後に諏訪郡湖南小学校(現在の諏訪市湖南小学校)の訓導となるが上京し、正則英語学校を経て、1915年早稲田大学文学部哲学科を卒業する。さらに同大研究科で東洋美学、東洋美術史を研究。 1921年より日本美術学校教授、1929年より帝国美術学校(現武蔵野美術大学)教授(1935年、校長北昤吉と学生らの対立より起きた同盟休校事件(学生ストライキ)が発生し、帝国美術学校より多摩帝国美術学校(現多摩美術大学の前身)が分離独立)。