岩松 三郎(いわまつ さぶろう、1893年〈明治26年〉12… 岩松 三郎(いわまつ さぶろう、1893年〈明治26年〉12月31日 - 1978年〈昭和53年〉12月1日)は、日本の最高裁判所判事、弁護士。東京府出身。検事総長の佐藤藤佐は義弟。 任官当初は検事であったが、前科19犯のスリを取り調べたときに机上に置いた懐中時計を盗まれた事件がきっかけで、上席検事に検事不適格とされ、裁判官に転身。 1947年に最高裁判事となり、1956年に定年を待たずに依願退官。民事訴訟法の権威であり、論文集である『民事裁判の研究』は今なお多くの学術論文に引用される。1957年に、同じく民事訴訟法の権威であり、定年前に退官した兼子一と共に兼子・岩松法律事務所を設立。
山根 幹人(やまね みきと、-みきひと、1893年12月28… 山根 幹人(やまね みきと、-みきひと、1893年12月28日 - 1947年8月11日)は、日本の映画監督、映画理論家である。 1893年(明治26年)12月28日、島根県安濃郡川合村(現在の大田市川合町)に生まれる。松江市の島根師範学校(現在の島根大学教育学部)付属小学校を経て、島根県立松江中学校(現在の島根県立松江北高等学校)を中退、上京して東京工科学校(現在の日本工業大学)電工科を卒業した。小説家を志しつつ『活動之世界』誌の記者を経て、『活動旬報』誌を創刊する。 1919年(大正8年)、25歳のときに、高松豊次郎が東京府下南葛飾郡吾嬬町(現在の墨田区京島3丁目)に撮影所を開設して設立した「活動写真資料研究会」に参加、同年11月17日には設立第1作として山根が監督した『日本労働問題』が神田青年館で公開された。
川越 庸一(かわごえ よういち、1893年〈明治26年〉12… 川越 庸一(かわごえ よういち、1893年〈明治26年〉12月27日 - 1983年〈昭和58年〉6月3日)は、日本の実業家。「中京デトロイト化構想」の創案者。大同メタル工業創業者・社長・会長、相談役、名古屋YMCA理事長、豊田式自動織機自動車部初代部長を務めた。 藍綬褒章、勲四等瑞宝章受章、従五位。温かく飾らない謙虚な人柄で慕われた。名古屋商工会議所会頭を務めた佐々部晩穂氏とは姻戚関係にある。 川越直夫の二男として、福岡市に生まれる。福岡県士族。1912年(明治45年)福岡県立中学修猷館を経て、1915年(大正4年)熊本高等工業学校機械工学科(現熊本大学工学部)を卒業する。在学中に自動車に大きな興味を覚え、卒業論文に自動車の設計図を提出している。
成瀬 正二(なるせ せいじ、1893年12月26日 - 19… 成瀬 正二(なるせ せいじ、1893年12月26日 - 1960年1月29日)は、日本の工学者・海軍軍人。海軍技術少将正五位勲四等。海軍航空技術廠雷撃部長。
安住 實治(あずみ さねじ、1893年〈明治26年〉12月2… 安住 實治(あずみ さねじ、1893年〈明治26年〉12月25日 - 没年不明)は、日本の政治家、会社役員。 鳥取県八頭郡那岐村大字奥本(現・智頭町)出身。安住房吉の庶子。家業の農業に従事する。1914年に舞鶴砲兵大隊に入隊し1916年に上等兵に進級、帰休退営する。在郷軍人那岐村分会理事、或いは分会長に就任する。 1929年、砲兵伍長に任官し、また同年に那岐村長に就任、1932年、辞任する。那岐村農会長、自治会長をつとめる。1933年、那岐村会議員に選任される。 那岐運送取締役である。 那岐村の有力者として知られる。不言実行の人である。1922年に刊行された『八頭鳥取地価表 弐百円以上』によると、地価所有高は「666円32銭」である。
上條秀介(かみじょうしゅうすけ、1893年12月22日 - … 上條秀介(かみじょうしゅうすけ、1893年12月22日 - 1956年5月19日)は日本の医師。1928年(昭和3年)に昭和医学専門学校(現・昭和医科大学)を設立し、日本病院協会(現・日本病院会)の初代会長も務めた。勲四等瑞宝章、従五位に叙された。
久野村 桃代(くのむら とうだい、1893年12月22日 -… 久野村 桃代(くのむら とうだい、1893年12月22日 - 1979年11月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県出身。医師・久野村桃蹊の三男として生れる。海南中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第44連隊付となる。1925年11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 歩兵第44連隊中隊長、教育総監部付勤務、教育総監部課員、ドイツ駐在、歩兵第37連隊大隊長、陸軍省軍務局課員、教育総監部課員、独立歩兵第13連隊長、教育総監部第3課長などを経て、1940年12月、陸軍少将に昇進。 第36歩兵団長、陸士幹事を歴任し、太平洋戦争には1943年5月、第15軍参謀長として出征した。
秋永 月三(あきなが つきぞう、1893年(明治26年)12… 秋永 月三(あきなが つきぞう、1893年(明治26年)12月21日 - 1949年(昭和24年)4月23日)は、日本の陸軍軍人。内閣綜合計画局長官。最終階級は陸軍中将。 大分県で、村長・秋永澄蔵の三男として生まれる。中津中学校(現大分県立中津南高等学校)を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第23連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校高等科を卒業。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し、同年12月、野砲兵第23連隊中隊長に就任。野戦重砲兵第3連隊中隊長、陸軍省整備局付勤務、整備局課員を経て、1927年(昭和2年)4月から1930年(昭和5年)3月まで陸軍派遣学生として東京帝国大学経済学部で聴講した。
小松 勇次(こまつ ゆうじ、1893年〈明治26年〉12月2… 小松 勇次(こまつ ゆうじ、1893年〈明治26年〉12月20日 - 1962年〈昭和37年〉7月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。熱海市長。 静岡県で小松鹿太郎の長男として生まれる。旧制韮山中(現・静岡県立韮山高等学校)卒。農業・漁業を営み、多賀村議、同村長、熱海市議、静岡県議を経て、1947年の第23回衆議院議員総選挙において静岡2区から民主党公認で立候補して初当選。2期務め、1952年の第25回衆議院議員総選挙で改進党から立候補したが落選した。 その後、1956年に熱海市長となり、1960年にも再選された。観光都市熱海の発展に尽力した。再選から2年後の1962年、在職中に死去した。
纐纈 弥三(こうけつ やぞう、旧字体: 纐纈 彌三、明治26… 纐纈 弥三(こうけつ やぞう、旧字体: 纐纈 彌三、明治26年(1893年)12月19日 - 昭和53年(1978年)3月15日)は、日本の内務官僚・政治家。警視庁特別高等警察課長、大分県知事、衆議院議員(4期)、複数の政務次官等を歴任した。
平尾 喜一(ひらお きいち、1893年(明治26年)12月1… 平尾 喜一(ひらお きいち、1893年(明治26年)12月18日 - 1971年(昭和46年)5月28日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 沖縄県、のちの那覇市で実業家・平尾喜三郎の長男として生まれる。沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)を修了した。 家業の平尾商店に勤務し、その後、同商店の経営を弟・喜治郎に委ね、ライジングサン石油沖縄県代理店、新垣・平尾自動車社長、沖縄県石油統制配給社長、沖縄県自動車整備配給社長、沖縄県製瓦販売社長、琉球新報社長、沖縄新報常務取締役、那覇商工会議所議員などを務めた。 政界では、那覇市会議員を務め、1939年、貴族院多額納税者議員選挙で当選して、同年9月29日、同議員に就任し、交友倶楽部に所属して活動し、1941年5月2日に辞職した。
本多 鋼治(ほんだ こうじ、1893年(明治26年)12月1… 本多 鋼治(ほんだ こうじ、1893年(明治26年)12月15日 - 1964年(昭和39年)12月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、愛知県会議員(4期)、愛知県議会議長(1期)などを務めた。 文芸評論家の本多秋五、陶芸研究家の本多静雄は弟。衆議院議員の伊藤よし子は義妹。 愛知県西加茂郡上郷村花本(現・豊田市花本町)に生まれる。父親の本多松三郎は上郷村長を務めた。挙母尋常高等小学校(現・豊田市立童子山小学校)卒業。1912年(明治45年)、京北中学校(現・東洋大学京北中学高等学校)卒業。 1927年(昭和2年)9月25日の愛知県会議員選挙に西加茂郡選挙区から立憲民政党公認候補として出馬し初当選した。
多田 不二(ただ ふじ、1893年12月15日-1968年1… 多田 不二(ただ ふじ、1893年12月15日-1968年12月17日)は、日本の詩人。 茨城県結城郡結城町(現・結城市)生まれ。江戸時代から続く医者の家系に生まれる。父は産婦人科医。旧制第四高等学校文科乙類を経て、1919年に東京帝国大学文学部心理学科を卒業。日本放送協会に勤務、松山支局長を務めた。室生犀星らの「感情」の同人となる。1917年詩話会結成に参加。20年「悩める森林」を発表。「帆船」を主宰し、第2詩集「夜の一部」を刊行したが次第に詩作から離れた。大甥は免疫学者で東京大学名誉教授の多田富雄。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
山本 由松(やまもと よしまつ、1893年〈明治26年〉12… 山本 由松(やまもと よしまつ、1893年〈明治26年〉12月15日 - 1947年〈昭和22年〉6月28日)は、日本の植物学者である。台湾の植物の研究を行い、台湾で没した。 福井県今立郡片上村乙坂今北(現 鯖江市)にて誕生した。福井県師範学校を卒業し、惜陰小学校(現 鯖江市惜陰小学校)訓導(小学校の正規教員の旧称)を経て、広島高等師範学校に入学、その後、鹿児島第一師範学校教諭に就任した。1914年、東京大学理学部に入学し、早田文蔵に師事した。在学中より台湾総督府中央研究所林業部の嘱託となり、台湾における植物研究に没頭した。1923年に東京大学の植物学科を卒業後、小石川植物学研究所に入所した。1928年に台北帝国大学理学部助教授、台北帝国大学農林専門部の教授となった。
成田 為三(なりた ためぞう、1893年(明治26年)12月… 成田 為三(なりた ためぞう、1893年(明治26年)12月15日 - 1945年(昭和20年)10月29日)は、秋田県出身の日本の作曲家 、教育者。東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)教授。 秋田県北秋田郡米内沢町(現在の北秋田市米内沢)にて、役場職員の息子として生まれる。1909年(明治42年)、鷹巣准(準の古字)教員準備場を卒業、秋田県師範学校に入学。1913年(大正2年)に同校を卒業後、鹿角郡毛馬内町(現、鹿角市十和田)の毛馬内小学校で教鞭を一年間執る。1914年(大正3年)、上野にある東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学。在学中、ドイツから帰国したばかりだった在野の山田耕筰に教えを受けた。
藤井 深造(ふじい しんぞう、1893年12月13日 - 1… 藤井 深造(ふじい しんぞう、1893年12月13日 - 1970年9月8日)は大正~昭和期の実業家。新生三菱重工業初代社長。広島県三次郡庄原(現庄原市)出身。 旧制三次中学(現三次高校)から第一高等学校を経て1918年、東京帝国大学法学部卒業。三菱合資長崎造船所に入社。営業畑を歩み常務を経て戦後1950年、過度経済力集中排除法により、同社が地域別に三分割されたうちの中日本重工業社長に就任。三社の中で最も赤字が多く、貧乏くじを引いたと言われたが、朝鮮戦争の特需などにより三社のトップに業績を引き上げた。1959年、一旦会長に退いたが、吉田義人社長の病死で再び社長に再登板。続いて日本の開放経済への移行に備えて企業体質の強化を図り1964年、三菱系3重工の合併を実現させ新生三菱重工業初代社長に就任した。
伊藤 武男(いとう たけお、1893年12月10日 - 19… 伊藤 武男(いとう たけお、1893年12月10日 - 1976年10月1日)は、日本の蚕糸学者。上田繊維専門学校の校長、信州大学の学長を務めた。農学博士。山口県岩国市出身。 絹のタンパク質の物理化学的研究で知られ、絹糸を構成するフィブロインおよびセリシンについて、そのアミノ酸組成を解明し、「農芸化学会誌」に発表した。
浪泉 藤市(なみいずみ とういち、1893年12月10日 -… 浪泉 藤市(なみいずみ とういち、1893年12月10日 - 1965年3月25日 )は、青森県南津軽郡大杉村(現青森市)出身で振分部屋に所属した元大相撲力士。本名は成田 藤一。最高位は西十両3枚目。 浪ノ音の振分部屋に入門。翌1911年2月場所で「浪泉」の四股名で初土俵を踏む。1914年5月場所十両に昇進した。この場所では0勝4敗1預の成績に終わり、幕下に落ちた。1915年6月場所で再十両となったがここでも2勝3敗と負け越し、再び幕下に落ちた。投げに拘る相撲から一気に寄るという取り口に変えてから3度目の十両昇進となった1916年5月場所で3勝1敗1預と初めて勝ち越した。翌場所も3勝2敗と勝ち越し1917年5月場所自己最高位となる西十両3枚目まで躍進した。
茂木 善作(もぎ ぜんさく、1893年(明治26年)12月1… 茂木 善作(もぎ ぜんさく、1893年(明治26年)12月10日 - 1974年(昭和49年)12月24日)は、日本の陸上競技選手、スポーツ指導者、教員。山形県飽海郡本楯村(現・酒田市)の出身で、山形県初のオリンピック選手である。また、第1回箱根駅伝で最終10区を走り、11分52秒差を覆して東京高等師範学校(現・筑波大学)を優勝に導いた。 1893年(明治26年)12月10日、山形県飽海郡本楯村大字豊原(現・酒田市豊原)に生まれる。茂木家は農家で、善作は三男であった。当時はまだ、農家の三男が普通に学校に通える時代ではなく、晩年の茂木は両親や兄弟にいつも感謝していた。1913年(大正2年)に山形県師範学校(山形師範、現・山形大学地域教育文化学部)を卒業する。
森 廣三郎(もり ひろさぶろう、1893年 <明治26年> … 森 廣三郎(もり ひろさぶろう、1893年 <明治26年> 12月9日 - 1973年 <昭和48年> 4月22日)は、日本の経営者。位階は従四位。 京都府出身。1917年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に三井物産に入社。 1949年に東洋レーヨン(現在の東レ)に転じ、常務に就任し、1960年3月から1966年11月までに社長を務めた。 1967年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1973年4月22日心機能不全のために死去。79歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
内藤 千代子(ないとう ちよこ、1893年(明治26年)12… 内藤 千代子(ないとう ちよこ、1893年(明治26年)12月9日 - 1925年(大正14年)3月23日)は日本の小説家。雑誌『女学世界』に多くの恋愛小説を発表し、女子学生に絶大な人気を誇った。槍ヶ岳に登頂した初めての日本人女性でもある。 東京府東京市下谷区下谷西町(現在の東京都台東区東上野)で、士族出身の象牙彫刻師である父広蔵と母いくの長女として生まれる。3歳の時に神奈川県高座郡鵠沼村(現・藤沢市)に移り住み、以後生涯を鵠沼で過ごす。父広蔵は漢籍の素養を持つ教養人であったことから、教育は全て父の手によって行われ、内藤は学齢期になっても学校に行かせてもらうことはできなかった。その後、生涯に渡って一切学校教育を受けていない。
大橋 忠一(おおはし ちゅういち、1893年12月8日 – … 大橋 忠一(おおはし ちゅういち、1893年12月8日 – 1975年12月14日)は、昭和期の外交官・政治家。衆議院議員(3期)。カンボジア大使。
上山 薫(うえやま かおる、1893年〈明治26年〉12月8… 上山 薫(うえやま かおる、1893年〈明治26年〉12月8日 - 1964年〈昭和39年〉10月7日)は、日本の実業家。内外除虫菊・陽和地所各社長。紀陽銀行取締役。和歌山県除虫菊製品工業組合理事長。 上山市郎兵衛の弟。元:池田銀行頭取清滝一也は長男。プリンストン大学教授清滝信宏は孫。 和歌山県有田郡保田村(現・有田市)出身。1918年、京都帝国大学法学部政治経済学科卒業。1921年、分家した。 内外除虫菊社長となり、和歌浦土地、和歌山県除虫菊貿易、和歌山除虫菊工業各社長。また、各種の会社重役を務めた。 趣味は読書。宗教は浄土宗。住所は和歌山市湊通丁南、兵庫県尼崎市。 上山家は古くより保田村に土着する地主だった。
清水 荘平(しみず そうへい、1893年12月6日 - 19… 清水 荘平(しみず そうへい、1893年12月6日 - 1970年12月11日)は、大正・昭和期の実業家。かつての工業計器メーカー大手であった株式会社北辰電機製作所(現・横河電機株式会社)の創業者で、代表取締役社長、会長。北辰化学工業株式会社(現・シンジーテック株式会社)、北辰印刷株式会社(現・港北出版印刷株式会社)等、北辰グループの総帥であった。 静岡県に生まれ、1913年、東京物理学校(現・東京理科大学)を卒業し、逓信省に入省。同省電気試験所に勤務する。翌年、文部省に移り、東京帝国大学理学部の助手となり、教授長岡半太郎に仕えた。 1918年、東京帝国大学を辞して、北辰電機製作所を創業(従業員4名)。
近藤 常尚(こんどう つねたか、1893年(明治26年)12… 近藤 常尚(こんどう つねたか、1893年(明治26年)12月3日 - 1936年(昭和11年)6月29日)は、朝鮮総督府官僚。 茨城県水戸市出身。1916年(大正5年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。岩手県理事官、朝鮮総督府事務官、咸鏡南道警察部長、警務局図書課長、朝鮮総督秘書官・総督官房秘書課長を歴任した後、1931年(昭和6年)に欧米に出張した。帰国後、警務局保安課長を経て、全羅南道知事を務めた。 1931年(昭和31年)死去。同年7月4日に行われた葬送の際には、勅使として穂積真六郎(朝鮮総督府殖産局長)が邸宅に訪れ幣帛が下賜された。
高木 貞二(たかぎ さだじ、1893年12月3日 - 197… 高木 貞二(たかぎ さだじ、1893年12月3日 - 1975年10月28日)は、日本の実験・動物心理学者、東京大学名誉教授。 大阪市生まれ。旧制天王寺中学、旧制一高を経て、1918年(大正7年)に東京帝国大学文学部哲学科心理学専修卒業。1919年(大正8年)から1921年(大正10年)にかけてアメリカのコーネル大学に留学。1922年(大正11年)に第三高等学校教授(1929年から1933年京都帝大文学部講師兼任)、1933年(昭和8年)に東京帝大文学部心理学助教授、1943年(昭和18年)に同大教授。戦後、東京大学文学部教授、1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)に文学部長、1949年(昭和24年)から1952年(昭和27年)に教育学部長、1950年(昭和25年)から1953年(昭和28年)に附属図書館長、1952年(昭和27年)から1954年(昭和29年)に教養学部長、1954年(昭和29年)に定年退官、名誉教授。
尼子 富士郎(あまこ ふじろう、1893年12月1日 - 1… 尼子 富士郎(あまこ ふじろう、1893年12月1日 - 1972年3月17日)は日本の医師、老年医学者。医学博士。 広島出身の医師で医学中央雑誌の創設者でもある尼子四郎の長男として山口県下松市で生まれ、まもなく一家で上京する。誠之小学校では中川一政と同級生であり、また東京高等師範学校附属中学校の受験のため夏目漱石に英語の個人教授を受けていた。 世界に先駆けて老年医学の重要性に着目し、その研究と教育の先駆者と評価されている。日本老年医学会は「尼子賞」を設けている。 その一方、父から医学中央雑誌の編集を引き継ぎ、全ての文献の採択、抄録の編集、校正に目を通し、それを優先するため生涯国外に出なかった。
石垣 栄太郎(いしがき えいたろう、1893年12月1日 -… 石垣 栄太郎(いしがき えいたろう、1893年12月1日 - 1958年1月23日)は、日本の洋画家。 1893年、和歌山県東牟婁郡太地町で船大工を生業とする石垣政治の子として生まれた。1901年、町立太地小学校に入学し、1907年に県立新宮中学校へ進学したが、1909年には1901年にアメリカへ移民していた父の呼びかけで退学して渡米した。1910年からカリフォルニア州ベーカーズフィールドでボーイなどとして働き、また日本人キリスト教会で英語を学び、聖書や社会主義の本などにも親しんだ。 1914年から絵画をサンフランシスコ美術学校やニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで学び、1916年頃より絵画制作を始めたという。
宮良 當壯(みやなが まさもり、みやら とうそう、1893年… 宮良 當壯(みやなが まさもり、みやら とうそう、1893年12月1日 - 1964年3月1日)は、沖縄出身の国語学者・方言学者。常用体の漢字表記で、「宮良 當壮」、「宮良 当壮」とも表記される。文学博士(國學院大學)、石垣市名誉市民。 1893年(明治26)沖縄県石垣村大川生まれ。 1909年(明治42)八重山高等小学校卒業後、沖縄本島の首里で人力車の後押しをするなど旅費を稼ぎ、大阪で帝国吃後矯正会での吃音矯正や音声学の学習を経て、18歳の時に上京、新聞配達や納豆売りなどをしながら1911年(明治44)8月郁文館中学校2年に編入学し、言語学者の前田太郎と出会い、研究の補助などを行った。1919年(大正8)國學院大學文学部に入学し、折口信夫の講義を受けるとともに、前田家で行われていた言語研究会で金田一京助、橋本進吉、東條操、安藤正次、神保格らと出会い、東條操から方言採録の依頼を受け、また、同年6月30日に柳田国男とも出会っている。
黒川 兼三郎(くろかわ かねざぶろう、1893年11月30日… 黒川 兼三郎(くろかわ かねざぶろう、1893年11月30日 - 1948年5月1日)は日本の電気工学者、早稲田大学教授、工学博士。音響学の功績も大きく、大隈講堂の音響設計を担当したことでも知られる。黒川兼行は長男。
守屋 和郎(もりや わろう、明治26年(1893年)11月2… 守屋 和郎(もりや わろう、明治26年(1893年)11月29日 - 昭和52年(1977年))は、日本の外交官。元駐アフガニスタン公使。 元衆議院議員、元宮城県塩竈市長守屋栄夫の弟。元防衛事務次官守屋武昌の叔父。 宮城県遠田郡富永村(のち古川市、現大崎市古川)出身。守屋徳郎の三男。旧制古川中学(現宮城県古川高等学校)卒業。旧制二高を経て、大正6年(1917年)東京帝大法科を卒業し逓信省に勤務の後関東庁参事官に転じ次いで外務省事務官となる。 英国在勤大使館二等書記官同一等書記官。中華民国在勤公使館一等書記官福州総領事大使館一等書記官大使館参事官満州国在勤を歴任し昭和13年(1938年)特命全権公使に任じアフガニスタン国駐箚被仰付昭和15年(1940年)退官す。
外山 ハツ(とやま ハツ、1893年〈明治26年〉11月29… 外山 ハツ(とやま ハツ、1893年〈明治26年〉11月29日 - 1983年〈昭和58年〉4月23日)は、日本の教育者。北海道函館市の函館大妻高等学校の前身となる函館大妻技芸学校の設立者。函館の女子教育の先覚者とされる。 函館区蓬来町で誕生した。幼少時より、父の「これからの女は、何か一つ手に職を持っていなければならない」との教えのもとに、遊びよりも働くことを教えられて育った。1910年(明治43年)に函館裁縫女学校に入学、その手先の器用さを発揮した。 海産業の男性と結婚して二児をもうけたが、1917年(大正6年)に離婚した。生活のために同1917年(大正6年)、蓬来町に家塾を開設し、裁縫と手芸を教えた。
梥本 一洋(まつもと いちよう、1893年(明治26年)11… 梥本 一洋(まつもと いちよう、1893年(明治26年)11月29日 - 1952年(昭和27年)3月9日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 京都中京区油小路四条上ルで、染色図案を営む家の4人兄弟のうち長男として生まれる。本名は謹之助。弟も日本画家の梥本武雄。家は祖父の代から日本画家を出すことを志しており、父吉次郎も菊池芳文に入門し芳樹と号した。しかし、途中で諦め息子たちを日本画家になるよう教育した。1899年(明治32年)本能小学校入学、1905年高等小学校に進む。1910年(明治43年)京都市立美術工芸学校に進学。卒業した後、1912年(明治45年)京都市立絵画専門学校に進み、1915年(大正4年)に卒業する。
武藤 健(むとう たけし、1893年11月28日 - 197… 武藤 健(むとう たけし、1893年11月28日 - 1974年12月18日)は日本の大正時代・昭和時代の牧師。日本基督教団第4代議長、日本キリスト教文化協会理事長、キリスト新聞社社長。 青森県八戸市番長のクリスチャンの眼科医武藤一明の三男に生まれる。八戸中学時代より神学者を目指し、八戸中学を首席で卒業し、青山学院で学ぶ。1918年(大正7年)に日本メソヂスト教会の教職になり、メソジスト城西教会の牧師、銀座教会の福音英語学校校長になる。1919年(大正8年)に結婚し、東京帝国大学文学部、アメリカ合衆国ノースウェスタン大学大学院、ベルリン大学で神学の勉強を続ける。 1924年(大正13年)に帰国して青山学院教授に就任する。
高橋 文五郎(たかはし ぶんごろう、1893年11月28日 … 高橋 文五郎(たかはし ぶんごろう、1893年11月28日 - 1978年3月19日)は、日本の実業家、政治家、参議院議員(2期、自由民主党)。 宮城県栗原郡若柳町(現・栗原市)出身。1915年早稲田大学商学部卒。卒業後は七十七銀行に入り、支店長となる。その後、家業の醸造業を継ぎ、のち栗原鉄道(株)を創立、社長に就任する。 若柳町長(1935.11.28-1943.8.15)を務めたが、戦時中に地元の大政翼賛会の役員をしていたため、戦後、公職追放となる。 宮城県議を5期務め、議長を2期務める。1965年、高橋進太郎の宮城県知事選出馬による参議院補欠選挙で当選。同年春の叙勲で勲四等瑞宝章受章。1968年の第8回参議院議員通常選挙で再選した。
上原 茂次(うえはら しげじ、1893年(明治26年)11月… 上原 茂次(うえはら しげじ、1893年(明治26年)11月28日 - 1971年(昭和46年)5月28日)は、日本の政治家。大津市長を3期12年間務めるなど、地方自治に活躍した。 1893年(明治26年)11月28日、滋賀県高島郡大溝町(現・高島市)に生まれた。1911年(明治44年)に京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)を卒業後、東京にて岩波書店に務め、3年余り東京にいた後、京都に戻り印刷業立ち上げを計画したが頓挫し、故郷に戻った。 1927年(昭和2年)、滋賀県会議員選挙に立候補するが落選、同年は長男を病で失い失意の年であったが、1929年(昭和4年)に大溝町議会議員に選ばれ、1930年(昭和5年)3月28日、前町長の辞任を受けて大溝町長に就任した。
宇佐美 珍彦(うさみ うずひこ、1893年〈明治26年〉11… 宇佐美 珍彦(うさみ うずひこ、1893年〈明治26年〉11月27日 - 1969年〈昭和44年〉12月21日)は、日本の外交官。駐エジプト公使。 長野県出身。1918年(大正7年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等試験行政科に合格した。農商務省に入省し、同年文官高等試験に合格。 外交科試験以外の合格者を採用する「門戸解放」の一環として外務省に入省し、1920年(大正9年)に外務事務官・臨時平和事務局勤務に転じ、1921年(大正10年)に外交官補・国際連盟帝国事務局勤務。フランス大使館三等書記官、同二等書記官、外務事務官・条約局第一課勤務、同亜細亜局第一課勤務を経て、1929年(昭和4年)安東領事。
野村 朱鱗洞(のむら しゅりんどう、1893年〈明治26年〉… 野村 朱鱗洞(のむら しゅりんどう、1893年〈明治26年〉11月26日 - 1918年〈大正7年〉10月31日)は、愛媛県温泉郡素鵞村(現・松山市小坂町)出身の俳人である。本名は守隣(もりちか)。前号に柏葉、朱燐洞など。 父は温泉郡役所の官吏で、母は機織りなどで家計を支えた。13歳の時に母を亡くし、その後父と同じ温泉郡役所で書記を務めながら松山夜学校に通った。短歌を趣味とする上司の影響で「柏葉」と号して作句を始めた。 松山に帰った河東碧梧桐の新俳句に傾倒し、森田雷死久に師事。18歳の時に愛媛新報の俳壇に入選した。東京で自由律俳句の創始者荻原井泉水と出会い俳句雑誌「層雲」に参加。柏葉から朱燐洞と改号し、俳句結社「十六夜吟社」を結成、主宰となる。
大前 憲三郎(おおまえ けんざぶろう、1893年(明治26年… 大前 憲三郎(おおまえ けんざぶろう、1893年(明治26年)11月26日 - 1952年(昭和27年)4月23日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 奈良県十津川村湯之原に大前憲保の三男として生まれる。湯之原尋常小学校を卒業し、1912年(明治45年)十津川中学文武館(現奈良県立十津川高等学校)に学び、卒業後伏見の工兵第十六大隊に士官候補生として入隊。1915年(大正4年)5月25日に陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月25日に工兵少尉に任ぜられ、工兵第十六大隊付となる。1916年(大正5年)11月27日に陸軍砲工学校(24期)高等科を卒業し、更に員外学生として在学。1919年(大正8年)4月15日に工兵中尉に昇進、1922年(大正11年)3月31日には東京帝国大学理学部物理学科を卒業した。
溝口 三郎(みぞぐち さぶろう、1893年〈明治26年〉11… 溝口 三郎(みぞぐち さぶろう、1893年〈明治26年〉11月26日 - 1962年〈昭和37年〉9月10日)は、日本の農業土木学者、農林技官、政治家。参議院議員(1期)、農学博士。 長野県、現在の上田市で溝口多門司の長男として生まれる。1920年(大正9年)東京帝国大学農学部農学科を卒業した。新潟県産業技師となり、青森県耕地課長を経て、1928年 (昭和3年)農林省農務局に転じた。1938年(昭和13年)青森県三本木原開墾国営事務所長兼秋田県田沢疎水開墾国営事務所長に就任した。1941年(昭和16年)農林省耕地課長に転じ、農地開発法の制定や、戦時下の食糧増産政策の推進を担った。 戦後、1945年(昭和20年)農林省開拓局第二部長に就任し、復員者などの生活支援と、切迫した食糧不足に対応するため開拓事業を進めた。
江藤 昌之(えとう まさゆき、1893年(明治26年)11月… 江藤 昌之(えとう まさゆき、1893年(明治26年)11月25日 - 1984年(昭和59年)4月17日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。 江藤作吉の長男として福岡県遠賀郡遠賀村島津(現:遠賀町大字島津)に生まれる。1914年(大正3年)福岡県小倉師範学校を卒業し、久留米荘島小学校訓導となる。のち広島高等師範学校に入学。1919年(大正8年)3月、同校を卒業し、京都師範学校訓導兼教諭を拝命する。さらに1922年(大正11年)京都帝国大学法学部法律学科に入学し、在学中の1924年(大正13年)11月に高等試験行政科に合格。1925年(大正14年)卒業と同時に渡台し、台湾総督府に出仕する。 台北州内務部地方課勤務を振り出しに、1927年(昭和2年)地方理事官に進み、台中州勧業課長、台北州勧業課長、台湾総督府事務官営林所兼水産課勤務、文教局学務課勤務、学務課長、社会課長兼図書館長、財務局税務課長、高雄州内務部長、米穀局総務課長、興亜院廈門連絡部書記官を経て、大使館一等書記官に就任。
大矢知 昇(おおやち のぼる、1893年11月25日 - 1… 大矢知 昇(おおやち のぼる、1893年11月25日 - 1970年1月30日)は、日本の経営者。東横百貨店(現在の東急百貨店)社長を務めた。 三重県出身。1916年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に三井銀行に入行。1939年に取締役に就任し、1941年に常務を経て、戦後の三井銀行改め帝国銀行常務在任時の1946年、公職追放の発表に先立って帝銀万代順四郎会長、入間野武雄頭取(大蔵省出身)、戦前三井財閥のリーダー池田成彬らと共に、池田の子飼とみなされ、かつ万代の後継リーダーと目されていた大矢知も退任した。1948年5月に東横百貨店社長に就任し、1963年9月に相談役に退いた。 1970年1月30日脳血栓のために死去。
山岸 徳平(やまぎし とくへい、明治26年(1893年)11… 山岸 徳平(やまぎし とくへい、明治26年(1893年)11月25日 - 昭和62年(1987年)5月22日)は、日本の国文学者。中古文学専攻。東京教育大学教授、実践女子大学教授、中央大学教授などを務めた。 1893年、新潟県西蒲原郡(現新潟市西蒲区・旧西川町)で生まれた。新潟師範学校で学び、1914年(大正3年)に卒業した後に、東京高等師範学校本科に進んだ。東京高師時代は徒歩部(今の筑波大学陸上競技部)に所属していた。先輩に金栗四三がおり、一緒にマラソン選手として数々の大会に出場。1918年に同校を卒業し、東京帝国大学文学部国文科に入学。1924年卒業後は、同大学大学院に進んだ。 1925年より学習院教授。
阿部 千一(あべ せんいち、1893年(明治26年)11月2… 阿部 千一(あべ せんいち、1893年(明治26年)11月23日 - 1972年(昭和47年)9月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(1952-1953)、岩手県知事(1955年-1963年)などを務めた。 1893年(明治26年)11月23日、岩手県稗貫郡湯口村大字中根子(現在の花巻市中根子)に、小学校教員(後に湯口村村長)の父・晁(ちょう)と母・テルの長男として生まれた。仮死状態で生まれ、家族は一時あきらめたが、祖母が千に一つの望みに、と医師を呼んで手当をしてもらって奇跡的に助かったことから、その医師・三又与次郎の発案で千一と名付けられた。1912年に盛岡中学校、1916年に第一高等学校を卒業。
柳田 謙十郎(やなぎだ けんじゅうろう、1893年〈明治26… 柳田 謙十郎(やなぎだ けんじゅうろう、1893年〈明治26年〉11月23日 - 1983年〈昭和58年〉1月16日)は、日本の哲学者。西田哲学から戦後唯物論に転じ、平和運動や労働者教育にも尽くした。 神奈川県愛甲郡南毛利村(現厚木市)生まれ。家は一町数反(約1.5ヘクタール)を耕す農家で、謙十郎は、村会議員を経て収入役・助役になった柳田勘作の長男であった。1908年神奈川師範学校に入学。1913年、愛甲郡高峰小学校訓導に任ぜられた。のち、神奈川師範学校附属小学校訓導、津久井郡協心小学校訓導兼校長、岡山師範学校教諭、岩手師範学校教諭などを務める。 1922年4月、京都帝国大学文学部哲学科選科に入学。
鹿目 善輔(かのめ ぜんすけ、1893年(明治26年)11月… 鹿目 善輔(かのめ ぜんすけ、1893年(明治26年)11月22日 - 1960年(昭和35年)9月21日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争開戦前の出師準備にあたった兵備局課長で開戦時の軍令部先任副官、北方部隊の幹部、大湊警備府参謀長を歴任し、終戦後は大湊地方復員局長、横須賀地方復員局残務処理部長を務めた海軍少将で、後に米海軍横須賀基地(横須賀海軍施設)警備隊の初代隊長に就任。 1870年(明治3年)に浦賀に移住した会津藩士 鹿目常吉(幸之助)の孫として、1893年(明治26年)神奈川県三浦郡浦賀町(現・横須賀市浦賀)で生まれた。横須賀中学校を経て、1916年(大正5年)に海軍兵学校を卒業後、少尉候補生として軍艦「常磐」に乗り組み、北米および南洋諸島を回航。
谷口 雅春(たにぐち まさはる、1893年〈明治26年〉11… 谷口 雅春(たにぐち まさはる、1893年〈明治26年〉11月22日 - 1985年〈昭和60年〉6月17日)は、新宗教「生長の家」創始者・初代総裁。旧名は同訓異字の“正治”。兵庫県八部郡烏原村東所(現:兵庫県神戸市兵庫区烏原町)に生まれ、大阪市港区の大阪府立市岡中学(旧制)出身。早稲田大学文学部英文科中退。同学科には青野季吉、木村毅、坪田譲治らが在学していた。 著作は400冊以上に及び、主著『生命の實相』は通算1,900万部を超える。他に『新版真理』全11巻、『新選谷口雅春選集』全20巻、『新選谷口雅春法話集』全12巻等、多数の著書(聖典)がある。他にも、彼が受けたとした33の神示(総称:『七つの燈臺の點燈者の神示』)や自由詩の形態を取る「聖経」として『甘露の法雨』『天使の言葉』『続々甘露の法雨』等がある。
樋口 敬七郎(ひぐち けいしちろう、1893年(明治26年)… 樋口 敬七郎(ひぐち けいしちろう、1893年(明治26年)11月22日 - 1971年(昭和46年)12月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 佐賀県唐津市出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。 1931年(昭和6年)8月、陸士教官から関東軍独立守備隊参謀に転出、翌月、満州事変が勃発した。1934年(昭和9年)8月、陸大教官に発令された。1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に昇進。1939年(昭和14年)11月、第3師団参謀長に就任し日中戦争に出征。南支那方面軍参謀副長を経て、第23軍参謀副長となり、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級し太平洋戦争を迎えた。
尾崎 卓爾(おざき たくじ、1893年(明治26年)11月2… 尾崎 卓爾(おざき たくじ、1893年(明治26年)11月20日 – 1958年(昭和33年)10月13日)は、高知県出身の歴史家・記者。号は吸江(ぎゅうこう)。中岡慎太郎の伝記を日本で初めて著した人物。陽明社の創始者・尾崎旦は兄。 1893年(明治26年)11月20日、尾崎旦爾(手島熊吉)の四男として高知県安芸郡北川村野川番地に生まれる。母は尾崎旦信(折蔵)の長女・亀。 旧制高知商業学校を経て明治大学へ進む。卒業後、土陽新聞の速記部長、のち徳島日日新聞の東京支局長などを務める。 文壇「博浪沙」に参加、大町桂月、田中貢太郎らと交わる。土佐人の典型のような、豪放磊落で気骨のある性格で、あるとき貢太郎を伴って北川村の実家に帰ったが、議論伯仲し、両人とも酒豪であったため、二人で一斗樽を飲み空かしたと言われる。
山本 真平(眞平、やまもと しんぺい、1893年(明治26年… 山本 真平(眞平、やまもと しんぺい、1893年(明治26年)11月20日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚、検察官。台湾総督府食糧局長。 山本芳太郎の二男として大分県北海部郡臼杵町(現・臼杵市)に生まれる。1919年(大正8年)7月に東京帝国大学法科(英法)を卒業し、山下汽船鉱業(商船三井の前身企業のひとつ)に入社する。のち法曹界に転じ、1922年(大正11年)5月、宇都宮地方司法官試補、大阪区裁判所検事を経て、1928年(昭和3年)7月に渡台し、台北地方法院検察官となる。 ついで台湾総督府官房法務課、法務課長事務取扱、法務課長、府審議室兼務、府総動員関係軍機文書取扱主任、府人事課長を経て、1939年(昭和14年)12月に台湾総督府食糧局長に就任。